たまわりものの小間使い

@ttk88

第1話

たまわりもの1




 賜りものの小間使い



 使用人の峰子はいつも夜明け前に目を覚ます。今朝もきんと冷たい朝の空気が屋敷中を包み込んでいた。

 どんなに寒くて起きづらい日でも、外がかすかに明るくなった頃には屋敷にいる誰よりも先に早く目が覚める。これは峰子の得意技だ。

 ただ、最近はそんな目覚めも悪くなりつつあった。

「うーん。寒い……」

 ごろりと寝返りを打った拍子に冷え切った空気が布団の中に入って来る。暖かい世界から出るのが億劫だ。

 せめてもの抵抗とばかりに再び目を瞑ってみたが、そのまま寝落ちてしまうのが怖くてやっぱりやめた。意を決して峰子は自分の体から布団を剥がす。

「……」

 やっぱり眠いし、寒い。身震いしながら布団の上にかけていた半纏を引っ掴んで肩に掛けた。

 目覚ましついでに障子窓を開けると、東の空がかすかに明るくなっているのが見える。窓から見える景色を覆い尽くすように庭の花々が生い茂っているので、そのわずかな日光でさえも遮られそうだ。たいして明るくならないうえに外から冷たい空気が流れてくるが、それでも構わないと思えるくらい峰子はこの庭を眺めるといい気分になった。

 寒さを跳ね返さんばかりに濃い色で咲いているのは椿の花だ。深い緑の葉の中で赤と白の花が競い合うように咲くさまはずっと見ていられるほど美しい。

 大きく息を吐くとそのまんまの形で空気が白く濁った。

(眠いけど、今日も頑張ろう)

 今は寒いので見頃の花も少ないが、もう少し暖かくなれば庭中をあらゆる花が埋め尽くすことだろう。

 ここ、峰子の勤める屋敷である日摘家は近隣の住民から花屋敷と呼ばれている。

その名の通り季節に応じて広い庭にあらゆる花が咲き乱れるからだ。染井吉野に藤、紫陽花、牡丹、椿など。年がら年中たくさんの花を楽しめる。

 家の中にも時折花が生けられているのだから、まさに花づくしである。

 ただ不思議なことがひとつ。この家には庭師がいない。これだけの花があれば手入れするのも大変そうだが、それらしき人が屋敷を出入りしているのを見たことがないのだ。屋敷に勤め始めてすぐ、庭師がいないことに気づいた峰子はその仕事が自分に回ってくるのではないかと密かに危惧していた。しかし勤めてひと月ほど経っても庭仕事を任されることはなく、屋敷の中で家事をこなしながら平穏な生活を送っている。

 庭でひっそりと佇む椿の赤に峰子は目を奪われる。しばらくそうしているとメジロが飛んできて花を啄みにやってきた。椿の真ん中にある黄色い筒のような部分をおいしそうにつついている。

(落ちた椿はどうなるんだろう。腐ってしまわないのかな)

 これだけたくさんの花がついていると、花の時期が過ぎてから大変だろう。落ちた花で散らかった庭の掃除は自分の仕事になるのか、それともそのまま放っておけば次に咲く花の肥やしになってしまうのだろうか。

 そんな事を考えていると空が色づいてきた。

 峰子はまだぼんやりした頭を働かせ、身支度を整える。そろそろ朝餉を作らなくてはいけない。

 作る食事は四人分。

この屋敷の当主で長男の涼一、妹の莉花、結花、そして味見用もかねて自分のぶんだ。

 峰子が務める屋敷の家族に親はいない。父親は早くに他界しており、三人のきょうだいの母親も数年前に病でこの世を去ったらしい。後ろ盾がなくなったこの家は没落してしまうのかと思いきや、その心配はないようだった。

数えで二十歳になる涼一がこの家の財政管理を一手に担っているらしい。峰子から見ても彼は若き当主として不足ないしっかりした人である。初めて会った時にその雰囲気と顔立ちに圧倒されたが、頭脳と胆力もただ者のそれではないらしい。

彼がいる限りこの家は大丈夫だろう。

(せっかく見つかった仕事なんだから、職場が安泰でいてくれないとね)

 下世話なことを考えながら、峰子は廊下の冷たさに耐えて炊事場を目指す。

 今日の朝餉は小松菜と豆腐の味噌汁にさつまいもの煮物、それに前日から仕込んでおいたふろふき大根だ。

 米を研ぎながら峰子は今朝の段取りを考える。

 広い炊事場に立って料理をするのは嫌いではない。考え事をしたり、頭をぼんやりさせたりするのを繰り返して手を動かすのは不思議な心地よさがある。

(作っておきながらこんなこと思うのもなんだけど、家柄の割にはすいぶん質素な食事だな。お屋敷はこんなに大きいのに)

 勤め始めた頃はもっと品目を増やすように工夫して、主菜には鯵の干物や焼き鮭を出していたのだが、朝はあっさりしたものだけでいいという涼一の希望で今の精進料理のような献立を出すに至った。

 峰子が住み込みで働いている日摘家は爵位持ちの高貴な家である。歴史は平安時代まで遡り、神職に携っていた貴族の末裔だとか。

 だが御一新から間もない頃とは違い、華族の中には身分は高くとも経済状況が思わしくない家も増えてきた。日摘家の人たちはいつか自分達が困窮するかもしれない日に備えて質素な食事を作るよう峰子に申し付けているのかも……などと勝手な想像をしては峰子はひとり陰湿な妄想を楽しんでいる。

 この職場にはそんなことを気ままに話せる使用人仲間は誰もいない。そのせいで頭の中の独り言を持て余す時間ばかりが増えている。

(まあ、いざとなれば家財道具を売れば困らないよね。それだけでも孫の代まで暮らせるくらいのお金が入って来るはずだし)

 食器棚から高そうな皿を取り出して、完成した料理をよそう。いい皿に乗せると質素な料理も美味しそうに見えるので峰子はいつも助かっているのだった。

米が炊けたところで料理の盛り付けも終わり、ようやくひと息つける。ここからは峰子の食事の時間だ。朝から何も食べないまま動き続けているのでいつもこの時間にはすっかり空腹になっている。

「よーしできた。いただきますっ」

 ちゃっかり自分の料理もいい皿に盛り付け、味見を兼ねた朝食を摂る。

 前に勤めていた屋敷では炊事場に腰掛ける場所があったが、日摘家にはそれがないので調理台の前で立って食べるのがいつもの習慣だ。

 茶碗に盛りつけた炊き立ての米は粒が立っていて程よく水を含んでいる。つい食べ過ぎてしまいそうになるが、日摘家の人たちが食べる分が足りなくなると大変なのでおかわりは控えめにしようと峰子は思った。

 さつまいもはよく味が染みていて甘く、大根は芯までしっかり出汁の味がした。日摘家の人たちに出す盛り付けは彩りをつけて三つ葉を添えようかなと考える。

「そろそろ誰か起きてくる頃だな。早く食べ終わらないと」

味見という名目があるとはいえ、主人たちも食べる食事に先に手を付けているのは印象が悪いだろう。それと単純に立って飯を食べている姿を見られるのが恥ずかしい。

 当主の涼一はもう自室で身支度を終えている頃だろう。

 茶碗の米を片づけた峰子はごちそうさまを唱えて食器を水につけた。自分の分だけ洗い終えた頃に朝餉の準備をすれば、丁度いい時間になるはずだ。

「それにしても、私はいつまでこの屋敷に居られるかな……」

 皿を洗いながら峰子は独り言つ。格子窓の外を見るともう空はすっかり明るくなっていた。

 日摘家の小間使い、峰子の目的。それはこの屋敷を出ていかされることなく働き続けることである。一見叶って当然のような些細な願いだが、当の峰子にとっては重要な問題だ。峰子はある場所から離れることができず、そこからちょうどよい場所にある日摘家に縋るほかないのだ。

 伝手も特別な職になるような技術も持ち合わせていない峰子ができる仕事と言えば使用人として家事を請け負うくらいである。同じ地域でそれ以外の職を探すのは難しいだろう。

 つい最近まではこの近くにある商人の屋敷で働いていた峰子だが、そこでは人間関係や忙しさに見合わない給料に悩まされていた。意を決して口入屋へ行き他の勤め先がないか尋ねたところ、ちょうど日摘家で使用人を探しているという話があり、そこから先はとんとん拍子に転職が決まって今に至る。

(そういえば私がすんなりここへ来られたのは、私の前にいた人が辞めたからだったな)

「なんでこんないい所辞めちゃったんだろう」

 今は峰子しかここで働いていないが、もともとこの屋敷にも複数の使用人がいたらしい。峰子が働き始めた頃にはみんな辞めてしまい、最後に働いていた人と峰子が入れ替わる形となった。なのでこの屋敷は常に人手不足の状態だ。当主もそのことは理解しているらしく、使わない部屋は掃除しなくてもよい、食事も無理に品数を増やさなくて良いなどと峰子に対する配慮を示してくれる。

 それに、前の職場のように馬車馬のような扱いを受けることがないのはありがたかった。日摘家では全ての仕事を峰子一人で賄うので大変だが、それに見合う給与がある。雇い主の人間性にだって問題はない。

 そんなわけで、峰子は日摘家にいた以前までの使用人たちが一斉に辞めてしまったことを不可解に思っていた。

 おそらく、最低限の人員まで使用人の数を削らなければ給料を払いきれなかったのではないかなどと最近は考えたりしている。

(もしこの家が金欠なら、雇われの身としては少し心もとないな。出て行けと言われるのは困るもの)

 どうかこの小さな家庭が安泰でありますように。そう願って峰子は食べ終えた朝食に手を合わせた。





 峰子が朝食を用意していると、この家の末っ子が起きてきた。峰子より少し背丈の低い彼女の名は日摘結花という。

「あぁ~。眠い」

「おはようございます。結花さん」

「おはよう。峰子さんは今日も早いねぇ」

 いかにも寝起きといった様子の結花まだ目を眩し気に細めている。

 結花は数えで十六歳になる。姉と同じ女学校に入学したばかりの女学生だ。

 幼さがまだ消えない印象の彼女はきょうだいの中でいつも最後に起きるのだが、今日は珍しく早くに目が覚めたらしい。

「今日は随分早いですね。ちゃんと眠れましたか」

「うん。今日のごはんさつまいもだったな〜って思い出したらお腹空いちゃった」

「あはは。覚えていたんですね。嬉しいです」

早起きの理由の合点がいった。昨日の夜に結花と今朝の献立の話をしたのだ。いつも食材を調達している八百屋で美味しそうなさつまいもがあったから、どう調理しようかと峰子は相談していた。

「甘く炊きましたよ。結花さん甘いの好きでしたよね」

「やった〜……」

 結花はお気に召したようで、まだ半分しか開いていない目をさらに細めて喜んでくれた。彼女は料理というより菓子が好きなので、その延長で甘い味付けのさつまいもを好むのだろう。いずれにせよ自分の仕事が誰かに喜ばれるというのは嬉しいことだ。

「今日の結花は早起きだな。雨でも降るのか」

「あら兄さま。おはよう」

「おはよう」

 峰子たちが話していると、長男も朝餉を摂りに起きてきた。この家の当主、日摘涼一である。

 寝巻のままの結花と違ってばっちり身支度を整えている。

 彼はまだ若く結婚もしていないが、家長としていつでもしっかりした印象の人である。とんでもなく顔が整っている涼一は朝っぱらから目力が強い

「おはようございます、涼一さん」

「おはよう」

「兄さま、今日の朝ごはんは美味しいよ〜」

「そうなのか」

「いえ、さつまいもを炊いただけですよ」

結花はまるでごちそうでも楽しみにしているような言い方をする。涼一にまであまり期待されては困ると思い待ったをかけた峰子だったが、その必要はないらしかった。

「おお。うまそう。さつまいもうまいよね」

「……そ、そうですか?」

 普段は冷静沈着な涼一が見せる年相応な反応に、峰子は少し嬉しくなる。

 日摘家の人たちにはお金持ちや高貴な血筋の人と聞いて想像するような高飛車な感じがない。勤める前、日摘家は両親がいない子供だけの家だと聞いた時には何か訳ありかと思い構えていた。しかし今では峰子は自分がそんなことを考えていたのも忘れかけている。

 お互いに寄り添い合うように生きている三人の営みを守れるのが嬉しかった。

「朝餉をお部屋に運びますから、ちょっと待っててくださいね」

 いつもより少し早いが、じきに長女もここへやって来ることだろう。峰子は厨から三人分の膳を一気に運び出した。

 膳を運び入れ、整えた食事の場に米櫃を持っていけば準備完了だ。

「ごはんできましたよー」

 峰子が声をかけるとやはり結花が一番に入ってきた。艶々とした黒髪が口に入らないよう髪を一つに束ねている。寝起きの時は細くなっていた目もぱっちり開いていた。

「お腹空いたー。早く食べよう」

「はいはい」

 あどけなさが残る結花とは対照的に、兄の涼一はくっきりした目鼻立ちが凛々しく男性的だ。近所のおばさま方の間で美男子と評されるだけはある。主人の顔わじろじろと見つめるのは不躾かとは思いつつも峰子はいつも涼一の顔に視線を惹きつけられてしまうのだった。

「あら、今日は私が最後ね」

 その場の全員が声の主に視線を送る。

「莉花さん。おはようございます」

「おはよう、峰子さん。今日もご飯いただきます」

 飾り気のない、でも優しくて丁寧な言葉遣いに峰子は惚れ惚れする。寒い中朝早く起きた甲斐があるというものだ。

 日摘家の長女、莉花はとても美しい。

 彼女は結花とひとつしか歳が変わらない筈だが、実際の年齢よりも落ち着いて見る。少し垂れ気味な目元は華やかなのにどこか儚げで、はっきりとした顔立ちの涼一やかわいらしい印象の結花とはまた違った色気がある。

「お口に合えば良いのですが。では、またお食事が終わった頃に下げに来ます。ごゆっくり」

 全員が部屋に入ったのを確認し、峰子は下がる。いくら使用人と家族の仲がいいとはいえ、食事の時間に長々とその場に居続けるようではいけない。

 それに、峰子にとっては三人がのんびり食事を摂ってくれることがありがたかった。

(ご飯を食べ終わったら皆それぞれ支度をするだろうし、半刻後くらいにまた行ったらいいか)

