最終章より

青葉寄

最終章より

 真冬の夜の海は、昔観た終末モノ映画のワンシーンを思い起こさせた。

 深い藍色の空の下で、塊のような海水が寄せては引いている。人間のたてる音はほとんど聞こえず、潮騒の音だけが虚しく響いていた。この情景を表すには「寂しい」だと大仰で、「静か」だと少し物足りない。それでも確かに、「十分後に世界が滅びます」と言われても信じてしまいそうな空気感が、そこにはあった。

 ヒナセさんの手はまだ微かに震えていた。あの男を刺したときの感覚が残っているのだろう。白く小さな手は酷く冷たくて、気づけばその手を握る力が強まっていた。

 海に沿うように作られたコンクリートの道には浅く雪が積もっている。細い風が吹いたとき、ヒナセさんは肩をすくめてマフラーに顔をうめた。

「大丈夫ですか?」

 こんな寒い中彼女は薄着で、さっきから何度も上着を貸そうとしたが、「ヤヒロが風邪ひいちゃうから」と頑なに受け取ってくれなかった。この人はこんなときでも年上ぶる。

「ん、平気」

 ヒナセさんは華奢な声を振り絞るように言った。

「もうすぐ着きます」

 結局ヒナセさんは最後まで目的地を訊いてこなかった。暗闇の向こうに観覧車が見えたところで、彼女は初めて、俺たちが向かっている場所を知ったのだろう。大きな目が微かに見開かれたのがわかった。

 次第に見えてくるゴンドラのカラフルな色彩に、頭の奥底にある幼少期の記憶が刺激される。

「帰ろう」

 ヒナセさんが立ち止まって言う。暗い海を背にした彼女が、俺を見た。

「どうしてですか」

「ヤヒロの未来を潰したくない」

 時は一月十四日。高校三年生の俺は、共通テストを明日に控えている。

 でも、今はそんなことはどうでもよかった。

「始発に乗ればじゅうぶん間に合います。徹夜にも慣れてます。それに」

 今のヒナセさんを一人にしたくない。

 無言で足を進めると、彼女もそれに続いた。

「……着きましたよ」

 駅から歩いて約一時間。スマホの画面には一時十三分と表示されている。

 門の上にある古びたアーチは、八年前に見たその姿よりもずっと小さく感じた。


 ◇


「……ヤヒロ」

 二十三時、塾で自習を終えた後のことだった。

「やっちゃった。つい、カッとなって、本当はこんなことするつもりじゃなくって」

 彼女の足元に転がった物体を凝視する。その物体が人間であることも、その人間がもう息をしていないことも、一目でわかった。

「私、自首する」

 そう言ってヒナセさんは、覚束ない足取りで俺の横を通り過ぎようとする。

 咄嗟に彼女の腕を掴んだ。

「駄目です」

 俺は一言そう告げて、ヒナセさんの手を取った。 

 そのまま彼女の腕を引っ張って電車に飛び乗り、今に至る。


 久しぶりに訪れた遊園地は、中途半端に解体されたまま残っていた。

 ヒビだらけの石畳からは雑草が生えていて、色褪せたアトラクションには枯れた蔦が絡んでいる。かつての輝きを失った園は、酷く静かで、寂しかった。

 一旦ヒナセさんの手を離し、俺は、腰くらいの高さの錆びたゲートを乗り越えて中に入っていく。不法侵入という言葉が脳裏をよぎったが、一緒にいる彼女がそれ以上の罪を犯していることを思い出して、どうでもよくなった。ヒナセさんの手を取り、二人揃って深夜の廃墟遊園地に侵入する。

 田舎によくある、小さな遊園地だ。ジェットコースターもなければ、バイキングもない。地味なメリーゴーランドと、無駄にカラフルな観覧車と、名称のわからないこじんまりとしたアトラクションが数個、点々と存在していた。

