05
今から語られるのは、儚がまだ儚という名前ではなくて、タルスィーナという名前だった頃の悲劇の話だ。
◇
タルスィーナは花畑に一人で立ち尽くしている。
数多の真っ白な花弁と淡い緑色の葉が、さらさらと揺られている。タルスィムという名前の花だ。タルスィーナという名前は、この花に由来していた。花言葉は、「花嫁」。
「…………あれ、」
タルスィーナは呆然と、視界に広がる一面の花畑を見つめた。
どうしてわたしはこんなところにいるんでしたっけ、と思った。ふと、タルスィーナは自身の真っ赤な手に気が付く。タルスィーナは目を見開いた。さっきまで、この手は腕と同じ白色だったはずなのに、どうして……?
考えてもすぐにはわからなくて、タルスィーナは一旦思考を放棄する。それから、一人でこんなところにいてはいけません、早く家に帰らなくてはいけません、と思った。早く家に帰らないと、――――と、――――が……
…………誰と、誰?
そういえばわたしは一人暮らしでした、とタルスィーナは思った。それと同時に、その事実を疑わしく思った。だってタルスィーナはまだ若いかみさまだ。若いかみさまは両親と共に暮らすことを義務付けられているはずなのに。わたしの両親はどこ? 記憶を辿ってもタルスィーナには両親などいなかった。タルスィーナは今まで、一人で様々なことを学び、一人で生活を送り、一人で成長してきたのだ。……それって変じゃないですか? とタルスィーナは疑う。だってかみさまは、父親のかみさまと母親のかみさまに見守られながら生きていくはずなのに。かみさまの国のルールで、そう定められているはずなのに。
タルスィーナはだらだらと汗をかき始める。何か……何か、とても恐ろしいことが起きているような気がする。でもそれが何なのかはわからない。よろよろとタルスィーナは歩き始める。早く家に帰らなければならないような気がするのだ。空っぽの家がおいで、おいで……とタルスィーナを呼んでいた。覚束ない足取りで、タルスィーナは花畑を進んでいく。
小石につまずいて、タルスィーナは転んだ。鋭い痛みに思わず目を閉じる。目を開くと、真っ赤な手は地面に触れていた。変だった。タルスィーナの手が置かれた部分だけ、他とは異なって、――――が存在していない。……――――って、何? ……ああ、恐らくタルスィムだ。だってここはタルスィムの花畑だから。それを一瞬認識できなかった理由がわからなくて、タルスィーナは表情を歪めた。
今何が起こっているのか、〈力〉を授かればわかるのかもしれないとタルスィーナは思う。今日はタルスィーナの二百歳の誕生日だ。二百年生きたかみさまは何らかの〈力〉を授かる。その〈力〉が、あれば……
タルスィーナはふと、自身の赤色の両手を見つめた。
鮮血をまぶしたようなグロテスクな肌だった。
また、タルスィーナの全身が汗ばんでゆく。もしかして、わたしはもう〈力〉を授かっている……?
タルスィーナはずっと〈力〉を授かる日を心待ちにしていた。何故なら〈力〉を授かったかみさまは、誰かの花嫁になることができるからだ。タルスィーナはずっと花嫁になりたかった。どうして? だって、自分が花嫁になれば、――――と、――――が、よろこんで、くれて、
…………誰と、誰?
