消失と花嫁

汐海有真(白木犀)

01

 夕立ちの中、花瑠はるは傘をさしながら歩いていた。

 町は濃い雨の香りに包まれていて、普段とは異なる物憂げな雰囲気を漂わせていた。

 早く家に帰りたいと花瑠は思う。自身の中に秘められている物語を、紙の上に紡ぎ出すために。

 そんな思いを携えながら、家まで後五分ほどの道に差し掛かったとき。

 

 ――――花瑠は、ずぶ濡れの少女と出会った。

 

 歳の頃は、中学一年生の花瑠よりも若く見える。雪が溶け出したかのような真っ白の長髪と、草原を想わせる薄緑色の瞳。夏の始まりだというのに、両手は白い手袋に覆われていた。淡い色合いの唇をきゅっと結んで、丈の長い白色のワンピースから素足を覗かせながら、重たい表情で道路に座り込んでいる。


 道ゆく人は誰も少女のことを気に留めていないようだった。その無関心さが、花瑠には何だか恐ろしく感じられた。

 花瑠は少しの間逡巡してから、そっと少女へと歩み寄る。目の前に立つと、少女は俯いていた顔を上げた。二人の視線が重なり合う。花瑠は少女へと傘を傾けながら、柔らかく微笑んだ。


「傘、おうちに忘れちゃったの?」


 少女はその質問にすぐに返答せず、何度も瞬きを繰り返した。

 それから、掠れた声で問う。


「わたしのこと、見えているんですか……?」

「え? うん」


 質問の意図がよくわからなくて、花瑠は不思議そうな表情を浮かべる。

 少女は少しの間沈黙して、それから花瑠へと再び問いを投げ掛けた。


「どうして、わたしに優しくするんですか?」

「どうして、って……」


 言葉に詰まる花瑠に、少女は口角を歪める。


「わたしは、いらない子なのに…………」


 花瑠は、目を見張る。

 少女はとても悲しそうだった。その哀情が花瑠の心に突き刺さると同時に、少女にこんな顔をさせる呪いのような言葉を放ったであろう誰かへと確かな怒りを覚えた。

 花瑠は屈むと、少女と目を合わせる。


「貴女は、いらない子なんかじゃないよ」


 少女は目を見開いた。

 どうか彼女の哀情を少しでも取り払うことができないだろうかと考えながら、花瑠は言葉を続ける。


「世の中に、いらない子なんていないと思う。誰にだって生まれてきた意味があるはずだよ。……だから、そんなこと言わないで」


 少女の薄緑色の瞳に、真剣な表情を浮かべる花瑠が映り込んでいて、淡く溢れた透明によってその像は歪みを帯びた。

 少女は涙を一筋零しながら、微笑んだ。

 どきりとするほど綺麗な微笑みだった。


「……お名前、教えてくれますか」

「私? 私は、真島まじま花瑠」

「ありがとうございます、ハル」


 少女はそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。

 それから花瑠の右手を取ると、ふわりと笑って、手の甲に優しくくちづけをした。


「えっ」


 驚いて声を漏らす花瑠は、少女の白髪が橙色の煌めきを帯びたのを見る。

 夕立ちは終わりを告げて、世界は美しい夕暮れに染まっていた。

 少女は頬を微かな桃色に染めながら、告げる。


 

「ハル――わたしを、あなたのお嫁さんにしてください」

 


 透き通った水溜まりに、呆然と瞬きを繰り返す花瑠の姿が反射していた。

 

 ◇

 

 花瑠は自動販売機で、オレンジジュースとカフェラテを購入する。

 それから、ベンチの上に座ってぶらぶらと足を動かしている少女の元へと歩み寄った。


「……お尻、濡れちゃわない?」

「もう充分ずぶ濡れなんです」

「それもそうだね。どっち飲みたい?」


 花瑠は少女に、オレンジジュースとカフェラテを差し出してみせた。少女はきょとんとした顔をして、「どんな味がするんですか?」と尋ねる。


「え……飲んだことないの?」

「わたしの故郷にはありませんでした」

「貴女の故郷って、海外?」

「いえ。かみさまの国です」


 さらりと言ってのける少女に、花瑠は少しの間言葉を失ってしまう。


「……かみさまって、あの、『神様』?」

「どのかみさまですか?」

「ん、ああ、わからなければいいんだけど……」


 花瑠は額に手を添えて、ふうと息をついた。

 色々な順序をすっ飛ばしてプロポーズをしてきたこの少女に、せめてあんな場所で一人で雨に打たれていた理由くらいは聞きたいと思って、ゆっくり話ができそうな近くの公園に連れて来たのはいいものの、少女の話は思ったよりも突拍子がなくて、どうしたものかと花瑠は悩む。

 まあ、流石に作り話だろうと考えて、一つ聞いてみることにした。


「えっと、親御さんはさ、どこにいる?」


 その問いに、少女の表情が確かに歪んだ。

 まずいことを聞いてしまっただろうか、と花瑠は思う。確かに、少女は自分のことを「いらない子」だと言っていたし、問題のある両親の元で育っているのかもしれない――そう考えて、花瑠が謝罪しかけたとき。

