寄生果

ハル

 

 子どものころ、夜中に目が覚め、トイレに行こうとして両親の寝室の前を通ると、母の苦しそうな声が聞こえてくることがあった。


 でも、子ども心に、「おかあさん、だいじょうぶ!?」などと言ってドアを開けてはいけないような気がした。


 それでもやはり心配だったから、決まって翌日の朝には、


「おかあさん、きのうのよる、だいじょうぶだった……?」


 おずおずと訊いたものだ。


「ええ、大丈夫よ。具合が悪かったわけじゃないの」


 母もまた決まって、ぎこちない笑顔で答え、


「じゃあ……」


 わたしが口ごもると、


「……ごめんなさい、内緒なの。でも、果歩も大きくなったらわかるわ」


 どこか悲しそうに言ったものである。


 中学生にもなると、たしかに両親が何をしていたのかわかるようになり、恥ずかしさに赤面することがあった。


 ただ、母が悲しそうな顔をしていた理由はわからないままだった。両親が不仲だったというならともかく、二人はわたしがときに焼きもちをやいてしまうくらい仲の良い夫婦だったから。


 その理由がわかったのは――そして、両親が本当にしていたことがわかったのは、さらに数年後のことだった。


        ***


 大学二年生のとき、おなかに赤い湿疹ができた。痛みや痒みはなく、はじめはすぐ治るだろうと高をくくっていたが、次第にひとつひとつが大きくなって数も増え、かたちも変わっていく――とても小さな半球が、その五倍くらいの直径の球体を覆っているようなかたちに。怖くなって病院へ走った。


 でも、医者にも病名や原因はわからず、ありふれた軟膏を処方されただけだった。


 軟膏は効かず、それどころか症状はどんどん悪化していき、とうとうおなかが木苺で埋め尽くされているような状態になってしまった。ケーキにのっている一粒や二粒の木苺なら可愛らしいが、人体にくっついている大量の木苺など、不気味以外の何物でもない。


 何軒病院を回っても病名も原因も治療法もわからず、唯一わかったのは、命に別状があるものではないということだけだ。でも、見た目を気にする年頃の女の子にとって、それは大した救いにはならなかった。


 深刻に受け止めてもらえないのも、深刻に受け止められすぎるのも怖くて、誰かに相談することもできなかった。母がいたら相談していたのかもしれないが、母はわたしが高校生のときに交通事故で他界していたのだ。


 恋人を作ることも、もってのほかだった。相手がどれほどわたしを愛してくれていても、を見たら気味悪がって去っていくにちがいない。だいいち、自分がそこまでひとから愛される人間だとも思えない。


 いっそ死んでしまったほうがいいのか、とまで思いつめていたある日の朝、目が覚めると、からうっとりするような香りが漂っていた。


 怖さ八十パーセント、好奇心二十パーセントという気分で、パジャマ代わりのTシャツをめくってみると、がいくつかいまにも取れそうになっている。


 かさぶたや日焼けの皮を剥がしたくなるのと同じ誘惑が、わたしを襲った。


 だめ、触らないで病院に行かなくちゃ……!


 自分に言い聞かせてTシャツを戻す。だが、着替えているあいだも顔を洗っているあいだも、誘惑はがっちりわたしを捕えて離さなかった。


 ちょっと引っぱってみるだけなら……。


 ブラウスをめくり、をひとつつまんで力をこめる。一度引っぱったが最後、力加減を忘れて何度も繰り返してしまった。まさに苺を摘むときのような感触がして、小さな痛みが走り、


「つっ……!」


 思わず声を上げてしまう。


 げたを持ち上げて見つめると、おなかと接していた部分がわずかに濡れていた。芳香が強くなっていて、うっとりを通り越してぼんやりしてくる。


 半ば無意識のうちに、わたしはを口に入れていた。


 たちまち、桃とメロンとマスカットを足して何倍も甘く濃厚にしたような味が、口の中に広がる。神戸への家族旅行で食べた牛肉よりも、高校の入学祝いに老舗の寿司屋で食べた鯛よりも、親戚のヨーロッパみやげのゴディバよりも、ずっとずっとおいしかった。


 わたしは痛みも意に介さずを捥いでは口に放りこみ、とうとう満腹になるまで食べてしまった。


 全部食べたらもう生えてこないのかな……。


 そのことを願う気持ちと恐れる気持ちが、わたしの中でせめぎあっていた。


        ***


 その日から、わたしは異常にもてるようになった。何しろ、一ヶ月に一度は異性に告白されるのだ。大学のクラスメートに、ゼミやサークルの仲間に、バイト先の同僚に――。


 同性の友達にも、


「最近急に色っぽくなったよね」

「あたしが男だったら告白してた」


 などと言われることが増えた。


 なお、は捥いでも一週間くらいで元どおりになることがわかった。わたしはすっかりの虜になっていたが、それでもそのせいで恋人が作れないと思っていることに変わりはなかった。だから九人目まではためらいなく断っていたが、十人目はひそかに想いを寄せていたサークルの先輩だった。どうしても即答できず、次の会合の日まで待ってほしいとお願いした。


