ミケランジェロの「ダビデ」のオリジナルは、今はアカデミア美術館にあります。
ここは元は学校でしたが、ミケランジェロがロレンツォ・メディチのもとにいた15、16歳の時にはこの建物はありません。
ミケランジェロがロレンツォのもとで2年間、彫刻だけではなく、学者たちからも学び、ロレンツォと食事をしていました。わずか2年間なのは、ロレンツォが死んでしまったからです。
小説に、ミケランジェロが少年にランチをもっていく場面を書きましたが、それはたぶんロレンツォのところで食べていたのではないか、というメニューです。
フィレンツェは共和国でしたが、本当のところはメディチ王国でした。特に、ロレンツォは芸術、贅沢大好きな人で、周囲に才能ある芸術家をおいて、育てていました。それは眺めて楽しむ目的もあったでしょうが、家の装飾だけではなく、自分の墓を作らせたり、他国に贈り物として、そう、信長の茶器のような役目をしていたのではないでしょうかね。
その反動で、次に贅沢だめ、芸術だめというサボォナローラの神権政治の4年がありますが、その間、芸術家の多くはフィレンツェを離れました。ミケランジェロも、ダビンチもです。そして、メディチ家が戻ってきた町に、ミケランジェロが帰ってきて、町の再生のためにダビデの像を頼まれたのです。
さて、捨て子養育院ですが、アカデミアの近くにあります。メディチの自宅、大聖堂、礼拝堂、事務所(ウフィッィ)、この捨て子養育院も全部近くです。
捨て子養育院はヨーロッパで最古の孤児院だそうで、さすが、メディチ家は福祉まで考えていると感心される方がいらっしゃると思います。
下が養育院のファサァド(玄関)で、今は美術館になっています。
この養育院は繊維組合の提案にメディチが乗って始まりましたが、設計者は大聖堂を設計したのと同じ人で、立派なものです。
私が最初に訪れた時には、どうしてこんな場所に、こんな立派な保育院を建てたのだろうと思いました。
中にはいってみると、驚くのはその明るさです。真ん中に庭があり、その周囲は回廊です。
そこに立った時、遊んでいる子供たちを回廊にいる画家たちがスケッチしている様子が浮かびました。当時の絵というと宗教画で、宗教画には子供の男子が必要なのです。
では、女子はというと、この保育院を提案したのは繊維組合でして、町には絹の織物工場がありました。絹を織るのは、少女の指が最適なのです。
だから、男子はモデル用、女子は絹を織るためではなかったかしら、と思いました。その説は聞いたことはないのですが。
でも、私はそういうふうに考えて、マッテオは赤ちゃんモデルをしていた子、アレッシァは織物工場で働いていたという設定にしました。
この養育院、もともとの名前は聖母マリアの幼子(イノセンティ)病院だったそうで、苗字をもたない子供のラストネームはイノセンティ。だから、マッテオのラストネームもそれです。
この捨て子保養育院はかつて改修をするために、300点ほどの作品を売ったという記録があります。どうして養育院にそんなにたくさんの芸術品があったのでしょうか。
それは画家たちが子供たちをデッサンしたり、そのデッサンを販売していのかしもれませんよね。そんなことも思いました。
これらは書かなくてもよいことかもしれませんが、期待以上にたくさんの方々が☆をくださいましたので、養育院の写真を載せてみようと思いました。
養育院をまだ見たことのない方、想像とは違っていませんでしたか。
建物の中はもっと違いますよ。
フィレンツェは肝心な部分は歩ける街ですから、もし行かれたら、ダビデを見たり、養育院を訪れたりした時、マッテオのことを思ってくださるとうれしいです。
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