雷鳴 完結
人の世は平等にはなり得ない。
遥か昔に唱えたのは、この世界を収めていた――最初で最後となる神である。
神と呼ばれていたが、姿は人間そのもので、四季を運び、人の世に関与して来ないソレに人々は慈しみを込めて主と呼んだ。いかんせんこの主、群を抜いての飽き性である。自然が牙を剥き、穀物が枯れ果て、国が滅びてもお構いなしにどこかで静観している。ソレが当たり前だと気にも留めない。つまり、戦が起きようと知らぬ顔である。そうして滅びた国は数多と知れず。人の世に関与しない、あくまでも主は人が生きる世界を創造しただけであり、滅びようがどうでもいいのだろう。人が知る由もない、戯れだ。
広大な世界で唯一地上から伸びる巨大な塔。万が一塔が倒れればこの世界は滅ぶだろう、そう思える程の巨大な塔だ。人の手で作るにも無理がある。幾ら見上げようとも頂上が見えず、また、雲を突き抜けた先にある国に名は無い。地上で裁きを下さずに主に裁きを問う為に創られた法廷。
今宵も人々は問う「何が善か悪か」
主は溢す「等しいのは善と悪のみ」
被告人は答える「この世に神など存在しない」と。
瞬間、神は世界を飽きた玩具を捨てるように、人間と悍ましい怪奇を残して消えた。
◆
《墟狼衆第三拠点》
怪奇を研究している組織の中で、最も死者の多い拠点としてまことしやかに囁かれる噂がある。辺境の地に建てられた塔、その中には化け物がいるというのだ。夜ごと響き渡る悲鳴、そして不気味な風がどこからともなく灰を運んでくる。これは、悍ましい呪いのようだ。時には薄気味悪い足音が背後に迫り、振り返るとその姿は煙となって消えてしまう。
――怪奇が領域の外へと出てしまったのではないか。
例え天才と秀才が共存していても、曰く付きの拠点への配属を希望する研究者は一人もいない。そのため、墟狼衆第三拠点は廃墟とも呼ばれ、忌避されているのだ。
「杏眠、本部から報告書の催促が届いてる」
「うん、知ってる」
墟狼衆第三拠点の杏眠は、背後から声をかけた鵜紺に目もくれず応じた。机の上には既に山のように積み上げられた通達書や警告書が横たわっており、日に日にその厚さは増しているようだった。直接押しかけてこない辺り、本部も手が回っていないのだろう。
鵜紺は、適当に通達書を机に置いた。
「あー! もう! 大人しくしてろよ!」
第彼らが研究対象としている怪奇が妙な動きを見せ始めたのは、丁度一週間前のことだった。怪奇の領域が歪み始めたのは、三日前の出来事だ。
「俺たちは怪奇の研究をしているのであって、仕人ではないっての!」
怪奇を祓うために生まれた存在、それが仕人だ。彼らは様々な宗派に分かれ、各地に存在する組織的存在であり、特別な力を持って、消えた主に代わって怪奇と現世の境界線を守り続けている。世界に蔓延る怪奇を祓うのは彼らの仕事だ。墟狼衆の拠点には数人の仕人が所属しているというのに、第三拠点にはその影すら存在しない。支障がないとは言えないが、天才と秀才がいれば、心力を使わずともこの程度の問題は凌ぐことが可能だった。
「見ろよ。また領域が移動を始めてる」
「また? 昨日だって移動したばかりじゃないか」
追跡装置が反応し、位置を示す札が不規則に揺れて鵜紺が頭を抱える。
「次は一体何処に向かうつもりだ……」
怪奇の領域と現世は交わることなく存在しており、唯一仕人だけがその境界を越えることができる。万が一、移動を続ける怪奇に仕人が遭遇でもしたら――それは最悪の事態だ。怪奇が祓われてしまう可能性がある。
早く移動が終わることを願っていると、繰り返し揺れていた札がぴたりと止まった。
地図上に赤く丸がつけられた場所の一つ。
――墟狼衆の第一拠点だ。
「終わった」
「終わったな」
間違いなく第一拠点の上で静止している札に対して、「よりにもよって何故そこに」と二人揃って項垂れた。第一拠点には墟狼衆の本部も設置されている。仕人だって多い。
廃墟と呼ばれている第三拠点と違って、第一拠点には研究者が多く在籍している。勿論、怪奇についての研究だ。各拠点に張られている陣に触れたら、一瞬で気付かれるに違いない。
「あー、頼む。頼むから戻ってこい……!」
未だに目の前に札が残っているのは、祓われていない証拠だ。怪奇に対して「戻ってこい」と願うのはおかしな話だが、二人にとってはかけがえのない研究対象である。領域を追跡するための仕組みを作り上げるために苦労を重ねたのに、その成果が一瞬で水の泡になる恐怖と戦いながら、杏眠は両手を合わせて札を見つめていると、再び札が揺れ始めた。ぐるりと第一拠点を一周し、ゆっくりと移動する怪奇に対して「いい加減にしろ!」と叫びたくなる。まるで反抗期の子供を叱っているような感覚を鵜紺は覚えた。
その後、きちんと元の場所に収まった怪奇に胸を撫で下ろし、杏眠は椅子にどかりと座り込む。領域の歪みが広がっている様子はない。しかし、明らかに普通ではない。
「中を確かめた方が良いかもしれないな」
「うげぇ……この辺を通る仕人なんて早々見つからないぞ」
追跡装置を開発したのは二人だが、実際に立ち入るとなると話は別だ。実際に設置した時も仕人が同行しているおかげで、後遺症もなくぴんぴんしている。しかし、彼らは研究者であり、仕人ではない。怪奇を祓う心力も持ち合わせていないのだ。喰われて消滅するのが目に見えている。
そもそも、仕人と墟狼衆は持ちつ持たれつの関係のはずだ。しかし、第三拠点にはそんな待遇は存在せず、二人がいる拠点は人里離れた場所。人が通ること自体が珍しい立地であるため、期待できるはずもない。
「杏眠?」
「義姉さんに文を出す」
「……冽様か。確かにあの人なら伝手があるだろうな」
「うん」
乱雑に放り出されていた通達書を退けて、杏眠は筆を執る。
「でもいいのか。冽様に文を出せば首領に状況が伝わるかもしれない」
「大丈夫だ。義姉さんはそんなことしない」
疑うことを知らない言い方だが、冽が杏眠を溺愛しているのは真実だ。義姉でありながらも、二人は非常に仲が良い。要らぬ噂が立たないように、お互いの立場上、表向きでは研究者と指揮官を装っている。墟狼衆の中で真実を知るのは、同僚である鵜紺だけだった。
「夕方には返事が来る。流石に今日はまともな飯にありつきたい」
「同感。川に魚でも獲りに行くか」
「籠を持ってくる。用意しといてくれ」
「了解」
杏眠は持ち運び用の札を手にして、研究室の扉を厳重に施錠する。二人以外が扉に触れた瞬間に吹き飛ぶ仕組みであり、中にある研究結果たちも道連れになるだろう。それだけの対策をしても、忍び込もうとする馬鹿な人間は存在するもので、そろそろ正門に警告でも出そうかと思っている。研究資料が何度も吹き飛び、その度に頭の中をほじくり出して研究を再開する鬱憤は凄まじい。
丁寧に畳まれた鵜紺の外套を抱えて外に出る。
「今年も咲いたか」
季節外れに咲く梅。愛らしい白色の花が枝を揺らし、まるで手を振っているかのようだ。
第三拠点に鵜紺が訪れてから早くも二年が過ぎた。初めは、第三拠点も二人だけではなく、人の笑い声が絶えないほど賑やかだったのだ。とある事件をきっかけに研究者たちは去り、三年目のある日――ついに杏眠は独りとなった。杏眠には彼らを引き止める理由がなく、一人また一人と背中を見送るだけだった。彼も笑顔で友の旅立ちを応援した。勿論、杏眠にも異動の話は持ちかけられた。組織的には第三拠点をなくす方針だったのだろう。たった一人のために割く資金はない。提案された都合の良い条件に杏眠は上層部が何を考えていたのかすぐに勘付き、差し出された昇進や地位を全て溝に捨てた。
昔からその類に興味はなく、独りを選んだ訳なのだが――。
「行こう」
「うん」
二年前、第一拠点で研究を続けていた鵜紺は、自らの意思で第三拠点への配属を希望し、周囲を騒然とさせた。第一拠点の研究はほとんど鵜紺が主導しており、上層部にも従順な研究者として知られていたからだ。彼がわずかな荷物を抱え、第三拠点にやって来たときの、あの輝く瞳は今も杏眠の記憶に鮮やかに残っている。
「日が昇ってきたな」
杏眠は昇り始めた太陽を見上げ、眩しそうに目を細める。
「少しずつ気温も上がってるし、衣替えもしないと。去年見繕った薄手の羽織、今年も活躍してくれるかな」
「あれだけ高かったんだ。今年も働いてもらわないとな」
曇り空から太陽が顔を出すのが心地良く、風も清々しい。やや気温は低いが、日差しの下を歩いていれば自然と体温も上がり、外套は小脇に抱えて役目を終える。
獣道を進み、山を下りると、すぐに目的の川が見えてくる。自然が作り出した小川の一角に仕掛けていた網を手繰り寄せると、水の抵抗とは別の重みを感じた。網を持ち上げると、そこにはちょうど腹を満たせそうな大きさの魚が二匹入っている。杏眠はその姿に、思わず涎が出そうになった。
「焼き魚にしよう!」
「じゃあ山菜も少し欲しいな」
料理が苦手な杏眠の代わりに、鵜紺が献立を考える。魚のあらを出汁にし、庭で採れた新鮮な白菜を甘みが出るまで煮込んだお吸い物も良さそうだ。三日間饅頭ばかり食べていたせいか、どうにも塩気のあるものが欲しい気分である。
献立を思い描きながら進むと、杏眠は獣道を外れて山の斜面を駆け上がっていく。
「気を付けろよー」
「わかってるー!」
杏眠は軽快な足取りで山菜を摘み取っている。昨夜の小雨で湿った土が彼の手を泥だらけにしているが、本人はどこか楽しそうだ。しかし、その泥を洗濯するのは苦い顔をしている鵜紺だ。天才と恐れられる男が、汗を拭い、泥に染まりながら山を駆け上がる姿は、子供のような無邪気さに満ちている。その様子に鵜紺は小さく嘲笑した。
「鵜紺ー、これって食えるのか?」
「幻聴に幻覚が付いてくるけど……まあ、味はそこそこ。昔は戦に行く時には必ず持って行ったらしい」
「へぇ」
「痛みに苦しむよりも自らの意思で死ねた方が良いってことだな。大量に食べなければ死には至らない。少し眠たくなるぐらいで薬としても扱われてる」
