【SF短編小説】時制管理局で時を保存する少女、あるいは記憶のアーキビスト(約7,900字)

藍埜佑(あいのたすく)

【SF短編小説】時制管理局で時を保存する少女、あるいは記憶のアーキビスト(約7,900字)

●第1章:標本管理人


 記憶保管所の地下三階、標本管理室。そこには無数の光が、まるで蛍のように明滅していた。クリスタルケースに納められた記憶の断片たちだ。私たち標本管理人は、それらを「発光標本」と呼んでいる。


 私、春瀬時織(はるせしおり)は今日も定刻通り午前八時に出勤し、いつもの場所に座っていた。モニター画面には次々と新しい標本の到着を告げる通知が点滅している。


「時織さん、今朝の搬入分の確認をお願いできる?」


 同僚の倉持がデスクの向こうから声をかけてきた。


「了解。担当エリアの確認を始めるわ」


 私は応答しながら、目の前に広がる半透明のホログラムスクリーンに触れた。指先が青く光る。


 記憶標本の管理は繊細な作業だ。一つ一つの記憶が、誰のものなのか、いつのものなのか、そして何よりも重要な「時制」が正しく保たれているかを確認しなければならない。


 ……ん?  私は作業の手を止めた。


「これは……」


 画面に表示された標本データが、明らかに異常値を示している。時制指数が通常の範囲を大きく逸脱していた。


「倉持さん、ちょっと見てもらえる?  B-7391の時制指数が異常よ」


 倉持が私の元へやってきて、データを覗き込んだ。


「ふむ。確かにおかしいな。過去時制なのに、未来性指数が混入している」


 私たちは記憶を「時制」という概念で管理している。過去の記憶は過去時制、現在進行形の記憶は現在時制として分類される。しかし、目の前の標本は明らかにその法則から外れていた。


「検疫に移動させておきましょうか?」


「ああ、そうしてくれ。それと……」


 倉持は何か言いかけて、口ごもった。


「どうかしました?」


「いや、この標本の年代表記を見てくれ。2089年……今年じゃないか」


 私は画面を凝視した。確かにその通りだ。しかも日付は……今日の日付になっている。


「でも、これは過去時制の記憶よ?  どうして今日の日付の記憶が、過去時制として登録されているの?」


 倉持は眉をひそめた。


「時織、この標本の持ち主の名前も確認してみろ」


 私は標本データの所有者情報を開いた。そこには……。


「春瀬、時織……?」


 私の名前があった。


 しかし、それは決してあり得ないことだった。なぜなら、記憶保管所に保管されるのは、すべて「終わった記憶」のはずだから。今この瞬間を生きている私の記憶が、どうして過去の標本として存在しているのだろう?


「倉持さん、これ……」


「ああ、明らかに異常だ。だが、プロトコルは守らなければならない。まずは検疫に移動させよう」


 私はデータを隔離エリアに移動させる作業を始めた。しかし、その時だった。


「エラーです。移動権限がありません」


 システムからの予期せぬ応答に、私は戸惑った。


「私の権限で移動できないの?  でも、これは私の担当エリアよ」


「俺の権限でも試してみようか」


 倉持が自分のIDでログインを試みる。しかし、結果は同じだった。


「……どういうことなんだ?」


 倉持が呟いた瞬間、標本管理室の照明が不自然に明滅した。そして、私たちの目の前のホログラムスクリーンに、見慣れない文字列が浮かび上がる。


『時制干渉:検知 介入レベル:S 対象:春瀬時織 現在時刻より:+2.5時間』


「未来からの……干渉?」


 私の声が、不思議なほど静かな管理室に響いた。


 その瞬間、私の視界が歪んだ。まるで、誰かが現実という布地を掴んで、強く捻っているかのような感覚。そして、見覚えのない記憶が、私の意識の中に滑り込んでくる。


 それは確かに私の記憶なのに、まだ経験していない出来事の記憶。これから起こる――いや、これから起こるはずの出来事の残響。


「時織!」


 倉持の声が遠のいていく。意識が薄れる直前、私は確かに見た。記憶保管所の無数の標本が、まるで時を告げる鐘のように、一斉に明滅する様を。


●第2章:記憶の混濁


 意識が戻った時、私は医務室のベッドに横たわっていた。窓から差し込む光は、午後を示している。どれくらい時間が経ったのだろう?