 廊下を歩いていると、瞼が重くなる。ひと仕事終えたせいで気が抜けたのか、足から力が抜けていくような気がした。

「……少し、寝よう」

 無意識のうちに峰子は疲労感に満ちた溜息をこぼした。一人になった途端気が抜けていく。

 とても、とても眠い。それに疲れた。朝起きて間も無いのにと少し情けない気持ちになったが、近頃は涼一たちが食事を摂っている間に仮眠をとるのが習慣になっているから仕方がない。体が眠気を覚えるようになってしまったのだろう。

「ちゃんと休めるときに休まないと……」

 部屋に戻ると峰子は出したままにしていた自分の布団にくるまった。横になりたいが、寝過ごすのが怖いので両膝を立てた姿勢で座り丸くなる。それだけで寝りに入るには十分だ。

 目を瞑ると意識に靄がかかってぼうっとした。

(莉花さん、今日も綺麗だったな。涼一さんもいい男だし。結花さんもかわいいし。みんな優しくていい家だ)

 庭の花や、峰子しか使用人がいないことなど妙な点もちらほら見られるが気にしなければ良いことずくめだ。今のように食事の合間に睡眠を取れるのもそのひとつ。気を遣う目上の使用人がいないから、仕事さえきちんとしていれば自由がきく。

 この屋敷での暮らしを思い返すうちに、峰子の意識はまどろんで溶けた。





 峰子が眠っていることを知らないきょうだいは今朝も平和に食事を続けていた。涼一、莉花、結花の順に並ぶか、話が弾む時は丸を描くように座布団を移動させたりもする。今日は一列に並んだまま食事が始まった。

「ねえ、近ごろ屋敷に変なものが出入りしてない?」

 莉花の言葉に涼一は即座に反応した。思い当たる節があるようで、ぐわっと莉花の方に顔を向けた。

「莉花も感じてたのか。そう、何か入ってきてる。すぐに気配が消えるから何もできずに終わるんだが」

「やっぱりそうよね? 不気味だし、夜中に目覚めちゃって困ってるのよね」

 涼一と莉花が話す中、結花はご飯のおかわりを茶碗に盛り付けながらのほほんとしていた。

 眠りの深い結花は夜中に起きることがないので、何か起きていてもわからないのだ。

「なんの話か知らないけど、姉さまたちが話しているそれは庭に張ってる結界を掻い潜ってきてるってこと? それなら私たちに何か害がありそうで嫌なんだけど」

 心配しているのか呑気なのかわからない口調であ結花は眉尻を下げた。彼女は大抵いつもこんな調子だ。

「今のところ実害はないんだけどな。嫌な気配がするだけで」

「それにしても不気味ね。何も障りがないからいいけど、何が目的でわざわざ家を狙ってるのかしら」

「庭の花でも狙ってたりして〜」

「それはないだろ」

「ふふ。そうね。うちの庭の花に悪いものは近寄れないもの」

「小鳥や虫だって何かを感じて嫌がるくらいだからな」

「その言い方だと呪いでも発してるみたいねぇ」

「んな事ねえよ。うちの花は霊力のたまものだっての……」

 結花の冗談に涼一は笑って窓の外を見た。椿が見頃になっているほかは、特に変わったところはない。

「ん?」

「あれ」

 花には変化はなかったのだが。

「鳥がいる!なんで?」

 結花が声を上げると同時に箸を一本畳に落とした。他の二人も外を見て驚愕している。

 小さなメジロがひょっこりと椿の葉の影から顔を出していた。

 側から見れば微笑ましい光景だが、三人はひどく動揺し、食べかけの膳を放置してばたばたと部屋を出て行った。




 板張りの廊下を誰かが走っていくような音がした。

「……ん」

 その音で峰子は目を覚ます。膝を抱え込むようにして寝ていたせいで首を鳴らすと音が鳴った。

 しばらくそのままの姿勢でぼうっとまどろんでいたが、自分が朝食を用意してまだ片付けていないのを思い出してはっとする。

(私、どれくらい寝てた?)

 峰子は身に纏っていた布団を剥ぎ取り、急いで部屋の外に出た。

 廊下を進んでしばらくすると、三きょうだいが庭に出ているのが見えた。

「何してるんだろ。もう食べ終わったのかな?」

 ならさっさと食器を片してしまおうと、峰子は居間に向かった。

 開けますよ、と声をかけて峰子は三人のいた部屋を覗く。しかしそこには食べかけの食事が放置され、畳の上には箸が転がっていた。

「え……?」

 峰子がこの屋敷に勤めはじめてから、三人が食事を残しているのを見たことはなかった。それにいつも食器や膳を峰子が片づけやすいよう部屋の端に寄せてくれるのに、今日は一体何があったのか。峰子がその場で立ち尽くしていると、三人が戻ってきた。

「あ」

 涼一は峰子に気づいた途端あからさまに気まずそうな反応を示す。

 味見は済ませたはずだが、食事がいけなかったのだろうか。そう思って峰子は尋ねてみる。

「あの、何か問題がありましたか?」

「えっと、まあ……」

 顳顬をぽりぽりとかく涼一と目が合わない。彼らしくない態度である。そんなにまずい事をしたのだろうかと不安が募り、峰子の顔は真っ青になった。

「お食事が不味かったとか……それとも、何か変なものが混じっていましたか?」

 味は問題なかったはず……だとすると、何か野菜のくずや塵が食事に混じってしまったのだろうか。考えれば考えるほど心配になり峰子が慌てていると、何かを察したらしい莉花が間に入った。

「あの、峰子さんは心配しないで。食事は何も問題無いわ。途中で席を立ってしまってごめんなさいね」

 峰子が顔を上げると、結花も姉に続いた。優しい言葉をかけてくれる。

「そうそう。峰子さんは何も悪くないのよ。私たちが勝手に外に出ただけなんだから」

 みんな峰子を宥めてくれるが、その様子はどこかよそよそしい。

 少し引っ掛かりを覚えた峰子だったが、自分が何か間違いを犯したわけではなさそうなので深く追求するのはやめておいた。

「そ、そうですか。ではまだお食事は続けられますか?」

「もちろん。まだしばらく食べてるから少し待っててもらえると助かる」

「わかりました。また食べ終わった頃に参りますね」

 指示を受け部屋を去る際、峰子が襖を閉め切る前に結花がほっとしたような顔をしたのが見えた、気がした。峰子が部屋から居なくなって気が抜けたのかのような。

 早く峰子に出て行ってほしいということだろうか。さっきまで仲良く話していた結花に干渉を拒まれたのかも思うと、不覚にも心が軋む音がした。

(気にしない。今の私は使用人)

 峰子は何度となく唱えた言葉を心の中で刻む。

 結花とは気が合うだけに、少し仲良くなりすぎただけだ。

 自分が同じ立場だったとして、家族との話を使用人に立ち聞きされたとしたらいい気はしないだろう。

 結花に嫌われることに比べれば立場の線引きを自覚するくらい、どうってことない。

 自分の仕事に落ち度がなかったのなら気に病まなくていい。もう一回寝よう。そう思うことにして峰子は自室へと戻った。


 峰子が引き下がった後、三人は張り詰めた糸が緩んだように表情をやわらげた。と言っても笑顔になるようなものではなく、無理やり作っていた微笑を解いただけに過ぎない。

 三人は重々しい空気のなか目を合わせた。

「あれってどういうこと?」

 結花が兄に問うた。平静を取り戻そうとさっき落とした箸を拾い、手拭いで拭き上げる。涼一もまた困惑に満ちた表情をしていた。

「わからん。結花、夜は本当にずっと眠っているのか。まさか自分でもわからないうちに夜に起き出して変な術を……」

「流石にそれはない! もしそうなら私がお医者様にかかるのが先でしょう。私はいつも通り寝てました。夜中に何か変なことが起きてるってのも今日初めて知ったんだから」

 再び沈黙が落ちる。

 三人が困惑しているのはこの家に異常が起きているからだ。

 庭にいた小さな鳥。それ自体は普通のメジロだったが、鳥が庭の中に入ってきたのが問題なのである。

 普段の日摘家の庭には鳥どころか、蝶の一匹も入ってこない。日摘の庭には結界が施されており、それに弾かれて虫や鳥が庭に寄り付かないのだ。

 その状態が崩れているということは、外部から何かしらの干渉があったとしか思えない。

「俺は結界を解いてないぞ。どこか破られているとしか考えられない……。ここひと月で、家族以外にこの屋敷に立ち入った人はいるか」

「ここ最近はないわね」

「年が明けてからは和人さんくらいかしら」

「あいつは違うだろうな」

 和人というのは隣の屋敷に住む結花たちの幼馴染である。日摘家とは昔から交流があり、親しい親戚のような間柄だ。わざわざ真夜中に妙なことをしてくるとは考えにくい。

「兄さまは友達いないし。誰もうちには入ってきてないってことになるわね」

「こら結花、事実だからってなんでもそのまま言っていいわけじゃないのよ」

「悪かったな……友人がいなくて」

 声を落とすこともなく兄をこき下ろす妹たちに不貞腐れる涼一だったが、そんな空気の緩みに少し安堵を覚えていた。考えたくない可能性が一つ浮かんでいるせいか。

「……ねえ、もしかして峰子さんがやった?」

 同じことを考えていたのだろう、先に莉花が口を開いた。

 姉の言葉に結花は目を見開き、すぐに悲しげに眉を下げる。怪しい人物を絞っていくうち、ここひと月ほどで日摘家に入った他人が峰子くらいしかいないことに気づいていたのだろう。

「考えたくはないけどな」

 そう言いつつも涼一の思考は既に峰子の疑わしい行動や何かしでかしそうな動機を炙り出そうとしていた。金が欲しいのか、何かの理由で涼一たちのことを恨んでいるのか。

 すっかり峰子が怪しいという方向に話が進んでしまった。部屋に重い空気が落ちる。

 もう後には引けないと感じたのか、莉花が話を前に進めてしまおうとばかりにひとつ提案した。

「とにかく、無闇に疑うより峰子さんの様子を見てみましょ。昼間どこに行ってるのかとか、夜中に起き出してないかどうか」

「そうだな。俺もあの人の行動をすべて把握しているわけではないし、調べれば何かわかるかもしれない」

 莉花の提案に全員が同意し、姉妹の学校に行く時間が迫ったので話は打ち切りになった。



 峰子が再び目覚めた時には、もう莉花と結花が家を出るところだった。さっきまで眠っていたのを悟られないよう、自分の両頬を叩いて峰子は二人を見送りに玄関へ出る。

「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

「うん。いってきます」

「行ってくるね〜」

 袴にブーツを合わせた莉花と結花はいつも通りに家を出て行った。二人があまりにも普段通りに振る舞うので、峰子は朝感じていた朝感じた違和感や心のつかえを忘れてしまっていたくらいだった。

「よし、さっさと片して掃除しよう」

 峰子は三人が食べた後を片付けにかかった。洗い場で食器を洗った後は部屋の掃除と夕食の準備、洗濯物が待っている。

 昼過ぎに外出すると言っていた涼一はしばらく部屋にこもって仕事をしているはずだ。彼の邪魔をせぬよう、今日もさっさと仕事をこなさねばならない。

 皿を洗い終えて窓から外を見ると、梅の花が咲いていた。日摘家にいると家のどこにいても大抵何かしらの花の木が視界に入る。普段は微笑ましいはずのその光景に、峰子は軽い絶望を覚えた。

「ああ……」

 頭の片隅に追いやって忘れかけていた用事を思い出す。

 また梅の花が咲く頃に来いと、ある場所に呼び出されていたのだった。その場所に最後に行ったのは年が明ける前のことだ。峰子にとって思い出深い場所であるはずなのに、もうすっかりそこは足を向けたくない所になってしまっている。

(それでも手放したいとは思えない。今更後後には引けないから)

 この屋敷から少し離れた場所。そこに峰子が定期的に通う神社がある。

 元々峰子の実家が管理していた場所で、峰子が引き継ぐ形となっていた。

 境内が荒れていないと良いのだが。そう思って皿を洗いながら峰子はため息をつくのだった。

 

 峰子は幼少期のほとんどをその神社で過ごした。元々両親と地方に住んでいたのだが、物心ついた頃には峰子を置いて帝都に引っ越していった。

 峰子はひとりで神社を切り盛りしていた祖母との暮らし始めた。両親がおらず幼かった峰子は祖母にはもちろん参拝客にも可愛がってもらい、近所の子供とは日が暮れるまで境内で遊んだりしていた。その頃が峰子にとって一番平和で幸せな時間だったのかもしれない。

 その後、祖母が病気がちになり、援助を求めて実家に連絡を取ろうとすると両親の行方がわからなくなっていた。

 祖母と暮らし始めてしばらくは父や母から仕送りがあり、神社の管理のため人を雇うこともできていた。しかし数年で仕送りは途絶え、金に困ることが増えた。

 峰子の背丈がすっかり伸びた頃には両親から峰子へと送られた着物や髪飾りを売るようになっていた。

 贈り物をひとつひとつ箪笥から出して売りに出す際、峰子は自分が多少恵まれた家の出であることを再確認した。

 その度にどこにいるか、生きているのかも知れない父母のことを思って泣いたが、一人で生きていかねばならないと強く自覚するにつれて涙は流れなくなっていった。

 数年後に祖母が亡くなり、峰子の元には管理しきれないほどの敷地の神社が残された。その頃には貯蓄は底をついていて、峰子は働かなければ自分で食べていくこともできず、ましてや神社の管理のために人を雇うことなど到底無理な話だった。

 責任も維持費も抱えきれず、峰子は全てを放棄して逃げるしか選択肢はないように思われた。

 だが峰子は自分が育った場所を失う選択を拒んだ。

 両親に捨てられ、育ての親である祖母を失った自分が生まれ育った社まで失ってしまうことを受け入れられなかったのだ。

 今になって、峰子は祖母を失ったばかりの自分は冷静ではなかったと思い返すことができる。誰とも悲しみを共有せず、ひとりで静かに怒り狂っていた。この世に神が存在するなら早くこの状況をどうにかしろと、投げやりな祈りのような呪いを抱えていた。

