物想うイチジク

野村絽麻子

 九月になっても一向に秋の気配が訪れない。

 照りつける陽射しを日傘で遮りながら歩いてきたけれど、秋になって太陽の角度が変化したのか、眩しさが目を焼く印象がある。サングラスをした方が良いだろうかと思いながらスーパーの自動ドアをくぐれば一気に体感温度が下がり、震えとくしゃみが同時に沸き起こった。


 手に持った緑色のカゴをぷらぷらと揺らして歩く。

 カートを必要とする量の買い物は予定になくて、とりあえず牛乳の小さいパックと、豚しゃぶサラダ用の肉と、あと何かみそ汁の具になるものをと思いながら、それなのに足は勝手に果物売り場の棚の間を歩き出している。

 大量のバナナが所狭しと並び、終わりかけの桃と、手の届きそうにないお値段のシャインマスカット。透き通った緑色の隣には居心地悪そうにイチジクが売られている。

 茶色とも紫ともつかない、渋い色合いの妙な形の実が透明のパックに六個くらい入っておおよそ六百円近い。でもそんなにいらないんだよと視線を逸らすとちょうど半分くらいの大きさの黒いトレーに三つ並んだイチジクが三百円で売られている。少量パックと書かれたシールの貼ってあるそれを、一個百円するのかいと思いながらも緑色のカゴに入れてしまう。


 暑さの中をふうふう言いながら帰宅して、冷蔵庫に豚肉と牛乳と小松菜を入れて、イチジクのパックはそのまま流しの横に置く。エコバックを畳む。まな板と包丁を取り出す。水洗いしたイチジクは熟れているのかすっと包丁が入り、白っぽい外側の部分と微妙にくすんでいるくせに透き通ったようにも見える紫色の果肉が姿をあらわす。

 四つ割にしてから爪を使って皮を剥き、そのまま口に入れてみる。生温かくぬるりとした実が口の中でほどけて、ううん、と思う。なんだろう、この食感。まるでディープキスに似てないだろうか。似てないかな。似てるかも。……嘘かも。

 たまに雑貨屋で売っている安物のフィグのコロンみたいな匂いもしないし、ドライフィグのような甘さもなければ、かと言って酸っぱくもない。強いて言えばわずかに甘い。薄味の果実ってどうなんだろうと思いながらふたかけ、みかけと続けて口に入れ、やっぱりそんなに旨くもないんだよなぁと呟きながら、残りの二つの実をそのまま冷蔵庫にしまった。


「高校生の頃にさぁ、榊原さかきばらくんって男の子がいてね」

 夕方、鍋に湯を沸かしながら話しかけた。とおるとは恋人の関係になってからそろそろ四年が経つ。同棲するようになってからは二年近い。アパートの更新もあるし、そろそろこの先の方向性を決めなくてはと思うものの、それを口に出すタイミングを得られないままで、また夏が過ぎようとしている。

 湯気に向かって話しかけてるみたいだと自分でも思ったけれど、亨はリモコンでテレビの音を二段階下げたので、聞いてくれるつもりがあるんだなと解釈しながら言葉を続ける。

「背の高い、ひょろっとした男の子で、口数も少なくて、でも頭が良くて」

「イケメン?」

「イケ……てたかも? わかんないけどそれでね、クラスの女の子に星野ほしの小百合さゆりちゃんって子がいて、ホシコって呼ばれてたんだけど、どう見ても小百合って感じのしない子でさぁ」

 ふぅん、と適当な相槌を打ちながら亨はリモコンでチャンネルを変える。ザッピングってやつだ。

「太ってたんだよね、その子。結構。いや、かなり?」

 今となっては「ルッキズム」なんて話になるわけだけど。少なくとも、小さい百合の花という名前にふさわしい体格はしていなかったし、本人にもその自覚はあって。だからホシコと呼ばせていたのだ。

「でね、そのホシコと榊原くんが、実は付き合ってるんじゃないかって話があったんだよね」

「仲良かったの? その二人」

「うーん、仲が良いとか、そういうカテゴリではなかったかなぁ」

 仲が良いかと聞かれたら微妙だと答えるしかない。ホシコから榊原くんへは頻繁に話しかけていた。ほとんど纏わりついていると言っても良いくらいに。対して榊原くんは、ホシコのねちっこいトークに軽く微笑みながら相槌だけを打っていた。