杏眠は鵜紺の説明を聞きながら、毒々しい色をした木の実を巾着袋にしまい、再び鵜紺の隣に戻ってくる。裾も袖も茶色く汚れている彼を見て、鵜紺は山菜を預かりながら、頬についた泥を優しく拭い取ってやる。柔らかくまとめられた髪はあちこちに跳ねて、微風に乗る香りが鵜紺の鼻を掠めた。
杏眠から漂う香りは、かつて鵜紺が故郷で嗅いだ春の陽だまりの匂いに似ている。二人が肩を並べると、その匂いが一層濃くなり、まるで春が過ぎ去るように鼻先を抜けていく。
土で汚れた手を洗い、拠点に戻ると、鵜紺が炊事場で腰を屈めて薪を焚べている。杏眠は手袋を洗いながら、鵜紺に声をかけた。
「なぁ、鵜紺」
普段は頭一つ分高い鵜紺の隣にしゃがみ込み、大きな瞳で覗き込む。
「俺と研究してて楽しいか?」
「……魚を捌くよりは楽しんでる」
鵜紺は器用に魚の腸を取り除きながら、さらりと答える。
「けどさ、殆ど俺の研究に付き合わされてる。他の拠点ならもっと別の研究もできるし、待遇だっていいんだ。二年経ったし、そろそろ他を見てもいい頃合いだと思う」
その問いに鵜紺は少し間を置いた。
「鵜紺は第一拠点にいただろ」
俺は第三拠点にずっといるから外のことはよくわからないけど、と杏眠は耳飾りに触れながら言い難そうにしている。
「初めに消えた一人は第一拠点から異動してきた先輩で、ここの責任者だった」
鵜紺は杏眠の言葉を遮らずに手を止めた。
言い詰まったりして言葉が途切れても、耳を傾け続ける。
「その次に消えた人も、第一拠点の人間だ」
その話はすべて、鵜紺も杏眠の作成した報告書で目にしている内容だった。だが、本部で俯き加減に説明する杏眠の姿を、鵜紺は遠巻きに見守っていた。
「これは提案だけど……お前は第三拠点から離れた方が良い」
しっかりと施錠したはずの研究室に、第三者が触れた痕跡が残っていたのだ。衝撃を受けると赤色に変わる粉を扉の前に敷いておいたが、そこには二人分の足跡が不自然に途切れている。おそらく犯人も気づいて、跡を乱暴に拭ったのだろうと鵜紺は推測していた。
「宝乱石関係か」
――宝乱石
怪奇から姿や気配を隠すことができる。
石同士は共鳴し、互いの存在を知らせ、距離に応じて強く輝く。第三拠点に存在する不可思議な石だ。
「取り敢えずさ、飯でも食いながら話そう」
腹が減っていては思考も鈍るというものだ。くたくたに煮込まれて形を崩した白菜を摘まみながら、二人は向かい合って薄暗い部屋で食事を始めた。
「美味い」
甘めの副菜は杏眠が好む味だ。香ばしい焼き魚も淡白ながらほろほろと身が崩れ、口の中で優しい風味を残していく。杏眠の好き嫌いが多いため、料理の腕を磨いた鵜紺は、もはや料理人並みの腕前に達している。
「さっきの話しだけど」
「……第一拠点には絶対戻らない」
「まず話を聞けよ。……さっき本部からの文書に目を通したんだ。昨夜、第五拠点で死者が出た。しかも、その遺体がかなり妙な状態らしい」
「妙な状態?」
「詳細は書かれていなかったが、とにかく責任者が急にいなくなったんだ。で、本部の人間が、第一拠点で責任者経験のあるお前を引き抜きたいらしい」
「嫌だ。第五拠点なんて谷底にあるんだぞ? 太陽の光もろくに届かない。そんな場所で生活なんて無理だ。それに、俺がここを離れたら領域はどうする? 宝乱石だってここにあるんだぞ」
「……それは」
罰の悪そうな顔をする杏眠に鵜紺は溜息を吐いた。どうやら適当な言い訳も出てこないらしい。
何も言わないまま無言の空気が辺りを包む。
「おい、文を寄越せ。俺が返事を書く」
鵜紺は文を手に取り、席を立つと研究室に向かい、あまり墨も付けずに短い返事を書き入れた。
「この話はもうするな」
「……うん」
杏眠は小さく頷き、箸を止めて申し訳なさそうに鵜紺を見つめた。だが鵜紺が見せる不機嫌な顔色に耐えかねたのか、杏眠は重い口を開いた
「義姉さんにはもう伝えてあるんだ」
「は?」
驚いた鵜紺の手から、持っていた白菜がぼとりと膝に落ちた。
「第五拠点の件も含めて、義姉さんが仕人と一緒に明日来るって」
その夜、鵜紺はなかなか寝付けなかった。隣で呑気に寝息を立てている杏眠の鼻を摘んだのは、彼だけの秘密だ。
◆
「久しいな、杏眠」
「はい!」
吊り上がった目尻が特徴的な冽を見つけた杏眠は、一目散に駆け寄って嬉しそうに応えた。同行していた仕人は既に領域内に足を踏み入れ、姿は見えない。
「鵜紺も元気でやってるみたいだな」
「はい、冽様。お陰様で不自由なくやっています」
「杏眠が我儘を言っていないか?」
まるで義姉ではなく母親のようだ。
幼少期に母を亡くした杏眠にとって、冽は母のような、そして姉のような存在なのだろう。鵜紺が「変わりありません」と答えると、冽は「それなら……相変わらずわがままってことか」とほくそ笑むので、鵜紺は肩を竦めてそれを肯定した。
「次に来た時には職人に作らせた簪をやろう」
「いえ! 窮屈なのでいりません! 簪は一つあれば十分ですから」
ここのやり取りも毎度のことだ。
好き勝手に跳ね回る髪を纏めるために、杏眠は質素な簪を使っているが、冽にとっては幼い顔に似合っていないらしい。職人に作らせた一級品を贈りたがるが、杏眠はそのたびに断るのだ。簪が質屋で売れればとんでもない値になるのに、と思いながら鵜紺は欠伸を噛み殺した。
「冽」
「どうだ、何かわかったか?」
「そうだなぁ」
「はっきりとしろ、鬱陶しい」
「じっとしているだけでこちらに反応もない。領域に入っても危害を加えてこない怪奇なんて、初めてだ」
仕人は、慎重に言葉を選んで説明を続けた。真っ暗な暗闇の中に、無数の海月がゆらゆらと漂っているという。
「それで?」
怪奇は領域に立ち入ったモノに対して無差別に精神を壊しにかかる。それなのに海月は優雅に泳ぎ続けて見向きもしない。侵入者を認知していないのか、はたまた興味がないのか。初めてだと仕人は首を横に振った。
「やけに領域が静かすぎるなぁ……息を潜めているみたいだ」
怪奇は領域に入った者へ無差別に精神攻撃を仕掛けるものだ。それなのに、海月たちはただ優雅に泳ぎ続け、侵入者を認知している様子がない。仕人は、これまでにない異常な静けさを感じると話し、また口を閉ざした。
杏眠と鵜紺は顔を見合わせ、眉間に皺を寄せた。宝乱石は領域内にあり、追跡装置によって位置が確認できるはずなのに、海月以外には何も見つからなかったという。
「ご苦労。依頼金はこれで足りるな?」
冽が手渡した大きな風呂敷を受け取った仕人は、去り際に杏眠の簪を見て目を細めた。
「お兄さんや、いい簪だね。……よく似合ってる」
悪戯っぽい口調で言われ、杏眠はきょとんとしながらも「ありがとう」と素直に頷いた。
「珍しい品だよ。大切にしな」
満足そうに微笑んだ仕人は、最後に梅の花をそっと撫で、第三拠点を後にした。顔は外套に深く隠れていたが、悪い人間には見えない。その軽い振る舞いに冽も慣れているようで、手を軽く振って別れを告げた。
「ひとまず異常が無いなら大丈夫です」
「また何かあれば連絡を寄越せ」
「はい、ありがとうございます」
最後に黒い封筒を取り出し、冽はそれを杏眠に手渡した。
「首領からだ」
「……はぁ」
重くため息をつく杏眠に、冽はさらに言葉を重ねた。
「杏眠、お前の立場は思ったより危うい。研究を続けたいなら、早急に報告書を作成して提出しろ」
第三拠点から長らく報告書が上がっていないことは全拠点が知っている。まともな成果もないまま研究を続ける意義があるのか――首領直々の警告だ。冽も苦々しい表情を浮かべ、杏眠が意固地な性格であることを理解しているからこそ、釘を刺すしかなかった。
「第五拠点の件は私の方から断りを入れた。予め言っておくが、私情は挟んでいない。あくまで私の決断だ」
「……はい」
「悟られないように上手くやれ」
冽を麓の村まで送った後、杏眠と鵜紺はすぐに研究室へと戻った。もし冽が聞いていれば雷を落とすだろうほどの足音を立て、道中で空き箱を蹴り飛ばしても気にしない。
「なあ、あの仕人、偽物なんじゃないか?」
「宝乱石を見つけられないなんてあり得ないだろ? ほら、追跡装置も領域内の石を感知してる」
鵜紺の言う通り、研究室の追跡装置はかすかに光を放ち、領域の位置を指し示している。二人は首を傾げて考え込んだ。
「やっぱり偽物?」
「冽様がそんなことを見抜けないわけが……」
「ないよなぁ」
「ないな」
冽はずば抜けて聡明な人間だ。もし仕人が偽物なら、冽が見逃すはずがない。昔からの顔見知りだろうし、領域が静かなのなら一先ず安心だ。だが、杏眠と鵜紺の心を重くするのは首領からの警告だった。
二つ折りの封書を開けば、案の定、研究成果の報告を催促する内容が書かれている。
杏眠は自分の立場が危ういことをとっくに承知していた。鵜紺は第一拠点の出身であるため、ある程度は大目に見られているが、杏眠はそうではない。簡潔に言えば――今すぐ本部で会議にて報告せよ、さもなくば第三拠点は解散、という内容だ。
杏眠にとって第三拠点を追われるのは困る。鵜紺も同じだ。第一拠点に戻れば面倒な案件が舞い込むのは目に見えている。第三拠点の気楽な空気を気に入っている鵜紺は、半ば辞表を叩きつける形で異動してきた手前、戻る気など全くない。
二人はお互いの肩を軽く叩き合い、泣く泣く身支度を整えて本部へ向かうことにした。
《墟狼衆第一拠点 兼 本部》
門番に身分証明書を見せると、疑われた上で二度見された。鵜紺は、ここから久しく足を踏み入れていなかったことを思い出し、首領からの文を見せると、門番は青ざめた顔で扉を開け、その場から退いた。
鵜紺にとっては久しぶりの古巣である。拠点の中は非常に煌びやかで、所狭しと資料や図鑑、各地からの報告書が美しく整理整頓されている。
――天才はいいよな、努力なんてしなくてもいいから。
――知ってるか? 第三拠点は杏眠の研究のせいで祟られてるって話。
――ああ、聞いた話によると、陰では怪奇を操る術を研究してるんだろ?
