たこ焼き

真花

たこ焼き

 蝉の声が機関銃になって僕の全周に降り注ぐから、足音が聞こえない。だが、僕は確かに足を交互に踏んでいる、だからうずくまるように足音は僕の足の下にいて、生まれたと同時に足跡になる。音の封じられた足跡が僕の後ろに一列に並んでいて、いつか誰かに発見されるのを待ち続ける。いや、僕は僕が十五年前にここに記した僕の足跡を辿っている。

 実家から出る前、僕はこのなだらかな坂道を何度となく通った。線路と寺に挟まれていつも息を潜めるこの道で他の人とすれ違ったことは一度もない。蝉、紅葉、雪、桜。季節を背負いながら僕はお腹を空かせて道を歩いた。

 坂の下には小さなたこ焼き屋があった。

「こんにちは」

「おう、久しぶり。二週間ぶりくらいだね」

 たこ焼きを焼いている歳を取ったおじさんとおじいさんの境目くらいのおじさんは僕を見付けるとくしゃ、とボールを潰したみたいに笑う。どうしてこんなところでたこ焼きを焼いているのかは訊いたことはないが、仕事のコツは教えてもらった。全ての作業を遊びだと思って楽しんでやる、そうだ。その頃の僕にはよく分からなかった。遊びと仕事の境界線が必要以上に太かったのだろう。

「今日は、塩にしようかな」

「あいよ。……じゃあ一個サービスね」

「ありがとう」

 八個のところが九個入ったタコ焼きの舟は窮屈そうで、九個目が居場所を探して困っている。そのどれもが自分を最初に食べて欲しそうでもあり、最後まで生き残りたそうでもある。

「学校はどうだい?」

「あんまり面白くないけど行ってる。留年はしなそう」

「そりゃよかったな」

 僕は、とろ火程度に笑って、ベンチに行く。ベンチからはおじさんは見えない。電車がゆっくりと走り抜ける。その間だけ蝉よりも線路の音が勝って、僕は位相がずれた感覚に陥って、また電車が去るとともに戻る。それからたこ焼きに箸を付ける。おじさんのたこ焼きは食べると笑いが溢れる美味しさで、熱いのと戦いながら僕は一気に食べ上げる。空になった舟は戦士の墓標だ。箸を添える。次の電車が来て、やり過ごしてから墓標をおじさんのところに持って行く。

「ごちそうさま」

「あいよ」

 おじさんに渡したら、僕はそこを去る。家に帰ることもあれば、街に出ることもあった。間が空いても二週間くらいで、ずっと会っていた。話す日は長く話したし、そうでなくてもおじさんは僕の存在地だった。

 大学を卒業して僕は家を出た。おじさんに何の挨拶もしないで、連綿としたものがナタで切られた。いや、僕が切った。それからずっと、この坂を下ることはなかった。おじさんのことを思い出すことは少なかった。実家と一緒にまとめて放置していた。それは僕の現在とは断絶したものだった。

 十五年は短いか。長いか。たこ焼き屋にとってはどっちだ。坂を進む足が少しずつ重くなる。店はまだあるのか。あったとしておじさんはいるのか。おじさんは僕を覚えているのか。覚えていたとして、急に通わなくなったことに怒ってはいないか。客商売でいちいちそんなこと気にしないのか。それとも僕は特別な客だったのか。足音と足跡が粘ついて、一歩一歩を踏み出すのに力がいる。気を入れないと前に行けない。坂はもう半分を越えている。

 電車。

 初めて中の人と目が合った。僕は何をしている人に見えるだろう。地面に突き刺したカカシだろうか。それとも前進の意志が観察されただろうか。僕は前に足を出す。小屋があって、そこにポスターが貼られていた。十五年前にもポスターはあって、それは米のポスターだったのに完璧な形の尻の、着衣だ、後ろ姿の女の子が載っていた。それを盗むかどうか真剣に考えて、やめた。今のポスターはやはり米のだが、尻ではなかった。

 十五年が経っていた。

 僕は体に力を入れて坂を下る。

 坂の下にはたこ焼き屋があった。僕の息が止まる。心臓が暴れる。僕は店の正面に回り込む。

 男性がたこ焼きを焼いていた。おじさんではなかった。僕の中身がぐちゃぐちゃと掻き混ざってたこ焼きの具になる。僕はおじさんに会いたくなかった。それなのに会いたかった。数年が経った時点で会うことが気まずくて、もう数年が経ったらそのことすら忘却していた。だが会いたいと思ったから今日ここにいる。

「あの」

 たこ焼きを焼いている男性が顔を上げる。まだ三十代だろう。

「はい、いらっしゃい。どれにしますか?」

 僕はスポンジを握り込んだみたいに縮こまる。

「いえ、違うんです。……十五年振りにここに来たんですけど、あのときのおじさんって、今どうしてますか?」

 男性は嬉しそうな迷惑そうな顔をする。手は止めない。

「ああ、親父ですよ、それ。元気ですよ。店には立たなくなってますけど、ピンピンしてますよ」

 僕の中に渦が巻く。

「そうなんですね。……塩を一つ下さい」

「はい。じゃあ、親父の縁ってことで一個サービスしちゃいますね」

 僕は舟を受け取ってベンチに座る。見える景色も変わっていない。電車が通る。

 舟の上に乗っている九個目のたこ焼きは、僕だった。


(了)

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