「もう動かないんだよね」とヒナセさんは呟いた。

 海が近いため酷く錆びついているし、電気も通っていないだろう。雪も薄く積もっている。

「じゃあ、あれは?」

「あれ?」

 彼女は何かに吸い寄せられるように、空中を指さす。

「サイクルモノレール、だっけ。あれなら少しは動かないかな」

 俺へ向けられた彼女の顔には表情というものがなかった。

 美人特有の冷ややかさと、闇の中に浮かんだ白い肌。それらに何かぞっとする恐ろしさを感じ、背筋に冷たい空気が走った。

「……無理ですよ」

 やっとのことで俺はそう言い、空中に作られたオレンジ色の線路を睨んだ。


 ひとまず、体力を消耗したであろう彼女を座って休ませようと思い、かつてフードコートだった建物に入った。廃園になって約八年が経つ。破れたメニュー表と壁の落書きが、なんだか悲しかった。

 まだマシな椅子を選んで、ヒナセさんを座らせる。小さく「ありがと」と言われ、それだけで暗い感情がすべて吹き飛んでしまうくらいに心が満たされた。

 俺はヒナセさんの隣に椅子を置き、そこに座る。死体を見てから二時間ほど経っているが、俺の鼓動は速いままだった。

「なんか、久しぶりだよね」

 ヒナセさんは上目遣いで俺を見る。

「ヤヒロ、中学生くらいから全然私に構ってくれなくなったから」

 彼女の猫のような目がぱちりと瞬き、俺は思わず硬直した。

 ヒナセさんは小さく首を傾け、俺の顔を覗き込む。耳にかけられていた細い髪が崩れ、はらりと肩をなぞるように流れる。

 俺は視線を地面にずらし、ぼそりと言った。

「バイトとか忙しそうだったので、あまり関わらないほうがいいと思ってたんです」

「私はずっとヤヒロと話したいって思ってたよ」

 さっきまで憔悴しきっていた彼女だが、だんだん落ち着きを取り戻しているようだった。殺人現場と物理的距離をとったのがよかったのかもしれない。対象との距離と現実味は反比例の関係だ。

「ところで、ヤヒロはどこ大志望なの?」

 ヒナセさんがお姉さんぶった口調でそう訊いてきた。俺は志望している隣県の旧帝大学の名を上げる。

「大学でやりたいことがあるわけじゃないんです。とりあえず無難な道を選んだだけ、別に行かなくたっていい」

「大学は楽しいよ、人生の夏休みって言うくらいだし」

「遊びに行くわけじゃないんですよ」

「大学は遊ぶために行くところだよ」

「ヒナセさんにとってはそうでしょうね」

「何それ、生意気」

 ヒナセさんはぐいと俺のほうへ手を伸ばし、俺の頬をつねる。そのとき彼女の口角が僅かに上がった。何年も笑っていなかったような、ぎごちない笑顔だ。

 彼女はそのまま手を頭に移動させ、俺の短い髪をかき混ぜた。この人はいくつになっても俺を子ども扱いする。彼女の手が届くように体を傾けている俺も大概だが。

 だんだん腰が疲れてきて、俺はヒナセさんの手をどかした。

「ヒナセさんは最近どうです? 確か、来年からは就活も始まりますよね」

 俺がそう訊くと、ヒナセさんはふいと俺から目を逸らす。

「私はもう未来のことは考えてないよ」

「……今はまだ考えてもいいでしょう」

 酷い疲労と諦念を含んだ彼女の声に、俺はたまらなく悲しくなった。

 彼女は決して、若いまま人生を放棄しなくてはならない人ではなかった。たくさんの明るい未来を思い描きながら生きていくはずの人だった。--こんなことにさえならなければ。