「気分はどうですか?」


 白衣を着た中年の男性が、私のバイタルをチェックしている。首元の名札には「九条」とある。


「……ええ、大丈夫です」


 私は身体を起こそうとした。しかし、その瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。


「無理は禁物ですよ。時制干渉を受けた後は、しばらく静養が必要です」


「時制、干渉……」


 その言葉を口にした途端、私の中で何かが共鳴した。まるで、誰かが私の中の記憶という糸を強く引っ張ったかのような感覚。


「あの、先生」


「はい?」


「今、何時ですか?」


「午後三時十五分です」


 その答えに、私は思わず息を呑んだ。


「それって……おかしいです」


「どうしてですか?」


「だって、私がさっき見た標本データには、午後二時四十五分の時刻が記録されていたはずです。でも、その時点ではまだ起きていない未来の出来事として」


 九条は眉をひそめた。


「春瀬さん、あなたは今、とても特殊な状態にあります。過去と未来が、あなたの中で混濁しているんです」


「混濁……」


 その時、不意に別の記憶が蘇ってきた。しかし、それは明らかに「私の記憶」ではなかった。


 記憶の中で、私は巨大な装置の前に立っている。その装置は、記憶保管所の中枢システムに見えた。そして私は――違う、私ではない誰かは、その装置に向かって何かを語りかけていた。


「春瀬さん?  大丈夫ですか?」


 九条の声で、私は現実に引き戻された。


「はい、ただ……誰かの記憶が、私の中に入り込んでくるんです」


「ああ、それは予想された症状です。時制干渉を受けると、しばしばそういった現象が起こります」


「でも、なぜ私が時制干渉に?」


 九条は少し考え込むように沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「実は、あなたに見せたいものがあります」


 彼はタブレットを取り出し、何かの映像を再生した。そこには、私の姿があった。しかし、それは明らかに現在の私ではない。数時間後の私だった。


『記録時刻:2089年10月22日午後4時30分』


 映像の中の私は、何かに追われるように慌てた様子で記憶保管所の廊下を走っていた。そして、突然立ち止まると、近くの監視カメラに向かって叫んでいた。


『私に伝えて!  標本の中に、偽装された記憶が紛れ込んでいる。このままでは――』


 その瞬間、映像が途切れた。


「この映像は、一時間ほど前に記憶保管所のセキュリティシステムが受信したものです」


「でも、それは未来の……」


「はい。あなたの未来からの映像です」


 私は混乱していた。数時間後の自分が、現在の自分に向けてメッセージを残している?  しかも、その時の私は何かに怯えているように見えた。


「九条先生、これは一体……」


「申し訳ありません。これ以上の情報は、私にも分かりません。とにかく異常な事態です」


 その時、医務室のドアが開き、倉持が顔を覗かせた。


「時織、具合は?」


「ええ、なんとか」


 倉持は九条と目配せをした後、私に近づいてきた。


「実は報告があるんだ。さっきの異常な標本、消えていたよ」


「消えた?」


「ああ。データベースからも、物理的な保管場所からも。まるで最初から存在していなかったかのようにね」


 しかし、確かにあの標本は存在していた。私と倉持の二人が、その異常性を確認したはずだ。なのに、なぜ?


「倉持さん、私が気を失う直前に見たメッセージ……あれは?」


「ああ、時制干渉の警告か。あれも、ログから完全に消失していた」


 すべての痕跡が消え去っている。まるで、誰かが意図的に隠蔽しているかのように。


 その時、私の中でまた別の記憶が明滅した。見知らぬ研究室。大量の数式が書き込まれたホワイトボード。そして、一人の老科学者が私に語りかけている。


『時織さん、これが最後のチャンスです。過去を――いいえ、未来を救えるのは、あなただけなんです』


 私は激しい頭痛と共に、その断片的な記憶を追いかけようとした。しかし、それは霧のように掴めない。ただ、その科学者の表情に浮かんでいた切迫感だけは、鮮明に残っていた。