「……イライラしたの、あの二人を見ていると」

 小さな声の呟きは、豚肉の入ったパックのラップを剥がす音に掻き消されて、亨の耳に入る前に沸騰し始めた鍋に落っこちた。


 *


 それであの時、私は榊原くんに声をかけたのだ。

 部活終わりに忘れ物を取りに寄った放課後の教室には榊原くんの他には誰もいなくて、その時の私は反射的に、好都合だ、と思った。

「ねぇ、榊原くんてホシコと付き合ってるの?」

「そう見える?」

 唐突な私の問いかけにも、榊原くんはいつもの薄ら笑いを浮かべながらそう答えて、それがやっぱり私の癪に触ると言うか、何と言うか。そんな訳ないのに挑まれたような気持ちになった。

「じゃあさ、私でも良くない?」

 それで、そう言った。

「ホシコじゃなくて」

 榊原くんは顔をあげた。そして、面白そうな顔をした。


 私は榊原くんと唇を重ねていた。重ねるなんてもんじゃなくて、もつれ合っていたと言う方が近いかも知れない。座ったままの榊原くんとかがんだ姿勢で長い長いキスをする。自然と伸ばされた腕が背中を這い、私は快楽に身を捩らせる。制服のリボンを片手で器用にほどいていく榊原くんの手腕にこれが初めてではないと悟る。途端にカッと脳みそが沸き立ち、勢いのまま榊原くんの髪をかき混ぜた。

 ぬるりとした感触の生温かい舌がお互いの口内を行き来する。絡めようとしているのか、絡め取られているのか、もう境目がわからない。わからないけどやめられない。んんふ、と息が漏れる。それを追うように榊原くんがまた舌を絡める。熱い息。粘膜の揺らぎ。溶け合う、と思った。それが心地良いとも。


 たん、と音がした。

 教室の扉を開け放った音だ。


 その頃には私の胸元のリボンは既に床に落ち、ブラウスのボタンは四つくらいはだけていた。ともすれば乳房も顕になっていた。

 隠さなくちゃと思うよりも先に、「ホシコだ」と分かった。振り返らなくても。どうしようもなく。

 榊原くんの表情は特に変化を見せなかった。それにもかかわらず勇敢なひとりの少女は震える声で問いかける。

「なに……し、て……」

 絞り出すような声の後に駆け出す足音がして、榊原くんが、ふ、と息を吐き出した。見れば、唾液に濡れたままの彼の口の端はわずかに持ち上がっている。

 変な人だ。だけど、それがこの人らしい。そう思った。


 それからしばらくホシコは学校に来なかった。二週間くらいだったか。再び登校し始めてからも、私とは目を合わす事もなく、榊原くんに擦り寄ることも無くなっていた。良い気味だ、と思った。けれど、私と榊原くんの間にもそれ以上の関係が築かれることはなく、そのまま卒業の日を迎えた。

 彼が今どこで何をしているのか、私はなにも知らない。


 *


 片栗粉を塗した豚肉を湯掻いて、色が完全に変わった所で引き揚げ、氷水を張ったボウルに沈める。お皿にはレタス。それと細切りにしたキュウリ。十分に冷えた豚肉を盛り付けたら胡麻ダレを回しかけて出来上がりだ。

 マナーモードが一度だけブゥンと震えて亨の手が拾い上げる。画面を何度かタップし、それから、音もなく口角を持ち上げるのが見えた。わずかに。でも、確かに。

 目の端で捉えた私はそのまま視線だけを動かしてその場面から引き剥がす。亨の口から次に出る台詞はわかっていた。わるい、ちょっとでてくるわ。

「悪い、ちょっと出てくるわ」

 思い浮かべたのと寸分違わぬ言葉を発して亨が立ち上がる。たぶん数時間後に受信するメッセージの内容だってそらで言える。今夜享は帰らない。あくる朝、見知らぬボディソープの香りをさせて現れる亨に薄っすら笑った私が「おかえり」を言う場面が思い浮かぶ。冷蔵庫の冷しゃぶサラダのラップを剥がして食べる亨の背中まで。指で摘まないで、お箸で食べたらいいじゃないと言う私の言葉。流しに置かれた食べ終わりの皿までが。目に浮かぶように。


 たん、と音がする。


 正確には私の記憶の中で蘇った音だ。震えながらも言葉を発したホシコの姿を思い出す。絞り出すような声も、意味をなさない言葉も、今では遠く、眩しく、手の届かないものに思える。あの時のホシコのような勇敢さを私は持ち合わせていない。

 アパートの扉が閉まる。私は冷蔵庫のドアを開けて、冷えたイチヂクを取り出し、丸のまま動物のように齧り付く。唇の端から果汁が垂れてもお構いなしに。薄い味の果実を噛み締める。

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