 ひゅうっと細い風が鳴って、この場の寂しさをよりいっそう強くする。かつて人々で賑わっていた面影を失い、廃墟化した場所。遠くから波が砕ける音がする。



「ねえ、なんでここだったの?」

 とうとう訊かれたか、と思った。俺は意を決して言う。

「あの日のことについて、ちゃんと話をしたいと思ったので」

 そう口にした途端、当時の記憶が脳内に溢れ出す。夕暮れのように眩しく、胸が張り裂けそうなくらいに悲しい、ヒナセさんとの記憶だ。

 ただノスタルジーに浸りたいわけではない。そろそろ俺はあの日の出来事と向き合わなくてはならなくて、そのことを話すのに相応しい場所がこの遊園地だった。


 時は八年前に遡る。

 小学四年生のとき、俺はここがもうすぐ潰れてしまうことを知った。小さい頃に何度か訪れたことのある思い出の場所で、なくなってしまう前にもう一度行きたいと思った。--しかし、その頃アル中親父の暴力がヒートアップしていて、とても遊びに連れていってと言えるような家庭環境ではなかった。

 だから俺はヒナセさんを誘い、二人だけで出かけることにしたのだった。

 子どもだった俺たちにとって、電車二本と徒歩一時間が冒険だった。親にバレたらきっと怒られる。

 しかし、幼い俺の中には、絶対に楽しいことしか起こらないという根拠のない自信があった。二人でたくさん遊んで、笑って、何のトラブルもなくうちに帰れる、と。遊園地にはそういう魔法がかかっている。

 だから、その冒険の先で、あんな〈事故〉が起こるなんて思ってもみなかった。


「話すことなんかないでしょ」

 ヒナセさんは静かにそう言った。

「あれはただの事故。私はこの通り死ななかったんだし、もうどうでもいいじゃん」

 ヒナセさんは椅子に座り直し、俺から目を逸らした。どうでもよくないです、と言おうとするが、それより先にヒナセさんが口を開く。

「私さ、嫌なことがあったら、人生を物語みたいに考えるんだ」

「なんですか、急に」

「小説だとまず、第一章にとてもつらいことが起きるでしょ? 漫画だと第一話かな」

「そうなんですか」

「そうなの。物語を展開するにはね、まず最初に主人公を絶望に突き落とさなくてはならない。そこからストーリーが進んでいくんだけど、その中でもきっとたくさんつらい目に遭う。……でも、そのストーリーは、絶望から這い上がるためのものだから」

 ヒナセさんは下を向いて、小さく息を吸って言った。

「最終章ではきっと幸せになれる。そう考えれば、少しは希望を持てる」

 終わり方がハッピーエンドとは限らないですけどね、という言葉は飲み込んで、俺は言う。

「今は何章ですか」

「さあ、どうだろう。もうわかんなくなってきた」

 人生を物語と考えるのは俺もやったことがある。自分を客観的に見ることで、意識を自分の体から切り離し、苦しみを和らげるのだ。

 しかし彼女の場合、どこまでも主観のままだった。わからなくもない、結局人は自分の目でしか世界を見ることができないのだから。

 じっと黙ると、ヒナセさんの手が俺の頬へ伸びてきた。指先が俺の肌に触れ、さするように動かされる。

「ヤヒロはさ、ちゃんと幸せになりなよ。今までたくさん苦労してきたんだから」ヒナセさんが細い声で言った。「大学行って、彼女作って、就職して、結婚して」

「幸せの形は人それぞれ、というのが最近の一般論らしいですよ」

「でもさ、結局テンプレが一番いいんだよ。だって理由を考えなくいいから」

 ヒナセさんは俺の頬を撫で続ける。悲しくなるくらい心地良くて、俺は、これからについての暗い思考を放棄してしまいそうになる。

 このままこの人に甘えてしまおうか。――そんな考えが脳内に浮上した。

 彼女に抱きしめられ、頭を撫でられながら「大丈夫だよ」と言い聞かせてもらう。そして始発で家に帰って、警察に通報する。それから、何もなかったみたいな顔をして、共通テストの受験会場に行く。

 大学に入学して、殺人のことも〈事故〉のことも忘れて、ヒナセさんの言う「幸せ」になる。

 彼女に甘やかされたまま、生きていく。彼女だってそれを望んでいるのだから。


 ――駄目だ、と思った。

 俺は小さく頭を振る。やっぱり、この人を一人にはできない。

「やっぱりあれは事故なんかじゃないですよね」

 振り絞るように、俺は言った。ヒナセさんが息をのむのがわかった。

 二人で乗ったサイクルモノレール。

 シートベルトの不備、車体の揺れ、落下。――それは本当か?