――人殺しだ
――秀才の鵜紺も地に落ちたよなぁ
耳障りな声が遠巻きに聞こえる中、鵜紺は美しい髪を靡かせて歩き、隣を行く杏眠に目をやる。彼とは違う天才である彼に対し、世間では「天才と秀才は相容れない」と評するが、あながち間違いでもないと鵜紺は思っている。二人に向けられる真実の見えない噂は、絶えず耳に入ってくる。
「馬鹿馬鹿しい」
鵜紺は鼻で笑った。
「気にするだけ無駄だってば」
杏眠は陰口などに慣れているのか、少しも俯くことなく、いつも通りの軽い足取りで歩いている。表情は凛として、何者にも屈しない強い意志がその目に爛々と輝いていた。小柄な身体とは裏腹に、堂々とした背中だった。
鵜紺が広間の人々に視線を滑らせると、親しい男――清が目に入った。眉間に深く刻まれた皺が不機嫌さを物語っている。このままいけば、あと少しで盛大な舌打ちが聞こえそうだ。清は見世物になっている鵜紺と杏眠を見て、米神を揉みながら「早く行け」と口を動かす。冷たい態度ではあるが、鵜紺は清が不器用ながらも心配してくれているのを知っているため、軽く目配せをして礼を返した。
広間を進むにつれて陰口も増えていく。
――秀才は天才に届かないのに、哀れだな。
確かに、鵜紺は杏眠のように天から与えられた才能はないと自覚している。努力し、吸収し、磨き続けなければ、己はただの石ころと同じ存在だろう。
「変死体の話、聞いたか?」
「おい! ここで話すのはよせ! 誰が聞いているかわからないんだぞ!」
鵜紺は第五拠点の事件にすら、第三拠点が絡んでいるという噂を耳にし、密かに舌打ちする。
「なんで第三拠点を解体しないのか不思議だ」
「そりやぁ……天才と秀才がいる場所は特別視されるからだろ」
「はっ。俺とは違って良いご身分だな」
どこにいても、人は他者と比較したがるものらしい。だが、鵜紺にとっては「天才」も「秀才」も単なるちっぽけな命に過ぎない。世界に散らばる命に重さの違いはない。人が人を区別するための肩書きにすぎず、大した意味を持たない――それが、鵜紺の答えだった。
「超貧乏拠点なのに」
杏眠がぼそっと呟くと、鵜紺は笑いを堪えきれなかった。
「そうなると超貧乏拠点に異動申請を出した俺は超が付く変わり者か」
「ははは。なぁ、第三拠点を選んだ理由はいつ教えてくれるんだ?」
「秘密」
「けち!」
杏眠はたまに鵜紺の異動理由を聞きたがるようで、ふとした時に尋ねてくる。
「お前は知らなくていいんだよ」
「はぁ……いつか教えてくれよ?」
「気が向いたらな」
だが、きっとその日は来ないだろう。天才たる者、常に答えを出し続ける責務がある――首領の口癖だ。しかし、それは鵜紺が何よりも嫌う言葉だった。
「はぁ、早く帰りたい。ここは息が詰まって苦手だ」
杏眠は呑気に頭の後ろで手を組み、背伸びをしている。緊張感などないらしい。
鵜紺が第三拠点へ異動を願い出た理由は単純で、身勝手なものだった。杏眠はその理由を知らない。どれだけ尋ねられても話したことはないのだから当然だ。
天才は己の才能に殺される――それが幼い頃、母が口酸っぱく言って聞かせた言葉だった。鵜紺の父は才能に満ち溢れた学者で、正に天才と崇められた人物だったが、ある日忽然と姿を消した。帰らぬ夫に、母は恨み、嫉み、そして僻み、次第に衰弱していった。母は天才とは人の心に興味がなく、才能に殺されるものだと語り、笑いながら最期を迎えた。鵜紺はその手を握り、看病を続けたが、母は答えを確かめる前に逝き、鵜紺もまた父と母のいない故郷を捨てた。
天才は本当に才能に殺されるのだろうか。宝乱石の話を聞いた時、確かに驚いたが、まぁ天才ならそれくらいやるだろうと潔く納得し、研究に手を貸すことにした。天才の行く末を見届けることで、自ずと答えが手に入ると信じていた。
だが、鵜紺はその答えを自ら手に入れてしまった。
答えを知ってしまった鵜紺は、春の匂いから離れられずにいる。
「……予想外だよなぁ」
「何か言った?」
「別に。ほら、席に着くぞ」
第五拠点を除く全ての責任者が出揃った。
見慣れた顔ぶれの中に、ひときわ目立つ栗色の髪を持つ青年が混じっている。どこの拠点から来た者だろうか。まだ二十歳にも満たない、あどけない顔立ちだ。杏眠も見覚えがないのか、首を振っている。
「ただいまより緊急会議を始める」
主に会議は第五拠点の話に終始する。首領と側近が報告書を読み上げ、それに対して時折責任者たちが口を挟む形で進んでいく。途中、第一拠点の責任者が鋭い棘を含んだ視線を鵜紺に投げるが、鵜紺はにこやかに笑い、軽やかに受け流した。彼には、昔から嫌味の多い人間への対応には慣れている。。
「第五拠点で発見された変死体は内密に研究を行う。一言たりとも外部に漏らすことは許さぬ」
「次に第三拠点の報告に移ります」
「はい」
ここからは鵜紺の番だ。適当に作成した報告書を、あくまでも涼しい顔で淡々と読み上げていく。
「皆様もご存じの通り、第三拠点は現在、後処理に追われております。そうです、ひと月前に拠点が大爆発を起こしましたので……ええ、毎度お騒がせして申し訳ありません。はい、第四拠点に塔の屋根が飛んでいったのもこの爆発です。驚くほどの飛距離で、こちらも吹き抜けの天井に凍える日々を過ごしておりまして……すみません、話が逸れました。報告が滞ったのは、紙屑になった研究書をまとめる作業に追われているためです。取り急ぎ、ご報告できる内容を申し上げます」
棒読みにも近い抑揚のない音読に、杏眠は苦笑を浮かべる。報告書の内容には杏眠も目を通し、責任者として承認しているが、予想以上の淡白な読み上げに思わず天を仰ぐ。
「鵜紺。お前が異動して二年の月日が経った。他の拠点で研究を続ける気はないか?」
報告を聞き終えた首領が、最後の質問だと言わんばかりに口を開く。
「第五拠点の責任者が消えた今、お前にしか頼めない話だ。今よりもずっと良い生活になるはずだ」
「必要ありません」
鵜紺はきっぱりと断った。古巣で掴んだ成果を惜しみなく提供したことで、第三拠点の研究は日に日に加速している。多くを語らずとも研究に対する知識が共有され、箇条書きにした単語で問題点が伝わり、記された図で改善の余地が見出されていく。鵜紺はさらに、故郷で使われている異国の言葉さえも杏眠に教えていた。
杏眠が不慣れにその異国の言葉を口にする様子は、鵜紺にとって、読み書きを教えてくれた父の姿を思い起こさせた。やがてそれは二人の間での日常となり、梅の花が咲くのを楽しみにする仲間となり、肩を並べて歩く友人となり、同じ時を生きる戦友ともなっていった。
時には些細なことで喧嘩をして口を利かなかったり、宝乱石を用いた追跡装置を作り上げたときには、夜更けまで酒を酌み交わし、酔いに任せて心の内を語り合うこともあった。杏眠が笑えば、鵜紺も笑う。二人だけの廃墟は、幸せな箱庭として存在していた。
――そのはずだったのに。
しかし、幸せな日々は続かない。
「鵜紺。お前は答えを見誤った」
首領が拳を机に叩きつけ、鵜紺と杏眠を厳しい眼差しで睨みつける。
「本日より第三拠点を墟狼衆の特別監視対象とする!」
「……承知しました」
杏眠は責任者として立ち上がり、首領へ向けて丁寧に拱手を示した。
おそらく、この結末は予想していたのだろう。表情一つ変えることなく、前を向いている。
「首領の判断に従います」
嵌められた、と言うには些かくだらない方法だが各責任者が集っているこの場では従うしかないだろう。
鵜紺は切れ長の目をさらに細め、どっしりと太った首領を静かに見つめた。
「研究対象に不穏な動きがあるのを探知した。もし隠しごとがあるならば、早めに報告せよ。後ろめたいことがないならば、それでよい」
――嗚呼、心底くだらない。お前たちが欲しているのは“天才”の答えだろうに。
◆
見張りが常駐するようになり、二人の研究室は穏やかだった箱庭から、まるで牢獄のような閉塞感に包まれていった。監視の厳しい目が行き届く中、以前のように自由に研究を進めることは難しく、領域の移動が起こってもそれを活かすことができない日々が続く。さらに、追跡装置に用いる宝乱石にも監視の目がつき、唯一の希望だった隠し部屋を確認することも叶わなかった。時折、怯える見張りたちが罵声を浴びせてくることもあり、鵜紺はその度に薄ら笑いを浮かべて彼らを軽くあしらっていたが、そんな彼を杏眠は少し引いた目で見ていた。
