花は風に【side story】

Nani者

禍の男 完結

 片燕宗主、獅宇は朱禍の知己であった。

 長い間連絡も途絶えていた知己が弟子を取ったという話を耳にしたのは、本人からではなく、噂の風に乗って聞いたものだった。それも、嘘と誠が交じるような曖昧な情報だった。しかし、どうせ獅宇のことだ。お人好しな性格ゆえに、何か押し付けられて仕方なく引き受けたに違いない。そう確信した朱禍は、見つけたら揶揄ってやろうと心に決め、夢天理で退屈な日々を送っていた。

 毎日決まった時間に祈りを捧げる。人々の幸せと世界の平穏を願って。しかし、目の前では人々が消耗品のように、あっという間に死んでいく。昨夜まで共に祈りを捧げていた者が、翌朝には屍として発見され、「またか」と呆気なく忘れ去られていくのだ。悲しむ暇もなく、繰り返される死に心は蝕まれていく。やがて朱禍の周りに残った人々も、どこか壊れたように見えた。まるで怪奇に取り憑かれたかのように。ぽっかりと心に空いた穴、それが虚しさであるとその時初めて自覚した。

 その中でも、獅宇だけはとびきり人間臭かった。彼が笑うと、不思議とその虚しさが染み込むように埋まっていった。よく泣き、よく笑い、よく怒る。彼の一直線な感情は、疑う余地もなく朱禍の心に深く刺さり、根を張った。ああ、人間とはこういう生き物だった、と久しぶりに思い出したのだ。

 朱禍は必死に、獅宇に対して真っ直ぐ向き合おうとした。自身の黒い思想と対峙し、間違いを探し続ける。己と獅宇、何が違うのか。長年にわたる思想や価値観を変えるのは容易ではない。それでも、獅宇の言葉や生き方は朱禍に変革の兆しを与え、彼と同じ景色を見るために、朱禍は古巣を離れ、放浪の旅に出た——獅宇の姿を追い求めて。

 そんなある日のことだった。

 夕焼け色の瞳を持つ少年と出会ったのは。最初はただの旅人だと思ったが、その細い身体に纏わりついた嫌な臭いが否定した。それは、朱禍にとって嗅ぎ慣れた怪奇の匂いだった。長時間、怪奇の領域にいたのか、それとも怪奇そのものか、判断がつかない。

「ねぇ、お兄さん。この辺で奇妙な事件を知らない?」

 少年は汚れも気にせず、あたりをきょろきょろと見渡しながら朱禍に尋ねてきた

 やや怪奇の匂いが強いものの、こうして言葉を交わす少年は人間のようだ。

「私にとっては君が奇妙な事件だよ」

「はぁ?」

「師匠や師兄はどうしたんだい。一人で領域に入るには早いだろう」

 朱禍が咎めると、少年は眉を顰め、何も言わずにその場を去ろうとした。もちろん、朱禍はそれを引き止めた。少年は十代半ばだろう。人を喰らう獣が多く潜むこの森は、あまりにも危険すぎる。

「俺たちって初対面だよね」

「あぁ」

「鬱陶しいって言われない?」

「いや? 初めてだ」

 嘘ではない。朱禍は昔から人に手を差し伸べることは多かったが、それは「そうしなければならない」からだった。お節介とは違う。

「……離して」

 少年は手を振り払ったが、朱禍は道を塞いでいたため、逃げ出すことはできなかった。

「ちゃんと師匠から許可は出てる。お前には関係ないだろ」

 突然、"お兄さん"から"お前"に態度が変わったが、難しい年頃なのだろうと朱禍は流した。

「どこの子?」

「なに、お前人攫いか」

「違う。断じて違います」

 完全に怪しまれている朱禍は、身の潔白を証明しようとしたが、その手段がないことに気づいた。夢天理の重鎮を退き、今は危険視され放浪している男に、どんな名を名乗ればいいのか。朱禍が名前を告げても、少年は興味がないと首の後ろを摩るだけだった。。

「別にいいよ。お前、仕人でしょ。この辺で行方不明者が増えてるって話、聞いたことは?」

「行方不明者?」

「そう。特に年頃の女が時折消えていて、ほら、あそこの村。今月に入って二人も消えたらしい」

 少年は明らかに落胆した様子を見せ、汚れた白い外套で手を拭いた後、肩から下げた鞄に手を突っ込んだ。その身なりこそ汚れているものの、全体的に白で統一され、裾には黒い鳥が羽ばたいている模様が施されている。極めつけは、朱色の髪と、まるで夕焼けをそのまま閉じ込めたかのような瞳だ。

 これだけ目立つ容姿でありながら、朱禍の記憶に一切残っていないのは、彼が夢天理の管轄下に属さない宗派の者だからだろうか。夢天理の重鎮だったとはいえ、膨大な数の宗派すべてを把握しているわけではない。それでもある程度の宗派は頭に叩き込んでいたはずだが、少年の宗派に関する記憶は掠りもしなかった。

「おかしいな、ここら辺に……」

 少年は鞄をひっくり返すような勢いでごそごそと漁り、ようやく何かを見つけた。

「あった」

「……櫛?」

「怪奇の痕跡があるでしょ。辿ってきたんだけど、此処で途切れてる」

 少年が取り出したのは、女物の質素な櫛だった。あちこちが欠けていて、もはや本来の役割を果たすことは望めないだろう。朱禍が手に取ってよく見ると、古く乾いた血痕が散らばっている。確かに微かに怪奇の痕跡も感じられるが、その力は微々たるもので、普通の仕人であれば気にも留めないレベルだ。もし道端に落ちていたら朱禍だって見過ごしていただろう。些細な怪奇をいちいち祓っていたら仕人の手は足りない。まして、朱禍のように優れた者にはもっと巨悪な怪奇が待ち構えている。少年が追う怪奇は、朱禍にとっては単なる小さな障害でしかない。つまり、時間の無駄だ。

「それは村の住民の為に探してるのかな」

 怪奇の領域に危険を冒してまで立ち入るのは、善意からの行動なのか、それとも正式な任務か、それともただのお人好しなのか。少年の師がこの行動を認めているとすれば、同じような偽善者に違いない。朱禍は、上辺だけのお世辞でも言ってやろうかと思ったが、少年は一層眉を顰め、嘲笑混じりに「お前、馬鹿なの?」と鼻で笑った。

「面白いからに決まってる」

 朱禍は驚き、少年がまるで胸を躍らせているかのような様子に眉を寄せた。怪奇を「面白い」と言うのか。この少年は一体何者なのだ。

「うーん。やっぱり餌がいるのか……」

 少年がぼそりと呟く。朱禍は怪奇と対峙するためのいくつかの方法を思い浮かべた。怪奇の痕跡を辿り、領域を見つけ、強制的に扉を開くのが一般的だが、扉の場所を見つけ出すのは容易ではない。まるで隠された扉を探し当てるようなものだ。

 次に考えられるのは、広範囲に陣を張り、怪奇が入り込むのを待つ方法だ。しかしこれは時間がかかり、一人では負担が大きい。複数人で行うのが望ましいが、それでも無駄撃ちになる可能性が高く、小規模な宗派では使用されない。

 最後の方法は「影」を餌にすることだ。これが最も邪道なやり方で、遺品に残された影を行使して怪奇を引き寄せる。影を操ることは呪いに等しく、「呪身」とも呼ばれる。影を餌にする行為は忌むべきものとされており、朱禍自身もその考えには反対だった。人々を脅かすのは怪奇だけではない、と獅宇はよく言っていたのを思い出す。