 考えに考えたすえ、わたしは告白を受けることにした。いずれ手ひどく振られるとわかっていてもなお、彼と楽しい時間を過ごしたかったのだ。彼はとても誠実で優しいひとだったから、ひょっとしたらを見てもわたしから去らずにいてくれるかもしれない――という、ひとかけらの期待もあったことは否めないが。


 約束の日、彼とファミレスに入り、


「このまえのお返事……イエスです。実は、わたしもずっと先輩のことが好きだったんです」


 承諾と告白をした。


「ほ、本当?」


「もちろんです。こんなことで嘘なんてつかないですよ」


「やった! マジで嬉しい……正直だめだと思ってたからなおさらだよ」


 満面の笑みに胸が温かくなり、自分の選択は間違っていなかったとしみじみ思った。


        ***


 数ヶ月のあいだ、わたしたちは食事や買い物をしたり、映画館や遊園地に行ったりというお決まりのデートを楽しんだ。


 でも、彼との距離が縮まれば縮まるほど、恐れや罪悪感も増してきて、「彼と楽しい時間を過ごしたい」という思いを上回るようになった。


 ある日、デートのあとマンションまで送ってくれた彼を、


「あの……よかったら、お茶でも飲んでいきませんか?」


 わたしは月並みな文句で誘った。


「えっ、いいの……?」


 遠慮混じりの喜びの表情に、恋心と悲しみを募らせながらうなずく。


 階段を上っているあいだも、紅茶を淹れているあいだも、おしゃべりをしているあいだも、心臓だけではなく全身の血管が脈打っているような気がしていた。いつもは一字一句聞きもらさないようにしている彼のことばも、いまは全く頭に入ってこない。


 先延ばしにしても苦しみが長引くだけだ、と自分を叱咤し、


「実は、先輩に隠してたことがあるんです……」


 わたしはついに切り出した。


「なになに? どんなことでも引かないから話してよ」


 彼はいたわりと興味が混じった微笑を浮かべて身を乗り出す。わたしはぽつぽつとことばを紡ぎはじめた。


 話が終わると、


「いままで辛かったんだね……でも、おれはそんなこと気にしないよ」


 彼は屈託なく笑ってくれたが、


「実物を見たら、気にしないなんて言えないですよ……」


 わたしは硬い表情のままセーターとアンダーシャツをめくってみせた。「えっ、えっ、えっ?」という彼の戸惑いの声も無視して。


「――っ!?」


 彼は息を呑んで目を見開き、わたしはぎゅっと目をつぶった。次の瞬間にも、「……ごめん。君とはもう付き合えない」ということばが聞こえてくるだろう。「彼ならを見てもわたしから去らずにいてくれるかもしれない」という期待も、このときは完全に消えていた。


 だが――。


「これ、すごくいい匂いがする……」


 彼のことばは予想とは反対といってもよいものだった。わたしはまずきょとんとして、次に倒れこみたいような安堵と踊りだしたいくらいの喜びを感じた。


「気持ち悪くないんですか……? わたしのこと、振らないんですか……?」

「まさか。どんなことでも引かないって言ったじゃないか」


 彼は真剣な顔で首を横に振り、わたしのおなかに鼻を寄せて鳴らした。彼らしくない大胆な行為に驚いたが、おもむろにを捥いでみせたわたしはもっと大胆だったのかもしれない。彼は物欲しげに口を開き、


「匂いだけじゃなくて、味もいいんですよ……」


 わたしはそっとその中にを押しこんだ。一噛みごとに彼の陶酔の色は濃くなっていったし、わたしも同じなのにちがいなかった。


       ***


 それからというもの、どちらかの部屋で会うたびに、彼はを求めた。はじめのうちはわたしが捥いで口に入れてあげていたが、やがて彼が直接わたしのおなかから貪るようになった。


 結婚してからも、三人の娘に恵まれてからも、その行為はわたしたちになくてはならないものだった。


 ときどき娘たちに「きのうのよる、だいじょうぶだった……?」と訊かれ、母と同じような答えを返すこともあった。娘たちにもこの運命を背負わせてしまうであろう悲しみを押し隠しながら。


 それ以外は、わたしたちは仲は良いものの平凡な夫婦だ。


 ――ただ、最近わたしには不安がある。


 階段を上り下りしているときや、通りを歩いているとき、ベランダで洗濯物を干しているときなどに、ふいにの芳香が強くなり、意識が朦朧としてきて、足を踏み外しそうになったり、車の前に飛び出したくなったり、ベランダから飛び下りたくなったりすることがあるのだ。


 母を轢いた車の運転手によると、母は自分から車の前に飛び出してきたという。


 当時は罰を軽くしたいための嘘だと思っていたが、ひょっとして事実だったのではないだろうか。


 そういえば、母の母、つまりわたしの母方の祖母も、いまのわたしや他界したときの母と同じくらいの歳で、階段から転落死している。


 でも、考えはじめてもまたの芳香が強くなり、取り越し苦労だろうと思い直してしまうのだ――。

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