03

 日曜日、花瑠は儚と水族館に訪れていた。

 一時間ほど前に、そういえば待ち合わせ場所を決めていなかった、どうしようか……と考えながら花瑠が家を出ると、扉の前に儚が満面の笑顔で立っていたものだから、驚いて思わず声を漏らしそうになった。儚は木曜日と同じく真っ白のワンピースに身を包んでいて、未だに裸足のままだった。痛くないの、と花瑠が聞くと、儚は一瞬物憂げな表情を浮かべてから、痛くないですよ、と笑った。


 それから、花瑠の案を中心にしてどうにかデートプランをつくり上げた。水族館に行き、カフェに寄って、海を見て帰る――花瑠はデートなんてしたことなかったけれど、儚がとてもわくわくしているようだったから、ほっとした。


 儚は沢山の魚が揺らめくように泳いでいる水槽のガラスに、手袋に覆われた手を当てながら、きらきらと目を煌めかせている。


「すごいです! かわいいです!」

「儚……あんまりガラスに触ると、怒られちゃうかもよ」

「誰にですか? ハルに?」

「いや、水族館のスタッフさん」


 花瑠の言葉に、儚はどこか困ったように微笑んだ。


「大丈夫ですよ。わたし、この世界の殆どの存在から見えないみたいなんです」


 そう言って、儚はまた水槽を眺め始めた。薄緑色の瞳に、カラフルな魚たちと青い輝きを放つ水が映り込んでいる。

 告げられた事実に花瑠は驚いて、数度瞬きを繰り返した。


「見えない、の?」

「はい。だから、ハルがわたしを見つけてくれたとき、それだけではなく優しい言葉を掛けてくれたとき……運命だって思いました。わたしはハルのお嫁さんになるんだって、確信したんです」


 儚は水槽から花瑠へと視線を移して、花が咲いたように微笑う。

 薄暗い世界の中にいる儚はどこか神々しくて、ああ、やはりこのひとは人間ではなくて「かみさま」なのかもしれないのかもしれないと、花瑠は思った。


「わたしが、ハルを幸せにします。だから、いつかわたしをお嫁さんにしてくださいね」


 そう告げた儚の眼差しは、昼下がりの春のように柔らかだった。


「……何か、かっこいいね」

「え? かっこいい、ですか?」

「うん。幸せにするって言うの、お嫁さんというより、お婿さんのイメージがある」

「そうなんですか? でも、かっこいいお嫁さんも、それはそれで魅力的だと思いませんか?」

「確かに、そうかもしれない」


 頷いた花瑠に、儚は「そうでしょう、そうでしょう! 素敵なお嫁さんでしょう!」と嬉しそうに小さく跳ねる。

 それから花瑠の手を握って、歩き出した。

 二人は神秘的な海月のコーナーに吸い込まれていった。

 

 ◇

 

 水族館内に併設されたカフェにて、儚は真っ青なサイダーに口を付ける。


「おいしいです! 水槽の中の水をそのまま飲んでいるみたいな気分です」

「それ、全然おいしくなさそうだよ」


 ペンギンのラテアートが描かれたカフェラテを持った花瑠が、呆れたように笑う。儚は言葉の意味がよくわからなかったようで、こてんと首を傾げた。


「そういえば、ハル。デートというのは、こうして色々なところを回るだけでいいんですか? 何か、これをすると結婚に近付く、みたいなことってありますか?」

「え、何だろう。結婚に近付くかはわからないけれど、そうだな……飲み物の飲み比べ、とかはするのかな……?」


 難しそうな表情を浮かべながら花瑠がそう告げると、儚は「なるほど!」と頷く。


「そうしたら、この水槽の水、あげます!」

「だからその言い方は……」

「だめなんですか?」

「だめって訳ではないけど」


 そんな会話を交わしながら、花瑠と儚はお互いの飲み物を交換する。

 儚が、不思議そうに目を丸くした。


「あれ? ハル、全然飲んでいないような」

「ああ、ペンギンが可愛くて、中々飲む気にならなくて……」

「そうだったんですか。…………。ずぞぞぞー」

「ああああ私のペンギンが!」


 表情を驚愕に染める花瑠の前で、儚は「かふぇらてより、未来のお嫁さんのわたしの方が可愛いです」と唇を尖らせる。どうやらペンギンに嫉妬してしまったらしい。そう気が付くと途端に目の前の儚が可愛らしく見えて、花瑠は彼女から思わず目を逸らした。


「ハルは飲まないんですか?」

「ああ、飲むよ」


 花瑠はそう返答して、青いサイダーを一口飲んだ。しゅわしゅわとした食感が口の中に広がって、刺激的な味わいだった。


「どうですか? おいしいですか?」

「うん、おいしい」


 笑顔になった花瑠に、儚は「よかったです」と頷く。

 それから何かを思い出したかのように、ずいと身を乗り出した。


「そういえば、わたし、見たいものがあったんです!」

「見たいもの……? 水族館の生き物?」

「違いますよ」


 儚は笑いながら首を横に振って、手袋に覆われている人さし指を立ててみせた。


「ハルが書いている小説を、見せてほしいんです」


 その言葉に、花瑠は目を見張る。


 

