第32話 ミシェル氏のこと
「あたし、ミシェルに悪いことしたかも」
昔から見慣れた、のどかな村。今日は何だか、変わらない村の雰囲気が懐かしく感じる。
「女王陛下とのお食事に、ミシェルも同席してもらえば良かった。姉弟なんだから」
ミシェルは杖歩行でありながらいつも通りの早足で、リカが着いてきてないと気づくと立ち止まって待ってくれる。先に行っても全く差し支えないのに。
「俺も声をかけられたけど、断ったんだ。あの人は何も悪くないのに、自分を責めそうだから」
ミシェルは5歳のとき、イレーヌが乗った馬車を止めようとして馬車に轢かれ、左足の自由を失った。当時10歳だったイレーヌは何も悪くないが、繊細で儚げなもうひとりの姉を気遣い自ら距離を置いた。
「それはそうだけど」
「でも、あの人、何しに来たんだろうな。侍女さん達も詳しく知らないみたいで、廊下で噂してた。視察とか接待とかの予定はないみたいだし、王様の別荘がこの近くにあるのに、そっちは使わないで兄貴ん
「それは……何も言ってなかったな」
それはそうだけど、リカが留置場にいた数日のことを、ミシェルは訊ねてこない。それも、ミシェルなりの気遣いだろう。リカ自身も、取り調べのこととか思い出したくない。妙に記憶に残っているのは、男装の女性、アリス・ジョルジュのことだ。空腹と疲労で意識朦朧とした状態のリカにも、アリス・ジョルジュの印象は鮮烈に残っていた。風変わりだが一目置いていた父親の話、医療の知識があるような話しぶり、ポルトマーレという町の名前……今も覚えている。
「姉貴、おんぶしようか?」
「そんなことしたら、ミシェルが潰れちゃうでしょう」
「でも、アルベールの兄貴は姉貴を抱えて警察から逃げようとしたんだろう?」
「あんたは真似しなくて良いからね!」
色んな意味で、そのときのことも思い出したくない。お姫様抱っこされて大脱走劇を繰り広げていたなんて、冷静になった今思うと恥ずかしい。
「……ミシェルおじさんのこと、聞いてる?」
あの大脱走劇は、小太りの中年ミシェル氏も加わっていた。リカの目の前でわざとアルベールの背中から下り、わざと警察に捕まった。リカに感謝しながら。
「逮捕されたって聞いたけど、その後のことは、何も」
「……そう」
ミシェル氏の近年の異様な行動は、悪魔に取り憑かれている、と言われて煙たがれていたが、リカは前頭側頭型認知症による症状だと思っている。だが、それは前世の知識による推測で、今の社会では認知症の検査をすることができない。認知症という考え方がないから、声高に訴えたところで信じてもらえない。ミシェル氏を非難する人に、一番つらいのはミシェル氏だと言ってみたが、伝わらなかった。前世の社会では、ミシェル氏のような人が窃盗の容疑で逮捕されても、病により責任能力が無いと裁判で無罪判決が出た。しかし、今のこの社会では、ミシェル氏の有罪は確実だ。前頭側頭型認知症の予後は良くない。体調を悪くしないか、気がかりである。
「おおい、リカ!」
手を降ってリカを呼ぶのは、石工のマソン氏の息子であり、マドロンの年の離れた夫、ピエールである。
「ピエールさん、マドロンは一緒じゃないよ?」
「泊まり込みで、何日かお屋敷で働くらしいぜ。そうじゃなくて、リカ、落ち着いて聞いてくれ」
そういうピエールが、動揺している。
「ミシェルの野郎が亡くなった。留置場で、冷たくなっていたらしい。数時間前までしっかり叫んでいたのに……あ、あんたの弟もミシェルか」
「大丈夫です。町にいたミシェルおじさんのことだよな。ミシェルおじさんが……」
リカの弟のミシェルは、同じ名前に混乱しなかったが、訃報には口を閉ざした。
「ミシェルの野郎の昔の
リカは頭が真っ白になった。ミシェル氏の状態が悪化することは想像していたが、衰弱死か心不全までは考えていなかった。
「ミシェルの野郎、ずっと叫んでたらしい。あの兄ちゃんと姉ちゃんは悪くないから出してやってくれって。リカと、あんたと一緒にいた身軽な男のことだよな」
あの状況からみると、アルベールとリカのことだ。
「あんたのことだから自分を責めちまうだろうけど、あれはミシェルの野郎の寿命だ。あんたは悪くない。それどころか、俺はあんたに感謝したい。聞いたぜ。あいつが責められていたときに、一番つらいのはあいつだと、あんたはミシェルの野郎をかばってくれた。俺にはそんな考え方できなかった。昔からの仲なんだから、できなきゃならなかったんだ。悪魔に取り憑かれている、と言われたミシェルの野郎が、最後まであんた達を守ろうとして正気に戻ってくれた。あいつの最期は、昔と変わらない生真面目なミシェルになった。ありがとな。ミシェルの名誉を守ってくれて」
リカは弟のミシェルに支えられながら、首を横に振った。自分はそんな立派な人間ではない。感謝させるようなことは何もしていない。
自分はまだ、何も成せていない。
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前世は介護士、今は「看病の魔女」と呼ばれています 紺藤 香純 @21109123
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