 そうして何日か過ごした頃に、峰子の前に神の使いのような姿をした何かが現れた。

 手伝い程度とはいえ、物心つく頃から信仰に触れる生活してきた峰子は都合よく現れるそれは本当の神の使いなどではないと理解していた。自分が発していた歪な願いに寄ってくるのは良くないものであるということを。

 けれども、その時は希望を見出してしまうほど弱っていた。


 峰子はそれと契約を交わし、そのつけを今まさに払い続けている。その行動が間違いだったのかどうか、峰子にはもうわからない。




 その日の昼、仕事を済ませた涼一は峰子の様子を観察することにした。

 昼間から外出すると言っているが、特に用事はない。昼飯を用意しないでいいと彼女に伝えるために嘘をついた。今日一日峰子は涼一に構うことなく過ごすはずである。

(にしても、やっぱり使用人をもう一人くらい雇った方がいいんだろうか。峰子さん一人で無理させていないだろうか。

 涼一はそう思いながら廊下の奥から聞こえてくる足音に耳を澄ます。峰子が廊下の雑巾掛けをしてくれているのだ。

 庭を除いた室内の面積はそこまで広くないものの、かつて両親と涼一たちを含めた五人家族で広々と過ごせていた屋敷である。使っていない部屋や廊下の掃除はしなくていいと言ってあるのだが、それでも峰子はついでだからと言って自分の手の届く範囲であらゆる場所を磨き上げてくれる。おかげで屋敷は埃ひとつない。

 改めて観察すると峰子が過労にならないか涼一は心配になってきた。本当はもっと人を雇うべきなのだが、日摘家は使用人が定着しないせいで人員の補充ができずにいる。

(人手が出せない以上、うちとしてできることは給金を上げるくらいしかないんだよな)

 峰子は確か莉花と同じくらいの年齢だったはずだ。人によってはそろそろ嫁に行ってもいい年頃だが、彼女にそのつもりはないらしく仕事があればあるだけ働くといった様子である。

 明らかに一人力以上の働きをしてくれる峰子にはそれなりの給金を渡しているが、それだけでいいのだろうか。何か不満があって、そのせいで日摘家に何か悪さをしようとしているなんてことはないだろうか。

 恨みが募って日摘家の結界を破るようなまじないをかけていたりして。

「いや、まだ峰子さんと決まったわけでは……」

「お呼びですか?」

「わぁ」

 考え込んでいるといつの間にか独り言が出ていたらしい。峰子はいつの間にか廊下を磨き終えたらしく、自分の名前を聞きつけて首を傾げていた。

「涼一さん? どうかされましたか」

「いや、なんでも……」

 なんでもない、と言おうとしてふと思い立った。世間話でもしているうちにぽろりと峰子の本音が出てきたりはしないだろうか。今まで日摘家で雇ってきた使用人の中には口が軽すぎるあまり解雇にした者がいた。峰子がそこまでのおしゃべりだとは思わないが、自分を相手に喋ると女性たちは一様に口が軽くなることを涼一は心得ていた。

「峰子さん、ちょっと聞きたいんだが。何かうちで働いてて不満はないか」

 唐突にそう聞かれて峰子は目を丸くしたが、迷うことなく即答する。

「ないですね」

「ないのか……」

 ぴしゃりと会話を断絶するような答えのなさに涼一は肩を落とすが、何も知らない峰子は不思議そうにしている。

「なぜ残念そうにされているのですか?」

「いや、何かあるなら改善しようと思って」

「改善ですか……? 私は特に不満はありません。お給金も十分すぎるほどいただいていますし、むしろ私の仕事に改善すべきことがあれば教えていただきたいくらいです」

「峰子さんは真面目だな」

 あくまでもいい使用人でいようとする峰子の愚直さに涼一は毒気を抜かれたような心地になる。

「峰子さんに特に大きな不満がないならいい。引き止めてすまない」

 そう言いつつも、涼一はしつこく峰子の表情を観察していた。

 本当は何か隠しているのではないか。目が泳いでいないか、涼一に問いかけられたことで居心地悪そうにしていないかそれとなく観察する。

「では、私はこれを洗って参りますので。失礼します」

 しかし涼一が探りを入れる間も無く峰子はそそくさと桶を持って行ってしまった。

 待遇に関してもそうだが、峰子は自分の思うところをこちらに伝えてこない。

 妹たちとは仲良くやっているようだし本人は素直な性格に見えるのだが、今のように峰子自身のことを尋ねようとするとたいして中身のない返答をして会話を切り上げられてしまう。

(単にそういう性格なだけならいいんだが)

 何かを隠しているからそう振る舞っているのなら話は別だ。家に害を及ぼされるのは何としても避けなければならない。

 身内に危害を加える者には容赦しないと決めている涼一だったが、峰子に関しては積極的に疑いきれずにいる。その理由の一つには下の妹の結花が彼女と仲良くしていることが挙げられた。

 結花はのんびりしている反面、人の悪意を察する感覚がとても鋭い。その妹と波長が合うのだから、峰子が悪意ある人物だとは考えにくかった。

「……それはそうと、腹減ったな」

 仕事を終えて考え事をしているうちに、もう昼過ぎになってしまった。

 今日はなるべく峰子を自由に行動させるため昼食を作らなくていいと申し付けている。一日中彼女を観察していたいところだが、昼から外出すると言った手前ずっと家に入り浸るわけにはいかない。

「飯食いに行こうっと。こっそり戻れば峰子さんの様子も見られるだろうし」

 涼一は久々の外食に何を食べようかと思いを巡らせた。

 現在の涼一は家の中でほとんど全ての仕事を済ませることができる。先祖から受け継いだ不動産などの遺産の管理に加え、涼一自身の仕事も持っている。

 家の不労所得に頼らずとも妹たちの学費をまかなえる稼ぎがあることを密かに矜持に思っている涼一である。しかしその仕事柄、いつも隠居老人のように引きこもってしまうのは玉に瑕だった。

 下手に真っ昼間から外に出ると「何をしているかわからない人」として近隣の住民に噂されてしまう。それを避けたくてすっかり出不精になってしまっている涼一だった。(ちなみに涼一が職業不明の引きこもりだとは既に近所で噂されているが、本人はそれに気づいていない)

 家を出る前に涼一は炊事場の掃除をしていた峰子に声をかけた。自分が外に出たということを印象付けておいた方がいいだろうと思ったのだ。

「峰子さん。ちょっと出かけてくる」

「あら、今から外でお仕事ですね。いってらっしゃいませ」

「ああ。少し遅くなるかもしれない。夕飯時までに俺が帰って来なかったら二人には先に食べるよう伝えてほしい」

 もちろんそんな時間まで外出するつもりはない。不意を狙って帰って来るつもりだ。峰子が何か隠しているのならそれでボロが出るかもしれない。

「わかりました。お気をつけていってらっしゃいませ」

 何も知らない峰子はその場でペコリと頭を下げて涼一を見送った。こうしているとまるでおじぎ草のような人である。妹たちならここで彼女を疑うことを一旦やめるだろう。しかし涼一はそこまで優しくないので、嫌な可能性の追求をとった。

「うん。行ってきます」



 


 同時刻、女学校は昼休みの真っ只中である。結花たちの通う教室からは少女たちのささめく声や笑い声が絶え間なく響いていた。

「本当、兄さまは何を考えてるのかしら。峰子さんまで辞めさせてしまうつもりだったら私悲しいんだけど。ねぇ、姉さまはどう思う?」

「あのね、結花。何回も言ってるけど昼休みにこっちの教室に来るのはやめなさい」

 昼食を終えた結花が姉のところに押しかけるさまを莉花の学友たちは微笑ましげに眺めていた。

 莉花は少し嫌がっているが、結花が何かあるごとに姉の教室に足を運ぶのはいつものことだ。社交的な性格の結花は姉の友人たちともすっかり仲良くなっている。

「だって二人で話したいと思ったんだもの。姉さまのお友達もみんな優しいし、いいじゃない」

 いいよねー、と結花が周囲に同意を求めると、声を揃えていいよーっと帰ってくる。この身の振る舞いは一体どこで覚えたのだろうと莉花はうんざりした顔でため息をついた。

 身内が自分の教室に来る感覚にいつまでも慣れない莉花だったが、今日はだけは二人で話したいことがあるのでちょうどいい。

「もう。じゃあ教室の外で話しましょ。昼休みが終わっちゃうから急いで」

「はぁい」

 廊下に出ると、教室よりも冷たい空気に鼻先がつんとした。人がたくさん集まっている教室は暖房器具がなくとも少しだけ暖かい。

「姉さま、話したいことって何? 峰子さんのこと? あの人、このままだとやめさせられちゃうのかな」

 普段はぼうっとしといることが多いくせに、結花はなかなか察しがいい。話が早いとばかりに莉花は突然始まった会話をそのまま繋いだ。

「兄さまは峰子さんを辞めさせないと思う」

「そうなの?」

 そう尋ね返す結花の目に光が宿る。峰子と仲の良かった妹は彼女の処遇を気にしているのだろう。

 廊下に自分たち以外の人がいないことを確認しながら莉花は声を落とした。

「今まで辞めてきた使用人の人たちは、『たまわりもの』を見たせいでうちが怖くなって出て行ったわよね」

 その言葉を聞いて結花は姉が声を小さくした理由を悟った。

 たまわりものとは、国内でもごく一部の人しか持ち得ない力のことである。それを知っている人もまた、力を持つ人の数に比例して少なくなる。

 級友の聞いている中でそれに関する話をしても、変なことを言っていると思われることだろう。たまわりものと言っても普通の人はそれが何かを知らないのだから。

 日摘家でも、たまわりものを知らない使用人が術が使われている場面に遭遇し、気味悪がって出ていってしまうという事があった。それも一度や二度ではない。

「みんなすっかり怯えていたものね。暇をくださいって言ったきり、もう戻って来なかった」

「そうね。今まで何人だっけ、五人くらい?」

 適当な数を上げた姉を咎めるように結花は訂正した。

「使用人は峰子さんで十人目よ」

「あら、そうだったっけ。結花よく覚えてるのね」

「私がよく覚えてるんじゃなくて、姉さまと兄さまが他人に興味なさすぎるのよ」

「私は兄さまと違って友達いるわよ?」

「そういうことじゃないと思う……」

「まあいいわ。私が言いたいのは、なんで今まで使用人が『たまわりもの』を見てしまったのかについて」

「それは……術を使ってるところにうっかり出くわしたから?」

 日摘家は花のたまわりものを授かった家である。

 季節に関係なく花を咲かせたり、植物を自在に操る力を持つ。術を極めると幻覚を見せ、人を惑わすこともできるのだ。

「そう。けれど私も結花も、人前で術を使って見られたりなんかしていない。残るは兄さまになるわけだけど、あの人がそんなうっかりを何度もやると思う?」

 やめてしまった使用人たちが見たものは兄の出した幻覚だ。涼一は幻術を得意とするが、それを誤って他人に見せてしまうなどしっかり者の兄らしくない。

「確かにそうね……兄さまが何度も同じ過ちをするなんて変だわ」

「だから私は兄さまがわざとたまわりものを見せたんじゃないかと思っているの」

「わざと?」

 莉花の言葉に結花は首を傾げた。

「そんなことして何になるの」

「怖がらせることができるじゃない」

 そう言われた結花はしばし宙を見つめて思案する。言葉の意味がわかった瞬間呆れてしまった。

「そういうこと?」

「兄さまならやりかねないかも……」

「だとしたら随分意地悪な話ね。辞めていった人たち、みんな怖がりすぎじゃないかと思うくらい怯えていたもの」

 日摘家は神道の流れを汲む家だ。それと合わせてたまわりものの力を先祖代々受け継いでいるので、信仰に対する向き合い方を家族で共有している。

 神仏と人はお互い様である、というのが涼一の持つ解釈だ。

 人が信仰心を持つから神社仏閣が存在し、そこで祀られるものが力を持つ。それは民間信仰やおまじないなどの小さな信仰に至るまで共通している、という考え方だ。さらに、そこへ涼一の解釈を付け足すと「怖いものほど強い」ということになる。

「兄さまの考え方は乱暴だから、私はあまり賛成したくないんだけどね」

「姉さま争い事は嫌いだもんねぇ。けど怖そうなたまわりものほどすごい力があるのは本当だと思う」

 たまわりものは人の畏れ、ひいては恐怖を根源として生まれる力だ。自然を恐れる人の思いがたまわりものを強くし、太古から現在に至るまでその力は受け継がれてきた。

 花のたまわりものである日摘家は、花に関する伝承や人が花に持つ感情をもとに力をつける。

 涼一はその力を増すことを望んでいるのだろう。その手っ取り早い方法として、日摘家に近づいた一般人を怖がらせているらしい。花に関わる恐ろしい幻覚を見せることで、街で噂でも流れることを狙っているのだろう。

 我が兄ながら悪趣味だなと、二人は顔を見合わせて苦笑いした。

 今までの使用人たちはうっかりたまわりものを見てしまい、怖がって日摘家を出て行ったものだと結花は思っていた。実際は見てしまったというより意図的に見せられたようだ。

「辞めて行った人に噂好きや口が軽い人もいたわね……。その人たちがうちでみたもののことを誰かに話したのなら、夏には日摘の屋敷には妖怪がいるなんて噂も流れたりして……」