「扉が見つからないなら、むこうから扉の場所を教えてもらったほうが早い」

 少年が愉しげに笑いながら言った。彼は怪奇を挑発し、わざと呼び寄せようとしているのだ。

 朱禍は、少年が漆黒の鞘に収められた剣を背負い直すのを見つめながら、その肩を掴んだ。

「初めましての若者に言いたくないけれど……もし邪道を選ぶなら、二度と心力を使えないようにしてしまうかもしれない」

 朱禍の言葉に、少年は目を見開いた。

「餌って……影の事じゃない。これだよ、これ」

 少年は再び鞄を漁り、今度は丸い球体を取り出した。それは若干亀裂が入っていたが、宝石のようにきれいな球体だった。

「なんだい、それは」

「怪奇を呼び寄せる不思議な宝石」

「は?」

 朱禍はまじまじとその宝石を見た後、少年の顔を覗き込んだ。背中に嫌な汗が流れる。

「そんな便利な宝石あるわけないでしょ。馬鹿馬鹿しい」

 ——そうだ。あり得ない。

 天才の戯れで存在していたあの石は一つ残さず破壊されたのだ。もし残っていたとしても、力の持たない欠片にすぎない。似ている力を宿したものが世界中に転がっているなんて勘弁してほしい。

「もし存在するなら是非ともお目にかかりたいよ」

 朱禍が皮肉を込めて言うと、少年は指先で器用にその宝石を弄びながら、馬鹿にしたように笑った。

「じゃ、俺は行くから」

「待って」

 話してみれば、普通の少年に見えるが、朱禍は彼から不穏な気配を感じていた。まるで、奥底からじっと見つめられているような、背後に何かが潜んでいるような感覚だ。

「……なに?」

 振り向いた幼さの残る顔には鬱陶しいと書かれている。

「師匠からお前みたいな人間には関わるなって。一人で行動する仕人はろくな人間じゃない。特にお前みたいに力の強い仕人は厄介だ」

 ある意味礼儀正しいことだ、と朱禍は心の中で苦笑する。

「それなら君も同じだろう。確かに私は仕人だが、世界中を放浪しているただの朱禍だ。ほら、これでいいだろう?」

「放浪? お前本当にろくな人間じゃないんだね。仕人が一人で行動するなんて、気でも触れたのか」

「それ、自分にも当てはまるってわかってる?」

 朱禍の額に、ささやかな怒りの感情が走った。師は彼の性格を矯正するつもりはなかったようだ。

「君の名は? 字でもいい」

「なんで教える必要があるの」

 少年の反抗的な態度に、朱禍は思わず手が出そうになったが、これは仕方のないことだと自分に言い聞かせた。もしこの生意気な少年の頭を軽く叩いたところで、誰も非難はしないだろう。しかし、朱禍は年上としての自制心を保ち、口元が引き攣るのを必死に抑えた。

 数々の困難を乗り越えてきた自分だ。これくらい耐えてみせる——そう心の中で唱えた。

「坊ちゃんはどこに行くのかな」

 だが、耐えきれなかった。

「ぼっ……!?」

 少年の顔色が変わり、唇を震わせる。馬鹿にされた言い方に驚いたのだろう。よく見れば、その唇の端には黒く乾いた血がこびりついていた。朱禍は少年に名を尋ねる代わりに、口元の血を指摘した。少年——林琳は気まずそうに白い外套でごしごしと拭ったが、その行為はさらに衣を汚すだけだった。

「もういい」

 不機嫌そうに言い捨てる林琳。朱禍は彼がわざと聞こえるようにぼそりと「余計な関わりを持ってしまった」と呟くのを聞きながら、その後をついていくことにした。適度な距離を保ち、背後から見守るように歩く。林琳も、朱禍の気配に気づいてはいるが、面倒くさがって放っておいている様子だ。時折聞こえる舌打ちに、朱禍は思わず笑みを浮かべる。互いに挑発するような奇妙な関係が続いた。

 その不思議な距離感のまま、二人は墓地に辿り着いた。林琳は突然、鞄から再び宝石を取り出すと、背負っていた剣で地面に簡易的な陣を描き始めた。黒い鞘が土を削り、独特の模様が刻まれていく。朱禍はそれを解読しようとしたが、林琳の書く文字があまりにも汚いため、何が書かれているのかすぐには読み取れなかった。

 風が突然止み、陣から巻き上がる風が木の葉を渦巻かせた。肌に触れる空気は不吉で、温度が異様に感じられる。近くにいた鳥たちが、悲鳴のような鳴き声をあげて飛び去っていった。

「来るよ」

 林琳の瞳がにやりと歪む。その狂気じみた笑みに、朱禍はこの陣が怪奇を呼び寄せるものだと悟った。遅すぎた。風はますます強まり、砂埃が混じり始める。朱禍は顔を袖で覆い、目を閉じた。

 竜巻のように激しく巻き上がった風が収まると、朱禍は目を開き、足元が泥濘で汚れていることに気づいた。いつの間にか、浅い泥に足を取られている。泥を踏み出すたびに、ねっとりとした感触が不快に染み渡る。

 どうやら、朱禍は本当に怪奇の領域に足を踏み入れたらしい。周囲を警戒しながら見渡していると、林琳が岩の上で胡座をかいてこちらを見ていた。

「……着いてきたの」

 林琳は驚いた様子で朱禍に尋ねた。どうやら、領域まで追ってくるとは思っていなかったようだ。唯一、泥濘を避けられるのは彼が座っている岩だけで、朱禍は林琳の反応を窺いながら、軽やかにその岩に飛び乗った。

「ふう、こんなに汚れるのは久しぶりだ」

 朱禍が飛び乗ったせいで、ただでさえ狭かった岩はさらに窮屈になり、二人の肩がかすかに触れ合いそうだった。林琳は押しのけてくるかと思ったが、彼は朱禍を突き落とすことなく、むしろ体を隅に寄せた。単に触れたくなかっただけかもしれないが。

「これからどうするつもりだい」

 朱禍が問いかける。怪奇はまだ姿を現していないが、息を潜めているのは確かだ。標的がいない中で、林琳はどうやって祓うつもりなのだろうか。彼に興味を抱いた朱禍は、微笑みながらその答えを待つ。

 林琳は剣を片手で構え、朱禍に目もくれずに言った。

「お前、運が悪いね」

「うん?」

「ここにいる怪奇は影に取り憑いてるよ」

 生身の人間に取り憑いた怪奇は、通常交わらないはずの領域を越え、現世に影響を及ぼす。ここで祓わなければ、現世での被害はさらに拡大するだろう。

「それも一人じゃない」

 泥濘がどぷん、と波を立てて揺れた。

「墓地にあった墓の数だけここにいる」

 林琳が剣を泥に突き刺すと、棺桶の破片が突き上げられた。泥濘に沈んでいたものは、瓦礫ではなく棺桶の残骸だったのだ。

「ほらね」

「……君、知ってただろう」

「まさか。夜な夜な墓地で奇妙なことが起きるって言うから、一つだけ棺桶を開けておいたんだ」

 林琳がけろりとした調子で言うと、朱禍は呆れたように乾いた笑いを漏らした。

「罰当たりなことを」

「罰当たり? いったい俺に誰が罰を与えるんだ」

 剣を一振りして破片を乱暴に振り飛ばす。

「師匠か? 他の仕人か? それともお前達の馬鹿馬鹿しい神か?」

 林琳は心底くだらないと鼻を鳴らして嘲笑った。

「神を嘲笑うのはやめたほうがいい」

 朱禍が諭すように言うと、林琳は笑みを消し、冷たい目で朱禍を見上げた。

「っは、神だと?」

 先程見た狂気の混じる瞳が朱禍を貫く。

「そんなもの……」

 ——どぽん

  林琳の言葉を遮るように、泥濘から人型の怪奇が這い出してきた。一人、二人、三人……それが本当に「人」と呼べるかは分からないが、次々にこちらへ向かって進んでくる。その姿は、不気味に揺らぎながらも確実に迫っていた。