「ただの隙間風ですよ」
冷静に返す鵜紺に、見張りは逆上し、古書や器具に当たり散らすこともあった。その様子に鵜紺は思わず机に小刀を突き刺してしまったが、これが見張りたちの神経を逆撫でしたのは明らかだった。
「いつまで続くんだ」
不穏な動きを繰り返す怪奇が、彼らの心に重くのしかかっていた。監視が入ってから、隠し部屋に置かれた宝乱石は一度も確認できていない。約二週間が経過していた。杏眠と鵜紺の不安を他所に、監視の目は鋭い。彼らは頭を抱えた。
研究室を荒らす真似はしないが、僅かな歪みを見過ごす二人ではない。見張りたちは必死に何かを探しているようだが、無駄であることは明白だった。彼らは鵜紺を利用したい様子だが、諦めた方が身のためだ。この男は品の良い容姿とは裏腹に、すこぶる育ちが悪く、なおかつ腕っ節も強い。
それ以前に、隠し部屋を開く扉の鍵は杏眠が隠し持っているし、鵜紺を拷問しても何も得られない。鵜紺は部屋の存在を知っているが、扉の先に足を踏み入れたことはなく、そもそも鍵の場所さえ知らない。扉の前で待つのは鵜紺で、定期確認に行くのは杏眠だと決まっていた。
徐々に研究室の空気は嫌な方向へと変わり始めた。墟狼衆の天才と秀才に敵うはずもなく、四六時中小規模の爆発を繰り返す研究室にいれば、自然と気が狂うだろう。聞いたこともない言葉で会話を交わし、見たことのない文字で研究内容を書き留め、不気味な液体を躊躇いなく混ぜ、やたらと鉱石を砕き始める。正直言って、常人には理解できない光景だ。既に二名が離脱しており、補充はない。
与えられた月日がねっとりと過ぎていく。気が滅入っているのは見張りだけではなく、杏眠と鵜紺も同様だった。第三拠点は宝乱石の存在を隠し、未だにありきたりの報告を上げ続けている。ついに首領は我慢の限界らしく、そのどっぷりと蓄えられた脂肪を抱えて、最も遠い拠点で身を潜めていた冽を呼び出したようだ。
第一拠点の清から届いた密書で、二人はこのことを知った。身内の危機を察した冽は、立場を顧みずに第三拠点を庇ったらしい。それが逆鱗に触れたようで、苛立ちを抑えきれずに机の上にあった酒を薙ぎ倒し、冽に怒鳴る。場にいた清も慌てて筆を執ったに違いない。嫌な匂いは密書にも染みついている。
「義姉さん……」
走り書きで記された単語は、冽と杏眠の心を抉るものだった。その後少し時間を置いて冽からも文が届く。こちらは正式な手順を踏んだ、毎月開催される定例会の知らせだ。
翌朝、杏眠と鵜紺は冽の置かれている状況を悪化させないためにも、重たい足を運んだ。長丁場の定例会が終わり、第三拠点に戻る道中、麓の村に立ち寄ろうとした二人は清に呼び止められた。
「馬鹿野郎! 急げ!」
「清?」
「本部が動いた!」
長距離を走り抜けてきた清は息を切らして鵜紺に馬の手綱を握らせる。
「拠点が危ない!」
切羽詰まった清の声色に、鵜紺は迷わず杏眠を抱き上げて馬に乗せる。そして自らもすぐさま後ろに飛び乗り、手慣れた様子で馬を操り山道を一直線に走らせた。しかし、一歩遅かったようだ。
二人の目に入ったのは、無惨にも崩れかけた研究室だった。建物自体に大きな損傷がないのは不幸中の幸いだろうか、鵜紺はそう思うしかなかった。
「それにしても思い切ったなぁ……」
呆気に取られて首の後ろを掻く鵜紺とは裏腹に、杏眠の怒りは加速していく。辛うじて研究室までの通路は繋がっていた。所々木の破片が落ちている。壊れて外れてしまった扉の残骸を避けて進むと、最も目につく場所に置いてあった追跡用の装置が消えている。
「やりやがった!」
瓦礫をひっくり返しても、宝乱石の埋め込まれた札はどこにも見当たらない。地図だけが残されており、部屋の中は嵐が通った後の静けさを取り戻していた。
二人が拠点を留守にする間、見張りの人間も一時的に離れる約束だ。しかし、この僅かな時間で研究室を荒らすことができるのは限られた人物しかいない。更に面倒なのは、彼らが首領の手下であることで、訴えを上げればそれは首領への反抗と同義になる。
「最悪の事態だ……追求から逃れられないぞ」
全てが滅茶苦茶だ。杏眠は頭を抱えた。――こんなはずではなかったのに。
日が暮れ、辺りが夜に包まれるまで、二人は言葉を交わすことなく瓦礫の片付けに追われた。他にも大きな損傷がないか確かめつつ、心許ない灯りを頼りに研究資料を外に放り投げ、先の見えない瓦礫に項垂れた。
そんな最悪の夜にとどめを刺すかのように、慌ただしい音が遠くから聞こえてくる。馬の蹄が地面を抉っている音だ。鵜紺が目を細めて確認すると、夜道にぽつりと動く複数の火の玉。それは規則正しく動く人の持つ灯りだった。
杏眠も気づいたらしい。
「何を言われても我慢しろ」
鵜紺は今にも殴りかかりそうな杏眠に言い聞かせた。馬車に乗って首領が訪れた時、鵜紺は穏やかな笑顔で「こんばんは」「生憎、この様な状態でして」「お茶の一つさえご用意できません」と遠巻きに帰れ、そう伝えてみるが、もちろん無駄に終わる。
杏眠は諦めたのか、空に浮かぶ星を数えていた。目は虚ろだった。
鬱陶しい視線が至る所から向けられ、畏怖をはるかに超えた感情が胸に迫る。いっそのこと「人殺し」と罵られた方が、踏ん切りがつくだろう。過去を振り返って懺悔するのも億劫で、首領の声が止むのをただ待つしかなかった。
「杏眠、お前の研究で我が国は戦に勝つことが出来る。そうすれば研究の規模も広がるに違いない……!」
わずか半刻で感じたこと。杏眠は生まれて初めて人を憎み、それ以上に己を憎んだ。たったそれだけだ。
「噂は本当だったんだ」
「怪奇を操るってやつか?」
「そうだよ! お前達も思ってただろ? 天才は常人には理解できないことをするって! ……まさか戦に利用するとは思ってもいなかったけど」
湿った風が吹く中、首領が去った第三拠点で、静まり返った夜道から聞こえてきた話し声に、杏眠は驚きを隠せず、鵜紺を見た。
「どの噂だ? 宝乱石の噂なんて聞いたことがない」
「噂ってのは姿形を変えることだってある。……第一拠点にいた時から、ここの噂は絶えず流れてきた。まぁ、お前は知らないだろうけど」
淡々と話す鵜紺の顔に影が落ちる。異動する二年前でさえ、宝乱石を彷彿とさせる噂話が流れていた。
「教えろよ!」
杏眠は何故秘密にしていたのか理解できず、鵜紺に食いついた。
「隠し部屋の噂か? それとも怪奇を操る噂か? 俺が聞いたところで、隠し部屋の秘密をお前は語らないだろう。何も知らない俺にできることは第一拠点で噂を揉み消すことだけだ」
「……いつからだ」
「覚えてない。ただ直感的に……第三拠点を守るにはそうするしかないと思った」
古巣の第一拠点。鵜紺は可能な限り噂を揉み消し続けていた。どれだけ第一拠点が嫌いでも、陰ながら出来る限りのことをした。しかし、湯水の如く湧いて出る噂を途切れさせようとしても無駄だった。協力してくれていた清も、これ以上は無理だと匙を投げたのだ。第一拠点だけではなく、墟狼衆に知れ渡るのは時間の問題だろう。
「杏眠。俺たちは所詮ただの研究者だ。勿論、首領の行動は間違えている。戦なんて……人を不幸にするだけだ。人は歴史から何も学ばない。それでも宝乱石の存在が知られた今、俺たちがやるべきことはまだある」
鵜紺が杏眠の肩を掴んで言い聞かせると、杏眠はこくりと頷いた。
「杏眠!」
騒動を聞きつけた冽が馬を走らせて拠点へと降り立つ。冽の切羽詰まる顔色は杏眠の無事を確認したことで落ち着いたが、額に浮かぶ汗は首まで伝っていた。
「すまない、私としたことが……迂闊だった」
「違うよ義姉さん。貴女のせいじゃない」
研究室の天井は今にも崩れ落ちそうで、不安定だ。これでは罠も仕掛けられない。見るからに剥き出しになった隠し部屋の扉は、格好の餌だった。
「……燃やそう。何もかも、無かったことにするんだ」