「九条先生」


「はい?」


「退院を許可してください。確かめなければならないことがあります」


 九条は躊躇したように見えたが、やがて小さく頷いた。


「分かりました。ただし、無理は――」


「もちろんです」


 私は立ち上がった。頭痛はまだ残っているが、それどころではない。映像の中の私が警告していた「偽装された記憶」。そして、私の中に混じり込んでくる未知の記憶の断片。それらが何を意味するのか、これから起こる事態の大きさを、私はうっすらと感じ始めていた。


 まるで、巨大な歯車が、ゆっくりと、しかし確実に動き出したように。


●第3章:時制の歪み


 記憶保管所の中央管理室は、普段は立ち入り禁止のエリアだ。しかし今、私の前では重厚な扉が音もなく開いていた。


「本当にいいんですか?」


 私の隣で、倉持が不安そうに呟く。


「ええ。緊急時の特別許可を、先ほど部長から受けたわ」


 実は、医務室を出た直後に部長の速水から連絡があった。


『春瀬君、君に確認してもらいたいものがある。中央管理室に来てくれないか?』


 その声には、どこか切迫したものを感じた。


 中央管理室の内部は、想像以上に広大だった。天井まで届きそうな巨大なサーバーラックが整然と並び、青い光を放っている。


「春瀬さん、こちらです」


 速水部長が奥から現れた。白髪交じりの髪に疲れの色が見える。


「どうしました?」


「見てもらいたいものがある。こちらへ」


 部長は私たちを、部屋の中心にある巨大なホログラムディスプレイの前へと導いた。


「これが……」


 私は息を呑んだ。目の前には、巨大な樹形図のような図形が浮かんでいる。無数の光の点が、枝分かれを繰り返しながら広がっていく様子は、まるで神経細胞のようだった。


「記憶の時系列マップです」


 部長が説明を始める。


「このマップは、保管所に収められたすべての記憶の時間的な連関を示しています。通常、記憶は時間軸に沿って一方向に進むはずです。しかし……」


 部長がホログラムに触れると、画面が拡大された。そこには明らかな異常が見えた。いくつかの光の点が、まるで渦を巻くように歪んでいる。


「時制の歪み……」


 倉持が思わず呟いた。


「その通りです。過去二十四時間の間に、急激な時制の歪みが発生しています。しかも、その中心は……」


 部長は私を見た。


「私の記憶、ですか?」


「はい。春瀬さんの記憶を起点に、異常な時制の干渉が発生しています」


 その時だった。突然、警報が鳴り響いた。


『警告:時制異常検知 介入レベル:SS 対象エリア拡大中』


 ホログラムの表示が激しく乱れ始める。そして、マップ上の歪みが急速に広がっていった。


「これは……!」


 部長が慌てて端末を操作する。しかし、すべてのシステムが応答を停止したように見える。


 その時、私の脳裏に、またしても見知らぬ記憶が浮かび上がった。


 巨大な実験施設。そこで行われている不可解な実験。そして、老科学者の警告。


『この実験は危険すぎる。時制を操作するなど、人類の手に負える技術ではない』


 記憶の中の科学者。確か……灰原、という名前だったような。


「部長」


「なんです?」


「灰原という科学者をご存じですか?」


 部長の表情が一瞬、こわばった。


「どうして、その名前を?」


「私の中に、灰原さんの記憶が……混ざっているんです」


 部長は深いため息をついた。


「灰原博士は、この記憶保管技術の開発者の一人でした。しかし、三ヶ月前に失踪してしまって……」


 その瞬間、私の視界が再び歪んだ。今度は、はっきりとした映像が見えた。


 私は実験室にいた。灰原博士が、何かの装置を必死に操作している。そして私に向かって叫ぶ。


『時織さん、これ以上は危険です!  彼らは記憶を改変して、未来を支配しようとしている。あなたは……あなたは特別な存在なんです。だから……』


 その先の記憶が途切れる。


「春瀬さん?」


 倉持の声で我に返る。


「私……分かったかもしれません」


「何がです?」


「私の中に混ざっている記憶。あれは、灰原博士の記憶なんです。そして、この施設で行われている実験の真実を……」


 その時、再び警報が鳴り響いた。


『緊急警告:時制崩壊の危険性あり 全システム強制停止まであと180秒』


「まずい!」


 部長が叫ぶ。