 真っ直ぐに構えた剣と印を結ぶ手。

 怪奇に心酔する幼い仕人。

 夢天理を抜け、知己を探して放浪する仕人。

 

 ——"「これもまた縁」"

 

 ふと、懐かしい知己の声が耳に蘇る。

 そう、この世は常に変化し続けている。出会いは人を繋ぎ止め、縁を結び、紡いでいくものだ。人は決して一人では生きていけない。それを改めて感じながら、朱禍は心力を込めた 符を一つ取り出し、怪奇に取り憑かれた一人の身体へと飛ばした。

 符は自我を持ったかのように一直線に飛び、怪奇の顔に張り付いてしわを生み、何かを引き剥がそうとする。林琳はその光景を目を見開いて凝視していた。

「なに、それ」

「見るのは初めてかい」

 朱禍が問いかけると、林琳はこくりと素直に頷く。そして、再び朱禍の手元に戻ってきた符が、力を失ったように泥濘へと沈む様子をじっと見つめている。間近に迫っていた他の二体にも再び符を飛ばすと、それに合わせて林琳の視線が動いた。

 まるで猫だな、と朱禍は思わず微笑む。興味深そうに符の動きを追う彼の姿があまりにも猫に似ていたからだ。

「やってみるかい?」

 朱禍が軽く声をかけた。これまで何度か修行で教えたことはあったが、それはあくまで命令に基づいたものであり、自分から進んで手解きするのは初めてだ。しかし、この変わり者の林琳を見ていると、まるで気まぐれな猫を相手にしているようで、自然と教えたくなるのだ。

「俺は多分……できないよ」

「どうして。やってみないとわからないだろう」

 朱禍は迷わず、符を渡した。林琳は親指と人差し指でそれを摘まんで受け取る。一切心力が込められていない符だ。朱禍は林琳に心力を注ぐように促す。慎重に、盃から水がこぼれないように少しずつ。溢れてしまえば符は破れてしまうし、十分に満たされなければその力は発揮されない。

 誰しも最初は失敗するものだ。それを乗り越えれば成長がある。

「ほら、やってごらん」

 朱禍が穏やかに促す。どうせ最初は溢れて符が破れてしまうだろう。符の予備は多くあるし、失敗しても問題ない。朱禍はそんなことを考えていると、目の前で黒いものが揺れた。

「へ?」

 ——燃えた?

「ほらみろ、できないって」

 林琳が冷たく言う。朱禍が唖然として見つめる視界には、黒い塵となって散った符が舞っている。林琳は再び剣を構え、岩に手をかけた一体の怪奇を薙ぎ払った。真横に振られた剣が怪奇の首を落とし、身体はけたたましい音を立てながら燃え上がる。

 なるほど。これは珍しい。攻撃性を持つ心力だ。

 攻撃型の心力を持つ者は稀で、夢天理でもごく少数の仕人しかその能力を持っていない。大抵は年老いた者たちであり、幼い頃にこの力に飲み込まれて死んでしまう者が多い。だが、林琳はその力を制御する術を知る師に出会えたのだろう。それはまさに奇跡と言える。

「お前がぼーっとしてるから親玉が出てきたよ」

 林琳が剣を振るいながら言った。その肩が朱禍の髪にかすかに触れる。

「これはまた薄気味悪い形の怪奇だね」

 泥濘に沈んでいた怪奇の身体がぐしゃぐしゃに握り潰され、一つの巨大な塊になって転がっている。まるで巨大な団子のようだ。四方八方から手足が飛び出ており、見るに耐えない醜悪な形状だ。

 林琳はその光景に耐えかねて嘔吐いた。

 造形が気持ち悪すぎる。朱禍ですら、触れたくないと思った。

 流石にこれ以上見ているのも辛くなり、さっさと祓ってしまおうと符を構えたその瞬間、目の前に黒い火の粉が舞い、頬を掠めた。

「君……」

 ゆらゆらと燃え上がるその炎の持ち主は一人しかいない。林琳だ。彼の夕焼けのような瞳は黒く淀んでいたが、淡々と手を動かしながら怪奇に立ち向かう。

「横取りするなよ」

 林琳はゆっくりと手を掲げ、その手のひらに小さな炎を渦巻かせていた。それは林檎ほどの大きさで、怪奇に比べるとあまりに小さい。しかし、彼の手の中で渦巻くその炎は、不気味で禍々しい力を秘めているようだった。

 朱禍は笑みを浮かべたまま、林琳に好きにさせることにした。いざとなれば自分が手を貸せばいい。それに、彼の実力を見極める良い機会でもある。

 ——ビュンッ

 突然、朱禍のすぐ横を一直線に剣が飛んでいった。空間を切り裂くような音が響き、朱禍が目で追うと、剣は転がっていた怪奇の中心に突き刺さっていた。

「命中!」

 林琳はその剣の柄に器用に飛び乗り、渦巻く炎を怪奇に押し込んだ。まるで迷いがない。片腕が泥濘に沈むと、炎が怪奇の中で渦巻き始めた。

「うわぁ……」

 声が思わず漏れた。朱禍は眼前の光景に驚きを隠せなかった。別に自分が特別きれい好きというわけではない。だが、あの不気味なものにこれほど躊躇いなく触れる自信は、自分には到底なかった。物怖じせずに行動する林琳の根性は並大抵のものではない。


 怪奇が荒れ狂い、暴れ回る中、林琳は涼しい顔で立ち回っている。柄をしっかり握り、飛んだり跳ねたりと軽やかに動きながら、巧みに攻撃をかわしている。その動きは自然で、体幹の強さと優れた運動神経が一目でわかる。彼の剣さばきは、ただの力任せではない。長年培った技術と鋭い洞察力がそこにある。

  林琳が剣を怪奇の奥深くまで無理矢理押し込むと、怪奇は悲鳴のような音を上げ、もがき苦しんだ。その体は我武者羅に暴れ、何とかして林琳を振り落とそうとする。しかし、林琳の表情は揺るがない。それどころか、口元にはわずかな笑みさえ浮かんでいる。朱禍はその光景に驚きつつも、かつて出会ったある人物を思い出していた。

 林琳のように、怪奇に対して特別な感情を抱く人間を見たのは初めてではなかった。その姿が懐かしく思えた。そして同時に、胸の奥に押し込めていた感情が湧き上がる。——恋しさ、そして痛みを伴った懐かしさ。

彼の師父もまた、かつて怪奇に異常な執着を見せていた。師父の感情は誰にも理解されなかった。それは、人間らしい救いを求めながら、怪奇という存在に取り憑かれた心の逃げ場であったことを朱禍は、あまりにも遅くに悟ったのだ。

