先輩の右の腕
佐々木匙
先輩の右の腕
後藤陣一が通話を終えて顔を上げると、琴平先輩は少し離れたところで店のショーウィンドウを眺めているところだった。彼の用事が終わったことに気づいたのだろう。ふと笑って手を振る。陣一は慌てて小走りにそちらへと駆け寄った。片手に持った荷物が揺れる。
「すいません、時間食っちゃって」
「別にいいよ、それくらい全然」
ウィンドウに飾られた、スタイリッシュで直線的な冬物の黒いロングコートに少し名残惜しそうに指を伸ばして、そうして諦めたように手を下ろす。琴平先輩はふんわりとした紅茶色のミディアムヘアで、ベージュの上着。背もあまり高くない方だ。陣一からすれば、あまり普段の雰囲気には合わないようにも思えた。
「こういうの、欲しいんです?」
「憧れるけどねえ。なかなか手は出せないよね」
そういうものか、と思う。陣一は仕事帰りのスーツ姿で、自分ではあまり似合っているとは思っていないが、仕方なく身に纏っている。ファッションへの関心度は、まあ普通程度だ。異性のものなら、さらにわからないことは増える。それは琴平先輩も同様だろう。
行こっか、と先輩が歩き出すので、陣一も素直に続いた。
秋は深まり、風にそわそわとした冷気が混じり始めた頃。ショーウィンドウの中だけは暖かそうなウールやらカシミヤやらで彩られ、季節を寿いでいるように思える。
見上げる空は、重く暗いのに。
満月に少し欠けた月が出ている。半ばを雲の影で隠し、ゆらゆらとゆらめいているようにも見えた。
「早く行かなきゃ、時間なくなっちゃうよ」
先輩は振り返ることなく、低めのヒールの靴でこつこつと石畳の地面を踏んで歩いていく。
「駅弁買ってかないの」
「まあ、軽くは食べましたし……」
「後藤くんの軽く、ほんとに軽いんだもん。私びっくりしちゃうよ」
何回か言われたことがあるな、と思った。琴平先輩は小柄なわりに、なかなかの健啖家だ。健啖家という言い方も、先輩に習ったんだっけ。よく食べますねえ、と言ったらもっと上品な言い方にしなさい、と叱られた。
「だからそんなに細いんだよ」
「すいませんねえ」
隣に追いついて、ちょうど駅舎にたどり着く。ライトアップされた風景に冷たい空気が似合うのは、どういう理屈なのだろう。
先輩が招くように右の手を差し出す。彼はそれを見送って、前に進んだ。
東京駅、午後七時三十分。
これから後藤陣一は、三年振りの故郷へと帰る。重たい荷物を抱えて。
予想した通りに新幹線の席はところどころ空いていて、邪魔をされずに掛けることができた。思い切りリクライニングをする彼に、琴平先輩は苦笑する。
「後ろがいないからって」
「隣はいるんで、せめて楽に座りたいんですよ」
「言うようになったな」
そうして、少し押し黙る。
「ごめんね。付き合わせちゃってさ」
あんな押しかけ方をしておいて今さら何を、と思った。
ほんの数日前のことだ。どうしても頼みがあるの、と大学のサークル時代の一年上の先輩である彼女が彼の元に現れたのは。卒業以来だから、およそ二年振りの再会、ということになる。
「一緒に帰省をしてほしい。ほんとに、後藤くんでないと頼れないの」
この通り、と拝むようにして頼む人というのを、彼は初めて見たように思う。そうまでされて断る理由というのは、特にはなかった。
それに。
「よかったあ。ほんとに助かった」
ぱっと笑うと場が華やかに色づく。彼女は昔からそういう人で、そんなところが……。
「後藤くん?」
いつの間にか、暗い窓の外を眺めていた。ハッとして隣の席を見る。
「あ、ごめん。寝てた? なんか眉間がこんなんなってたからね。気になって」
自分の目の間を右手の指で摘んで見せる。皺が寄っていたらしい。
「癖になっちゃうと良くないよー」
「別にいいじゃないですか、先輩のことじゃないんだから」
少し心配そうな顔を見る。二年前から綺麗に全く変わらない。肌は綺麗に化粧をするのにこだわって、そのくせアイメイクは苦手で控えめにしているのも同じだ。
「……いや、でも、先輩のことは考えてましたよ」
「横にいるんだから考えないで話しなよ」
話せないようなことを考えてた?と少しむくれられる。
「そりゃ無理をさせてるとは思うけどさあ」
「不満とかじゃないですって、帰るのも嫌とかじゃなくて、ただ他の奴らに会ってどうすんのかなあって」
「まあ、一人じゃないし。そもそも後藤くんはいてくれるだけでいいんだってば」
そういうわけにいきますかねえ、と眉を顰めかけ、慌てて止めた。確かに、癖になっている。眉間を指でさする様に、琴平先輩は面白そうな顔をしていた。
「こういう言い方をするとあれなんだけど。ちょっとは楽しみなんだ。みんな来るでしょ?」