 


「――――いなくなっちゃったんです」

 


 震えを帯びた、呟くような声で、少女は告げた。


「全部、わたしが悪いんです。わたしのせいで、どこかに行っちゃったんです……」


 少女は俯きながら、そうやって零す。

 それから、瞳に寂しげな夕陽の光を溶かして、問いを口にした。


「ハル、こんなわたしのこと、嫌いにならないでほしいです。わたし、ハルのお嫁さんになりたいんです……不束者ですが……」


 色々聞きたいことはあったが、取り敢えず花瑠は「嫌いにはならないよ」と答えた。

 少女はぱあっと表情を明るくする。


「よかったです! それじゃあ、わたしをお嫁さんにしてくれますか?」

「いや……まずわたし、結婚できる年齢じゃないし……」

「そうなんですか。そうしたら、婚約でも構いません!」

「こ、婚約は……できるのかな……? いやでも、そういうのは、もっと色々な段階を踏んでからじゃないと……」


 目を逸らす花瑠に、少女は首を傾げる。


「色々な段階、とは?」

「えーと、まず、恋人を経てからじゃないかな……?」

「なるほど。では、ハル。わたしと恋人になりましょう!」

「あああそうなっちゃうのか、恋人になるのにも段階が必要で」

「どのような?」

「えーと、デ、デートしないとだと思う!」


 あたふたとする花瑠に、少女はふむふむと頷いた。


「なるほど。そうしたら、ハル。わたしとデートしましょう!」

「えええ!?」


 押しの強い少女に、花瑠は動揺してしまう。

 そんな花瑠へ、少女は切なげな眼差しで「嫌、ですか……?」と問い掛けた。

 そんな顔をされると、断りきれなくなってしまう。


「わ、わかった……そしたら、デート、しよう」

「本当ですか!? えへへ、嬉しいです。これでハルとの結婚に一歩近付きました」


 少女から純粋な笑顔が溢れる。

 どうしてこうなったのだろうと思いながら、花瑠はふうと息を零した。


「それじゃあ、今からデートしましょうか!」

「流石にそれは急! 宿題だってあるし、……小説も、書きたいし」


 段々とか細い声になりながら、花瑠は言う。

 その言葉に、少女はきらきらと目を輝かせ始めた。


「小説! ハルは小説家なんですか!?」

「いや、違くて……いつか、なりたいというか」


 視線を彷徨わせる花瑠に、少女はこくりと頷くと、遥か遠くの夕陽に負けないくらい綺麗な微笑みを浮かべた。

 


「すごいです! ハル、かっこいいです」

 


 花瑠の瞳が、揺らいだ。

 その揺らぎの意味を知らない少女は、不思議そうに花瑠を見つめた。花瑠はそっと俯いて、「……ありがとう」と小さな声で感謝を述べる。


「デート。明々後日の日曜日なら、空いてる」

「本当ですか!? そうしたら、その日に、わたしとデートしましょう!」

「いいよ」

「わーい! ふふ、早くハルと結婚したいです」


 少女はそう言って、ベンチからぴょんと降りると、楽しそうに鼻歌をうたいだした。


「……そういえば、貴女、名前は?」


 花瑠の疑問に、少女は鼻歌を止めると、寂しそうにほのかに口角を上げる。


「名前、もう、使えなくなっちゃったんです」

「そうなの……?」

「はい。だから、ハル……わたしに、名前をください!」


 思いがけない提案に、花瑠は目を見張る。

 少女は期待感いっぱいの眼差しで花瑠を見つめていた。

 どうしよう、と花瑠は思う。創作の世界で登場人物に名前を付けることなら日常茶飯事だが、実在するひとに名前をあげるのは初めてだ。花瑠はうんうんと唸りながら悩んで、そうしてぽろりと、口にする。


 

「――――はかな

 


 少女は数度瞬きしてから、満足そうな笑顔を浮かべた。


「ハカナ! かわいい響きですね。ありがとうございます、わたしは今日からハカナです!」


 少女――儚は、幸せそうに顔を綻ばせる。

 その表情からは想像できないくらい、儚は時折儚げな顔をする。

 だから花瑠は、そういう風に名付けた。

 儚はまた鼻歌をうたいだす。そのメロディーはどこか奇妙で、けれど確かに神秘的な輝きを放っていた。もしかしたらこの子は本当に「かみさま」なのだろうかと、花瑠はぼんやりと思う。


「あ、そういえば飲み物、ハルが好きな方をわたしにください!」

「え、普通そこは逆じゃない?」

「わたしはハルの未来のお嫁さんですから、ハルの好きなものを知っておきたいんです」


 人さし指を立てながら言う儚に、花瑠は可笑しそうに微笑んでから、「じゃあ、こっちかな」と告げてそっとカフェラテを差し出した。

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