その2



ハリーはコンスタンチノープルではいつもひとりだった。ここに来る前に、パリで自分を捨てた女のことが忘れられず、きみの思いを消せないとしらふで手紙を書いた。


パリに戻ってから、彼はまた別の女と結婚した。ところが、トルコで書いた手紙の返事がが回送されてきて、「誰から」とその女が訊き、新生活は終わった。


女たちとの楽しい思い出はたくさんあるが、喧嘩もよくした。

女っていうのは、自分が最高の気分の時にかぎって、喧嘩をふっかけてくるとハリーは思う。

そういうことも、パリのことも、書いたことがない。


「速記ができるか」

とハリーが訊いた。

「習ったことはないの」とヘレン。

それでいい。筆記をしてくれ。


おれは今、ただの一行で、すべての思いを表現できる気がしている。



ヘレンは、もう前のようには飲まなくなった。それはおれを手にいれたからだ。もし、自分がここで死ななかったとしても、この女のことを書くことはないだろう。

金持ちというのは退屈なやつらで、酒びたりか、ギャンブルか、とにかく退屈で、話がだらだらとうるさい。


そういえば、ジュリアンという男がいた。(スタンダールの「赤と黒」のジュリアンでしょう)彼は金持ちに憧れていて、それを小説にまで書いている。

「大金持ちは、僕たちとは違う種類の人間だ」と言っている。ジュリアンは金持ちは特別な人間だと信じていたが、そうではないとわかった時には、茫然自失となった。

そういう金持ちの人間を、ハリーはずっと軽蔑してきた。


ハリーは自分はどんなことだって乗り越えられる人間だと信じてきた。気にしなけれど、別に傷つけられることはないのだから。


そうだ、死を意識することをやめよう、とハリーは思った。

自分が恐れていたのは、死ではなくて、苦痛なのだ。

それほど痛みに弱いというわけではないのだが、ここに来て、ひどい苦痛を味わい、もう限界だと思った時に、痛みが消えたのだった。


ハリーはまた思い出した。

将校のウィリアムソンが、ドイツ偵察隊が投げた手りゅう弾をもろに食らった時のことだ。それは夜間で、太っちょの彼が鉄条網をくぐって、こちらに来ようとしている時だった。それとなく自慢する癖はあったけれど、勇敢な男だった。

それが鉄条網にからまったところを敵の照明弾に照らしだされてしまったのだ。

みんなで彼を連れ戻したが、はらわたが飛び出て、その一部は切り捨てなければならなかった。

「ハリー、撃ってくれ、殺してくれ」と彼は懇願した。


以前、神は耐えることのできないほどの苦痛を、与えることがあるのかないのかという議論をしたことがあった。ある者は、苦痛が限界を超えれば、自然に息絶えると言った。


ハリーはそのウイリアムソンのことを考えていた。

彼はハリーが自分のためにとっておいたモルヒネの錠剤をすべて与えるまで、生きていた。しかも、モルヒネを飲んでも、苦痛は続いていたのだ。


しかし、ハリーには今、痛みがない。これ以上、ひどくならないのなら、何を心配することがあるだろうか。ただ、もう少しましな話し相手がほしい。自分はいったい、誰にそばにいてほしいのだろう。


「もううんざりだ」

「どうかしました?」

ハイエナが歩く音が聞こえた。


彼は再び、死の気配を感じた。

「おれが、一度もなくしたことがないのは、好奇心くらいだ」

「あなたは何もなくしていない。あなたほど、完璧な人間には会ったことがないわ」


「ふん。女になにがわかるんだ」と思った時、死がまたそばまでやってきた。


「死神が大鎌おおがまとしゃれこうべを抱えて現れると信じていたら、だめだぞ。おまわりかもしれないし、小鳥かもしれないし、ハイエナみたいな顔のやつかもしれないんだから」