 師父は無惨にも怪奇に食い尽くされ、命を落とした。その最期の瞬間、師父の顔には信じられないほどの安堵が浮かんでいた。まるで長年追い求めていた何かに、ようやく辿り着いたかのように「愛している」と掠れた声でそう呟いた。だが、その言葉が何に向けられていたのか、朱禍は知る術がなかった。

 愛したのは怪奇だったのか、それとも朱禍自身だったのか。

 その答えを知ることはなかったが、朱禍は悲しみを感じなかった。むしろ、胸の奥に長く空いていた穴が埋められたような感覚に包まれた。師父がようやく救いを得たのだと確信し、ほっと胸を撫で下ろした。そして、自分が二度と輪廻に戻れないことを知りつつも、心の底から幸せだと思えたのは、朱禍自身が師父を心から愛していたからだと、今になって悟った。

 師父は、その強さと脆さが同時に共存する人間だった。誰よりも強く、そして誰よりも脆い、可哀想な人だった。朱禍はそんな師父を愛し、敬っていたが、その愛が完全に理解されたことはなかった。そして、師父は生きている間は救われないと嘆いていたが、皮肉にも怪奇によって救いを得た。生きていれば、きっとその救いは訪れなかったのだ。師父の生涯を 振り返ると、その結末が全てを物語っているように思えた。

「おい! 聞いてるのか! 領域が崩れるぞ!」

 朱禍は、ふと現実に引き戻された。林琳がすでに怪奇を倒していたらしい。彼は泥濘から軽やかに這い出て岩に飛び乗り、朱禍の腕を掴んだ。どうやら何度も呼ばれていたらしいが、朱禍はまるで気づかなかった。

「早く!」

 林琳の力強い声と共に、腕を強く掴まれた。その力に、朱禍は驚く。

 林琳は一人で扉を開き、領域を抜け出そうとはせず、まるで当然のように朱禍を引っ張っている。ずっと嫌われていると思っていた朱禍にとって、これは大きな意外だった。

 強制的に開かれた領域の扉が、足元に出現する。

 泥濘は渦を巻き、底知れぬ闇へと吸い込まれていく。だが、それに飲み込まれる前に、二人は素早く扉の中へと飛び込んだ。林琳に押し込まれるように飛び込んだ朱禍は、一瞬体勢を崩すが、落ち着いた動きでくるりと空中で体勢を整えた。

 真っ直ぐに落下していく感覚が二人を包む。周囲の暗闇は、次第に光の粒に変わり、足元が明るくなっていく。出口が近い。

 やがて、二人は無事に現世へ戻った。だが、夜はすでに深く、更けている。

 流れる時間が異なる領域は、現実の時間とは微妙に違う。それが厄介なことだと、朱禍は改めて感じた。

「……先生からだ」

 林琳が静かに口を開いた。彼の表情は一瞬、険しいものに変わる。

「あぁ、通心かい? 私は席を外すから、好きなだけどうぞ」

「そのままどっか行け!」

 林琳はそう言うと朱禍から背を向けて話し出す。

 林琳は朱禍に背を向け、通心を始めた。その様子を朱禍は少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。最初は静かな声で、何を話しているのかまでは聞こえなかったが、次第に声が大きくなり、内容がはっきりと耳に届くようになる。「でも、先生、俺は別に……」「いつものことだし、気にしなくても……」「好きにして良いって言った!」「あいつがやればいいでしょ」「これが俺の好きなことなの!」さらに声が荒げられる。

「仁のことは知らないってば!」

 朱禍は眉をひそめた。仁というのは、おそらく同じ宗派の仲間だろうか。しかし、林琳の様子は尋常ではない。足元から黒い煙が漏れ出し、心力の制御が乱れているのが見て取れる。彼が怒りを抑えきれず、心力が暴走しているのだ。朱禍は、その光景に無意識に引き寄せられ、目を離すことができなかった。彼が心力を抑えるために何かできることはないかと考えたが、今の状況で下手に干渉するのは危険だ。それでも放っておけない。これでは、まるで余計なお世話をしているように見えてしまうだろうが——。

 "大丈夫かい、私が手を貸そうか"

 朱禍はそっと地面に小枝で短い文を書き、林琳の様子を伺った。だが、林琳はその文字をすぐさまかき消した。

「一人だよ、誰もいない」

 林琳はぎろりと朱禍を睨みつけた。その鋭い目に、朱禍は肩をすくめた。余計なことをしてしまったらしい。

 朱禍の手から小枝を奪った林琳は、今度は自ら地面に文字を書きつける。

 "ややこしくするな!"

 はて、何のことだろうと朱禍が首を傾げていると、不意に別の流れを持つ心力と接触する。

 朱禍はそれを読み取り、何のことかと首を傾げていると、突然、異なる心力が彼の意識に流れ込んできた。それは林琳の通心を通じて伝わってくる、別の存在の心力だった。

 "お前のせいだぞ!"

《うちの弟子が迷惑をかけてませんか?》

「え?」

 朱禍の全身がピリッと震えた。心の奥に深く刻まれた、忘れることのない声だった。恋しさとともに蘇る、その心力の感覚。まさか、こんなところで再び接触することになるとは。朱禍は戸惑いの波をかき消し、すぐに通心を繋げた。

「君、獅宇かい!?」

《……まさか、朱禍ですか? 丁度いい、そこの馬鹿を連れて山雫国に来てください。女帝には話を通しておきますから》

 その言葉に朱禍の目が大きく見開かれた。心臓が一瞬跳ねる。

「林琳? え、じゃあこの子が獅宇の弟子!?」

 横に立つ林琳が朱禍を鋭く睨みつける。その視線には苛立ちがにじんでいる。

「その顔やめろ。殴るぞ」

《えぇ。そのどうしようもないお馬鹿は私の一番弟子です。ああ、もう、どこをほっつき歩いているのか……。私が預けた組紐に阻害効力を追加しましたね?》

 獅宇の声が冷静に響くが、その裏に怒りの熱が潜んでいた。林琳の眉がピクリと動く。だが、すぐに無言で俯く。朱禍はその様子を見逃さなかった。問い詰められた林琳の態度には、明らかに後ろめたさが見える。

「ちょっと、許可はとってあるって言ったよね?」

 声に自信は感じられない。対面で朱禍に詰め寄られ、通心で師から咎められるという二重の圧力に、林琳は次第に言い訳を思いつけなくなっているのだろう。彼の肩がわずかに震えた。焦りが見て取れる。

《許可? 林琳、一体私が何を許可したと言うのですか。答えなさい》

 温厚な獅宇が林琳に反論する暇を与えることなく問いただすと、林琳はきゅっと口を結んで眉間に皺を深く寄せた。口元もすっかり不機嫌な形をしている。

《朱禍。頼めますか》

「あ、あぁ、勿論」

《林琳。戻ってきたら罰を与えますからね》

 その言葉に、朱禍は思わず微笑んだ。久しぶりに獅宇をからかってやろうと目論んでいたが、真剣に弟子を指導している様子を見て、逆にこちらが照れくさくなってしまう。かつて弟子を取らなかった彼が、今やこんなに手のかかる弟子を抱えているとは。

「さぁ、行くよ」

 朱禍は後退りする林琳の首根っこを掴み、にっこりと笑みを浮かべた。逃げることは許されない。林琳もそれを察したのか、抗うように身を捩るが、力の差は歴然としている。朱禍はそんな抵抗を意にも介さない。