「もしそうなったら兄さまの目論みは成功ね」

「そうね……」

 しばらく寒い廊下で立ち話をしていると手の先がかじかんできた。

「私は峰子さんが辞めないならそれでいいんだ。あの人は口が堅そうだし、噂を流すには利用できないでしょ」

「そうね。それに今のうちはあの人がいないと回らないわ。新しい人も来なくなっちゃったし」

「そうなのよね……。もう一人誰か雇えばいいのに。最近の峰子さん、疲れてそうだもの」

「え? そうなの」

 莉花が初めて聞いた話に目を丸くすると、結花は呆れたような表情で姉を見上げた。

「もう、兄さまだけじゃなくて姉さまも気づいてなかったのね。今朝もそうだったけど、私たちを見送る時の峰子さん、寝起きだったでしょ」

「ええ? そうなの?」

「そうよ。多分私たちがご飯を食べてる間に寝てるんじゃないかしら」

 結花は峰子の様子を思い出したのか、心を痛めたように目を細めた。

「全く気づかなかったわ。あの人そんなに疲れているの?」

「姉さまも兄さまも、人に興味がなさすぎる」

 のんびり屋の妹に説教を受けることにむっとした莉花だったが、言い返す術がない。使用人とわざわざ仲良くなろうと思わないと莉花は心のどこかで思ってしまっている。

「じゃあ結花の意見を聞くけど、峰子さんは過労なの? うちで働くのが辛くてもうやめてしまうなんてこと……下手したら逆恨みされてたりして」

 待遇の悪さを恨んだ峰子によって真夜中の怪奇現象が起こっているのでは、という涼一と全く同じ思考回路を莉花が辿っていると、結花があっさり否定した。

「ううん。うちの仕事が嫌なわけではないみたい。最近疲れてることが多いけど、仕事の量は前の勤め先の方が多かったって言ってたもの」

「あらそう……」

 予想した泥沼のような心配はあっさりと否定された。

 それにしても、結花の人を見る目は大したものである。人懐っこくて突っ走りがちな性格が周囲の人間に心を許させるのだろうか。

「あの人、結花には自分のこと話すのね。無口なのかと思ってた」

 莉花が感心していると結花はにっこりと笑って得意げな顔になった。

「ちゃんと見てればわかるし、それとなく聞けば話してくれるわよ。姉さまも兄さまもまだまだね」

「あのね、夜に結界が破られたのに気づかなかったあんたに言われたくないわよ」

「夜中は寝てるんだもの。仕方ないでしょ」

「万が一の時はどうするのよ。強盗が入ったって寝てるんじゃないでしょうね」

「その時は姉さまが起こしてよ〜」

 結花が甘えるように莉花に絡みつく。そのまま二人が教室に戻ると、慈しみの籠った温かい目で莉花の級友たちに迎えられた。

「今日も日摘姉妹は仲良しね」

「別に普通よ」

「ありがとう〜」

 ぺたりと姉にひっつく結花はどこか嬉しそうだ。同じ女学校で姉妹が同時に在籍するのはよくある話だが、主に結花が公然と仲良くするせいで二人はちょっとした名物のように扱われている。莉花はそれが少し恥ずかしいのだが、結花はむしろ嬉しいらしい。

「ちょっと結花、そろそろお昼休み終わっちゃう」

「はぁい。じゃあね姉さま」

 さっきまでぺたぺたと体をくっつけてきた結花ははあっさりと教室を出て行った。猫のように気ままで身軽な振る舞いである。

 結花のそういうところが人を惹きつけるのだろう。結花の人たらしには姉である莉花も少なからず振り回されているのだった。


 騒がしい昼休みが終わり午後の授業が始まった。

 莉花は勉強は得意だが、授業を聞くのは好きでない。教科書を読めばわかるのにゆっくり説明されているように感じるからだ。

 今日も窓の外に意識を逸らしつつ、教師の話を右から左へと受け流していた。

 集中していないのは莉花に限ったことではない。家政科以外の授業は教師の方もあまり気合が入っておらず、ゆるゆると時間が流れていく。さらに食後の座学は眠くなるのか、こくりこくりと首を落としそうになっている同級生が何人かいた。後ろの方の席に座っている莉花からはその様子がよく見える。

 ふと、さっき交わした結花との会話を思い出した。峰子がちょっとした合間に寝ているという話だ。

 昼食後の授業で眠気に襲われている人は多いが、せいぜいじっとしていると眠気が襲ってくるくらいだろう。

 家事で立ち回る仕事をしている峰子がわざわざ食事中などの時間まで使って寝るというのは、よっぽどのことだ。

(なんで峰子さんは寝てるんだろう)

 教師が話す内容をそっちのけで莉花は考える。

「ん……?」

 ひとつ思い当たるところがあって、思わず声が漏れた。咳払いをして誤魔化す。

 夜、屋敷から何か入ってきた気配。あれと峰子が眠っているということは何か関係があるのだろうか。峰子が疲れた様子を見せるようになったのは最近ことだと結花は言っていた。

(眠りに関係する霊障なんてあるのかしら。帰ったら兄さまに聞いてみよう)

 もう講義は完全に上の空だ。帳面に筆記するふりをして、眠りに関係ありそうなまじないやたまわりものを思いつくだけ書いてみる。

(峰子さんに悪意があるとは思えないけど、もしうちに危害を加えようとしてたのなら兄さまは許さないんだろうなぁ)

 兄の性格を思い返してため息をつく。

 自分たちの前では穏やかだが、身内以外には容赦のない人だ。もしかしたら今日うちに帰ったら峰子はもういなくなっているかもしれない。そうなると妹は悲しむだろう。

(まぁ、私はどっちでもいいんだけどね)

 結花からまた怒られそうだが、やっぱり自分はそこまで人に興味も愛着も持てないみたいだ。自分の家族さえ無事なら、もうそれでいい。

 莉花は講義を続ける教師のほうに向き直った。




 その頃、自宅に戻っていた涼一は庭の片隅で立ち尽くしていた。わざわざ庭を通ってこっそり帰宅しようとしたものの、縁側にいた峰子と早々に鉢合わせたのだ。しかしその峰子は脱力して体を投げ出していた。

(なんだ、寝てるだけか?)

 ばくばくと心臓が波打つのを宥めつつ、涼一は峰子を観察する。

「ぶっ倒れてんのかと思った……」

 よく見ると頭の下に二つ折りの座布団を敷いている。倒れたわけではなく、昼寝をしているだけのようだ。

 女性の寝顔をまじまじと見つめるのは罪悪感があったが、目の下に刻まれた濃い隈がどうしても目につく。衰弱したような寝顔に違和感を覚えた。

 思い返せば、峰子が勤めだしてからしばらくは昼過ぎによく外出していた。食事の買い出しをすることもあれば、私用で買い物を楽しんでくることもあった。

 日々の外出を楽しんでいたようだし、引きこもりがちではないはずなのに、ここ最近の彼女は必要に駆られない限り外に出ていないようだ。

 涼一は神経を研ぎ澄ませ、周囲の気配を窺う。風が吹いていないのに庭にある花々がざわめくように揺れた。

 この家の周りに結界を張ったのは涼一である。自分の結界に綻びがあることを認めたくないという思いは差し引いても、今は結界が破られているのかどうかわからなかった。

 涼一が張る結界は膜のような形をしている。庭にある草木を利用して蜘蛛の巣状に張り巡らせ、悪いものが入ってくるのを防いでいるのである。

(綻びがわからないってことは、それだけ小さな穴が空いてるのか?)

 涼一は自分の家の敷地を囲う塀を見上げた。当主自ら言うのもなんだが、それなりに広い。この屋敷をぐるりと囲う結界の、どこにあるかもわからない綻びを見つけるのは到底無理な話だ。

「結界の張り直しも面倒くさいんだよな……すげえ疲れるし」

 どうしたものか、と思い涼一は頭を抱えた。

 涼一の作る膜状の結界を破る方法は二つある。

 そのうちの一つは大きな衝撃を加えて破ることだが、その方法だと結界は大きく破れ、涼一もどこに綻びがあるか気づくはずである。

(となると、内側からも干渉されてるな)

 もうひとつの結界を破る方法。それは内側と外側の両方から力を加えることである。そうすることで柔らかい膜に小さな穴を開けることができる。こっそりと穴を開けられるので、その後もどこに綻びがあるか術者に気づかれにくい。

「けど、そうなると中に協力者がいるってことになるんだよな」

 日摘家の内側にいて、家族以外の人間など峰子以外に存在しない。涼一は自分に全く気付くことなく眠り続ける峰子を見下ろし続けた。


 

 

 その日の夕方、莉花が学校から帰って来ると、涼一に玄関先で捕まった。靴を脱ぐ間もなく兄の持論を披露される。

「と言うわけで、簡単な術だとしても発動するには才覚がいるはずだ。だから峰子さんにその手の才覚があるか確かめてみようと思う」

「……何の話?」

 文脈が見えない莉花は顔を顰めた。涼一の言いたいことを纏めるとこうだ。

 やはり峰子が怪しいということ、しかし涼一の作った結界に穴を開けるためにはそれなりに霊力を持った人間でないと不可能だと。

 つまり、峰子が霊力を持った人間かどうか確かめたいらしい。

「なるほど。だから私の出す“幻覚”が必要なのね」

「そう、頼んだ。ちなみに今峰子さんは炊事場にいる」

「わかった」

 短く返事をして莉花は両手を胸の前で合わせた。

 たまわりものの人間がもつ能力のひとつに幻術がある。その術によって出す幻覚は本来一般人にも見えるものだ。

 しかし術の完成度が低いと、たまわりものの人間のようは霊力に優れた人間にしか見えない未熟な幻覚が出来上がる。莉花はちょうどいい塩梅で幻術が未熟なので、普通の人には見えない幻覚を作り出せるのだ。

「たまにはこの中途半端な力も役に立つものね」

「そんな言い方をするな。莉花は幻術以外に得意なことがあるだろう」

 涼一の返事には答えず、莉花は手の内側に意識を集中した。

 貝合わせのように閉じていた手をゆっくりと開く。そうするとはじめはなかったはずの花弁が一枚、ひらりと手の中に現れた。

 莉花が手を閉じては開く動作を繰り返すたびに花弁が増えていく。やがて莉花の手の中には星形の青い花が出来上がった。

 色や形を模っただけのものではない。花弁に細かく走る脈や立体的な膨らみまでもが再現された、完璧な桔梗の花だ。

 その幻覚を視認すれば、誰だろうと本物の桔梗だと見間違える。

「できた」

 莉花は出来がった花を涼一に手渡した。

 幻覚は霧を散らすように払えばすぐ消えてしまうが、たまわりものの術を扱える人間が大切に使えば消えずに保持することができる。優れた術者である涼一の受け取った桔梗の花はしっかりとその形を保っていた。

「ありがとう。じゃ、さっそく峰子さんに見せてみよう」 

 それは霊感に富んだ人間でないと見ることができない。峰子にこの花を見せて、花に気づいたのであれば峰子はたまわりものにも準ずる力を持つ人間だということになる。

「桔梗か……。冬に見ると不思議な感じがするな」

「でしょう。初夏の花だし、見えたら反応しないわけない」

「それはそうだな」

 莉花はそばにあった一輪挿しに桔梗を入れた。外は雪が降るのではないかと思うほど寒いのに、夏の青空を思わせるような桔梗の花がぽつりと咲いている。その小さな奇妙さに莉花苦笑いした。

「季節外れってやっぱり不気味ね。峰子さんに見せたら早く消しちゃいましょう」

「そうかな。俺は莉花の出す花を見るのは好きだよ」

「そう……?」

「うん」

 涼一が誉めると莉花は決まり悪くなったように視線を逸らした。

 ふたりの間に沈黙が落ちる。ここに結花がいれば会話が持つが、あまりよく喋るほうではない莉花と涼一だけだと間が持たないのはよくあることだ。

 その時、丁度よく厨の方から足音が聞こえてきた。峰子がひょこりと顔を出す。

「お二人とも、ここにいらしたんですね。夕餉の支度がもうすぐでできます」

「峰子さん。今日もご飯の用意ありがとう。いただきます」

 莉花がいつものように礼を述べると、峰子はちょっとだけ照れたように口角を上げてすぐに厨へ戻ろうとした。

「そうだ。峰子さんこれ見てくれ。さっき見つけたんだ」

 峰子がその場を去る前に涼一は後ろ手に隠していた花を差し出した。

 幻術で作った桔梗の花が一輪挿しに挿されている。

 峰子に花が見えれば季節はずれのそれについて言及し、見えなければ涼一が一輪挿しを見せたと思うだろう。

 涼一が差し出したものを見た峰子は目を丸くした。その顔には明らかに驚きの感情が映し出されていて、花まで視えていることは明らかだった。花に詳しくない人間でも桔梗の形は知っているだろうし、それが真冬に咲いている光景には違和感を覚えるものだ。

(やっぱり見える人だったか)

 夜の気配についても何か知っているか問い詰めなければ、面倒なことになりそうならさっさとつまみ出してしまおうか。そんなことが涼一の頭の中によぎった。

 そんなことはいざ知らず、峰子は莉花の作った桔梗の幻覚に手を伸ばす。

 峰子の指先が花弁に触れた瞬間、花は消える。はずだった。

 しかし幻術でできた桔梗は形を保ったまま、峰子の指先で静かに揺れた。

「これ、桔梗の花ですか。こんなに寒いのに」

 物珍しそうに花を愛でる峰子は幼子のように純粋な目をしていた。微笑を浮かべて花の輪郭を撫でている。莉花と涼一はその光景を見て目を剥いた。

「ああ……。そうだな」

 辛うじて相槌を打った涼一の動揺に峰子は全く気づいていない。

「季節はずれに咲いちゃったんですかね。この辺りで見かけたんですか? 不思議なこともあるものですね」

 峰子は本当に不思議がっているだけなような表情を浮かべるばかりで、やはり何か企んでいるとは思えない。

「そ、そうね。せっかくだから部屋に入れようと思って。外よりは暖かいだろうから」

 不自然にできた間を莉花が必死に取り繕うと、峰子はそれはいいですねと言って笑った。

「では、もうすぐ準備できるので居間にいらしてくださいね」

 食事の準備をしに厨に戻った峰子を見送り、涼一たちは顔を見合わせた。

「触れたな」

「ええ。触ってた」

 霊力のない人間が触ると壊れてしまう花を、壊すことなく触っていた。少し霊感のある程度では成し得ないことだ。

「峰子さんは、たまわりものの人間だ」

 