 ヒナセさんはじっと俺を見ている。唇が微かに震えていた。

 それほど高い場所ではなかった。しかし、子どもにとっては、確実に死ねる高さに思えたのかもしれない。

 例えば、不備とされていたシートベルトが、彼女によって外されたものだとしたら。例えば、車体が揺れたのではなく、彼女が自ら身を乗り出したのだとしたら。

 当時の家庭環境を思い出す。アル中の親父、暴力、樵率した母、消えない痣、増え続ける傷跡、絶望、ここからは逃げられない。

「俺、ヒナセさんが『一緒に堕ちて』と言ったら、いつでも堕落しましたよ」

 ぱりん、と何かが割れる音がした。外でジュース瓶が風に転がされていたことを思い出す。

「……どういう意味?」

「ヒナセさんが『あいつを殺して』と言ったら、いつでも殺しました」

 ヒナセさんに一言「あの人を殺して」と言われたら、幼い俺はきっとあいつを殺したと思う。甘ったれで弱虫な俺でも、その一言だけで、引き金を引かれたみたいに、理性も倫理観も投げ出せた。

「今までヒナセさんにはたくさんお世話になりました」

 親父の酷い暴力から俺を庇ってくれたのは、いつも彼女だった。俺は彼女に甘えていて、彼女が命を絶とうとしたときまで、そのことに気づかなかった。

「もういいんですよ、ヒナセさん」

「……もういいって、何が?」

 俺は両手でヒナセさんの頬に触れる。冷たくて、滑らかで、それでいて暖かい。ちゃんと生きた人間の温度だ。

「もう俺を庇わなくていいってことです、ヒナセ姉さん」

 俺はもう、甘えてばかりの弟じゃない。

 ヒナセさんは大きく目を見開いた。そして、綺麗な顔を泣きそうに歪める。

「やめて、ヤヒロ……!」

「きっと警察は騙せません。足の悪い姉さんが、親父を押し倒せるわけないんだ」

 事故の後、彼女は命に別状はなかったが右足に麻痺が残った。杖をつくか、誰かの手を取らないと満足に歩けない。そんな彼女が、親父を突き飛ばして、喉に包丁を刺せるはずがないのだ。