二年ぶりの同窓会みたいで。
「…先輩はそういう人でしたね」
「え、そんなに性格悪く見えてた?」
「違くて。どんな時でも楽しいこと探すのが好きとかそういうやつですよ」
そんなところが、彼はずっと。
新幹線は、夜の中を滑るように走り続ける。乗り換えの駅まではあと僅かで、あと僅かの隣席という位置が、とても、とても名残惜しかった。
「わ、駅前明るくなったねえ」
「ああ、そうか。そりゃ先輩は知らないですよね」
うん、私がいた時はほら、あの辺の道とかもう暗くなってて。指で示す。久しぶりの故郷。とはいえ彼の実家からは三駅ほど離れた、大学の最寄り駅だ。空気は東京よりもぐっと澄んで、さらに冷たい。すぐそばにある商店街は寂れて、ほとんどの店がシャッターを閉ざしていた。ここは二年前とは対して変わらない。
「さすがに危ないってことになったんですよ」
遅いよ、とサークルの友人が呟いていたのを、よく覚えている。
本当に、その通りだと思った。
「で、ご実家の方行くんですか?」
「ううん、もう来てる子もいると思う…-」
琴平先輩が周囲をぐるりと見た時のこと。
「あーっ、後藤くん。来た来た!」
商店街の入り口付近から、琴平先輩が声を上げた。横には見覚えのある顔がいる。そうだ。遅いよと呟いていた、あの女子だ。安西だっけ。彼女は緊張した顔を少しだけ緩ませて笑ってくれた。
そのさらに横にいるのはやはり琴平先輩で、背の高い元部長の坂田と一緒に楽しげにしている。他にも二人琴平先輩がいて、聞いた通りにサークルの元部員たちを連れてここに集まってきた、ということのようだった。
「俺、最後ですか」
「最後っちゃ最後だけど、まだ主賓が来てないからさ」
「ああ、東京出る頃に電話があって、多分次の電車くらいで着くんじゃないかなって……」
ガタン、ガタン、ガタン、ガタン。在来線の走行音がして、明かりがぱっと琴平先輩たちと陣一たちを照らし出す。光も影も、何も変わらないように見えた。二年前とも、今の自分たちとも。
やがて、駅舎からひとつの人影が近づいてくる。やはり見覚えがある顔だ。陣一と同学年で、部室にもよく入り浸っていて、無口な方だが、琴平先輩はそんな彼の話にもよく鈴が転がるように笑っていたっけ。
金子という、そういう名前の男だ。
「あれ、何。ここで待ち合わせだっけ?」
ぼそぼそとした話し声も、変わっていなかった。
「ああ、ちょっとご両親とかにはしにくい話があったから」
坂田が、ゆっくりとそう言った。
「まあ、遅いですしね。どっか入った方が良くないですか。寒くない?」
金子はやはりぼそぼそと、上着の前をかき合せるような動作をした。
「『なみや』はもうなくなったんですっけ」
「『ジャーニー』とか『むらい』はまだあるよ。この時間なら空いてる……けどまあ、ここで」
そうだ、坂田はここに残ったのだ。周りが皆心配する中、それでもあえて地元を離れずにいた。
「みんな金子くんのこと、待ってたんだよ」
安西は、少し上擦った声を上げる。金子が怪訝そうな顔をしたのが見えた。
「琴平先輩の話」
後藤くんはいてくれればいい、と言われた。琴平先輩的にはそうだろう。よく話はしたが、あくまで部員の一人。面倒くさがりな性格のせいで運営に深く関わっていたわけでもない。特別な存在ではなかったのだから。
だから、こういう時に声を上げるような奴だとは思わなかったでしょう、先輩。
「お前、持ってるよな」
すっ、と右手を差し上げる。指を差す。彼に届いたのは右の腕だったから、それが相応しい。
「先輩の頭の骨」
金子は弾けるように反対側の道に向けて駆け出した。明るくなった道の方に。先輩がいなくなった後、それを悔いるように綺麗になった道の方に。
先輩の殺された道の方に。
わっ、と陣一たちは一緒に駆け出した。でも、琴平先輩たちの方が早かった。
彼女は……彼女たちは、ひらりとページュの上着を翻して金子に飛びつき、押さえつける。身体が揺らいで傾いで、転んだ。ざらついた地面に倒れ、何が起こったかもわからずにバタバタともがいている金子を続いて坂田と陣一が引き起こす。
動けない、と情けない悲鳴が響いた。それはそうだろう。彼には見えるはずもないが、琴平先輩たちは未だそこにいる。恨みを込めた目で金子にしがみついているのだ。
「お前が」
坂田が思い切り、振り下ろすように金子を殴りつけた。
「お前が! 美菜を!」
ああ。陣一は目を細めた。ここからは、彼の番だ。陣一の元に届いたのは琴平先輩の右腕。坂田の元なら、左腕だったに違いない。
薬指に綺麗なプラチナの指輪の嵌った、細い、白い、もうただの骨になった、そんな左腕だったに違いないのだ。