もっと早くそうするべきだったと杏眠は歯を食いしばった。様々な苦難を乗り越えて切り開いてきた研究を、自分の手で廃棄する。始めた者が終わりにするべきだと、爆発の影響で汚れを被ったままの扉に触れた。べっとりと指先につく黒い汚れは、侵入者が到達した証拠で、運良く防御の仕掛けが役目を果たしたらしい。染みになる程の血痕が地面を濡らしているのだ。犯人も痛手を負っているだろう。
「半月に一回は爆発する拠点だ。偶然を装って燃やしたところで誰も気にしない」
「何を言ってる! お前の研究が進めば、多くの人が救われる!」
「義姉さん」
「第三拠点は場所を移せばいい」
杏眠の研究した資料があれば、世界は救われるかもしれない。確かに、戦に勝つ装置さえ作り出すこともできるだろう。世界中で飢餓に苦しむ人々を救えるかもしれない。
「お前たちの身の安全は私が守る。拠点を移して研究を続けるべきだ」
冽が訴えるのはごく普通のことだった。
冽が訴えるのはごく普通のことだった。拠点が怪奇によって崩壊することは多々ある。その度に立て直しや移転で研究は継続してきたのだから、今回だってやり直せると言いたいのだろう。
冽が何度も促すが、頑なに杏眠は否定し続ける。
「俺は人を殺す道具は作らない。貴女も分かっているはずでしょう」
「甘えたことを……!」
「義姉さん!」
普段の冽とは思えない言動に、鵜紺は首領が真実を捻じ曲げていると舌打ちした。首領が冽に吹き込んだ話は、都合のいい御伽噺だ。冽にとっては戦に勝つ手段の一つだろうが、杏眠は違う。人を救うための研究が、水面下では命を奪う道具に使われているのだ。
本当ならば、今すぐにでも罵声を浴びせたいだろう。泣き叫びたいだろう。それでも、杏眠は耐える。天才であるが故に、人の心を押し込めているのだ。
「よく聞け、杏眠」
苦しみに表情を歪める杏眠にも気付かず、冽は早口に捲し立てる。戦に勝てば死者も減り、研究も進み、怪奇に脅かされる世界を救う力になると、杏眠に叫び声を押し付けた。
「義姉さん」
人の死を誰よりも悲しむ冽が、首領に誑かされている異常さに、杏眠は悲しげに笑みを溢した。
「人を救うために人を殺すことを……認めるのですか」
杏眠は冽に問いかける。宝乱石の力を過信しているのは誰もが同じだった。鵜紺も第一拠点にいればそう思っていただろう。あれは奇跡の石、希望の石だと。
「頼むよ義姉さん……、惑わされないで」
「愚弟!」
「冽様!」
鵜紺は杏眠と冽の間に割り込み、平手打ちが当たるのを防ぐ。力強く振りかぶられた手のひらは鵜紺の左頬にぶつかり、赤い紅葉を残す。じりじりと痛みが増す頬を気にすることもせず、鵜紺は「お引取りください。今はお互いに話し合いができる状態じゃない」と底冷えした声で告げた。痛みは怒りで吹き飛んでいる。
「部外者は黙っていろ!」
「いいえ。黙りません。杏眠のことを思うならば、冽様はこの場を去るべきです。……今すぐに!」
声を荒げる鵜紺に凄まれた冽は、その気迫に一歩後退する。優しく下がる眉は怒りによって吊り上がり、獲物を狩る眼光を帯びていた。第一拠点にいた時の鵜紺は争いごとを嫌う傾向があったが、誰かを庇うような男ではなかった。
「お願いです」
丁寧な拱手が差し出される。鵜紺に引き下がる気はない。一方的な拱手は冽に対して一刻も早く立ち去れという気持ちを表していた。背後では、まさか最愛の義姉から平手打ちが飛んでくるとは思ってもいなかった杏眠が目を見開き、青ざめている。
実際に痛みを受けたのは鵜紺だが、それ以上に心を痛めたのは杏眠だった。唯一の味方だと思っていた家族から敵視する言葉と視線を向けられたのだから、衝撃は大きかった。
「きちんと考えろ。宝乱石の価値を……お前の才能が必要とされていることを理解しなさい」
背を向けている冽の拳は硬く握られていて、血が滴っていた。握り込んだ爪が肉を切り裂いているのだ。鵜紺にとっては、もうどうでもよかった。早く消えてくれと願った。
怒りに震える背中が見えなくなると、杏眠の荒い呼吸が静寂の中で響く。聞いているこちらが苦しくなるような呼吸だった。。
「杏眠。大丈夫か?」
「あぁ……悪い」
目眩がするのだろう。肩を支えて近くの椅子へと座らせると、杏眠はすとんと力が抜けた。張り詰めた糸が撓むようだった。鵜紺が白湯を持ってきて冷え切った手に持たせると、杏眠はそっと両手で包み込んだ。
「ありがとう」
ゆっくりと時間をかけて飲み込んだ白湯は、少し苦かったようだ。
「痛むか?」
まるで自分が打たれたかのような表情で聞いてくる。その様子に、鵜紺は居た堪れなくなり、杏眠を抱きしめた。杏眠の強張っていた体から、力が抜けていく。
「痛くないさ」
「そっか。それならいい」
杏眠は鵜紺の肩に額を押し付け、短く息を吐いた。
「義姉さんと対立したら、お前の立場まで悪くなる。二度とするな」
「第三拠点に斡旋してくれた恩はとっくに返している」
「違う。また殴られたら困るだろ」
男前が台無しだと、へらりと笑う。杏眠は平静を装っているが、鵜紺の脳裏には、表情がごっそりと抜けた彼の顔が過って剥がれ落ちない。この姉弟は研究者と指揮官として対立したのではない。杏眠は指揮官である義姉に拒絶を示したが、冽は義弟を拒絶したのだ。
鵜紺が唇をキツく噛み締めると、血の味が口に滲んだ。
「黙っていたことがある」
杏眠は共倒れする前に聞いてほしいと呟く。
「……宝乱石の存在を知っているのは、俺達だけじゃない」
ぽつり、ぽつり、語られるのは三年前の真実。
「元々、他の拠点にいた時に偶然生まれたんだ。手に負えなくなった怪奇を仕人が祓いに来て……その人は領域から出ることもなく死んでしまったけど、領域が閉じる前に心力の爆発が起きたみたいで。ぶつかり合った心力と領域の力が一部だけ閉じ込められて形を成して現世に生まれた」
石に囚われた一人の研究者は今まで以上に研究へと没頭した。それが杏眠だ。
「石には不思議な力があった」
割れた花瓶が元に戻ったり、一部の研究者の記憶が消えたり。明らかに領域の負荷による後遺症と似ていた
「でも……気が付けば初めの宝乱石は消えていて……ここにある宝乱石は俺が真似て作った偽物にすぎない」
寝る間も惜しまず、ひたすらに脳を動かした。まさに天才を証明するかのように宝乱石は形を変えて再びこの世に生まれた。
石にある力で後遺症を防ぐことが可能かもしれない。そう考えた杏眠は、幾度も実験を繰り返した。
「あの時はまだ石に希望を持っていたんだ」
かつて第三拠点にいた研究者たちは、石の存在を隠すことを決めた。「危険だ」と口を揃えて叫び、杏眠も最初の頃は全拠点で石を用いて研究を進めるべきだと反抗していた。しかし、石の持つ力を目の当たりにするうちに、彼は考えを改めざるを得なかった。その時には、すでに遅すぎたのだ。
突然、石が暴走し、怪奇を呼び寄せた。初めに命を失ったのは、第三拠点の責任者であった。そして、次は気弱な青年だった。当初は偶然の事故に思えたが、その三日後、被害は拡大し、拠点内部に怪奇が侵入した。そう、領域に飲み込まれてしまったのだ。
その場にいた研究者三名は、仕人の手により救出されたものの、後遺症に苦しみ、数日後には死亡した。後戻りする暇も与えられず、残された研究者たちは隠し部屋を作り、原石を押し込め、各拠点へと散らばった。もちろん、気味が悪いと逃げ出した者もいたが、全員が決して口に出さないと誓い、記憶の奥底に封じ込めた。全員が何かしらの後遺症を抱えており、中には第三拠点の記憶を自ら壊した者もいる。当時の第三拠点は、悪夢よりも酷い世界を目の当たりにしていたのだ。
これ以上の被害を出してはならないと、唯一残った杏眠は原石を破壊する方法を探し続けた。研究者として、己が生み出した過ちを償うべきだと思った。しかし、何をやっても原石そのものは砕け散ることはなく、原石から小さな宝乱石が分裂し、数を増やすばかりだった。原石がやっと手のひらの大きさになったのは、鵜紺が移動して来た頃である。その頃には、小さな宝乱石が山ほど生まれていた。
「第一拠点から異動してきた鵜紺だ。よろしく」
鵜紺は今までの研究者とは違い、群を抜いて優れた知識を持っていた。それこそ杏眠の足りない材料も補ってくれるような存在であった。至るところから情報をかき集め、努力を惜しまずに力に変える。間違いなく秀才である。杏眠は鵜紺を大層好ましく思った。