「離せ! 馬鹿!」

「君は二言目にはそれかい。馬鹿で結構だ、ほら、足を動かして」

 林琳は力強く朱禍の腕を振り払おうとするが、彼の手はびくともしない。次第に痛みを感じたのか、眉をしかめながら叫んだ。

「痛い! 腕が壊れる!」

 だが朱禍は相変わらず笑みを絶やさない。彼にとっては、再び訪れた希望の光のような瞬間だった。ずっと待ち望んでいたこの機会を、簡単に手放すわけにはいかない。

 髪が焼かれようとも、衣が焦げようとも、後ろから小石を投げつけられようとも——それくらい、どうということはない。だが、心力を人に向けるのは無作法だぞ、と朱禍は心の中で警告しながら、相手を注意深く観察していた。

「あまり暴れると無理矢理静かにさせるけど、いい?」

 その声は穏やかだが、どこか冷たさも感じさせる。

 こうして朱禍は、知己との再会を果たすための手段を手にしたのだった。彼の心には、懐かしい希望がじわじわと蘇り始めていた。久しぶりに訪れる、再会の予感に心が踊るようだった。



「当面の間、外出は禁止。師弟達の修行を見なさい」

「師匠、俺だって本当は」

「口を慎みなさい」

 その瞬間、林琳の心に寒風が吹いた。獅宇の声は静かだったが、その静けさの中に深い怒りが込められていた。お前は何度言っても学ばない。これまで幾度となく忠告してきたではないか、と。遠出するのは構わない。しかし、連絡を怠るのは許されない。それも、もう何度目だ。

 虎視眈々と続く説教に、林琳は視線を落とした。彼の目は床に張られた木目に釘付けで、無数に連なる線を黙々と数えていた。獅宇の言葉は右から左に流れていく。すでに頭の中では説教の内容など気にしていない。ただ、無抵抗でいるしかなかった。

 最悪なことに、この男――朱禍が、運悪くも獅宇の知己であることが判明してしまった。彼の心力を封じられ、争うすべもなくなった林琳は、朱禍に引きずられながら山雫国に強制的に連れ戻されたのだ。

「ッチ」

 朱禍が鼻歌を奏でながら竹林の中を歩く姿に、林琳は恨みがましい視線を送り続けた。

「行儀が悪い」

 その冷静な声と共に、獅宇の手に握られていた洞簫が林琳の頭に軽く叩きつけられた。

「痛い!」

 痛みを感じながらも、彼は反射的に手で頭を押さえた。獅宇はさらに二言、三言と小言を加え、林琳を強く叱りつけた。

「師弟たちの面倒を今すぐ見に行きなさい」

 林琳は、まるで反論するかのように目を逸らし、僅かな不満を露わにしたが、獅宇の洞簫が再び手の中で重く響く音に、彼は怯んで一歩下がる。そして、しぶしぶ両手を胸前に組み、拱手を捧げた。しかし、顔には反省の色は一切見えない。単にこれ以上、師匠の怒りを買いたくなかっただけだ。

 獅宇が溜息を漏らす。手のかかる愛弟子を前にして、次に目を向けたのは、竹林の中で暇そうに佇む朱禍だ。古い知己の姿に、獅宇はさらに重たい息を吐き出した。

 夢天理で起きたあの大きな騒動――その話は獅宇の耳にも届いていた。朱禍と夢天理は、相性が悪いとは言わないまでも、決して友好的な関係ではなかった。だからこそ、獅宇はあの騒ぎに巻き込まれなければいいと静観していたのだ。

 しかし、目の前にいる朱禍が、その当事者だとは思いもしなかった。彼はかつて、そんな大騒ぎを引き起こすほど破天荒な人物ではなかった。昔と変わらず、どこか愉快で飄々としていたはずなのに。

「やっと落ち着いて話せるね」

 朱禍が軽く肩をすくめながら、静かに笑みを浮かべた。

「えぇ、本当に助かりました。あの子が何か……いや、すでに迷惑をかけてしまったと思いますが……」

「気にしないで。それより、君が弟子を取るなんて思わなかったよ。いったいどういった風の吹き回しだい?」

 朱禍が興味深そうに尋ねる。

「……私もそろそろ弟子の一人や二人育ててもいい頃かと」

 獅宇はそう答えたが、朱禍の表情は明らかに意外そうだった。長い間、弟子を取らず、一人で修行に励んできたはずの獅宇が、なぜ突然、弟子を取ったのか。

「あれだけ仕人を毛嫌いしていたのに?」

 朱禍がからかい半分で問いかけると、獅宇は真剣な顔で首を振った。

「違います。私は夢天理が心底嫌いなだけで、仕人そのものを嫌っているわけではありません。人聞きの悪い言い方はやめてください」

 その言葉に朱禍は思わず笑みをこぼした。彼と獅宇の出会いは、まるで村が消し飛ぶほどの衝撃的なものだった。しかし、目の前にいる獅宇は、昔と何も変わらず、穏やかな笑顔を浮かべている。朱禍の胸の内で、小さな喜びが沸き上がる。

「私は君を探してたんだけど、君は私を恋しがってくれたかい?」

 軽い口調で朱禍が尋ねると、獅宇は少し笑いながら答えた。

「そうですね。寂しくてどうにかなりそうでしたよ」

 二人は昔からこうやって冗談を交わし合っていた。やり取りはいつも軽妙で、そしてどこか懐かしかった。

「どう? 私もすっかり自由の身、誰にも縛られない放浪者になった! 君の嫌っている夢天理とも縁が切れたからね。やましいことはなにもない!」

  朱禍がくるくると回りながら大きな竹の陰からひょっこり顔を出すと、その浮き足立つ様子に獅宇はまた笑みを漏らした。そんな彼に釣られ、朱禍も自然と笑顔を返す。

 しばらくの間、二人は他愛もない話をしながら歩みを進めた。次第に、水のせせらぎが近づいてくるのがわかる。山からの湧き水が、小さな川を作り出しているようだ。朱禍は深く息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気が鼻腔を通り抜け、ゆっくりと肺へと落ちていくのを感じた。

 戦いを好まない山雫国――狭い領土のこの国にも、こんなにも穏やかな場所があったとは。朱禍はふと感慨に浸る。

 もっとこの場所を見て回りたいと獅宇にお願いしようとしたその時、突然、前方から言い争う声が聞こえてきた。

「うるさいな! この馬鹿!」

「師匠が心配してたんだぞ!」

「お前には関係ないだろ!」

「関係なくない! 家族なのに!」

「なにが家族だ、血の繋がりもないのに! いつまで経っても能天気だな!」

 朱禍はその声の主を目で追った。黒髪の若者が、怒りに任せて激しく言い合っている。彼の対面には、林琳――獅宇の弟子の一人だ。「帰ってきて早々、騒がしくてすみません。放っておいて大丈夫です」と、隣で獅宇が困ったように頭を抱えた。

 「君の弟子にしては、随分と口が悪いね……どこで拾ったの?」

 朱禍は冗談交じりに尋ねたが、その口調にはどこか驚きが滲んでいた。

 口の悪さは餓鬼のようだが、見たところ仕人としての能力は相当に高い。しかも珍しい心力を持っているようだ。そんな逸材ならば、噂の一つや二つ、朱禍の耳に届いてもおかしくはない。それなのに、彼の記憶には何もない。まさか、修行を積んでごく最近頭角を現したのか? いや、それにしては手慣れすぎている――朱禍は訝しげに若者を見つめた。