 ――――もしかしてさ、朝から小説書いてた訳? 前から言ってるけどさー、そのキモい趣味やめた方がいいよ。



 香絵から告げられた言葉が頭の中で反響して、花瑠は心を握り潰されたかのような気持ちになった。

 儚は不安げな表情で、沈黙している花瑠の顔を覗き込む。


「ごめんなさい、嫌でしたか? すみません……わたしのこと、嫌いにならないでください……」


 名前通りの雰囲気を漂わせて俯いてしまった儚に、花瑠は「違うの!」と大きな声で言う。

 顔を上げた儚を見据えながら、花瑠は苦しげな微笑みを浮かべた。


「逆なの……嬉しかったんだよ」

「そう、なんですか?」

「うん」


 花瑠はそっと頷いて、それから太ももの上に置いていた鞄を開く。

 そこから一冊の手帳を取り出して、儚へと手渡した。

 不思議そうな眼差しをしている儚へ、花瑠は言葉を紡ぐ。


「……それに、書いてある」


 儚は頷くと、手袋に覆われた手ではらりとページを捲り始めた。

 花瑠は段々と、喉の奥が詰まったような心地になる。儚の反応を見たいと思う自分と、見たくないと思う自分が混在していた。儚にまで「キモい」と言われてしまったら、どうしよう――――

 やがて、儚がそっと顔を上げる。

 花瑠は緊張した面持ちで、儚の淡い色合いの唇が開かれる瞬間を見ていた。


 

「すごいです……とっても、面白いです!」


 

 花瑠は呆然と瞬きを繰り返す。

 その間にも、儚は言葉を続けた。


「この、主人公の気持ちが移り変わっていくのが丁寧に書かれていて、感情移入しちゃいました! 優しくて、不思議で、それでいて温かい世界ですね。ハルの中にこんな素敵な物語が眠っていたと思うと、ますますハルのお嫁さんになりたくなりました」


 雪解けのように柔らかく微笑んだ儚に、花瑠は目を伏せる。

 嬉しくて、じわりと涙が滲んでしまう。そうだった、と花瑠は思う。私は、ただこういう風に感想を聞かせてほしくて。たったそれだけでよくて。それを望んでいたから、あのときも――――


「ハル……?」


 儚は不思議そうに花瑠の顔を覗き込んで、そうして目を見開いた。


「すみません、ハル、わたし、ハルを傷付けるつもりは全くなくて」

「違う、違うの」


 思わず花瑠は笑ってしまった。

 目に浮かんだ涙を手で拭って、それからぽろりと本心を零す。


「……心から、嬉しいと思っただけ」

 

 ◇

 

 夕暮れどきの海は、美しい橙色に染め上げられていた。

 儚は楽しそうに、打ち寄せる波から逃げて、引いていく波を追い掛けてを繰り返している。真っ白なワンピースが海風に揺られてはためいた。そんな儚の姿を、花瑠は優しい眼差しで見守っていた。

 儚がくるりと振り向いて、花瑠の方を見つめた。


「ハル、水の掛け合いっこしましょうよ!」

「え、いいけど」

「やったあ! いきますよ!」


 儚は嬉しそうに笑顔を浮かべて、海水をすくうと花瑠の方に投げ付ける。花瑠はそれを避けて、負けじと儚に海水を掛けた。二人も、舞う海水も、夕陽に照らされてきらきらと橙色に輝く。

 やがて、儚は出会ったときのように濡れた身体で、ふふっと微笑んだ。


「あはは、楽しかったです」

「うん、私も楽しかった」

「……そういえば、ハル」


 儚は何かを思い出したようで、途端に真剣な表情を浮かべる。背中の後ろで両手を組みながら、そっと問うた。


「もしかして、ですけれど。何か、悩んでいませんか?」


 花瑠は少しの間、何も返答することができずにいた。


「……何で?」

「わかりますよ。だってわたしは、ハルの未来のお嫁さんですから。ハルのそういう気持ちくらい、見抜けるんです」


 人間離れした神秘的な薄緑色の瞳が、花瑠の姿をありありと捉えている。

 花瑠が黙り込むと、二人の静寂を波の音が彩った。儚は花瑠の言葉を待っていた。

 やがて花瑠は、壊れかけの硝子細工のような寂しげな顔をして、呟くように言う。


「……友達が、いるの」

「はい」

「その子、私が小説を書くことを、キモいって馬鹿にするんだ……すごくね、綺麗な子だから、言われているとその通りなのかもしれないっていう気分になってきて」


 花瑠は口角を歪めた。


「……それが、辛い。本当は言い返したい。そんなことないって叫びたい。でも……怖いんだ。あの子の意見に逆らうのが怖い。苦しい……」


 花瑠は掠れた声で、そう告げた。

 儚は、花瑠へと歩み寄る。背伸びして、手袋越しに花瑠の頭を撫でた。その優しさが嬉しくて、花瑠は小さな声で、ありがとう、と言う。

 暫くの時間、二人の間をまた静寂が満たした。

 儚は何かを考えているようだった。やがて腹を括ったかのように、真剣な表情を浮かべる。


「……ハルは」


 儚は淡く目を細めて、花瑠を見つめた。


「その人に消えてほしいと、そう思いますか?」


 その問い掛けに、花瑠は目を見張る。

 香絵が消えたら、自分はどうなるのだろうと思った。恐らく学校では、凛華と二人で多くのときを過ごすことになる。下らないけれど楽しいお喋りに生活が彩られて、小学生の頃のように平和な時間が訪れる。そんな未来を想像して、花瑠はそれを美しいなと感じた。


 でも、だからといって、香絵に対して「消えてほしい」と強く願っているかと言われれば、きっとそうではなかった。

 花瑠は長考の後で、口を開く。


「…………わからない」

「そうですか」


 儚は頷いて、それから花瑠の両手を握る。


「――――それじゃあ、わかるときが来たら、教えてくださいね」


 儚の微笑みは、どこか儚げだった。

 真っ白の長髪は、海風に揺られて優しくなびいていた。

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