 その日の食卓は鬱々とした雰囲気で幕を開けた。峰子が作ったばかりの出来立ての飯に涼一も莉花も手をつけない。

「二人とも、何かあったの」

 何か言いたげに俯いている兄と姉に結花は問いかける。

「峰子さんがたまわりものだった」

「えっ?」

「結界を破ったのも、夜うちに何かを招き入れているのもおそらく峰子さんだ」

「ちょ、ちょっと待って。どうして峰子さんがたまわりものだってわかったの?」

 混乱する結花に莉花はことの経緯を説明した。幻術で作った花を壊さずに触れられるのはたまわりものの人間だけであるということは結花と知っている。

「そんな……」

 愕然とする結花を切り替えさせるように涼一は食事の乗った膳を押しのけた。

「今日は出前でも取ろうか」

 莉花も箸を置いた。

 峰子が怪しいということが誤魔化せなくなった今、そんな人の作った飯は食いたくないということだろう。

 表情を固くした二人に倣うか少しだけ迷ったあと、結花は意を決したように手を合わせた。

「いただきます」

「結花? 食べなくていいぞ」

 箸を手に持った結花を心配したように涼一は腰を上げる。だが結花は制されまいとするように料理を摘んだ。

「私は食べる」

「結花」

「だってもし毒を盛るなら今更すぎるじゃない。食事だけじゃなくて、家事全般をあの人に任せていたんだから私たちに仇をなす機会はいくらでもあったはずでしょう。あの人は、私たちに危害を加えたいわけじゃないと思う」

 そう言って結花は天麩羅を齧った。歯が入る拍子にさくりと子気味良い音がする。峰子が食事が出来そうな時に涼一たちを呼んでいたのは出来立ての食事を楽しんで欲しかったからなのかもしれない。

 莉花が冷や汗をかきながら結花を見つめるが、本人は姉の心配に気づくまいとしているかのように平然と食事を続ける。

 無言で食事を頬張る妹を見て、涼一と莉花は観念したように箸を手に取った。妹の言った通り、峰子が涼一たちに危害を加えようと思えばいつでもできたはずだ。動機もわからぬ以上、ここで食事に毒を盛られている可能性を思うのは杞憂だった。

「いただきます」

 二人は同時に手を合わせる。

 食事は普段通り、丁寧に作られたものだった。

 いつも通り残さず食べ終えた三人は箸を置いてからもしばらく黙ったままでいた。まだ少し緊張が残っているのか、少し寛いだ気持ちになっているのか判断しかねるような空気が流れる。

「峰子さんは確かに怪しいかもしれないけど、悪意はない。私はそう信じてる」

 結花がぽつりと呟いた。

「なんでそう言い切れる?」

 妹の言葉に涼一は問いかけた。人を信じないことで自分を守っていた涼一は峰子を信じることができない。

「言ったでしょ、悪意がないからだよ。私はわかるもん」

 そう言って結花は部屋を出た。

(わかる、か……)

 結花が勝手にそう思っているといえばそこまでだ。

 だが、涼一も同じような感覚を覚えたことがある。たまわりものの才を持つがゆえ、普通の人にはわからないことがわかる時の確信。それは涼一にとっては確かな事実だが、他人から信じてもらえることは滅多にない。そんな時はもどかしく、孤独を感じるものだ。

 涼一には結花の言う、信じられる人とそうでない人の見分けなどわからない。だが信じてくれる人が誰もいないのでは結花はきっと悲しむだろう。

「なあ、莉花」

「どうしたの?」

「莉花は結花の言葉を信じてやってくれないか」

「何? 急に」

 唐突な兄の言葉に莉花は怪訝な顔をする。やけに大袈裟な物言いに戸惑っているようだ。

「いや、俺は人を疑う性分だからさ」

 涼一は峰子を信じていいのかわからない。

 だから信じる代わりに、その判断が間違っていた時に二人を守れるようにしようと思った。


 その夜、涼一は袴に着替えていた。いつでも動けるようにと思ってのことだが、学生時代に使っていたものを出してきたせいでところどころ生地が傷んでいる。

「あら、兄さまがそれ着てるの久しぶり」

 廊下を歩いていると、懐かしげに目を細めた莉花と目があった。もう寝たと思っていたが起きていたようだ。

「こっちの方が動きやすいかと思って……。それより莉花は寝てていいんだぞ」

 結花は先程自分の部屋に下がっていった。きっと今頃夢の中だろう。

「兄さまは夜通し起きてるつもりなの?」

「そのつもりだ」

 涼一は普段から時間の融通が効く生活をしている。今日一日起きたままでいたって、明日の昼に寝れば問題ない。それを知ってか知らずか、莉花はどこか落ち着かない様子で涼一の身を案じていた。

「少しくらい布団で寝てね。いつも変な気配がするのは決まって丑三つ時なんだから。それまでは休める」

「わかってるよ。莉花は心配症だな」

 軽くあしらう兄に納得していない様子だっだが、やがて自分にできることはないと判断したのか莉花は自分の部屋へ戻っていった。

 涼一も、自分の部屋へしばらく篭ることにした。

 涼一の部屋は壁という壁が本棚で埋め尽くされている。

 舶来ものの図鑑から小説、草双紙に至るまで様々だ。その部屋の窓際に文机がある。使い古して潰れた座布団の上に腰を下ろし、石油ランプを灯して手元を照らした。

 涼一は筆をとり、書きかけの原稿用紙に文字を書き綴った。

 涼一は字を書くことを生業にしている。

 小説を書いて出版社や雑誌に出すことを学生時代から繰り返し、今ではそれで身を立てられるまでになった。涼一は幼い頃から家族以外の人にあまり心を開かず、口数が少ないのに我が強いせいであまり友人に恵まれなかった。

 逃げ込むように物語の世界に没頭し、ついには自分でも書くようになったというわけだ。

 棚の隅の方には涼一が自分で書いた本も置かれている。

 涼一は自分の書いた物語を読み返すのが苦手だ。なんだ照れ臭くなってしまう。そのせいでずっと放置されているそれらはいづれも花の伝承にまつわるものだ。怪談や恋愛譚を主として、花にまつわる言い伝えを絡めるものが多い。

(我ながら、学生の頃と考えてる事が変わらないな)

 涼一は自分の手元で今まさに書かれている文章を見て笑った。 

 涼一たちが生まれるよりも何百年、ともすると千年以上前、この国には今よりもたまわりものが表立って活躍し、妖怪や化け物もたくさん存在した。その時代は今よりも伝承がありふれていて、不思議なことや原因がわからない事象の多くは化け物や幽霊のせいになった。

 そうして人の信仰を集めたたまわりものは力を保っていたのである。

 だが文明開花が進んだ今は、不思議なことがあれば科学的に解決しようとする考え方や、理解できないものについては言及すらしない考え方が主流になりつつある。

 そんな中で、花に関する伝承を知っている人間など少数派である。伝承が残されず人びとから畏れられなくなったたまわりものは消えるしかない。

 花のたまわりものが消える日も、そう遠くないうちに訪れるだろう。それでも、涼一は花のたまわりものとして物語を作り続けている。

(本当に、俺は何を抗っているんだろうな)

 ただ自分に文才があったから書いているだけ。

 そう言って片付けるのは簡単だ。だが自分の書くものやそれに対して注ぐ熱量を自覚する度に、涼一は自分の矜持とたまわりものが深く結びついている気がしてならない。

 涼一は自分がたまわりものであることに関して決して驕らないように、間違ってもひけらかすような真似はしないように努めてきた。それなのに、力を手放したくないと思ってしまうのはなぜなのか。その問いの答えを見つけられないままでいる。


 そうして涼一はしばらく机に向かっていた。

 外で時折風が吹く以外に音はしない。涼一以外の家にいる全員が寝静まり、闇が全てを包み込むような夜だった。

 机に向かって数時間経ったところで、涼一はハッとして顔を上げた。作業に没頭していると時間の感覚がわからなくなることがある。

「今何時だ……」

 引き出しのどこかに懐中時計があったはずだと思い漁ると、すぐにそれは見つかった。

(よかった。これからだな)

 まだ、いつも気配がする時間まで少し間がある。

 目が疲れたせいか眠気からか、少し瞼が重くなってきた。早く時間になって気配が現れないかと逆に待ち望んでしまうほどだ。

(峰子さんが寝ている理由……か)

 ふと、昼間に眠っていた峰子の姿を思い出した。

 彼女が眠りこけてしまうほど疲れているのだとしたら、それはなぜか。夜には十分な睡眠をとっているはずだ。その証拠に今夜は一度も峰子が起きた気配はしなかった。

(自分の体を犠牲にして何か術を使おうとしている、なんてことはないか)

 たまわりものの中には術者が自身を代償にして使われる術が存在する。しかしそれは一時的に大きな力を得るためのもので、何日もかけて体力を削るものとなるとそれはもはや呪いの領域である。

 峰子がたまわりものであるなら、呪術が使えると考えることもできる。しかし呪いとなると、術者自身が負の感情に蝕まれるはずだ。峰子にはその気配がなかった。何かを恨み、妬んで身を蝕まれている人間はもっと陰鬱な空気を纏うはずだ。

 涼一が考え込んでいると、廊下で人の立つ気配がした。

「兄さま。起きてる?」

「莉花か」

 襖を少し開けると、心配そうな顔をした莉花と目があった。羽織を着ているが、裸足のままの足が冷たそうだ。涼一は自分の部屋に妹を招き入れる。

「目が覚めたのか? 明日も学校だろう。心配で眠れないのか」

「ううん。たまたま目が覚めてしまっただけだから安心して。少し心配になって兄さまの様子を見に来たのよ」

「そうか」

 莉花は羽織を前でかき合わせる。寒いとかと思ったが、それよりも不安そうな表情が目についた。嫌なことがある時に自分の着物を握るように持つのは莉花の癖だ。

 次の瞬間、背中を撫でられるような悪寒が二人を襲った。

「!」

 二人は同時に峰子の部屋がある方へと顔を向ける。

「兄さま……」

「来たな」

 知らない人間が自分の方へ近寄ってきたような警戒心が涼一の中で膨らんでいく。自分の表情が固くなっている気がして妹から顔を背けた。

 結界の一部から割り込むように何かが入ってきているのがわかった。

「行ってくる。莉花は部屋で待機していてくれ」

 急いで気配のする方へ向かうと、悪臭が匂う時のような、なんともいえない不快感が増した。涼一は懐に忍ばせていたものを取り出して足を早める。

 悪いものがすぐ近くにいるということへの緊張感に、涼一は自分の人格が切り替わるような感覚を覚えた。

 屋敷には妹たちがいる。二人に危害が加わることを考えると背筋が凍りそうだ。化け物だろうと人間だろうと、その場で始末しなければ。

 だが、近づくにつれ違和感を覚える。気配がする場所に向かっているはずなのに、それが遠ざかっていく感覚があった。

「……逃げられる!」

 家の周りに張った結界から、何かが再び出て行こうとしている。

 結界のどこか一箇所に穴を開け、ずっとそこから出入りしていたらしい。

 峰子の部屋を前に着いた涼一は声を上げた。

「峰子さん、起きてくれ。入るぞ」

 しかし中から返事はない。寝ているのか、意図的に黙っているだけなのか。どちらにせよ今は峰子のために気を遣う余裕はない。

「開けるぞ」

 涼一が部屋に入った瞬間、気配は消えてしまった。結界の外側に出たせいで途端に気配をうまく感知できなくなる。

 ずかずかと中に入り込んで縁側の方を見ても目視で確認できるようなものはいない。

(逃げられたか)

 涼一が舌打ちしかけた時、後ろから声がした。

「兄さま」

 莉花だ。妹が着いてきていると知らずにいた涼一の心臓が跳ねる。

「莉花、部屋に居ろって言っただろ」

「それより兄さま、峰子さんがおかしいの」

 涼一が心配から叱りつけるような声になるのにも全く怯まず、莉花は峰子の口元に手をかざしていた。

「息はしているけど、呼吸がすごく浅いの」

 そう言われて涼一も峰子の顔を覗き込んだ。莉花の言う通り、峰子は少し見ただけでは死んでいるのではないかと思えるほど静かだった。顔色も病人のように白く、ゆっくりと胸が上下していることでしか生気を感じられない。

「医者……に見せても無駄か。病気に由来するものじゃなさそうだし」

「何かに生気を吸い取られているみたい。日中によく寝たり疲れていたのはそのせいだったのかしら」

 莉花は心配している様子だったが、涼一はもはや峰子に哀れみは感じなかった。峰子が何か悪いものをこの家に呼び寄せている。そのことにもう疑いの余地はないのだから。

「朝になったら峰子さんから話を聞こう」

「うん。まだ夜明けまで少し時間があるわ。兄さまは少しだけでも寝てちょうだい。心配になるわ」

「ああ」

 莉花に生返事をし、涼一は部屋に戻ることにした。しかしすっかり目が覚めてしまいこの日は夜通し起きることとなるのだった。 




 いつも通り、夜明けより少し早くに峰子は起きだした。身支度を整えて朝餉の準備をしようと厨に向かう途中、廊下でこの家の主人に遭遇して足を止める。

「……涼一さん?」

 峰子が話しかけても項垂れたまま、目を合わせようともしない。今朝の涼一は普段とは似ても似つかぬ剣呑とした雰囲気を漂わせている。

 よく見ると目元には隈のような影があり、体調が悪そうに見えた。こんな朝早くから何をしていたのだろう。胸騒ぎがした峰子は涼一の表情をうかがった。

「あの、涼一さん。どうかしました……」

峰子が言い終わる前に、涼一が間合いを詰めた。それに驚いて身を固くした峰子だったが、警戒はほとんど意味をなさなかった。ものすごい力で腕を掴まれ引っ張られる。

「いっ!」

 気づいた時には組み伏せられ、身動きが取れなくなっていた。

「お前、夜中に何をしていた」

 低い声が自分の全身にのしかかるように降ってくる。涼一にお前という呼称で呼ばれたのは初めてで、峰子は心臓が凍るような心地を覚えた。

 自分がこの家の異分子のように扱われているという事実を容赦なく突き付けられる。

「な、なんのことですか」

 真夜中に自分がしていることなんて無い。だって疲れ切っていつも気絶するように眠ってしまうのだから。

 そう思ったことで、峰子はあることを思い出した。

(もしかして、あれがばれたのか?)