「もう……」

 獅宇はため息をつきかけたが、朱禍が笑って肩を竦めた。

「いいじゃないか。年頃の男は喧嘩もよくするものだし」

 言い争いは、やがて殴り合いに発展し、二人はあっという間に取っ組み合いになっていた。朱禍は、その様子を眺めながら、自分には年の近い男友達がいなかったことを思い出す。無意識に口にしたその言葉が、後から妙に空虚に響いてきた。それでも、年端もいかない弟子に振り回されている獅宇の姿や、孤高を好んでいた彼が弟子を取ったという事実が、どこか微笑ましく、愛おしく感じられた。

「ああやって、大人になっていくものさ」

「あなた、弟子を取ったことはないでしょう」

「いないね! でも夢天理で、あの子たちと同じくらいの年頃の子供たちの面倒を見たことがあるから、何となくわかるよ。やんちゃなのは今だけさ。あっという間に巣立っていくさ」

 自身ありげに語る朱禍に、獅宇は「やれやれ」と首を振りながらも、なおも争っている二人に声を掛けようとした。しかし、その前に二人の言い合いは続く。

「だって師匠! 林琳が!」

「うるさい!」

「分からず屋!」

「役立たず!」

 耳を劈くような声が飛び交う中、ついに獅宇が雷を落とした。二人の頭には、それぞれたんこぶが出来、湯気が立ち上っているかのようだった。

「来客の前で騒がしい。林琳、仁、情けないですよ。恥を知りなさい」

 林琳は不服そうに鼻を鳴らし、最後の抵抗とばかりに仁の頬を抓った 

「ふんっ」

「林琳!」

「弱者は必要ない」

 確かに正論だが、師弟に対しては随分と棘のある言葉だった。もし朱禍が彼の師なら、柱にくくりつけて罰を与えるところだが、獅宇はただ林琳の頭をぺしりと軽く叩いて、それで終わりにした。

 仁は泣きそうな顔で目尻に涙を浮かべ、鼻を啜っている。どうやら林琳の方が、立場的にも腕前的にも上らしい。

「泣くのはおやめなさい。強くなるのでしょう」

「……はい、師匠」

「ほら。お行き。もうすぐ昼餉の時間になりますよ。支度をしなければ」

 仁は地面に置いていた籠を抱え直す。その中には、大根や白菜、他にもたくさんの根菜が山積みになっており、泥がついたままだ。どうやらつい先程まで畑で収穫していたらしい。

「そちらの方もお召し上がりに?」

「ええ。頼めますか?」

「はい」

 昼餉をご馳走してくれるようだ。

 門前払いをされることはないだろうと思っていたが、意外にも警戒されていないらしく、朱禍の心はますます高揚していく。

「せっかくここまで来たのだから、羽休めでもしていっては?」

「え?」

「ふふふ。私だって時には友と語りたい日もあります。あなたは摩訶不思議な話が特段上手ですから、ぜひ弟子たちにも聞かせてやってくれませんか?」

「……さては楽をしようとしているね!」

「おや、滅相もない」

 子育てに疲れたのかと軽口を叩くと、意外にも弟子を育てるのは楽しいものだと笑った。

「あなたと別れた後、ちょっとした縁がありまして。恐らく今年で十六になったはずです」

「恐らく?」

「えぇ。恐らく、です。まぁ実際本人も否定しないので……ちなみに、仁も恐らく今年で十三になりますね。仁に関しては幼少期の記憶がごっそりと抜けていて、名前さえ覚えていない状態でしたので……おおよそ、といったところです」

 林琳よりも頭一つ以上背丈に差があるのを見れば、確かに三つほど離れていても不思議はない。

「仁はやたらと怪奇にちょっかいをかけられるし、まだ一人で外には出せません。それが不服なのでしょうね」

「……仁、か。いい名前を付けたね。おもいやり、慈しみを忘れない。うん、とてもいい名だ」

「そうでしょう。仁は知りませんが、実はあの子がつけたんですよ」

「林琳が?」

「はい。あっ、林琳から口止めされているので秘密にして下さいね」

 朱禍は、細く長い人差し指を唇に当て、二人だけの内緒だと言う。その横暴な性格からは到底考えられない名を付けたことに、少し驚いた。

「林琳のような特殊な心力を持つ者は少ない。道を間違えないように君が導いてやらないと、取り返しのつかないことになる。普通の弟子を育てるのとは訳が違う」

「あなたの言いたいことはわかりますよ。ただ、あの子は……」

 獅宇は言い淀むと、視界を遮る目覆いに触れた。

「どうかした?」

「……気性が荒いので、朱禍も手を焼くかと」

「おいおい、本当に私に教鞭を取らせる気なのか」

「うちは貧乏なんですよ。私と林琳で主な資金は調達できていますが、稼ぎ手は多い方がいいでしょう。ほら、あなたは昔から得意じゃないですか」

 仁や他の子供たちはまだ独り立ちに程遠いので、林琳と獅宇が拠点に残る形でやりくりしているのだ。

「今までどうやって生活していたんだ……」

「山雫国の女帝が不足分を工面してくれています。形はどうあれ、山雫国の御手元ですから。あとは旧友が立ち寄ってくれる際に仕事を貰っています」

 朱禍はきょとんとして首を傾げた。

「私の心力は後遺症を和らげる性質がありますから。旧友が厄介な後遺症を負った人を連れてくるんです」

 そう言われてみれば、確かに獅宇は時折治療を施していた。本人は気まぐれで金銭が絡むのを断固として拒否していたが、今は甘んじて受け入れているのだろう。獅宇の旧友となれば、断る前に金を握らせると思う。知己が拒否しようとも、治療には大きな価値があるのだから、朱禍ならばそうするだろう。貰えるものは貰っておけ精神だ。

「まぁ、嫌ならばどちらでも構いませんよ」

「どこからが本音なのか相変わらずわからないよ!」

 冗談か本気か。

 冗談か本気か、獅宇の言葉は最後まで判断が付きにくく、いつも長話をしてしまう。

「ふふふ。あなたの反応が面白くて、つい意地悪を」

「君は昔からそうだ……そうやって私を揶揄って遊んでいた」

「嫌でしたか?」

 嗚呼、もう! 嫌だったら君を探したりしない!

 と、簡単に言い返す訳にもいかず、ぐっと堪えて苦笑いで場を誤魔化した。女々しくて何とも情けない。

「そこ、段差がありますので気をつけて」

「段差じゃなくて瓦礫じゃないか!」

「修理が追いついていないんですよ」

 段差というには大きすぎる瓦礫が転がっていて、よく見ると他にもちらほらと飛んできたであろう木の屑が散らばっている。獅宇曰く、修行の最中に横着をした弟子がいたらしく、それに加わったやんちゃな子供たちが陣をうっかり壊してしまったらしい。心力を用いた修行が巻き起こす悲惨な光景を想像するだけで悪寒が走った。