彼が所属していたのは、何の変哲もない読書サークルで、読書よりも部室でわいわいと他愛のない会話をしていることの方が多かった。部長の坂田は真面目で責任感のある方の学生で、陣一はいつか相談を受けたことがある。
「琴平美菜と付き合うことになった」
これは、他の部員に対して不誠実なことではないだろうか?などと。
付き合ってから何を言ってるんですか。気になるなら断ってくださいよ、などと言った気がする。そもそも不誠実ってなんですか、ちょっと付き合ったくらいで。
心から動揺をしていたことは、見抜かれずに済んだ、と思う。そうか、美菜。美菜って名前だったな。知らなかったわけではないが、ずっと先輩だったから、先輩が美菜でもあり得たのを忘れていた、と。
坂田先輩は美菜って呼ぶんだろうか、などと。
坂田なりの誠実さは、卒業が近づいた頃に琴平先輩が嵌めるようになった指輪に表れていたのだろう。
「就活が落ち着いたら結婚しよう、だって」
大丈夫かな坂田くん、空回るからなあ。言いながらも彼女は、心から何かキラキラしたものが湧き上がるように嬉しそうにしていたのを覚えている。そんな時のことだ。
「後藤くんさあ、いいの? 琴平先輩」
何も言わないでさ。安西は二人きりになった時、ぽつりとそう言った。
お前こそ坂田先輩のことどうするんだよ、ともぞもぞ口にした。黙っていた想いを見抜かれたからには、やり返してやらないと気が済まなかった。何事も顔に出やすい安西がずっと部長に想いを寄せていたことは、他のメンバーには痛いほど明らかだったからだ。
「迷惑じゃん」
「俺もそう」
あーやだやだ、と安西は顔を伏せてしばしじたばたと足を動かして、それから言った。
「絶対、幸せになってもらわないと困るよね」
それはそうだ、と同感した。それきり、彼女と恋話はしていない。いい奴だな、と思ったのは確かだった。
そうして、幸せと不安の狭間にいた琴平美菜は、卒業を控えた大学からの帰り道、暗い道を通ったある夜に、無惨に命を奪われた。
おそらくは道端で襲撃を受け、それから人気のないところに運ばれ、幾つかに解体された状態であちこちに捨てられた、のだという。
おおよその骨は見つかった。それはつまり、見つからなかった部分もあった、ということになる。二年前のことだ。
二年後、今から数日前。陣一は突然琴平先輩の……死んだはずの琴平先輩の訪問を受ける。まるで何もないような顔で彼女はこう言った。
「一緒に帰省をしてほしい。ほんとに、後藤くんでないと頼れないの」
ようやく動けるようになったから。三周忌の前に、片をつけたいの。
私のこの右腕を、持って帰って。
私を殺したあいつに、突きつけてやって。
二年ぶりに、サークルの連絡先が役立った。
「坂田先輩、あとは警察に任せましょ」
二度三度と力任せに腕を振いかけていた坂田をそっと止め、陣一は、なんだかこんな役回りばかりだな、と軽く息を吐いた。安西が通報をしてくれている。自分は、上手く話をまとめる役をすればいいか。
「ですよね? まあ、適材適所だし」
何人にもバラバラにされて、魂も分かれてしまったのだろう。そんな先輩たちは、それでもにこりと微笑んでくれた。
「……後藤、お前誰と話してるんだ?」
坂田の訝しげな声がする。
「誰って……」
言いかけて、口を閉ざした。この道のりの間、ずっと彼は琴平先輩と顔を合わせ、会話をしてきた。他の人間には見えてなどいないと知りつつも、そうせずにはいられなかったからだ。気味の悪い顔をされたことも二度三度ではない。
だが、骨を託されたはずの他の面々には、わかってもらえるはずと思っていたのだが。
「そこの交番からすぐ来るって」
ぱたぱたと安西が走り寄ってくる。顔面は蒼白になっていた。
「安西、あのさ。先輩に頼まれたんだよな」
「え? うん。電話で言ったじゃん。すぐ消えちゃったけど、あれはほんとに……」
琴平先輩だったよ。
そうか。もう一度、懐かしい顔を仰ぐ。
ずっと一緒にいたのは、俺だけだったんだな。
幾つもの足音が近づいてくる。さて、話を上手く合わせていかないとな、と気を引き締める。
本当のところは、わからない。魂だけになった先輩が、自分のところにいてくれたのか。それとも、そんな超常現象は最初だけで、自分の思い込みと幻だけがそばにいたのか。
そんなことはどうだっていいのだ。彼の右手は、左手の薬指にもなかった、大切な秘密を宿していたのだから。
それだけで、十分だった。
先輩の右の腕 佐々木匙 @sasasa3396
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