宝乱石の力に嘘をついて協力を得るのは容易で、杏眠は密かに破壊方法を研究し続けていた。彼は嘘をつき続けた。
「お前を利用していたんだ。こんな事になったのも、全部俺のせいで……」
胸の奥を打ち明けた杏眠は、俯いたままでいた。
「それなのに、怖いんだ」
彼は呟く。ある日突然、恐怖が彼の周りにちらつくようになった。宝乱石の破壊に辿りつけず、すべてが燃えて灰になるという恐怖。万が一、石が暴走を始めたら、世界中が血の海に変わってしまうかもしれない。そう考えると、宝乱石は杏眠を夢の中でも苦しめた。
「俺が殺したのと同じだ……」
世界のために始めた研究が、どこから食い違ってしまったのか。宝乱石を作り出した時からなのか、はたまたこの世に生を受けてしまったからなのか。杏眠は、自身が何もわからないと言った。
「杏眠……」
「正しさって、なんだろうな。何が正しくて、何が間違えているのか……答えが欲しい」
彼の心の奥に閉じ込めていた醜い思いが顔を出す。
人を殺した俺を許さないでほしい。過ちを犯した俺に答えを求めないで。誰も俺を見ないで。人を殺した俺を天才と呼ばないで。――天才はあの日、死んだのだ。
「それでも……お前の前では天才でいたかったのに」
そう彼は告白する。「うまくいかなかった」「初めからやり直したい」「お前と一緒にいられる理由が無くなってしまった」支離滅裂に口から飛び出す言葉は、杏眠の本音だろうか。
杏眠が唇に触れる指先に気がついた時には、もう遅かった。頬に触れる雫が、杏眠のきめ細かい肌に落ちて滑り落ちる。「はっ」として顔を上げると、悲痛に耐えられずに眉を下げる鵜紺の姿が目に入る。彼は、自分が酷く傷つける言葉を口にしたことを悟った。
「悪い。全部嘘だ、ただの嘘だよ。これは嘘だから……」
杏眠は静かに涙を流す鵜紺に触れる。
「泣くな、鵜紺。俺はお前の涙に弱いんだ」
拭っても止まる気配のない雫が杏眠の頬に落ち続け、ぽたぽたと生暖かい雨に彼も泣きそうになった。なんと残酷で静かな雨だろう。「頼む……泣かないで」と杏眠は言った。鵜紺の手を握るだけで、彼は慰める言葉を投げかけることはしなかった。どうすればいいのかわからないのだろう。
「ごめん、杏眠」
力強く引き寄せられ、杏眠は鵜紺の腕の中へ飛び込んだ。突然、身体を覆う温もりに杏眠の心臓が跳ねた。「鵜紺……?」彼は杏眠を強く抱きしめて、頭を優しく撫でた。濡れた頬に唇を寄せる。とろんと微睡む杏眠の瞳は、眠たそうに揺れている。
今頃、杏眠の意識は遠くなっているに違いない。指先が痺れて、うまく動かせないはずだ。瞼は重くなり、強制的に意識が飛ばされるが、身体に害はなく、ただ少しだけ深い眠りにつくだけだ。きっと穏やかな夢を見られるはずだ。
「なにを……、盛った……!」
微かに怒りを露わにする杏眠に、鵜紺は微笑む。これは復讐に等しい、正しくない行動だ。涙は相変わらず馬鹿みたいに流れているが、無駄に働く頭では理解している。鵜紺は伸ばされた手を優しく握り返し、別れの挨拶を告げた。最後に、涙を拭い、額に口づけを落とす。それは母と同じように、短い別れだった。
鵜紺は崩れ落ちた杏眠の身体を、第三拠点から離れた梅の木の下へと運んだ。死んだように眠る杏眠を愛おしく撫でる。この温もりが名残惜しい。痛みの先にある心に触れる資格が欲しかったが、規則正しく進む時間は待ってはくれない。別れは遅かれ早かれ、等しく訪れるものだ。
床の奥底に隠してあった石を取り出し、扉に押し付けると、何重にもかけられた術は一瞬で解けて、無防備な姿へと戻っていく。現れたのは古びた木の扉だった。とっくの前に、彼はたどり着いていたのだ。扉の開き方も、杏眠の隠した秘密も。
石に囚われる悪夢が遠い過去へと変わるなら。
「馬鹿だな、杏眠。天才も秀才もちっぽけな命だ」
の臆病者が答えを探せるように、鵜紺は幸せな箱庭に蓋をすることを決めた。
「でも、お互い様だろ?」
――カチ
「嘘つきはお前だけじゃない」
閉ざされた扉が――開く。
◆
果てしなく続く階段を降りる。冷え切った冷気が体温を奪い、氷の貯蔵庫としても使われていた地下で吐く息は白く震えていた。手に持つ小さな装置は自爆装置だ。この装置を起動すれば、この世にある宝乱石はすべて砕け散るだろう。宝乱石の持ち主を焼き尽くし、無に還す。一年前、杏眠が密かに自爆装置を作ろうとしていることを知った鵜紺は、第一拠点に忍び込み、不足していた材料を付け足して一足先に完成させた。研究者としての責任を負う覚悟は、いつだってできている。
荒波に飲み込まれる思考とは別に、視界は透明で落ち着いていた。天才は才能に殺されるのではなく、手に入らない才能に溺れた欲深い人間に殺される。杏眠は一体何をしたというのだろう。宝乱石以外にも、杏眠が残した研究によって救われた命は多い。杏眠は自分を人殺しだと語ったが、それは違う。救われた命の方が多いのだ。才能を武器に人を救っている。しかし、誰も杏眠を見ていない。天才と勝手に名づけて、杏眠の本質を見抜くことを忘れ、その優しさに胡座を描く。才能を欲する愚か者の群れ。そして、杏眠もまた気が付かないふりをした。誰もが望む、天才であろうとした。
鵜紺は悲しさに耐えきれず、息を吐いた。最下層に辿り着くと、そこには虹色に光り輝く宝乱石が鎮座していた。手に持つ蝋燭は地面に置いておく。「なるほど」これは確かに魅力的な石だ。今までに見たことのない輝きを持つ石が静かに鵜紺を待ち構えている。嫌な雰囲気だ。まるで石自体が命を持っているかのような不気味な感覚に、鳥肌が立つ。歪に欠けているのは杏眠の仕業だろうか。
足を踏み出すと、何かが足先にこつんと触れた。「宝乱石の欠片か」目を凝らすと、大きめの欠片が至る所に散乱していた。床一面に広がる欠片が突発的に震え出し、原石と共に次第に強い光を帯びていく。共鳴反応だ。欠片を手に取り、蝋燭に近づけて観察していると、不意に視線を感じる。「誰かいるのか?」蝋燭で辺りを照らしてみても、先の見えない暗闇だけが残る。手に取った欠片を靴底で擦り潰してみれば、光を失い、灰色の小石となる。
早く壊してしまおう。鵜紺は焦りながらも、原石へと手を伸ばした。――ぼとり。粘着性のある液体が目の前に糸を作り、避けきれずに液体と接触した袖は、一瞬で溶け落ちた。
「っち……!」
外れて欲しい予感は呆気なく的中する。天井に浮かんだ二つの月。その周りを海月が優雅に泳いでいるではないか。本来存在しないはずの大きな眼を、ニタリと歪ませてこちらを見下していた。脚は欠片を弄び、鵜紺の目と鼻の先を掠める。反射的に目を覆うと、漆黒の闇を纏った世界が訪れた。――怪奇だ。
鵜紺が引き返そうとするが、もう遅い。すでに階段は閉ざされ、意識は反転し、怪奇の領域へと飲み込まれてしまった。鈍い音を響かせて頭をぶつけた鵜紺は、苦しそうに蹲ってしまった。衝撃をまともに受けた脳が揺れて、意識が飛びそうになるが、気合いで堪えて見せた。目を閉じれば二度と起き上がれない。恐る恐る頭に触れると、擦り傷はあるが出血はなさそうだ。酷い衝撃だったが、どうやら未だに最下層にいるらしい。宝乱石も変わらずに鎮座している。しかし、空気が違う。間違いなくここは怪奇の領域だ。人ならざるモノが巣食う世界。幾度も感じた嫌な世界。
鵜紺は矢継ぎ早にもう一度宝乱石に手を伸ばそうとした。
「くそっ……!」
目の前を通り抜ける小さな海月の群れがそれを拒み、触れた指先は赤く爛れてしまった。怪奇は辺り一面に散らばっていた欠片を掬い上げていく。沢山の欠片が月の周りに浮かんだ。「嘘だろ。」最悪なのは、欠片が徐々に大きく形を変えていることだ。砕かれた欠片は怪奇の手を借りて、本来の姿へと戻ろうとしているらしい。
それならば自爆装置を起動してしまえばいい。鵜紺が自爆装置を地面に叩きつけようとした瞬間、再び領域が揺れ始めた。体制を崩した鵜紺は立っていることができず、そのまま倒れ込みそうになった。咄嗟に膝をついたが、べっとりと服に付着した黒い液体に身の毛がよだつ。「侵食が早すぎる……!」ゾッとしていると、天井で泳いでいた海月はいつの間にか足元まで広がっていた。なるべく海月のいない場所に避難すると、本来ならば聞こえないはずの呻き声が響く。