 俺は静かに言う。

「親父を殺したのは、俺です」


 ◇


「癌なんだよ」

 引き出しの中を漁る親父は、俺のほうを見ずにそう言った。

「答えになってない」

 俺は「なんでここにいる?」と問うたのだ。親父の近況を聞きたかったわけではない。

 塾から帰ると、自宅には、七年前に母と離婚した親父がいた。母は夜勤で不在で、田舎の家は戸締りが杜撰だった。

「仕事はやめた。金も尽きた」

「……だから?」

「助けてほしいんだよ、わかるだろ」

 そう言った親父は昔と変わらずガタイのいい大男だったが、頬は少し痩けて見えた。酒を飲んでいるのか顔は赤らみ、目は虚だ。

「今すぐ帰るか、普察を呼ばれるか」

「冷たいなあ。親子だろう?」

「俺はそう思ってない」

「少しでいいんだ、しばらく暮らせるだけの」

 親父は縋るように言う。

「うちにはそんな金はない」

「大学に行くんだろ? 入学金は?」

「ない、奨学金を借りるから」

 俺が冷ややかにそう言うと、親父は観念して引き出しを閉めた。そのまま俺の傍を通って去ろうとしたが、途中で何かを思い出したように立ち止まる。

「さっきヒナセの写真を見たよ」

 親父は怪しい呂律で言った。

「ずいぶん成長してたなぁ、大人の女になっている」

 言葉だけをなぞれば、ただ父親が娘の成長を喜んでいるようにも聞こえる。実際そうだったのかもしれない。

 しかし俺は、この男がどれだけ愚図で下劣かを知っていた。

 親父は再び俺のほうへ歩み寄る。

「なあ、頼むよヤヒロ」

 とん、と肩に手を置かれたとき。

 思い切り突き飛ばした。

 バランスを崩した親父の頭はテレビ台の角に打ち付けられる。ごん、と鈍い音が鳴った後、親父の体は床に崩れ落ちた。

 まさか死んじゃいないだろう。そう思って親父の側に近寄ったとき、ぴくりと右手の小指が動いた。驚いて背後に飛び下がると、親父はノロノロと起き上がる。

 そして、血走った目で俺を見た。

 刹那、幼少期の記憶がフラッシュバックした。

 ――殺される。

 俺は急いで家を飛び出した。

 がむしゃらになって走り、自宅から離れたところで一度スマホを取り出した。震える指で画面を叩き、ヒナセさんにメッセージを送る。

『家に親父がいる、突き飛ばした、すごく怒ってる、逃げて』

 既読はつかなかった。走ってヒナセさんのバイト先に行ったが、もう帰ったという。

 自宅に戻ると、玄関にヒナセさんの靴があって、リビングにはヒナセさんと、喉に包丁が突き刺さった親父がいた。


 ◇


「驚いたよ。家に帰ろうとしたらヤヒロが青い顔で向こうに走って行くし、リビングに行くとお父さんが倒れてるし」

 親父は俺に突き飛ばされた後、少しの間は生きていたが、すぐに事切れたらしい。あるいは起き上がったこと自体、俺が見た幻覚だったのかもしれない。

 ヒナセさんが俺からのメッセージを見たのは、親父が倒れているのを見つけ、救急車を呼ぼうとしたときだったそうだ。

 俺が親父の死に気づいていないと知った彼女は、自分が殺したように見せかけて罪を被ろうとしたのだという。

 馬鹿だな、と思った。そういうところも好きだと思った。

「やっぱ外は寒いね」

 俺たちはフードコートの建物を出て、遊園地内を歩いた。

 やはり外は酷く寒くて、ヒナセさんはすぐに鼻先を赤くし、マフラーに顔を埋めた。

 園全体に浅く雪が積もっていて、月明かりが反射し、深夜にしては明るかった。枯れた蔦が絡む顔出しパネルも、横転したメリーゴーランドの白馬も、塗装が剥がれたゴーカートも、はっきりと見える。