「ねぇ、獅宇。やっぱりあの子は……」

「師匠ー」

 朱禍の声に、間延びした声が被さり、砂利を踏み潰す音が聞こえた。

「これ絶対に終わらないよ。もう諦めて依頼しようよ。ほら、安爺が暇してるだろうし……って……お前、まだいたの」

 林琳は朱禍を見つけると露骨に嫌そうな顔をし、獅宇を見つめた。さながら親にわがままを訴える子供のように。

「暫く世話になるよ」

 ぴきり、米神を抑えて和やかに片手を上げて挨拶をする朱禍に林琳は驚愕した様子だ。

「ねぇ、師匠、嘘だよね? え、暫くってどのぐらい? 三日ぐらい?」

「そんなに私を追い出したいのかい」

 ぐぬぬ、とこちらを睨みつけてくるが、猫の威嚇程度で朱禍には意味を為さない。

 獅宇が付き合いは大事にするべきだと告げると、林琳はわざとらしく肩を落として大きく落胆した。

 もうどうにでもなれ。宗主の意思だ。決定事項を変えることはできない。

「穴の修復は安爺さんに依頼してもいい?」

「構いませんよ」

「昼餉には間に合うと思うから今から行ってくる」

「はい。手土産も忘れずに」

「はーい!」

 林琳はうさぎのように飛び跳ねながら瓦礫を飛び越え、小屋から馬を一頭引き出すと、獅宇に手を振った。

「行ってきまーす!」

 門をくぐった途端、馬を走らせた。軽快な足音が乾いた空気を響かせる。

「外出禁止じゃなかった?」

「山雫国の領土であれば許可しています。林琳は良くも悪くも目立ちますからね。悪さをしたら即刻女帝から鞭が飛びますので、安心して下さい。流石にあの子も女帝には逆らいません」

 山雫国ではお馴染みの光景なのだろう。密告する国民の様子が容易に想像できた。

「あははははは……」

「それにしても、見事に嫌われましたね」

  獅宇は苦笑しながら言った。山雫国に連れてくるまでに多少強引な手を使ったが、ここまで嫌う理由になるのだろうか。しかし、決して害を与えたつもりはないのだと弁明する。知己が大切に育てている弟子を傷つけたとなれば、縁を切られかねない。

「神に誓って、私は彼を」

「わかっていますよ。それに、あの子はあなたに気を許しているようですから。師としては喜ばしいことです」

「どこが!? 聞き捨てならないんだけど!?」

 天と地がひっくり返っても信じられない。朱禍は道中の言動を事細かに説明した。

「暴れるし、石は投げられるし! 挙げ句の果てに、見てよ! 私の美しい髪がこーんなにも短くなってしまった! 衣だって、ほら! ここが!」

「こんがり焼かれなくて何よりです」

「まったく! 君の弟子じゃなかったら顔面に一発叩き込んでたよ」

「あんまり虐めないで。あの子も反省していましたから」

「どこが!? さっきの態度を見ただろう! 特にあの目! まるで蛆虫を見る目だった!」

「それは……誰に対しても同じです。すみません」

  何度も躾けてはいるが、こればかりは改善の兆しが見えず、早々に諦めた。林琳には常識や身の振る舞い方を教えるのは、雨水が砂糖水に変わるぐらい厳しい。ずっと昔から性格だけでなく思想までもが捻くれてしまっている。

 可愛げがない。朱禍は口を尖らせて言った。

 獅宇は朱禍の衣を弁償するにはいくら必要かを計算しながら、林琳を当面の間女帝に貸し出す方向に決めた。きちんと対価は支払われるし、元はと言えば林琳が原因であちこち修理しなければならなくなったのだから、拒む理由もないだろう。馬車馬の如く働いてもらおう。うちは他所に比べて裕福ではない。

 段々と日が傾く準備を始めた頃、食欲を誘う香りが鼻を掠めた。さほど広くはない拠点ではあるが、女帝の指揮のもとに建てられたのだから、造りはしっかりしているし、隅から隅まで恥ずかしくない造形美で形取られている。

 朱禍は高い天井で揺れる紗幕が涼しげに揺れているのを眺めながら、ほぅ、と感嘆の声を漏らした。自由に気の向くまま歩いていたが、ここはどこだろうか。日差しが暖かく差し込み、窓から入ってくる乾いた風が汗ばんだ背中を撫でて心地良く、澄んだ心力に包み込まれた身体は羽が生えているかのように軽くなっていく。獅宇の心力で満たされた空間は非常に静穏で、時が止まっている錯覚を起こさせた。

「師匠、こちらにいらっしゃったのですか。支度ができましたので、どうぞ」

「ありがとう。すぐに行きます」

ひょっこりと顔を覗かせた仁に案内されて、朱禍は片燕で昼食を終えた後、すぐに獅宇に呼ばれて客房を与えられた。

 豪華すぎる内観に間違いではないかと尋ねれば、どうやら女帝の趣味らしく、拠点を建てる際に工面した予算の半分がこの空間に費やされたようだ。

 やけに高そうな壺、巷ではお目にかかれない骨董品。客房に似合わないそれらが必要なのかはさておき、朱禍は逆に身体が強張りそうだと苦笑した。

「他に何か必要なものは……?」

 仁が一通り説明を終えたところで、朱禍は首を横に振った。

「十分すぎる。ありがとう」

「こちらの転送陣を使えば、麓の疗养温泉に繋がります。ご案内しましょうか?」

 仁が大きな窓に触れると、窓枠が柔らかく光り、空間を繋ぐ。

「帰りはこちらをご使用ください」

 手渡された鍵を透かしてみると、細かい文字が刻まれており、円状に連なる文字は転送陣を組み込んでいるようだった。

「凄いね。こんなに繊細な陣は初めて見たよ」

「ありがとうございます」

 頬を赤らめて口元を覆う仁に、朱禍は「これは君が?」と首を傾げると、獅宇をちらりと見て照れ臭そうに頷いた。昼餉に出された食事も舌が転げ落ちるほど美味だったと素直に告げると、仁は嬉しそうに笑い、明日の昼餉も楽しみにしていて欲しいと遠回しに伝えられた。

 焦らずとも、まだ時間はたっぷりある。朱禍は獅宇に再会を祝って酒を飲み交わそうと誘った。快く承諾した獅宇に、朱禍は舞い上がった。

 そうして長い夜を過ごすこととなる。文字通り——想像以上に……とても長い夜だった。

「もう休ませてくれないかな!」

「さぁ、次に行きますよ!」

「心力が尽きるよ! この鬼!」

「昔に比べたら序の口でしょう。ほら、次です」

 あちこちに張り巡らされた転送陣を用いて、辺境の地だけでなく、戦の痕跡が残る荒野まで足を運び、怪奇の痕跡を辿る。生まれたばかりの領域であれば一刀両断で片付け、惜しくも未練を残し命を落とした人の影を感じ取れば、情けをかけてやる。

 輪廻に戻れないとしても、耳を傾けて最期を見送ることが彼らに対する誠意だと言う。それに、このまま放置していればいずれ怪奇の餌になってしまうだろう。

 昔と何一つ変わらないお人好しの知己だった。

「よし、片付きましたね」

 若干扱いが雑な気もするが、影の気配も領域も綺麗に消え去っている。

「そう言えば……虚狼衆から嫌な噂が漏れ出していましたが……何かご存知ですか?」

「あぁ、なんだ。知っていたのかい」

「ちょっとした情報通の男がいるんですよ。跡形もなく拠点が吹き飛んで、挙げ句の果てには死者も出ていると聞いています。夢天理も目を光らせていたでしょう。一体何が?」

「うーん……私は君を危険に巻き込みたくはないんだけど」

 何があったのか。

 何があったのか。それは、とんでもない研究をしていた天才たちがいて、墟狼衆を滅茶苦茶に掻き乱した後、忽然と失踪し、研究内容すら闇に葬られたことを指すのだが、今や宗派の宗主ともなった人間には語るべきではないだろう。この事件は夢天理でさえも手に負えず、墟狼衆に丸投げをしている。

 朱禍は申し訳なさそうに視線を逸らして転送陣を発動させた。

「……なるほど。知らぬ方が吉と言った所ですか」

「そういうこと」

 折角、酒を飲み交わせると思っていたのに、速攻で資金調達に付き合わされるとは。仁が昼餉と表したのは、獅宇が連れ回すと踏んだからだろう。つまり、昼には戻れる手はずを整えているはずだ。気分転換だと思えばいいと獅宇は言うが、昔よりも酷使されている気がする。

「さぁ、あと三か所残っています。急ぎますよ」

 転送陣から巻き起こる風に包まれながら、朱禍の心臓はドクン、と疼く。用途は違うが、符を多めに持ってきていてよかった。

「その前に心力を借りてもいいかい? 君の心力は貴重だから記録させたくて」

「もしかして林琳の心力も記録を?」

「してないしてない! 寧ろ符の方が隠の気にやられたよ」

 一瞬で灰になるほどの気を溜め込むなんて——正気の沙汰ではない。制御できない心力を手の内に抱える恐ろしさをよく知っている。最終的に朱禍自身が被害を被るだけだ。潤沢に蓄えられた心力が沁みた符を受け取ると、朱禍は満足げに頷く。

 ——これだよ、これ。この安心感!

