06
――――奇跡のような邂逅を運命と呼ばずして、何と呼べばいい?
――――運命の相手の花嫁とならずして、誰の花嫁となればいい?
◇
花瑠は公園のベンチで空を見上げていた。
彼女の手には手帳が握られている。澄んだ黒い瞳に、夕暮れの空模様が反射していた。瞳の下には涙の痕があった。
「…………ハル」
名前を呼ばれて、花瑠は隣を見る。
そこには儚が立っていた。真っ白の長髪は、夕陽を浴びて淡いオレンジ色の煌めきを放っている。いつも通り裸足で、白い素肌が晒されていた。
「儚……」
「どうしたんですか、こんなところで?」
首を傾げた儚に、花瑠は困ったような表情を浮かべる。
「何か、悲しいことがあった気がして……でも、少しも思い出せないんだ。目もひりひりするし、多分泣いていたんだけど、何で泣いていたか、全然わからなくて……」
「え、忘れてしまったんですか?」
儚の反応に、花瑠はびっくりしたように目を丸くする。
「あれ……ということは、儚は、知っているの?」
「勿論です」
儚は得意げに笑って、人さし指を立てる。
「――――とても怖い夢を見たって、言っていたじゃないですか」
儚の言葉に、花瑠はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「そう、だっけ……」
「そうです。でも、所詮夢は夢です。時間が経つにつれて、薄れていってしまうでしょう? だからハルは、思い出せないんですよ」
花瑠は「なるほど……」と言って頷いた。
「確かに、そうだったかもしれない。でも、それが原因で授業をサボったなんて、凛華に後で言ったら笑われちゃうかも」
花瑠はそう言って、手帳を太ももの上に置くと、大きく伸びをする。
その手帳は少しも壊れていない。破れたページも存在せず、ただ花瑠の物語が白い紙の上で美しい輝きを放ち続けながら、そっと閉じられている。
「……大丈夫ですよ」
そう言って、儚は花瑠の正面に立つと、小さな身体でそっと花瑠を包み込んだ。
「もう、怖い夢は終わりました。これからハルを待っているのは、幸せな現実です! ね、素敵でしょう?」
「幸せな現実?」
「そうです! 学校では沢山優しい友達ができて、書いている小説もいずれ評価されて、将来は小説を書く楽しいお仕事をしながら、とても可愛いお嫁さんと一緒に暮らすんです」
「……とても可愛いお嫁さんって、儚のこと?」
「そうですよ? それ以外に誰がいるんですか?」
きょとんとした儚に、花瑠は可笑しそうに吹き出した。
「自分のことをとても可愛いって言うの、珍しい気がする」
「そ、そうなんですか!?」
「うん、そうだよ。まあ、確かに、儚は可愛いけど……」
儚は照れたように顔を綻ばせる。そんな儚を温かな眼差しで見つめながら、花瑠は「……でも、そんなに上手くいくかな」と口にした。
「世の中酷い人だっているし、何もかもが上手くいくとは、限らないような……」
「上手くいきますよ」
儚は花瑠から身体を離して、手袋に包まれた両手をそっと祈りの形に組んだ。
「――――だって、ハルの側にはずっと、わたしがいますから」
夕陽に照らされながらそう告げた儚の姿は、余りにも神々しかった。
花瑠は何も言わずに儚を見つめていた。無意識のうちに、見惚れてしまったのかもしれなかった。
「……だから、安心してくださいね」
儚はそう言って、綺麗に微笑んだ。
花瑠は少しの間を置いて、「……ありがとう、儚」と口にする。
「ところで、ハル。デートもしましたし、そろそろわたしと結婚する気になりましたか?」
「いやだから気が早いよ、儚は!」
「ええー。いつになったらわたしは、ハルのお嫁さんになれるんですか?」
「いや、まず私、まだ十二歳だし……」
花瑠の言葉に、儚は目を剥いた。
「えっ!? まだ百歳にも満たないんですか!?」
「百歳になる頃には死んでいると思うんだけど……そう言う儚は何歳なの?」
「二百歳ですよ?」
「えっ、え、待って、歳上すぎない!?」
驚愕している花瑠に、儚はくすっと笑う。
「どうやらわたし、ハルより随分とお姉さんだったみたいですね!」
「いや……見た目はお姉さんとは程遠いような……」
「むう! これからどんどん素敵なお姉さんになって、ハルのお嫁さんになるんです」
「ぶれないね、相変わらず」
二人はどちらからともなく笑い出す。
世界から一人の人間が消失しても、夕焼けの空は変わらず美しい。
儚は、花瑠のために……いや、花瑠のためだけに、自身の〈力〉を使い続けることを決める。
花瑠を苦しめる存在なんて、この世界にいらないから。
花瑠を悲しませる存在なんて、この世界にいらないから。
花瑠を壊そうとする存在なんて、この世界にいらないから。
優しくて温かくて尊い花瑠。彼女がずっと笑顔でいられるように、そのために自分はこのおぞましい〈力〉を授かったのだと、儚は確信する。
途方もなく素晴らしい〈力〉だと思った。
……ただ一つ、欠点を述べるとするならば。
大好きな花瑠と繋いだ手の温度を、手袋越しにしか感じることができないということ。
――――たった、それだけのこと。
消失と花嫁 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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