「あのとき私、自分で落っこちたんだよ」

 ヒナセさんが空中の線路を指差して言う。

「知ってます」

「知られてましたか」

 ヒナセさんはふにやりと笑い、それ以上は何も言わなかった。

 強制バッドエンド。――でも、見方を変えればハッピーエンド。

「今思うと私、自分のことしか考えてなかったね。ヤヒロを置いて死のうだなんてさ」

「追い詰められた人間は自分のことしか考えられなくて当然です」

 俺は俯く彼女の髪を両手でわしゃわしゃと撫でた。ヒナセさんは、きゃははと子どもみたいな声を上げて笑う。

「そろそろ帰ろう。タクシー呼ぶから」ヒナセさんは俺のスマホを操作しながら言った。「テストまで、少しは眠ったほうがいい」

「受験どころじゃないですよ、きっと」

 殺すつもりはなかったが、俺のせいで親父が死んだのは事実だ。きっと、やらなくてはならないことがたくさんある。

「……ヤヒロは大丈夫だよ」

「何がです?」

 急にヒナセさんは俺の手を離した。俺が驚いて固まっている間に、彼女は覚束ない足取りで俺と距離を置く。

「ヤヒロは殺すつもりはなかったんでしょう?なら、あれは事故だよ。対しては私は、殺すつもりでやった」

「殺す意志があろうがなかろうが、殺してしまったという事実は揺るぎません。俺が殺しました」

 俺は強くそう言った。彼女はまだ俺を庇うつもりなのだ。

「駄目、ここは私に任せて。ヤヒロには未来がある」

「ありません。俺は、ヒナセさんを犠牲にして得た未来に価値を見出せない」

「馬鹿なこと言わないで」ヒナセさんは泣きそうな声で言う。「わかってよ、ヤヒロが苦しむのが嫌なの」

 鼻の奥に熱いものが込み上がってくるのがわかった。

 堪えようとしても、できなかった。

「あんたはいつもそうだ!」

 ヒナセさんの肩が揺れた。

 彼女に対してこんなふうに声を荒らげるのは初めてだった。

「俺のため、俺のためって、本当は俺のことなんか考えてないだろ。簡単に自分を犠牲にしやがって。あんたが守りたかった俺が、傷ついたあんたを見てどんな思いでいたか知らないんだ」

 さつきヒナセさんは、死のうとした自分を「自分のことしか考えてなかった」と言ったが、それは違うと俺は知っている。彼女は自分が自殺することで、母が親父と離れる決心がつくと考えていたのだ。実際、事故直後に母は親父と別居し始め、そして一年後に離婚した。

 自分がギリギリのときですらも俺のことを考えている。彼女はそういう人だった。

「これ以上、ヒナセさんを傷つけたくないです。ヒナセさんに罪を被せて明るい未来を生きるよりも、俺は、ヒナセさんと一緒に暗闇にいたいです」

 殺人者でいい。普通の人生を送れなくていい。この先もヒナセさんの苦しみに気づけないよりはずつとマシだ。

「だから、連れて行ってください」

 ヒナセさんが行くところまで。


「……ヤヒロ、こんなにシスコンだったっけ」

「そうです、シスコンです」

 俺の即答に、ヒナセさんは数秒固まった後、ふはっと吹き出した。

「これからどうするとか、全然考えてなかった。……いいよ一緒に行こう」ヒナセさんはとびきり優しい声で言った。「だからもう泣かないで」

「泣いてません」

「ガキ」

 ヒナセさんは笑って、袖で俺の目尻を拭った。

「ねえ、昔みたいに姉さんって呼んでよ。あとその気色悪い敬語もやめて」

 俺は小さく鼻をすすって、ぼそりと言う。

「考えておきます」

 ふと観覧車を見ると、錆びた骨組みの向こうに月が見えた。

 夜はまだ明けない。


 ◇


「もう二時過ぎてる」

 ヒナセさんは俺のスマホを見ながらそう言った。

 深夜二時の廃遊園地は、未だ闇の中にある。その闇は黒というより青で、青というより藍だ。

「……どうします?」

「ヤヒロはどうしたい?」

「なんでもいいです。俺はヒナセさんの言いなりなので」

 つらいとき、人生を物語のように考えるのだとヒナセさんは言った。小説では、第一章でとてもつらい出来事があって、以降のストーリーはこの状況を挽回する方向に進んでいき、最後は幸せになれる。

 フィクションならば、きつと今は最終章だ。父親を殺してしまった姉弟の物語はここで終了する。ハッピーエンドかはわからないが、きっとバッドエンドではないだろう。

 最終章より、未来の俺へ。

 元気でいますか。そもそも生きていますか。あの日の絶望を覚えていますか。――あなたの隣に、姉さんはいますか?

 絶望から物語がスタートして、たくさんの苦悩とと悲嘆を経過し、最終章までやってきた。

 そして、新しい物語が今、始まろうとしている。

「どこに行くんですか?」

 俺たちはぎゅっと手を握り合って、錆びたゲートを飛び越える。

 深夜二時の遊園地を出ると、ヒナセさんは弾んだ声で言った。

「できるだけ、果てに」



〈了〉

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最終章より 青葉寄 @aobasan0

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