「いててて……」
「杏眠⁉︎」
夢でも見ているのか、鵜紺は瞼を擦ったが、頭一つ分小さい男はそこにいた。間違いない、杏眠だ。どうやらあちらも頭をぶつけたらしい。右に行ったり、左に行ったりとよろけながら立ち上がり、鵜紺の方へと歩いてくる。後退りする鵜紺は混乱していた。
「お前……なんで……」
杏眠の白湯に仕込んだ薬は強烈な眠気を呼ぶもので、二日は起きないはずだったのに、本人はぴんぴんしているではないか。むしろ顔色は良く思える。
「誰かに放り投げられた」
「はぁ? 拠点には近づけないように毒薬を……」
「へぇ、一体何の毒薬?」
うっかり口を滑らせた鵜紺は慌てて口を塞ぐが、杏眠の米神には血管が浮き出ている。
「巫山戯るな」
杏眠は鵜紺の行動に腹を立てていた。
「勝手に扉を開いたのは謝る。でも俺は」
「違う」
鵜紺の言葉を遮る。
「そうじゃない。第三拠点でお前を受け入れた時に約束しただろ。何かあれば俺を見捨てろって。……それなのに、こんな見捨て方あるか?」
これでは隠し部屋から遠ざけていた意味がないと杏眠は言った。この結末は想定外だったらしい。
「お節介なのは良いけどさ、もっと自分の身を案じろよ」
「お前は……! 俺が見捨てると本気で思っていたのか」
杏眠が本気だと感じた鵜紺は、悔しくて胸倉を掴んだ。いっその事、傷ついて心に広がった虚しさが伝わればいい。
「お前が打ち明けてくれたら……俺は絶対にお前の手を取った」
信頼してくれなかったのはお前の方だろうと、鵜紺は視線を逸らして吐き捨てた。胸元を握る両手は震えていた。
「……そうだな」
杏眠は罰の悪い顔をして俯く。嘘ばかり吐いていたのは鵜紺ではない。鵜紺は隠し部屋に入りたいと言わずに、扉の前で常に待ち続けていた。杏眠が戻ればほっとした様子で頭を撫で、いつもの研究に戻る。一度も宝乱石に深入りしたことはなかった。いつだって杏眠との境界線を尊重していたのだ。
杏眠は鵜紺の優しさに直面し、後悔の念に駆られるが、後戻りはもうできない。
「……ごめん」
「それは何に対する謝罪だ?」
「鵜紺の信頼を裏切ったこと……」
「本当にそれだけか?」
「お前に嘘をついたこと……」
鵜紺は杏眠の様子に、人の心はこれほどまでに伝わらないものなのかと酷く落胆した。
「俺にはそれ以外わからないよ、鵜紺……。お前の望む答えがわからない……」
鵜紺が大きく息を吐くと、杏眠は情けない顔をして泣き出しそうになってしまった。
「……もういい」
瞳に涙を浮かべる杏眠を見ていると、胸の奥が騒めいて気分が悪い。
「ごめん」
「おい、もういいって言ってるだろ」
「……ごめん」
「次謝ったら殴り飛ばす」
それでも腑に落ちないのか、杏眠は考え込んでしまった。しょんぼりとした彼の姿に、流石の鵜紺もどうすることもできず、話題をわざとらしく変えることにした。
「今ある問題を解決するのが俺たちの仕事だろ」
鵜紺が持つ自爆装置には、杏眠の手が届かなかった部品が揃っていた。完成した自爆装置があれば、原石は吹き飛び、首領が持つ追跡装置も砕けるに違いない。杏眠の額を指先で弾くと、彼は短い悲鳴を上げた。むっとして視線を向けると、鵜紺は苦笑いしながら赤くなった額を撫でた。
「ほら、切り替えろ」
光の差し込まない場所で、光を放ち続ける原石に、我が物顔で天井を移動する海月。
「何か策はあるか?」
一度深呼吸をして、杏眠は口を開いた。
「……宝乱石は怪奇と繋がる。時折不可解な動きをしたのは原石が直接領域に干渉したからだ。首領の手にある欠片にそんな力はない」
追跡装置に仕込んだ宝乱石はごく僅かで、強い力を持たない。あくまで原石の力をほんの少しだけ持ち、領域に置かれた石と共鳴するだけだろう。
「俺たちは仕人じゃない。怪奇を祓うのは無理だ」
鵜紺は海月を指差して言う。
「……でも、壊すことはできる」
次に杏眠は歪に欠けた宝乱石を指差す。
「領域と宝乱石が繋がっているなら纏めて壊せばいい。自爆装置の心臓は……第三拠点だ」
第三拠点を軸に作られた陣は、宝乱石を取り込むことで発動する。宝乱石を壊せば、その反動で繋がった領域も道連れになる。しかし、二人は二度と現世に戻ることができなくなる。
領域が滅べば現世へ戻るための道は閉ざされ、二人の魂は輪廻に戻ることなく彷徨い続けるだろう。人の影となることすら許されず、世界から消え去るのだ。
「杏眠がわざと噂を流した理由は、第三拠点に誰も近づかせないため?」
「御名答。それなのに……お前が異動して来るなんて予想外だったんだぞ」
まことしやかに囁かれる不気味な現象は、杏眠の流した嘘っぱちだ。第一拠点では、馬鹿らしい作り話が面白いぐらいに広まっている。時には怪談話を流したりして、反応を楽しんだこともあった。
「お陰でここは廃墟呼ばわりさ」
何もかも狙い通りだった。第三拠点を吹き飛ばすなら、人を寄せ付けてはいけない。
「俺が全部片づけられるって信じてた。……結局お前を巻き込んでしまったけど」
杏眠は二年前、鵜紺が異動してきた日のことを鮮明に覚えている。研究者らしい輝きを宿した瞳に目を奪われた。それは、杏眠が宝乱石を得たことで失った輝きだった。
「巻き込む前に突き放すことだってできたのに、希望を持った俺が悪い」
「希望?」
「うん」
「……初めて聞いた」
杏眠は、鵜紺の声に俯いていた顔を上げた。
「初めて話した!」
面と向かって言うなんて小っ恥ずかしいだろうと、杏眠は照れくさそうに話す。自爆装置が第三拠点と反応しているのを感知し、怒り狂った怪奇は領域を飛び出ている。次第に活発になる海月は群れを作り始め、二人の頭上に巨大な渦を描く。
「杏眠。お前の作った自爆装置が世界を救うんだぞ、もっと喜べよ」
鵜紺は起爆装置を握りしめ、緊張を解そうとおどけてみせた。
色々突っ込みたいところはあるが、杏眠は敢えてせずに、そっと頬を緩ませて応える。その笑みからは、鵜紺の好きな春の匂いがした。愛しい、春の匂いだ。
起爆装置を握る鵜紺に、手袋を外した杏眠の手が触れた。傷だらけの手は、宝乱石を砕く度に刻まれた罰だろう。痛々しい傷跡だ。
「一緒に、な?」
鵜紺より一回り小さい手は震えていた。意地を張って笑う癖は、最後まで健在らしい。
鵜紺はそっと杏眠の腰に手を添え、抱き寄せ、春の匂いを嗅ぐと意を決して起爆装置を起動させた。
途端に不協和音が耳を貫き、怪奇が悲鳴を上げる。耳を劈く奇声に二人は眉を顰めて耐え、顔を見合わせてニヒルに笑った。今度こそ自爆装置の起動が成功した。
海月の姿をした怪奇は闇の中を必死に泳ぎ回るが、無駄だ。逃げる場所などどこにもない――領域は既に崩壊を始めている。
今から起こる結末を、二人には容易に想像できた。
「終わり、か」
「付き合わせて悪いな」
「俺が選んだことだ。後悔はしてない」
第一拠点に異動を願い出たことも、杏眠のそばにいると決めたことも、終わりを選んだことも。間違えた選択ではないと断言できる。
「……うん」
死を覚悟した二人に、怖いものは何一つない。終わりというものは、簡単に訪れるものだ。
「鵜紺に置いていかれなくてよかった」
目を瞑る杏眠に鵜紺は微笑む。
「杏眠は俺を置いて行こうとしてたのに」
「やめろやめろ! 蒸し返すな!」
「もういいよ。全部許した」
自身の母は諦めてしまったが、鵜紺は真実に辿り着いた。天才も秀才も、この世に生きる人間は等しく同じ命だ。躓いては立ち止まり、進んでいくだけだ。
二つ浮かんだ月の周りを海月が泳ぐ。漆黒の空に白く発光する海月の血走った瞳には狂気が浮かび、杏眠と鵜紺を嘲笑う。優雅に泳ぐ姿は、幻想的で神秘な力に満ちている。
海月の脚がゆっくりと伸びて砕け散った宝乱石を掬い上げようとしたが、コロン、と乾いた音を立ててすり抜けた。足元に転がった宝乱石の欠片は、ただの石ころだ。原石を通じて現世を覗き見ていた怪奇は、二度とこの場所を出られない。杏眠と鵜紺と共に砕け散るのだ。
「昔、お前は俺に聞いたよな」
――寂しくないのか?