 自分の勤める日摘家が妙な家であることには薄々気づいていた。きっと自分が人ならざるものと手を組んでいることが知れたのだろうと。

 だが、それなら涼一がなぜこんなに怒っているのかがわからない。峰子が個人的に契約を交わしただけで、日摘家には迷惑をかけたつもりはない。涼一の怒り方はまるで峰子を敵とみなしているかのようだ。

「すみません、化け物と契約を結んだのがまずかったのなら謝罪します」

 痛みに耐えながら峰子が叫ぶと、涼一は動きを止めた。しかし腕の力は緩めてくれない。

「何を言っている? お前はたまわりものだろう。まずはうちに来た目的を話せ」

「え?」

 言い訳を必死に考えていた峰子の頭は真っ白になった。日摘家に来た理由なんて、使用人として給金を稼ぐほかにない。それに、涼一が言っていることの意味が分からなかった。

「たまわり……なんのことですか」

「あ?」

 涼一の声が一段と低くなる。

 何か誤解されているのかもしれないと思い至った峰子だったが、怯えと痛みでうまく声が出ない。震える声でようやく言葉を紡いだ時には涙声になっていた。

「こ、この家に来たのは、仕事を探していたらたまたま見つけたからです。待遇もいいし、私の実家からも近いので……」

「実家? 頼れる人はないと聞いたが」

 峰子に敵意がないとわかったのか、涼一はようやく峰子を解放した。

 体に力がうまく入らず、峰子はその場にへたり込む。

 混乱する頭で峰子は涼一が自分の出自を調べていたのだと知った。

 峰子から涼一に身の上話をしたことはない。口入屋から聞いたか、雇う前に身元をあらためていたのだろう。峰子は戸籍上、天涯孤独ということになっている。

「確かに、私には頼れる人はいません。しかし帰る場所はあるのです」

 峰子はここ数か月で起こったことを思い返し、涼一に自分がここに来るまでの経緯を話した。

「私には生まれ育った神社があります。けれど、唯一の肉親である祖母が亡くなってからその場所の管理が難しくなったのです」

 祖母が亡くなったあと、峰子は自分が祖母の跡を継いで神社を守っていくつもりでいた。

 だが蓋を開ければ浄財や寄付金は年々減っていたようで、祖母の葬式に顔を出した役人には神社を手放してどこかに嫁ぐことを勧められた。

 祖母の薬代や葬式の費用が嵩み、気づけば峰子は神社を切り盛りするどころか借金を抱えている状態だった。

「私は……そこで意地を張ってしまったんです。参拝客が減った神社なんて維持費ばかりかかるのに、絶対に手放したくなかった」

 そうはいっても峰子ひとりだけではどうしようもない状況だった。借金を返すため奉公に出たはいいがその間神社を管理する人はいない。境内は荒れていき、参拝する人はますます減っていくばかりだった。

「そうしてもう首が回らなくなるという時に、私に話しかけてくるものがありました。それははじめ狐の姿をしていて……お狐様のように見えました。救われたかと思ったのです。けど結局、そんな都合のいいものではなかったのですが」

 その時のことを思い出して峰子が後悔に苛まれていると、肩に羽織が掛けられた。

「それでは、日摘に危害を加えるつもりではなかったのか?」

「当然です。私はここでは使用人として仕えているに過ぎません。危害を加えようだなんて思ったことは、誓ってありません」

「では今話したことはひとつ残らず本当なんだな?」

 黒く蒼い夜のような色をした涼一の瞳を見つめながら、峰子は唐突に泣きたくなった。

「本当です、嘘じゃな……」

 言い切る前に言葉が途切れてしまう。

 目の奥が熱くなって、峰子は冷静な表情を保てなくなった。

 しかし峰子が涼一はいたって冷静なままだ。怒りを纏うのをやめた涼一は冷静そのもので、自分と数年しか年が変わらぬとは思えない威厳があった。

 自分が目の前で泣こうが喚こうがきっと彼は取り乱したりはしないのだろう。

(私は、この人に助けてと言いたいのかもしれないな)

 そう気づいた途端、峰子は自分の感情がすとんと収まった気がした。

 無意識のうちに口から言葉が滑り出る。

「涼一さん、助けてください。私にはもうどうすればいいかわからなくて、怖いのです」

 涼一の返事を待つ間の数秒が永遠のように感じられた。顔を見るのが怖くて峰子は頭を下げ続ける。

「よし。わかった」

 案外あっさりとした口調でそう答えて、涼一は立ち上がった。

「その神社は、ここから近いのか」

「え?」

「歩いて行ける場所なら今から向かう。面倒ごとは早いうちに片付けた方がいいだろう」

「は、はい。神社はここから北の山の麓です」

「そうか。なら案内してくれ」

 そう言うと涼一はおもむろに立ち上がって廊下を歩いて行ってしまった。

 自室へ外套を取りに行ったのだと察し峰子もたちあがる。

 涼一は本当に助けてくれるのだろうか。さっきまで自分を押さえつけていたとは思えないような変わり身の速さに混乱したが、同時に希望が湧いてきたのも確かだ。

 涼一がそれほど情の深い男だとは思えないが、逞しい後ろ姿を見ていると不思議と安心した。



 二人が外に出ると、町は夜と朝の間の薄暗さに包まれていた。

 まだ日が昇りきっていないせいで空気は冷え切っている。

 涼一の少し先を峰子が歩き、二人は足早に進む。

「峰子さん、狐の姿をした化け物を見たと言ったな。それについて詳しく教えてほしいんだが」

「は、はい。わかりました」

 涼一が峰子の見たものについて真剣に言及してくるとは思わず、言葉を詰まらせてしまった。まさか誰かにこのことを話すとは思っていなかったのだ。

「えっと……あの時、人手に余裕がなかったので、人の代わりに境内の管理をしてほしいと言いました」

 山の中にある神社は手入れが行き届かなくなるとすぐに荒れてしまう。

 境内が荒れていると人が寄り付かなくなる。信仰を集め、浄財を管理費として当てている神社にとってそれは一刻も早く解決したいことだった。

「それで? 峰子さんは代償として何か求められたりしたのか?」

 涼一の言葉に峰子は目を見開いた。自分の身にあったことを見透かされたような気がしたのだ。

「化け物の類とはそういうものだ。都合のいいものを見せて、高すぎる代償を要求する」

 涼一の言うとおりだった。

「その通りです。私は、時間を要求されました」

「……時間?」

「はい。寝ている間に私の時間をもらうと言われました」

 狐の化け物が峰子に求めたものは妙だったが、それを渡すのは簡単なことのように思えた。

 ひとつは、化け物がいる神社からそう離れていない場所で毎晩寝ること。

 もうひとつは、峰子が寝ている間に毎日半刻ずつ化け物に時間をよこせというものだった。

「そう言われて私は承知しました。寝ている間に時間を取られるだけならば普段生活していて困ることは何もないし、もし眠くなっても普段より長く寝れば問題ないと思ったんです」

 しかし、実際は峰子の思っていたものとは全く違っていた。

 取られた時間を取り返すつもりで早く就寝するようにしても十分に眠れた感じがしないのだ。それだけでなく、昼間も眠気に襲われ、気を抜くとふらついて倒れそうになる時さえある。

「それはおかしいな」

 なにやら思案している様子でそう言う涼一に峰子は振り返った。

「おかしい……そうですよね。私は約束したよりも多くの時間を取られている気がしてならなくて」

「いいや。そうじゃない」

「?」

「人の中に流れる時間を奪うなど、一介の化け物にできるはずがないんだ。峰子さんは何か別のものを奪われている」

 涼一が言い放った言葉に峰子は背筋が凍るような心地がした。

「え?」

 じゃあ一体自分は何を奪われていたのか。

 今も感じている体の怠さと共に恐怖が増していく。峰子がすっかり怯えているのを知ってか知らずか、いつの間にか前を歩いていた涼一が振り返った。

「何か化け物から渡されなかったか。結界を破ったり、峰子さんの居場所を教えるようなものが」

 そう言われ、思い当たるものがあった。

 お守りだから肌身離さず持っておけと言われたものが。

 すっかりその存在を忘れかけていたが、それを受け取った時には本当に肌身離さないようにしようと思って財布の中に入れたはず。

「もしかしたら、ここに入れっぱなしだったかも知れないです」

 中を探ると、硬貨とは別の冷たくて硬い感触ものに指先が触れた。

「あった。これです」

 そう言って峰子が取り出したのは赤茶色の汚れのようなものが付いた石だった。

 涼一はそれを見た瞬間わかやすく顔を顰めた。

「家の結界を破ったのはこれか」

「え? なんですか」

 涼一は表情を固くした後、峰子を疑っていた理由を説明した。

 日摘家の庭には結界が張られているということ、たまわりものがなんであるかを。

 突然の情報に峰子は動揺したが、自分が過剰に警戒されている理には納得した。

「いきなりこんな……ほら話みたいなことを聞かされても困るかとは思うが」

 涼一は気まずそうに眉を顰めたが、峰子はそれらを嘘として受け取ったわけではない。

「いえ、なんとなく話は理解しました」

 幼少期を神社で過ごした峰子はその話をすぐに飲み込めた。祖母や参拝客の話を聞くなかで、結界術や不可視の力を扱う人が存在することは認識していたから。

(涼一さんが言っていたたまわりものというのはそれのことだったんだ……)

 しかし、なぜ涼一は峰子に対してあんなことを言ったのだろう。

 お前はたまわりものだろう。

 そう言い放った涼一の声色を思い出す。あの時は涼一の表情がよく見えなかったが、もしかしたら峰子を脅威として見ていたのではないだろうか。不可視の術がどんなものか峰子には知り得ないが、その力を持っていると勘違いされたのであればあれだけ警戒されたことにも納得がいく。

「そもそもの話にはなるが、なぜわざわざ人ならざるものと契約までして神社を守ろうとしたんだ。手に余っていたのなら手放すのも選択肢の一つだと思うんだが」

 そう話すうちに小さな森のようなこんもりとした山が見えてきて、山沿いの冷たい空気が二人を出迎える。

「どうしてでしょうね。なぜか私はその時……いえ、今も、意地になっているんです。思い出がたくさんある場所だからですかね」

 峰子は他人事のようにぽつぽつと答えた。人にこんなことを話すのは初めてだった。

「化け物に大切な社を託すなんて、馬鹿なことだと分かっています。けれどここで私があの場所を手放したら、そこで過ごした思い出や私の身を案じてくれた人との繋がりが消えてしまうような気がしたんです」

 そう答えた峰子の横顔を涼一はじっと見つめていた。

「繋がりとは、そういうものなのかな」

「自己満足かもしれませんが」

 二人は上へと続く石段の前に立った。数十段昇った先に鳥居が構えている。

「大きいな」

「そうですね……」

涼一の問いかけに、峰子はぼんやりとした声で答えた。今から対峙しなければならない状況のことを思うと、気が遠くなってしまいそうだった。




 神社の前の石段を登りながら、涼一は峰子の様子を伺っていた。神社の前に着いてから峰子の足取りが重いように見える。

(峰子さんの祖母が管理していた神社か。両親はどこに行ったんだ。他界しているのか?)

 早くに両親がいなくなったという点では涼一も人のことは言えないのだが、安否を気にするくらいなら許されたいものである。

 多くのたまわりものの家がそうであるように、日摘家では使用人を雇うたびその身元を調べている。その際に峰子の両親が行方不明であるということがわかった。

 これだけ大きな土地の管理を放棄して行方をくらますというのはあまりにも不自然だ。もう既に鬼籍に入っているか、峰子の元へ帰れない事情があるのだろう。

(どちらにせよ、峰子さんも訳ありの家で育ったんだろうな)

 家の数だけ事情があるというものである。

 そう思い涼一は石段を踏みしめた。上を目指して歩いているうちに、その空間の不自然さに気付いた。山の木々が覆い被さるように石段が続いているにも関わらずそこには落ち葉や汚れがひとつもない。

「この石段の掃除は人がしているのか?」

「いえ。誰にも頼んでいません。神社に、人が参りやすいよう……綺麗にして欲しいと私が言ったので、頼みをきいてくれているということなのでしょうね……」

 後ろから歩いてくる峰子は息があがっている。頬を染めて白い息を吐く峰子を見て涼一は歩みを緩めた。

 考え事をしながら登っていたせいで後ろに気が回らなかった。後ろにいたのが妹のどちらかだったなら合わせて登ったはずなのに。

(まただ)

 自分の家族以外の人間に対する興味のなさ。表面的には礼儀正しい好青年のように振る舞おうとしてもすぐにぼろが出る。

「すみません、すぐに疲れてしまって」

「いや、無理はない。こちらこそ配慮が足りていなかった」

 峰子が上がってくるのを待ち、涼一たちは鳥居の先に広がる光景に目を走らせた。

 参道には埃ひとつなく、その両脇に植わった生垣には大きな寒椿が花を咲かせている。

 鳥居にかけられたしめ縄も手水舎も苔ひとつなく、資金難に見舞われているという話が嘘のようだ。普通の人が見ればよく手入れされている立派な神社だと思うだろう。

 しかしその場所からは神仏を祀っている場所にあるはずの清涼な空気が感じられず、本殿のほうから澱んだ臭いのような嫌なものが流れてくる。

(昨夜と同じ気配だな)