 死がハリーの身体によじのぼろうとしていた。

「あっちに行くように言ってくれ」

とハリーが言った。

しかし、死神はハリーの身体の上でうずくまり、彼はもう口もきけなくなった。


「ご主人のベッドをそっともちあげて、テントの中にいれて」

とヘレンが使用人たちに命じた。

ハリーは、みんな、あっちへ行けということも言えないまま、ベットのまま運ばれたが、なぜか胸の痛みがなくなった。


目が覚めると朝だった。飛行機の音がした。少年達が駆け出して、用意してあった枯草に火をつけた。場所を知らせるだめだ。

懐かしいパイロットのコプトンがおりてきた。ツイードのジャケットに、茶色の帽子をかぶっている。

「どうしたんだ?」

と彼が訊いた。

「脚をやられた」


小型飛行機はひとりしか乗せられない。奥さんのために、もう一度、戻ってくるとコンプトンが言った。少年達によってハリーのベッドが草原に運ばれ、彼は飛行機の後部座席に乗せられた。

コンプトンは草原の穴に気をつけなから、かたかたと音をたてて、向きを変えた。そして、離陸した。

みんなが下で手を振っている。

飛行機は丘や山脈を越え、平原が見えた。急に熱くなり、飛行機ががたがたと揺れ、コンプトンが振り返った。前方に黒い山が見えた。


飛行機は高度を上げて、東に向かっているようだった。急に暗くなったかと思うと、嵐に突入した。激しい嵐を抜けたところで、コンプトンが振り返り、笑いながら前を指さした。そこには真っ白に輝くキリマンジャロの四角い頂があった。

ああ、おれはあそこに行こうとしているのかとハリーは思った。


ちょうどその時、テントの近くで、ハイエナが泣き声のような声を出した。

ヘレンはその声が聞いて、不安がこみあげた。

彼女は夢を見ていた。それはロングアイランドの実家にいて、社交界にデビューする前夜で、父親がやたらとうるさかった。

ハイエナがあまりに哭くので、彼女は目をあけたが、すぐにはどこにいるのかわからず、恐怖が襲ってきた。

懐中電灯で照らすと、ハリーの蚊帳から足が出ており、それが寝台のそばにぶらさがっていた。包帯はずり落ちて、その光景はとても見られたものではなかった。

彼女は叫んで、「モーロ」と下男の名前を呼んだ。

「ハリー、ハリー」と彼の名前をいくら呼んでも、返事はがなかった。呼吸もなかった。

ハイエナの声が続いていた。



☆         ☆       ☆



つまり、ハリーがキリマンジャロに飛んでいったのは彼の幻影でした。飛行機は来ず、彼はテントの中で、すでに死んだのでした。

驚きますが、うまい作りですよね。


ヘミングウェイが死にゆく男の心境を書いた「キリマンジャロの雪」は37歳の時の作品です。その前の、「日はまた昇る」は27歳、「武器よさらば」は30歳の時。

しかし、30歳から37歳の間には小説は書かれず、父の自殺、自身の交通事故、またアフリカで赤痢にかかり死にそうになりました。その体験をもとに、この「キリマンジャロの雪」を書いたと言われています。

実際には、ヘミングウェイは助かったので、書くチャンスがあったということですよね。


彼にはたくさんの著作がありますが、小説は7作。

1952年に「老人と海」を書き、1954年にノーベル賞をもらいました。しかし、その年に飛行機事故に遭い、救助にきた飛行機がまた事故に遭い、重傷を負いました。

幸い、生命は助かりましたが、事故の後遺症は残り、前のような生活を送ることができなくなりました。

それまでのヘミングウェイはマッチョで男性的、野性的、行動的で、狩猟、闘牛など、荒々しいことが大好きでしたが、それができなくなり、精神的に追い詰められ、散弾銃で自殺しました。

彼はこの時は、ハリーの「書きたいものを何も書いていない」という状況ではなく、すべて手にはいっていました。

しかし、彼はギリのところにいないと孤独を感じてしまうタイプの人間で、肉体の障害のため、行動ができないことは死ぬほど辛いことだったのでしょうか。


ところで、映画のことですが、これが小説とは大違い。

映画ではハリー・ストリートといい、グレゴリー・ペックが演じました。ケニヤでイバラの棘にさされて、壊疽になって助けを待っているところは同じです。しかし、このハリーすでに人気作家で、パリの町でサインを求められるくらいなのです。そして、映画では、ハリー・ストリートは死にません。


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今、カクヨムコンテストに向けてがんばっておられるみなさま、

書きたいものが、書きあがるとよいですね。お互いに。




              了



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キリマンジャロの雪 九月ソナタ @sepstar

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