タルスィーナは悲鳴を上げた。おかしい! 何かがおかしい! 絶対に何かがおかしい! でもそのおかしさを明確に言語化できなくて、タルスィーナは酷く戸惑っていた。タルスィムの花々が不気味に揺れている。タルスィーナの呼吸のリズムが段々と崩れてゆく。空に浮かんだ雲は整然と風に流されている。
そのうち過呼吸になってきて、タルスィーナは花畑の上でくずおれた。薄緑色の瞳からぽろぽろと透明な涙が零れる。タルスィーナの意識は、数多のタルスィムに溶けるようにして霞んでいった。
◇
タルスィーナがまぶたを上げると、目の前にメルゼーマが立っていた。
地面に放射状に広がるほどの長さをした真っ白の髪と、光を受けずとも煌めく白銀の瞳。足先まで覆う紫色のワンピースに身を包んで、常に優しげな微笑みを湛えている。
メルゼーマは、かみさまの国で最も偉いかみさまだ。
メルゼーマはかみさまの中で唯一結婚せずともかみさまを生むことができる、かみさまの国の始祖だった。メルゼーマの存在がなければ、かみさまの国はそもそも存在していなかっただろう。
タルスィーナは呆然と、メルゼーマの姿を見つめていた。どうして、と思う。メルゼーマほどの位の高いかみさまが、自分に用事なんてないはずなのに――――
ふと、タルスィーナは手に違和感を覚える。見れば、そこに赤さはなくて、真っ白な手袋に覆われていた。メルゼーマの髪のような白さだった。
「……タルスィーナ」
メルゼーマは、そうやってタルスィーナの名前を呼んだ。
凪が訪れた海のような、誰もいない湖のような、静寂にも似た声だった。響くことと静かなことは、本来であれば相反するはずなのに、聞いた者にそういう印象を与える声だった。
タルスィーナはメルゼーマから視線を逸らしながら、おずおずと口を開く。
「……何、ですか?」
「貴女はもう、この国にいてはいけないよ」
タルスィーナは目を見開いた。
手袋に覆われた手が小刻みに震える。告げられた言葉が、ずんと心に重くのしかかった。
沈黙の後で、ようやくタルスィーナは尋ねる。
「な、何故、ですか?」
「貴女が得た〈力〉は、余りにも強すぎるんだ」
「わ、わたしの、〈力〉……?」
メルゼーマは顔に微笑みを貼り付けたまま、「そうだよ」と言う。
「わたくしはね、この国にいる全てのかみさまを記憶しているんだ。それなのに今、とても不思議なことが起きている」
メルゼーマの微笑みに、ほのかに憂いが混ざり合う。
「……貴女の両親のことをね、わたくしはどれほど頑張っても、思い出すことができないんだ」
異常なんだ、とメルゼーマは微笑んだ。
「わたくしの記憶は完全のはずだ。それなのに、貴女にどのような両親が存在したのか、ちっとも思い出すことができない。わたくしは貴女を生んでいないから、間違いなく貴女には両親が存在しているはずなのに。加えて言うと、わたくしだけではないんだ。わたくし以外のかみさまも、貴女の両親を知らない。書面上の記録にも存在していないし、貴女が住んでいる家にも何の痕跡もない」
淡々と語るメルゼーマに、タルスィーナは表情を恐怖に染めていく。
やっぱり、何かが、おかしくなっているのだ……
メルゼーマは、さらに言葉を続ける。
「ところでさ。〈力〉を授かると、その〈力〉を行使できる部位に何らかの特徴が生まれるだろう? 遥か遠くの景色を見ることのできる瞳の中に星屑が散りばめられたり、誰かの傷を癒やす言葉を紡ぐことのできる唇に深い切れ込みが生まれたり、高速で移動できる足の爪が随分と大きくなったり」
メルゼーマはそう言って、タルスィーナの手に視線を落とした。
「……貴女の場合は一目瞭然だ。両手が、禍々しいほどの赤さに染まっていたね」
タルスィーナはそっと、自身の手を見る。
覆われた手袋の先にある赤い皮膚を、思い出した。
だから試してみたよ、とメルゼーマは微笑う。
「眠っている貴女の手に、わたくしはヤヤリリーネズミを触れさせた。そうしたらね、ヤヤリリーネズミが消えたんだ。しかもね、おかしなことに、わたくしは貴女に何を触れさせたのか思い出せなかった。近くの箱にヤヤリリーネズミが何匹もいたから、きっとヤヤリリーネズミを触れさせたんだと、遅れて理解した」
つまりね、とメルゼーマは目を細めて微笑む。
「――――貴女は、手で触れた生物の存在を、記憶ごと消失させてしまうんだ」
タルスィーナは何も言うことができなかった。
彼女の聡い脳は、すぐに残酷な現実を理解してしまう。
タルスィーナは、一人でタルスィムの花畑に行ったのではなくて。
きっと、彼女の誕生日のお祝いに、お父さんとお母さんの三人で訪れて。
両手を繋ぎ合わせている瞬間に、
タルスィーナはきっかり二百年を生きて、
〈力〉に染まった赤い手はそのまま、二人を――――
「あああああああああああああああああああああああああああああっ……!」