鵜紺の胸に触れる傷だらけの小さな手。
「ずっと寂しかったよ」
「え?」
「独りで研究室にいれば仲間の声が聞こえた。探せば出てくる気がして眠りにつけないまま朝を迎えたこともある」
犠牲になった仲間達を思い出しているのかもしれない。
「でも鵜紺が来てからは違う。寂しいなんて感じる暇がなかった。夜が終わればお前と話せることが幸せだった」
杏眠は優しく鵜紺の頬に口付けを落とす。
「俺は……お前がいたから寂しくなかった! 今だって! 不思議なぐらい幸せだ!」
愁いを帯びた儚い言葉は、二人が必死に堰き止めていた涙を溢れさせた。地面に落ちた雫は、どちらの涙だろう。彼らの思いが交錯する中で、その涙は彼らの絆の象徴のように感じられる。
――刹那、空が割れた。
足場は崩れ去り、二人は宙に浮く。もはや驚く余地もない。全方向から崩壊が始まったらしい。バリン、バリンと崩壊の警報が鳴り響く。
領域が閉じる瞬間、散らばった宝乱石の欠片が虹色の光を乱反射させて爆発した。二人は爆風にのって境界の裂け目へと押し出され、世界が暗転する。不気味な空からぐんぐんと離れ、意識が遠のく。離れてなるものか、一心不乱に二人は互いを抱き寄せた。胃の中を捻じ曲げられる感覚に吐き気を覚える。三半規管が機能していないまま、外に放り出され、受け身を取る間もなく転がった。身体中が悲鳴を上げている。
どこからか声が聞こえる。耳元で聞こえた音は次第に遠くなり、鵜紺は声の主を確かめようと耳を澄ませた。しかし、悲しみと慈しみを孕んだ言葉は音となり、頭の中を通り過ぎて消えていく。脳に止まることなく泡となって弾けてしまった。
少し変わった声の持ち主は誰だったのだろう。絶対に知っているのに、忘れてはいけない声なのに。
四肢を引っ張られる不快な感覚が鵜紺を離さない。左目が燃えるように熱い。蝋燭の火で瞳を炙られているかのようだった。目の奥で虹色の光が点滅している。
必死に身体を動かそうとするが、動かし方がわからない。
鵜紺の意識は強制的に閉ざされた。
◆
――漆黒の空はどこにも見当たらない。
生きて領域を出てくるとは、二人とも思いもしなかった。彼らは驚きに満ちた表情を見合わせ、頬をつねり合う。これは夢ではない。現実が、信じられないほどの鮮やかさで彼らを包んでいた。
真っ先に二人は研究室へと走ろうとするが、目に飛び込んできたのは、砂埃が舞う無惨な更地だった。領域と拠点は一緒に消え去り、隠し部屋も、何もかもが無に帰したようだ。第三拠点の研究対象であった怪奇は、まるで夢の中の幻影のように消滅した。
手元に残った資料は何一つなく、二人が第三拠点で共に過ごした証も消え失せてしまった。その空間にあった思い出や感情が、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。
「でも……これでよかったんだ。正しい結末だ」
杏眠は微笑みながら呟いた。彼の視線はどこか吹っ切れた様子で、色とりどりの空を見上げている。いつも通りの朝焼けが、彼の心を暖かく照らしていた。
「宝乱石は第三拠点を起爆剤にして完全に破壊された。領域も巻き込まれたはずだ。ここには何もない。……お前は俺を主犯にして、義姉さんに突き出せ。宝乱石を生み出したのは紛れもない俺だから、お前は責任を問われないはずだ」
杏眠は、漸く鵜紺と初めて向き合った。
「ありがとう、鵜紺。お前がいたから……俺は自由になれた」
二度と宝乱石に囚われることもないだろう。
二つの視線が絡み合う。
鵜紺の瞳は、輝きを失うことなく変わらずそこにある。きらきらと秘めた探究心が今でも生きていて、輝き続ける光は美しい。杏眠の顔は一筋の光に照らされ、悲しみはどこにも見当たらない。
鵜紺が贈った簪は折れてしまったが、解放された癖のある杏眠の髪はふわふわと揺れている。
砂埃を掻き分けて、鵜紺の好きな春の匂いが鼻を掠めた。
「なぁ、杏眠」
何度も聞いた柔らかな声が、いつになく暖かくて心を擽った。
「俺の故郷は一年中梅が咲いているんだ。ここよりずっと大きくて、綺麗だぞ。それに春が一年中続く。まあ、身内もいないし、一から始めることになるけど、これを機に怪奇から離れて新しいことを始めるのも面白そうじゃないか?」
淡々と未来の話をする鵜紺の髪は、柔らかい光を浴びて小麦色に反射している。彼が語る故郷の情景が、杏眠の心に生き生きとした絵を描き出す。海に浮かぶ大きな島国は、一面桃色の世界で、独特な文化を持つ人々は皆、心の休まる春の香りを漂わせている。そんな温かな日々が待っているのかもしれない。
遠い記憶が彼の心を温め、鵜紺の頬に微笑みが浮かぶ。
「良い国だよ」
月を隠して、朝日が昇る。
「変わり映えのしない春だけど」
風が吹いて、花弁が舞う。
「杏眠だったらすぐに慣れるさ」
春を、呼ぶ。
「なあ、杏眠。勿論……来るだろ?」
独り置いていく選択肢はない。
杏眠は折れた簪を拾おうとした手で顔を覆った。
地面にある簪が太陽の日を反射して煌めく。
「は、ははは! なんだよ、それ……そんなの、お前が……」
「お互いに隻眼じゃ不自由だろ」
生きて外に出て来れたのは奇跡だ。命があるだけましだろう。
領域による後遺症は、例外なく二人にも降りかかった。杏眠は右目を、鵜紺は左目の視力を失い、片目から得る情報を脳が処理しきれずに立ちくらみもしている。後々別の後遺症が現れる可能性もある上、突然欠けた視界では普段通りの生活は難しい。慣れるのは随分と先の話だろう。
「責任を取りたいなら、そばに居ろ」
鵜紺は語る。
人の一生は長く、償いは一緒にするものだと。
「ふ、はははっ……ほんとうに……ずるいなぁ……!」
杏眠はぐしゃぐしゃにしゃくりあげて泣く。
「お前は嘘が下手な上に、俺の嘘に気付かない馬鹿だからな。結局何も変わらない」
嗚呼、嗚呼、なんてことだ。
「天才でいる必要はない。お前は俺の知己、それだけだ」
「知己……俺が、お前の……」
「不満か?」
知己とは、互いの心を知る生涯の友だ。
この先も共に生きて行こうと、鵜紺は手を差し出しているのだ。ただの一人の人間として同じ時を生きる。箱庭は壊れてしまったが、二人の時間は途切れずに進む。
今までに感じたことのない喜びに、杏眠は目が眩んだ。
鵜紺はそんな杏眠を、ただひたすらに待ち続けている。
「俺はっ……!」
涙を乱暴に拭って振り返る。
答えに怯える心を待ってくれる人がいるのだ。
杏眠は生まれて初めて与えられる――答えがそこにあると確信した。
「う、うぅ……」
空に広がった朝焼けに包まれ、一つ、梅の花が枝から零れた。
零れ落ちる涙を止める術を忘れたまま嗚咽を溢し、杏眠は鵜紺に勢いよく抱き着いた。
「遅い」
待っていたと言わんばかりにしっかりと受け止められ、杏眠はぎゅうっと胸元へ縋り付く。――心が繋がる。
「なぁ、杏眠」
喜びが全身くまなく流れて、頭から足の先まで愛が満ちる。
「答えは見つかったか?」
鵜紺は、腕の中にある尊い命を大切に強く抱きしめた。
「あぁ! 最高の答えだ!」
身体を揺らす二つの心臓が刻む鼓動が重なる。
二人を繋いでいたのは、怪奇ではない。
天才と秀才の肩書きでもない。
大切な物は、あっと驚く場所に置かれていたりするものだ。近くにあるからこそ、気付かないだけで。
「行こう」
朝焼けを背負い、どちらからともなく手を取り歩き出す。強く繋がれた手が、二人の歩く道に影を残した。
ふと、杏眠は名前を呼ばれた気がして立ち止まる。
跡形もなく消え去った第三拠点に残された一本の梅。
花弁が散るのを目で追う。
不思議そうに見守る鵜紺が手を引けば、杏眠は大人しく従った。
「あれ……あの梅……」
「杏眠?」
「誰が……植えたんだっけ」
「冽様じゃないのか?」
「違う。義姉さんじゃない……。背丈は俺と同じぐらいで……あぁ、駄目だ。顔も声も思い出せない」
いくら思い出そうと頭を捻っても杏眠は覚えているはずの記憶に辿り着けなかった。誰かと一緒に植えたのだ。しかし思い出そうとすればする程、梅の蕾がいつ花開いたのかさえ靄がかかっていく。
これもまた一種の後遺症なのかもしれない。ずっと長い夢に浸っていた気がして記憶は朧げだ。
鵜紺はそれを聞くと訝しげに杏眠を肘で突いた。
「もしかして今も夢だと思ってる?」
「思ってないけど……それでもいい」
杏眠は鵜紺の繊細な髪に触れると暖かく笑った。
「夢はいつか覚めるものだ」
一際強い風が吹く。
「わっ……」
耳の中まで通り抜けた風に杏眠は驚く。
「すごい追い風だな」
鵜紺は顔にかかる髪を手櫛で解き、同じくボサボサになってしまった杏眠の髪も優しく梳かしてやった。
それでも突風は吹き続ける。
力強く背中を押す風は二人の足を強制的に進ませて、まるで新しい旅路へと誘っているようだった。
これではいくら髪を梳かしても無駄だ。鵜紺は潔く諦めることにしたらしい。
杏眠は少し考える素振りを見せると突然走り出した。
鵜紺がいつものことだと背後から見守っていると、杏眠は立ち止まって振り返り大きな声で叫んだ。
「今度は俺が簪を贈ってやるよー!」
杏眠の声が届いた鵜紺は雷に打たれたような表情をする。驚きのあまり足を止めた鵜紺だが、木陰で休んでいる旅人を見つけると、一気に赤面して杏眠の元へと走って行った。
「でかい声で叫ぶな!」
二人のふざけた話し声は旅人にまで簡単に聞こえているに違いない。
旅人は分厚い革の本を閉じると、春を探しに行くちっぽけな命を微笑んで見送った。
雷鳴 【完】
花は風に【side story+a】 Nani者 @nanimono00
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