04

 月曜日、花瑠はお昼休みに小説の書かれた手帳を開いていた。

 香絵は凛華と共に委員会に行っており、だから花瑠は安心して手帳を眺めることができた。

 花瑠は自分の描く物語が好きだった。きっと拙いところなど数え切れなくて、書店で売られている本と比べたら随分とちっぽけな話なのだろうと心のどこかで気付きながらも、それでも自分の小説を愛していた。


 それに、昨日は儚がとても素敵な感想をくれた。

 本当に嬉しかった。思い出すだけで、口元が緩んでしまいそうになる。自分が紡いだ物語を、他者と共有することのできた喜び。その感想を思い出すだけで、物語がきらきらと輝くような心地がする。

 花瑠が、物語の最後のページを捲ろうとしたときだった。


 

「…………何でそれ、持ってきてんの」


 

 冷えた声が、背後からした。

 花瑠がばっと振り向くと、そこには暗い眼差しをした香絵が立っている。

 何で、と花瑠は思った。まだお昼休みは始まったばかりで、委員会がこんな短時間で終わる訳がないのに。

 心臓がばくばくと蠢いていくのを感じながら、花瑠は震える唇で言葉を紡ぐ。


「何で、委員会は……」

「忘れ物したんだよねー。ていうかさ、それ、前私に見せびらかしてきた、キッモい手帳だよね? ちょっと貸してよ」


 香絵はそう言って、花瑠からばっと手帳を奪う。

 花瑠の目が見開かれる。香絵は花瑠の前でぱらぱらと手帳を捲って、嘲笑した。


「…………キッモ」


 花瑠は酷く傷付いた顔をする。そんな花瑠に追い討ちをかけるかのように、香絵は残酷な言葉を並べ立てた。


「こんなつまんねー話、家に帰ってにやにやしながら書いてる訳? いやマジでキモいんだけど。キモすぎなんだけど。やめろって言ってんじゃん、お前ってそこまでして私の品位を下げたい訳?」

「そ、そういう訳じゃ……」

「口答えすんじゃねえよ!」


 香絵の怒鳴り声が教室に響いた。視線が自分達に集中していることに気付き、花瑠の心臓がきゅっと縮こまる。


「そもそも花瑠ってさ、いつもおどおどしてて、そういう態度もキモいってわかんないのかな? 一緒にいるとムカつくんだよねー」

「…………」


 何も言わずに俯いた花瑠に、香絵は何かを思い付いたかのように口角を上げる。


「キモいことしたら、どうなるか教えてあげるよ」


 香絵は笑いながら、花瑠の物語が書かれたページをびりびりと破き始めた。

 花瑠はさっと青ざめて、「やめてえっ!」と叫んで香絵から手帳を奪い返す。


「何すんだよ!」


 香絵の怒声を聴きながら、花瑠は唇を噛みしめて教室を飛び出した。

 

 ◇

 

 ……あのとき、どうして間違えてしまったんだろうと思った。

 花瑠は一ヶ月ほど前、凛華と香絵に小説を見せた日のことを思い出した。

 花瑠の書いた小説を読んでいる香絵に、わくわくしながら感想を聞いたときの、香絵の表情を忘れられない。小馬鹿にするような、呆れているような、そういう顔をしていた。それだけではなくて、香絵は言葉までもを使って花瑠の趣味を蔑んだ。数多の言葉を組み合わせて物語を紡ぐことを愛している花瑠には、悪意ある物言いがぶすりと刺さった。


 あのとき二人に、自分の描いた世界を見せたいと思いさえしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに。

 私は愚かだったんだ、と花瑠は走りながら自分を憎む。

 どこへ行ったらいいのかなんてわからないし、明日からどんな顔をして学校に行けばいいのかもわからない。自分がいない間に話をつくられて、香絵に凛華までもを奪われたらどうしようと思った。そんなことをされたら、自分は一人ぼっちになってしまう――――


 滲んだ視界で、手帳をぎゅっと抱きしめながら、花瑠は曇り空の下を駆け続ける。次第に体力が朽ちてきて、花瑠ははあはあと荒い息を繰り返しながら立ち止まった。視界には見慣れない景色が広がっていて、心細くてまた涙が溢れた。

 

「…………ハル?」

 

 聞き覚えのある声が後ろからして、花瑠は涙で濡れた目を見開いた。

 ゆっくりと振り向くと、そこには儚が立っている。

 儚はぐちゃぐちゃになった花瑠の顔を目にすると、息を呑んだ。


「どうしたんですか? 何かあったんですか?」


 花瑠はよろよろと儚に歩み寄って、儚の身体を片手で抱きしめながら大きな声を上げて泣いた。


「ハル…………」


 そんな花瑠の姿を、儚は悲痛な面持ちで見つめる。儚は手袋に覆われた手で、そっと花瑠の頭を撫でた。その手付きが余りにも優しくて、花瑠は救われたような心地になる。


「もしかして、昨日話していた人に、酷いことをされたんですか?」

「…………う、ん」


 嗚咽を漏らしながら、花瑠は相槌を打つ。

 儚はそっと目を細めた。

 もう一度、その問いを口にする。


「花瑠は、その人に、消えてほしいですか?」


 花瑠は顔を上げて儚を見た。

 儚は恐ろしいほど優しい眼差しをしている。薄緑色の瞳は神秘的な美しさだった。

 花瑠はぽろりと、問いに対する答えを零した。


「…………消えて、ほしい…………」

「そうなんですね」


 儚は花瑠から身体を離す。

 そうして、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「わたしはどんなハルのことも愛していますが……幸せそうな顔をしているハルが、一番大好きです」


 だから、少し待っていてくださいね――そう告げて、儚は花瑠に背中を向けて歩き出した。

 

 ◇

 

 ――――ちょっとだけ、記憶を読んだ。

 覗き見している感じがして嫌だったから、初めて読んだ。

 だから、「その人」が誰かを知れた――――

 

 ◇

 

「ほんっとにムカつく、花瑠」


 放課後、凛華と香絵は昇降口で上履きから革靴に履き替えていた。

 香絵の言葉に、凛華は寂しげに眉を顰める。


「……花瑠、本当に、香絵のことをいきなり引っ掻いてきたの?」

「そうだよ? ほら、傷になっちゃってる」


 香絵はそう言って、凛華に手の甲を見せる。手帳を取り返そうとした花瑠が、意図せずして香絵に付けてしまった傷だった。


「もう、あいつと仲良くするのやめようよ。花瑠って結局そういう奴なんだよねー。私、前から思ってたもん」


 歩き出した香絵に、凛華は「……本当に、そうなの?」と尋ねた。

 香絵はくるりと振り返ると、頷く。


「そうだよー? 何? 凛華は、私が嘘ついてるって思ってる訳?」

「……そういう訳では、ないけど」

「だよね」


 凛華の言葉に、香絵は満足げに笑ってみせた。

 二人は並んで昇降口を出る。

 二人には、見えない。

 

 彼女たちの前には、無表情の儚が立っている。

 

 二人は段々と、儚へと近付いていく。

 儚は手袋に覆われた左手で、そっと右手の手袋を外してみせた。


 

 

 ――――鮮血のように真っ赤な右手が、露わになる。


 

 

 儚は赤色の手を見て、とても寂しそうな眼差しをした。

 それからゆっくりと、香絵へと歩み寄っていく。

 儚の目の前に、香絵がいる。

 儚は香絵に向けて、そっと赤色の手を伸ばした。


 ――――儚の手が、香絵に触れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る