タルスィーナは叫んだ。
両手を頭に添えながら、がくがくと震える。薄緑色の瞳は涙に浸っていった。そんな彼女に、メルゼーマは憐れむような微笑みを零す。
「貴女の授かった力は強大すぎる。タルスィーナ、貴女は天才なんだよ。でもね、それは言うとすれば、負の天才だ。誰も、貴女に消されたくないんだ。それはわたくしも例外ではない。だからね、今、わたくしと貴女の間には透明な壁を用意してもらっているんだよ。こうしていれば安全だからね」
「で、でも……わ、わたし……誰のことも、消し、ません……」
嗚咽を漏らしながら、どうにかタルスィーナは主張する。
メルゼーマはそっと首を横に振った。
「リスクが大きすぎるよ。たとえ貴女が本当に誰のことも消さないとしても、貴女以外のかみさまは、自分が完全に消失してしまう未来への怯えを抱きながら生き続けることとなる。それは随分と不快だと思わないかい? わたくしはね、全体の幸福を重視しているんだ。貴女一人の幸福より、他の皆の幸福の方が、ずっと大切なんだよ」
「そ、そんな……そんなのって……」
どうにか手袋で涙を拭うタルスィーナに、メルゼーマは柔らかく微笑む。
「――――タルスィーナ。貴女は、この国にはいらないんだ」
メルゼーマの言葉は、どこまでも残酷に真っ直ぐだった。
タルスィーナは泣きじゃくる。怖かった。わたしはこれからどうなるんでしょう、と心の中で問うた。涙ばかり溢れて、思考が上手く纏まらない。苦しい。苦しくて堪らない。自分はずっとここで生きていくんだと思っていたのに……
「大丈夫だよ、タルスィーナ。追放に痛みは伴わないから、何も心配しなくていいんだ」
「……わ、わたしは……どこに、行く、んですか」
「チキュウという星だよ。まあ、貴女はチキュウの人間とは身体を構成する物質がだいぶ異なっているから、殆どの存在から視認できないだろうね。貴女を見ることのできる存在がいたとしたら、それは奇跡のようなものだと思うよ」
告げられた事実を、タルスィーナは恐ろしく思う。メルゼーマの言葉が正しければ、タルスィーナは永遠に、知らない場所でひとりぼっちで彷徨い続けるのだ……
「それじゃあ、ばいばい、タルスィーナ……いや、もうそう呼ぶのは不適切か。それはこの国にいる貴女に与えられた名前だからね。ともかく、元気でね」
そう言って、メルゼーマはタルスィーナの背後に大きな紫色の穴を生んだ。
それに気付いたタルスィーナは、涙を撒き散らしながら首を横に振る。
「嫌ですっ! そんなところに行きたくなんてないですっ! やめてえっ!」
「大丈夫。ちっとも痛くないよ。何も心配しなくていいんだ」
「嫌だあっ……!」
叫びもむなしく、タルスィーナは穴へと吸い込まれる。
タルスィーナを飲み込んだ穴はすぐに消えて、後には平和なかみさまの国が残された。
◇
――――タルスィーナは、夕立に濡れてびしゃびしゃになっていた。
メルゼーマの言葉通り、タルスィーナはチキュウの生物から視認されないようだった。微生物に、虫に、蛙に、鳥に、犬に、猫に、人間に……様々な存在にタルスィーナは必死に話し掛けたけれど、その言葉は誰にも届かなかった。
これからは自分はどうすればいいんでしょう、そうタルスィーナは考えた。わからない。わからなかったから消えてしまった両親のことを考えた。殆ど何も思い出すことができなくて……でも、ほんの僅かに、残っていた。
タルスィーナはぽろりと、言葉を零す。
「…………お嫁さんに、ならなきゃ、」
彼女の名前はタルスィムという花に由来している。
花言葉は「花嫁」。
きっと名付けてくれたのは両親だ。きっと花に込められた意味はタルスィーナの生きる意味だ。きっとタルスィーナは、誰かの花嫁にならなくてはならないのだ!
…………でも、
誰の花嫁になればいい?
誰からも見つけてもらえないタルスィーナは、一体、誰の花嫁になればいい?
涸れたと思った涙が一筋零れて、夕立に洗い流されていく。
身体を打ち付ける雨が冷たかった。もういっそ、死んでしまおうかと思った。けれど、かみさまは寿命を終えることでしか死ぬことができないのを思い出した。タルスィーナはぞくりとする。かみさまの寿命は一万年ほどある。後九千八百年も、一人で生きていかないといけない……? その事実を直視し、タルスィーナは深く絶望した。
絶望した、ときだった。
雨が止んだように思って、タルスィーナは顔を上げる。
雨は止んでいなかった。
かみさま離れした黒い髪の少女が、タルスィーナに傘を差し出していた。
タルスィーナは呆然と少女を見つめる。
少女の柔らかな微笑みを、心の底から美しいと思った。
少女の唇が、そっと開かれる。
「傘、おうちに忘れちゃったの?」
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