 相性が良い心力は己の心力を上昇させる効果があり、朱禍はくるりと符を操り短剣に吸収させた。

「次から金銭を要求しましょうか」

「いやいや、そこは知己の間柄に免じて……」

 悪用しているわけではないのだから許して欲しい。

「ふふふ、では私にも心力を分けてくれますか?」

「え、私の?」

「それとも金銭が必要でしょうか」

「え、本当に私の心力でいいのかい……? あ、いや、渡すのが嫌なんじゃなくて……君にならいくらでも!」

 並々と注いだ心力に耐えきれず、一枚また一枚と符がびしょ濡れになっていき、やっとの思いで完成した符を獅宇へと強引に押し付けた。困った、顔が熱い。触れずともわかる。頬までもが熱って、湯気が出そうだった。獅宇と視線が合わないことが唯一の救い。

 熱を持った指先が無意識に白く靡く目覆いに触れると、端を折り逃げていく。熱は未だ下がらない。次第に疼きは大きく波打ち、耳の奥で鼓動を響かせた。——じゅくり。熟した果実が潰れる。

「なにか?」

 片燕の弟子たちは己の知らない獅宇を知っている。この先も師を仰ぎ、共に宗派の名声を轟かせ、多くの時を過ごしていく。帰る場所を自らの手で作り上げた獅宇と、放浪者となった己が自由気ままにのんびりと旅をすることもなくなるだろう。

 ——人々に聖人と持て囃された知己に対して渇きを覚えたのが間違いなのだ。獅宇に出会わなければ、夢天理によって囲われた世界が全てだと疑いもしなかった。夢天理の存在を非難するわけではない。あれはあれで存在しなければならない重要な組織だ。人の世に蔓延る怪奇を祓うため、紛争や戦争を抑えるため、力無き人々を助けるため——。機能しなければ失われる命も数知れず。必要な犠牲と言われてしまえばそれまでだが、一人一人が細い縁を紡ぎ続けた繋がりを無碍にすることは朱禍の意に反することだった。

 すっかり忘れていた感覚を覚えたのも、目の前にいる知己がきっかけである。己を変えてしまう強い輝きに出会ってしまった。そう、ただ、運が悪かったのだ。

「朱禍?」

 無意識に、師父の口癖が口から転がり出た。

干上がった砂漠に落ちた一滴の雫。それは、潤いの象徴であり、心の渇きを癒すもの。

その雫がなければ、今日も変わらずに祈りを捧げ、明日も、明後日も目まぐるしく消えゆく命を眺め続けていたに違いない。

運が悪かったのだ。

 ——君が私に水を与え、渇きを覚えさせてしまった。

「……嗚呼、君は運が悪い」

「運が悪い? おかしなことを言いますね」

 獅宇は洞簫を器用に指先で回し、あたりに漂う怪奇を一掃する。

「私が選び、決断したことに運など関係ありません。あなたと出逢ったことすら、私が掴み取った結果なのですから」

 勝手に決めつけるなと、獅宇は洞簫を朱禍に突きつける。

「今の私は、過去の私が作りあげたものです。運が良かったのは、私が正しいと思う決断を下し続けている、それだけの話です」

 幸せかどうかは己が決めること。運は天にあり、されども決めたのは己の意思だろう。

 後悔をすることはもちろんある。選択を間違えたと悔やむ時もある。しかし、それを運のせいにしていては前に進むことはできず、過去に囚われたままだ。

「あなたはどうですか?」

 師父が亡くなった時、確かな喪失感を覚えたが、師父の選択を攻めたことは一度もなかった。

 夢天理を捨てた時、これでいい、と胸を張って歩き出せた。

「今のあなたが幸せだと感じているのであれば——」

 乾いた心に染み渡る一滴の雫。

「きっと、正しい選択をしたのでしょう」

 それを運だと片付けてしまうには、勿体無い。

「ちなみに私の知己は運如きに左右されません」

 そう言って獅宇が柔らかく微笑むと、朱禍は居ても立っても居られず、彼を腕の中に閉じ込めた。

いつだってこの男は欲しい言葉を与えてくれる。馬鹿馬鹿しいと嘲笑うこともない。

「朱禍、苦しいです」

 視界を覆われている獅宇は、予想外の出来事に身動くが、温もりの主が朱禍だと知って肩の力を抜く。

 ぺちぺちと獅宇が朱禍を叩いて解放を促すが、力は増すばかり。体格の差がなくとも一方的に抱きしめられると、力の逃げ場がなく、なすがままだ。本当にこの男は、時に予想のつかない行動をする。今まで一度も悪いようにされたことはないのだから、このまま満足するまで抱き付かせておけばいいだろう。

 諦めて月を眺めている獅宇は、朱禍が指先に短剣を滑らせたことに気が付かない。

「やっぱり君は最高だよ!」

「は、はぁ?」

「決めた!」

 朱禍は獅宇の肩を掴むと高らかに宣言する。

 君が愛したもの。

 君が大切に抱くもの。

 ——私は残りの生涯をかけて君を護るとこの血に誓う。

「ちょ、ちょっと朱禍! あなた何を勝手に……!」

「だから君も私に誓ってほしい」

 ぽたり、ぽたりと滴る血が足元で花を咲かせた。

 鮮やかな花に溶け込む心力が獅宇に絡み付く。

 ——絶対に君を傷付けない。

 ——何が起ころうとも、君の味方であり続けるから、どうか私を。



「よっこいしょ……」

 夜も寝静まり、人工的な灯りさえ消え去った劉鳴国の蔵書閣で、一つの人影が揺れる。頼りない灯りを捨て、朱禍はお馴染みの符を燃やし、避難経路と呼ばれる抜け道を目指した。

 大切な知己の弟子たち。時折手のかかる子供たち。

 関係性に名前を付けるまでもない存在だったが、いつの間にか随分と絆を深めてしまったようだ。

 護るべき可愛い教え子のためにも、ここは古強者が一肌脱ぐとしよう。

「さて、どこから始めようか」

 暗闇の中、朱禍は人知れず微笑んだ。

 危険が伴うだろうが、問題はない。

 死霊に特化した知己がいる。

 呪いを解く術を持つ者がいる。

 誰よりも繊細な心力を持つ者がいる。

 繋がりは確かに存在し、その渦に朱禍は身を置いている。恐れる要素など、どこにもない。

 そして何より——私は運が良いのだから!



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