 峰子をたぶらかし、彼女と契約を果たすために毎晩日摘の屋敷に入り込んでいた化け物。その牙城に辿り着いた。

 涼一は参道の両端に咲いている椿を指して峰子に尋ねた。

「あの椿はもともとここに咲いていたものか?」

「はい、そうです」

「あの花を、化け物を追い出すために使ってもいいか。おそらく今咲いているものは全て台無しになってしまうんだが」

 涼一の質問に峰子はきょとんとした表情を見せたが、すぐに頷いた。

「構いません。それで追い出せるのなら」

「そうか。心強いな」

「?」

 峰子が涼一の言葉に置いてけぼりをくらっていると、耳障りな声が聞えてきた。

 風もないのに周囲の木々が葉をこすり合わせて不気味な音を立てる。

『誰を追い出すって?』

 空間全体に響き渡るような声がした。峰子はその声に震え上がり、さっきまで火照っていた顔が真っ青になる。

『峰子ぉ』

「は、はい」

 怯えたような声で峰子は反射的に返事をする。まるで自分が相手に逆らえないということを徹底的に刷り込まれているようだ。

「お前が峰子さんに迷惑かけてる化け物か?」

 姿を見せない化け物との会話に涼一がすかさず割り込んだ。このまま二人を話させていれば向こうの思うままである。

 その時、本殿の方から何かが姿を現した。ぴんと尖った三角形の耳が見える。

『人聞きの悪い小僧が。私は峰子を助けただけよ。代償だって、若くて未来ある人間の時間を少し貰っただけに過ぎない』

 それは狐のような姿をしていたが、機嫌良さげに開かれた口の中は真っ黒だ。喋るとまるで闇の中から声が発せられているよう。

「時間を貰ったというのは嘘だろう。神社ひとつ乗っ取ってふんぞり返っているような化け物が、人の中に流れる時間をどうにかできる訳がない」

『失礼な奴め』

 涼一の言葉に化け物はキッと目元を釣り上げた。

「お前らのような半端者が人間から欲しがるものなんて知れている」

 そう言い切った涼一の隣で峰子は息をひそめて様子を伺っていた。自分が何を奪われているのか、知りたいが恐れているとでもいうかのように。

「生気を奪っていたんだろう。休んでも体力が削られるのはそのためだ」

 それは生きているものなら誰しもが持つものである。肉体も生気も持たずにこの世に留まるものの中には生気を欲しがるものも多い。

『その通りさ』

 短く答えた化け物は体を縮め、その形を変えた。

 泥人形が崩れるように狐の姿はなくなり、代わりに別の姿を象ろうとする。

 みるみるうちに化け物は人の形を成し、そうして現れた見覚えのある姿に二人は息を呑んだ。

『人間の姿に化けたのは初めてだが。上手くいったようだな』

 峰子の姿をした化け物は愉快そうに笑った。

「峰子さんから生気を奪ってその姿を得たのか」 

『そうさ。やっぱり若い娘のはいいね。その身体ごと食ってしまいたいくらいだ』

「う、嘘を……」

 顔を真っ青にした峰子が言葉を詰まらせながらも反駁した。

「……最初から嘘をついていたんですか。時間が欲しいと言ったのは」

『人聞きの悪いことを言うな。生きている時間も生気もたいして変わらないじゃないか。それに、人間は生気をくれと言うとみんなやたら怖がるんだ。だから言い換えたまでよ』

 化け物は峰子の方へ視線をやった。困惑と恐怖のせいで唇まで真っ青になっている。

「怖いのは当たり前だろう。そんなものを渡し続けたらいつか死んでしまうのだから」

「死……」

 峰子の喉がひゅっと鳴るのが聞こえる。

 涼一はここにきて初めて峰子に哀れみを抱いた。

 この契約は峰子が圧倒的に不利である。

 なぜなら普通の人間はそれに対処する手段を持ち合わせていないからだ。

 峰子は霊力があってもそれの扱い方をわかっていない様子である。彼女一人ではこの契約を解くことはできないだろう。

「あの、話が違います。死んだら意味がないじゃないですか。私と結んだ契約を反故にしてください」

 堰を切ったように言葉を溢れさせた峰子に、彼女そっくりの姿を保ったままの化け物は口を横に長く伸ばして答えた。

『いやだね』

 峰子の顔を使っていやらしく笑うものだから、側で見ている涼一は気持ちが悪くて仕方がなかった。化け物は圧倒的に優位であることの愉悦に浸っている。

「え……?」

『聞こえなかったか? 契約は解かん』

 とりつく島もない化け物に、峰子はなおも食らいつく。彼女は自分が思っていたよりも逞しい人なのかもしれないと涼一は思った。

「そんな。嘘をついたのはそちらでしょう。嘘をもってした契約は無効になるのではないですか」

『それは人間の契約の話だろう。そんなこと、私は知らん』

(やっぱりな)

 一歩下がって様子を眺めていた涼一は眉根を寄せた。予想できた展開だとはいえ、胸糞悪い。

『一回結んだ約束は一生かけて守るもんだよ。これからもよろしくな、峰子』

 そう言ってケタケタと笑う化け物を前に、峰子は震えながら俯いていた。もう何を言っても無駄だと思い知ったように。

「峰子さん」

 涼一が呼びかけると、死んだ魚のような目で峰子がこちらを向いた。もう助かることを諦めてしまっているように見える。

「さっきは、疑って悪かった。詫びと言ってはなんだが、この場はなんとかする」

 すっかり冷たくなった峰子の手を取ってそう言うと、峰子の真っ黒い瞳に僅かな光が宿った。唇を震わせながらゆっくりと声を絞り出す。

「さっき、涼一さんに手首を捻られて痛かったです。それにとても怖かった」

「……すまない」

 怖かった、と言った瞬間峰子の目から涙が溢れた。石畳みに水滴が落ちて染みを作る。

「けれど忘れることにします。あの化け物をこの社から遠ざけてください。お願いします」

 峰子が涼一の手を握り返す。それに応えない訳はなかった。

「わかった」

 涼一が一歩前に進み出ると化け物は人の姿を崩し、大きな狐の姿に戻った。

『恩知らずの小娘が』

 峰子の方を睨みつけるように大きな身体を屈める。

 化け物が飛びかかる前に涼一は懐から取り出したものを投げつけた。懐紙のような包みがひとりでにぱっと開かれる。

「捕らえろ」

 涼一の声に呼応するように袋の中から鞭のようなものが飛び出した。巾着を食い破るようにして出てきた黄緑の蔓が化け物に絡みつく。

「あれは、藤の蔓……?」

 峰子の言葉通り。巾着に入っていたものは藤の花の種である。先端がくるりと丸まった細い蔓は途轍もない早さで成長し、木の枝のような太さで化け物を抑え込む。

『小僧……日摘の人間か』

「そうだ。相手が悪かったな」

 涼一が前に出ると化け物は身じろぎした。なおも藤の蔓はぎりぎりと化物を締め付ける。

「峰子さんに結ばせた契約を解いてこの地を離れろ。さもなくばこの世から消すぞ」

 身体を拘束され、脅されても化け物は態度を変えなかった。自分の身体に絡みついた蔓を嚙みちぎる。

 木の枝に近いほどの太さになった蔓が次々と千切られていく。みるみるうちに化け物は自分の体に絡みついた拘束を解いていってしまった。 

『日摘は落ち目の家じゃないか。そんなものは恐れるに足らぬ。この拘束も柔いものよ。すぐに嚙み切って二人とも食い殺してやろう』

 化け物は今にも自由をとり戻し、二人に飛びかかろうとしている。

「涼一さん! もう神社はいいので逃げましょう。このままでは二人とも食べられる……!」

「まだだ。峰子さん、ここにある花全部貰うぞ」

 敗北を予感した峰子が涼一の袖を引っ張ったが、涼一はそれに構わず飛び出した。

 同時に化け物は藤の蔓から抜け出して、涼一の胴体めがけて食らいつく。

 見せかけの図体とはいえ、まともに攻撃を受ければ涼一も無事では済まない。

 このところ引き篭もっていたせいで戦闘になるのは不安があったが、思ったほど身体は鈍っていなかった。間一髪のところで交わして椿の植垣からひとつ花をもぎ取った。

「眠れ」

 再び向かってこようとする化け物の額に向かって花を投げつける。

 椿の花は緩やかな放物線を描き、ぴたりと張り付くように狐の化け物の額に触れた。

 その花が触れた瞬間、化け物は目を瞑って倒れてしまった。

「……! 倒したんですか?」

 茂みの後ろで成り行きを見守っていた峰子がひょこりと顔を出して涼一に尋ねた。彼女は案外逃げ足が早いのかもしれない。

「いや、倒したわけではない」

 意識を失った化け物を前に、涼一は首を鳴らした。

「幻術で眠らせているだけだ。このまま術にかかってくれればいいが、また起きてくるかもしれない」

「そんな。では永遠に眠らせるのですか? 封印みたいな……」

「いや、そんな面倒くさいことはしない」

 昨日から夜通し起きている涼一は既に帰りたい気持ちになっていたし、長期にわたって化け物を管理するなど御免だと思っている。

「うまく魅せられるといいんだが」

 朝露を乗せて輝いている椿の花が視界にちらつく。見頃を迎えた花は見事に咲き誇っていた。


 


 深い闇の中に落ちていく。

 術中に嵌った、そう化け物は自覚した。

 さっき涼一が投げた花は術の一部だったのだ。それが額に当たった瞬間、意識が遠のいた。

(このままでは幻覚に閉じ込められる)

 目覚めなければ、そう思って化け物が目を開けた瞬間、先ほどの神社とは全く違う場所が見えた。

『……?』

 自分の身体の無事を確かめるために視線を下に下ろすと、さっき作った狐の姿はどこかへ消えていた。

『人の姿……?』

 視線の先には白くて長い指が映っていた。

 大きな爪は薄桃色で、なめらかな肌に覆われた手に思わず化け物は見惚れてしまう。

 次に視界に入ったのは大ぶりの花が描かれた振袖だった。化け物にとって上等な絹織物を間近で見るのは初めてのことで、うっとりと視線を奪われる。

『椿の柄はやめなよ。縁起が悪い』

 その時、冷や水を浴びせるような声が降ってきた。

 声のした方を見上げると、見て不快そうな顔でこちらを見下げる女が目に入った。豪奢な着物を着た女の立ち姿は見事なもので、頭には簪が何本も挿されている。

『そんな着物を着ていたら、見ているこっちもたまったもんじゃない。瘡毒になったらどうするんだ』

 女はどうやら着物に文句をつけているらしかった。

 そのことに気づいた瞬間、何故だか化け物の中に怒りが湧いてきた。これは幻術によって魅せられている世界だと頭ではわかっているのに、自分が狐の化け物であることすら忘れて勝手に口が動く。

『……いいじゃないか! 私は椿が好きなんだ。お客さんがせっかく仕立ててくれたのに、水をさすようなことを言うんじゃないよ』

 思わずたとう紙から出てきたばかりの着物を抱きしめる。

 その様子を見た簪の女はまだ何か言いたげにしつつも、ため息をついて部屋を出ていった。

 部屋にひとり残され、あたりを見回す。

 ここはどこなのか、一体どんな幻覚を見せられているのか。

『なぜ私は怒った……?』

 これも術の一部なのかと思い、自分の腕の中にある振袖を見る。よく見ると、さっき涼一に投げつけられた花に似ている気がした。

 その時、ないはずの記憶が頭の中で湧き上がってきた。これはずっと望んでいた、自分だけの着物だ。いつも他の人の着物を借りてばかりいた自分が初めて持つことを許された、大好きな椿の柄の振袖。

『まずい……。これも幻覚だ。目覚めなければ』

 幻覚の中で化け物は頭を抱えて呻いた。自分の本来いた場所を思い出す。そう、自分は山の中で死にかけていた狐の生気を吸って形を成した化け物だと。そして次は峰子という女の姿を得て、やがてはとって変わってやろうとしていたのだ。山の麓の社で死にそうな顔をしていた女。

 あの女を、食い殺さねばーー



 化け物は夢から覚め、現実の世界へ引き戻された。

 視界が反転するような感覚に眩暈を覚えながらもその首をもたげ前を見据える。

 広がる視界はさっきまでと変わらず、神社の境内に涼一と峰子の二人が立っているだけだった。

『なんだこの……薄気味悪い幻覚は』

「早いな。もう戻ったのか」

 思いのほか早く幻覚から覚めた化け物に涼一は首を傾げる。だがその顔に焦りの色はこれっぽっちも浮かんでいなかった。

 化け物が幻覚を見ていた間に、その体の上を再び藤の蔓が這って蠢いている。

『まどろっこしい。さっさと食いちぎってやる』

「まぁ、もう少し寝とけよ」

 化け物が蔓に噛み付いた瞬間、涼一はもう一つ花を投げてよこした。しかしそれは避けられてしまう。

『同じ手を食らうか!』

 再び放物線を描いた椿の花は額からは外れ、化け物の牙が涼一に向けられた。

『死ね! 小僧』

 涼一に牙が届くと思った瞬間、背後で玉砂利を踏む音がした。

『?!』

 背後の気配に振り向いた瞬間、化け物は自分の額に何かが当たるの感じた。

『峰……子……!』

「約束を守らないからです……!」

 峰子が投げたものは涼一によって術がかけられたもう一つの花だった。

 ぽとりと花が化け物の額へと真っ直ぐ落ちる。

 抵抗する間も無く、化け物は二度と覚めない夢の中へと突き落とされた。



(畜生! また眠らされた!)

 がばりと化け物が目を開けると、また人間の女の姿になっていた。また畳敷の部屋にいるが、先ほどと違うのは部屋にある調度品である。

 化粧台や火鉢、座布団に至るまで質の良いものに変わっている。

『姐さん、そんなところで寝たら着物にしわがよるよ』

『!?』

 背後の声に驚いて振り返る。そこには十歳にも満たなそうな人間の幼子がいた。ちいさい頭の上で髷を結い、目元には化粧が施されている。

(着物……?)

 自分の身に纏っている衣服を確認すると、これがさっき見た夢の続きなのだと分かった。同じ柄の振袖が見える。着用されているそれは新品の織物特有の艶を失い、肌に馴染んで柔らかくなっていた。

(なんなんだ。この幻覚は……)

 同じ部屋にいる禿の少女がまとわりついてくる。自分に随分と懐いているようだ。

『姐さん、あせも早く治るといいね』

『? な、なんのことだ』

『ほらここ。この前自分で言うとったじゃろ』

 そう言って少女が指差した先には、確かに赤いできものができていた。

  雪のような肌をした腕にぽつぽつと赤い点がいくつも見える。

『……このくらい大丈夫だ。すぐ治る』

 化け物はなんとなく少女が愛おしくなり、結った髪が崩れないよう額を撫でた。

 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

『姐さん!』

 驚いた少女が駆け寄るが、女の姿をした化け物は強烈な眠気に襲われて意識を失った。




 次に目を開くと、幻が再び目の前に広がっていた。

 さっきよりもずっと視界が悪い。それに、目元が腫れぼったくて目がうまく開いていない感覚があった。

『ここは……どこだ』

『姐さん! どうしたの動いたらだめ』

 光のさす方へ顔を向けると、誰かが部屋に入ってきた気配がした。外を目指す自分の動きを止めようとしているらしく、抱きつかれるように行く手を阻まれる。

『落ち着いて。大丈夫だから、部屋の中へ』

 そう言って自分を宥める若い娘の顔を近くで見ると、さっきの幻覚で見た子供が大きくなった姿なのだとわかった。続きを見せられているのだと気づき、不覚にもよくできた幻覚に感心した。

『お水が欲しいの? 欲しいものは取ってくるから言って頂戴』

 懇願するようにそう言う娘は随分と大人びて見えるが、顔を濃い化粧で覆っているせいらしかった。もう店出しを済ませて一人前になったのだろう。

 そういえば、あの着物はどうなったのだろう。

 ふいにそんなことが気になって、部屋の中を見渡した。椿の柄の着物。あれはまだ手元にあるのだろうか。

 そう思って辺りを見回すが、部屋の様子が以前とは明らかに違っていた。畳にはシミがいくつもあり、調度品もほとんど無い。あるのは薄い布団一枚だけだ。

 あばら家のような場所に女はひとり閉じ込められていた。

『あの着物……』

『何?』

『あの着物はないか。赤い……大きな花の柄の……』

『どの着物のことかわからないわ。それに……もうほとんど他の姐さんに取られてしまったと思う』

 物悲しげな表情で少女は目を伏せた。膝立ちになったまま女は呆けてしまう。

『大丈夫。お薬を飲みましょう、ね?』

 そう促され、仕方なく座り直した。ぼうっとしていたせいで尻餅をつくような形で布団に腰掛ける。

 その時、はずみで顔から何かが取れるのを感じた。

『?』

 部屋が薄暗いせいで目の前にいる娘もそれが何かはわかっていないようだ。娘が明かり取りの窓を開けて、落ちたものを確かめる。

 次の瞬間、ぎゃあと悲鳴が聞こえた。娘は血相を変えてどこかへ逃げて行ってしまった。

 残された女は落ちたものを拾いあげる。その時になってはじめて、自分の手が包帯に巻かれていることに気づいた。

 うまく動かない指先で落ちたものを掴むと、ほれは肉片だった。

『な……」

 たまらず自分の顔を触り、鏡を探す。

 部屋の中には割れた手鏡があり、それを覗くと破片の数だけ自分の顔が映し出された。

『!』

 自分が化け物だということを忘れるほど、映った顔に驚き飛び退いてしまう。

 腫れ上がった顔はさっき見たはずの美しい原型を留めておらず、ところどころが瘡蓋で覆われていた。

 指の中の肉片をよく見ると、二つ穴が開いている。

 女の顔から落ちたのは、壊死した鼻だった。


 そこで化け物の幻覚は途切れた。

 


「起きたか」

 化け物が目覚めると、涼一の声が聞こえた。

 目覚めの悪い夢を見た後のように化け物は息を荒くしている。ようやく現実に戻ると、真っ直ぐにこちらを見つめる涼一と目があった。その目はやはり凪いでいて、哀れみのような感情を湛えているようにさえ見えた。

『気色の悪い幻術め……だが目覚めたぞ。もう同じ手は食らわない』

「いや、もう遅いよ」

 涼一が化け物の顔を指差した。ポトリと音を立てて何が落ちる。

『?』

 石畳に落ちたのは化け物の鼻先だった。狐の姿をしているせいで上顎だけがなくなったようになる。

『な』

「落ちろ」

 涼一がそう命じると、境内を囲む椿の花がひとつ、またひとつと落ちて言った。

 赤く色づいた大きな花がぼたぼたと地面に落ちていく様は幻覚の中で見た落ちる鼻によく似ていた。

『ふざけるな……なんだこれ、は』

 ぼた、とまた化け物の一部が剥がれ落ちた。顎がもげる。もう言葉を発せなくなった化け物はもはや呻くことしかできない。

「人の恐怖だよ」

 そう答えて涼一は口元だけで笑った。



 日摘の屋敷に勤めるようになってから、変な家だとは思っていた。けれどここまで不気味な家だとは一体誰が想像できよう。

 峰子はめちゃくちゃな悪夢を見ているような気持ちになった。異常な光景を前にただ立ち尽くすことしかできない。

 涼一が椿の花を投げつけてから、化け物の動きが止まった。狐の形をした化け物の体がみるみるうちに崩壊していく。

「何なのこれは……」

 先ほど言っていた、「たまわりもの」の力なのだろうか。もしそうなら涼一は、日摘家は、自分が思っていたよりもずっと普通とかけ離れた存在なのではないか。

「人の恐怖だよ」

 涼一の言葉にはっとして峰子は目を見開く。

「恐怖……?」

 涼一がこちらを振り返った。

「人が怖いと思うものが力を持つんだ」

「どういうことですか……」

「椿の花が落ちるさまは梅毒の症状に例えられ、遊廓では嫌がられた。武家では人の首が落ちているようにも見えると言われて嫌われた」

 そう言いながら涼一は地面に落ちた花をひとつ拾い上げる。もう生垣にはひとつも花は残っていなかった。

「狐の姿に化けてあの化け物は人を脅かしているつもりかも知れないが、この国ではこの花のほうがよっぽど人の畏れを集めてきていたらしい」

 化け物は残った双眸で恨めしそうに涼一のことを睨みつけていた。

 だがそれも長くは続かず、化け物の首が音を立てて落ちた。さっきの涼一の言葉を思い出し、峰子はその光景を人の首が落ちるさまと重ねてしまう。

 峰子は思わず目を逸らしたが、視線を横へ逸らしたせいで地面に落ちた無数の椿が視界に入ってしまった。心なしか、それらが血のように見えてくる。

「うっ」

 急に気分が悪くなって峰子はしゃがみ込んだ。

「大丈夫か」

「すみません……大したことはありませんので」

 おそるおそる前を見ると、化け物はもうどこにもいなかった。

「消えてる……」

「もう化け物はいなくなったよ」

 そう言われて、峰子はやっと人心地がついた。さっきまで立ち込めていた煙のように重い何かが消え、清涼で冷たい空気で肺が満たされていく。

 自分を脅かしていた出来事が終わったんだと実感し、峰子の胸に安堵が押し寄せた。

「涼一さん、ありがとうございました」

 峰子が深々と頭を下げるのに涼一は頷き、しかしなぜか決まり悪そうな顔をした。

「例には及ばない。椿を台無しにしてしまったし……。それにずっと峰子さんが自分達に害をなすんじゃないかと疑っていた。自意識過剰だったな」

 すまない、と言って涼一が頭を下げるものだから今度は峰子が取り乱してしまう。

「顔を上げてください! こちらこそすみませんでした。勝手に化け物と契約を結んで、結果的に涼一さんたちに迷惑をかけていたのですね」

「結局何も悪いことは起こらなかったし、過ぎたことだ。それよりも捻った手は大丈夫か」

 そう言って涼一は峰子の手を取った。その動作があまりにも自然で峰子は少しだけ面食らう。

「大丈夫です。少し痛かったですが」

「申し訳ない」

 本当に申し訳なさそうにしている涼一に、峰子はなんだか不思議な気持ちになった。

 峰子を疑っていた時や化け物を前にした時の涼一はどこか他者を拒絶するような空気を纏っていたのに、その物々しさはもうすっかりなりを顰めている。いまはどこか頼りなさげな少年のように見えた。

「もう謝らないでください。感謝の気持ちの方が大きいのですから」

 そう言って峰子が笑うと、涼一もようやく安心したようだ。気が張り詰めていないと、妹の結花と少し似ていて表情がよく変わる。そのことに初めて気づいた峰子はまた笑いそうになった。

(それにしても、これからどうしよう)

 笑うのを堪えるついでに先のことに思考を向けてみたが、気を抜けば落ち込んでしまいそうになる。一人ではどうにでもできないことが多すぎて化け物に頼っていたのである。化け物から解放されたところで、元あった問題は解決されないままだ。

(私だけではどうしようもない。もうこの場所とはお別れするしかないのかもしれないな)

 それなら最後にこの景色をよく目に焼きつけておこう。そう思って峰子が寂寥に苛まれながらも境内を見渡していると、涼一に声をかけられた。

 今はあまり話しかけないでほしいと思いながら生返事をしていたが、聞こえてきた内容に峰子の意識は一気に涼一の方へと向けられた。

「あの、今なんて言いまいたか」

「だから、もし嫌じゃなかったら、これからもうちの屋敷に勤めてくれないかって言ったんだ。神社の管理費用はうちが出すから」

 思わぬ申し出に峰子は目が点になった。確かに日摘家ならばそれくらいの金は出せるだろうが、あまりにも都合の良すぎる話ではないか。

「……いいんですか?」

「もちろんだ。家のことは峰子さんに任せきりだし、これからも是非とも雇わせてほしい」

「いえ、その後のことです。この神社をって」

「ああ。管理費用くらいなら出せる。使用人としての給金はもちろん別で出す」

「そんな……」

 峰子は思わずへたり込みそうになった、よもやすると日摘家にとっても最初からその方が都合よかったのではないか。使用人が化け物と通じているよりも金を出して解決する方が心労も少なかったことだろう。

 涼一に助けて欲しいと頼んだのは本心だが、まさかここまでの救いがあるとは思わなかった。何か見返りが求められるのではないかという気持ちになる。

 しかし見上げた涼一の顔はいつもとなんら変わらず、当然のことを言ったまでという感じである。峰子は自然とその恩恵を受け取ることができた。

「本当に……ありがとうございます」

 深々と涼一に頭を下げる。

 今までも仕事に手を抜いたことはなかったが、これからも一生懸命、日摘家のために働こうと峰子は決めた。




 二人は参道の端を歩いて来た道を戻る。鳥居を潜って出る時に涼一が礼をしたのがとても誠実に感じられた。

「そうだ峰子さん。ついでと言ってはなんだが、聞きたいことがある。なんでこの場所を手放したくないんだ?」

 石段を降りて帰る時、ふと涼一がそんなことを尋ねてきた。

 二人とも歩きながら話しているせいで互いの顔は見えない。後ろを歩いている峰子はそれをいいことに思い切り目を泳がせた。

「それは……」

 せっかく助けてもらったのだ。何かしらこの場所を大切に思う理由をきちんと答えるべきだろう。

(言葉にするのは難しいな……。私とばあちゃんの思い出を話したってしょうがないだろうし)

 峰子にとってこの場所を失うことは、場所そのものよりももっと大きなものがなくなってしまう感覚があった。祖母を失った時に感じられた喪失感とは少し違う、それだけは失いたくないという願望。

 迷いながらも峰子はゆっくりと口を開いた。

「私が、この場所を手放さないことで、いろんなものと繋がっていられると思ったから……ですかね」

 うまく言葉になっていない気がする。自分の頭の回らなさを悔いた峰子だったが、涼一は興味深そうにこちらへ視線を向けた。峰子が考え込んでいるうちに二人とも階段を降り切っていたのだ。

「この場所は峰子さんにとって何かと繋がれる場所なのか?」

「そうですね……」

 峰子は今まで自分がどんなことを思ってこの神社で過ごしてきたかを思い返す。

 両親と会うこともできずきょうだいもいない子供だった峰子に、自分は一人じゃないと思わせてくれたものとはなんだったのか。

「死んだ祖母や、この場所で会った人……過去の人たちだけじゃなく、これからここにきてくれる人たちの縁を繋いでくれる場所がここだったんです。だから私は意地を張って、自分でなんとかここを守らなければと思っていました。

「責任感が強いんだな」

「寂しかっただけです。それがなくなってしまえば私は本当に一人になってしまうので」

 この場所を失うと峰子は根無し草になってしまう。ふらふらと彷徨って、どこかで消えても誰にも悲しまれず、遺すものもない。そんな未来を考えたとき、峰子はとても悲しい気持ちになった。子供の頃から今に至るまで、その恐怖はずっと峰子の中にある。

「すみません。いい年をして寂しいだなんて、子供みたい」

 自分の気持ちをありのまま涼一に話すのは初めてで、気恥ずかしい。笑って誤魔化そうとしたが涼一は笑わなかった。

 笑わないどころか、驚いているような顔で目を丸くしている。

「……それは、俺がたまわりものであることを失いたくないのと同じ気持ちなんだろうか」

 唐突にそう言われて峰子は戸惑った。

 たまわりものというものが誰にとって、どのくらいの価値のあるものなのかわからない。

 しかし、涼一にとっては幼い頃から自分のすぐそばにあって、手放したくないものなのだろう。そのことは峰子にも察せられた。

「自分の大事なものを持ったままでいられるなら、それは手放さなくていいかと思います」

「そうか」

 峰子の言葉に満足したのか、涼一は泣きそうな顔で笑った。

(あ、こんな顔もするんだ)

 顔がきれいだから、つい見てしまう。けれど綺麗という言葉だけでは尽くせない感情が峰子の中で湧いた。

(今の私は使用人)

 なぜか、何度も唱えたいつもの言葉が峰子の胸の中で繰り返される。うっかり涼一を自分と年端の変わらぬ青年として見てしまったことに罪悪感を覚えた。

 日が昇り、街はすっかり明るくなっていた。見慣れたはずの朝日を峰子は不思議な気持ちで見つめる。痛いほどの寒さはいくらか和らぎ、感覚が冴えていくような清涼な空気が二人を包む。

(今日も仕事をがんばろう)

 前を向き、少し先を歩く涼一に追いつこうと峰子は足を早めた。










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