「このままでは、保管されているすべての記憶が……!」


 その時、私は確信した。これが、未来の私が警告していた事態に違いない。そして、それを止められるのは……。


「部長、中枢システムのある区画に行かせてください」


「なぜです?」


「私の中にある博士の記憶が、何かを語りかけてくる。このままでは取り返しのつかないことが起きる。でも、まだ間に合う」


 部長は一瞬躊躇したが、すぐに決断を下した。


「分かりました。案内します」


 私たちは急いで中央管理室を出た。時間の歪みを止めるため、そして記憶の真実を知るために。


 頭の中で、未来の私の警告が反響する。


『標本の中に、偽装された記憶が紛れ込んでいる』


 その意味が、今ようやく分かり始めていた。


●第4章:未来からの介入


 中枢システム区画への階段を駆け下りながら、私の中で記憶が明滅を繰り返していた。私のものではない記憶。灰原博士のものだと思われる記憶の断片たち。


『実験番号2089-X、被験者:春瀬時織』


 博士の声が、頭の中で反響する。


『特異点として観測された対象。過去と未来の記憶を同時に保持できる唯一の存在』


「春瀬さん、この先です」


 速水部長の声で我に返る。その先には、巨大な円形の扉があった。


『警告:システム崩壊まであと120秒』


 施設全体に警報が響き渡る。


「開けてください」


 部長が認証を行うと、重い扉がゆっくりと開いていく。その向こうには……。


「これが……」


 巨大なクリスタル装置が、部屋の中心で青白い光を放っていた。記憶保管所の中枢、「時制制御装置」。


 その瞬間、新たな記憶が私の中で呼び覚まされる。


『この装置には致命的な欠陥がある。時制の制御には必ず反動が伴う。そして、その歪みは必ず……』


「博士の記憶が教えてくれる」


 私は装置に近づきながら呟いた。


「春瀬さん?」


 倉持が不安そうに私を見ている。


「この装置、改造されています。本来の目的である『記憶の保管』だけでなく、『記憶の改変』が可能なように」


 部長が息を呑む音が聞こえた。


『システム崩壊まであと90秒』


 私は装置の制御パネルに手をかけた。その瞬間、強烈な記憶の波が押し寄せる。


 それは、数時間後の未来。私は必死に走っている。そして、監視カメラに向かって叫ぶ。それは先ほど九条が見せてくれた映像と同じシーンだ。だがその直後、私は何者かに捕まり、記憶を……。


「そうか。私の記憶は、改変されるはずだった」


 すべてが繋がり始める。


「しかし、私が特異点だったために、完全な改変ができなかった。だから、未来の私は警告を残すことができた」


『システム崩壊まであと60秒』


「春瀬さん、いったい何が?」


 倉持が問いかける。


「この施設は、記憶の保管だけでなく、社会の記憶そのものを操作するために作られたんです。特定の記憶を抹消し、偽の記憶に置き換える。そうやって、都合の悪い過去を消し去ろうとした」


 私は制御パネルを操作し始めた。灰原博士の記憶が、その方法を教えてくれる。


「しかし、それには致命的な代償が伴う。記憶を改変すれば、必ず時制に歪みが生じる。その歪みは蓄積され、やがて……」


『システム崩壊まであと30秒』


「春瀬さん!」


 部長が制止しようとする。


「止めないでください。これは、未来の私からの願いなんです」


 私の指が、最後の入力を行う。


『システム:緊急停止プロトコル起動』

『全記憶標本:バックアップ開始』

『偽装記憶検知システム:起動』


 クリスタル装置が、虹色の光を放ち始める。


「これで……」


 その時、後ろで物音がした。振り向くと、見知らぬ男たちが何人も入ってきている。


「春瀬時織。システムを停止しなさい」


 男たちの一人が、冷たい声で命じる。


「もう、遅いわ」


 私は微笑んだ。


『バックアップ完了』

『改変記憶の分離処理:開始』

『オリジナル記憶の復元:準備完了』


 装置が最後の輝きを放つ。


 その瞬間、私の意識が闇に沈んでいく。しかし、それは敗北ではない。これは、真実への第一歩。記憶と時間の、本当の姿を取り戻すための。


●第5章:新しい地平


 意識が戻った時、私の目の前には見慣れた光景が広がっていた。記憶保管所の標本管理室。無数の光が、いつものように明滅している。


 しかし、何かが違う。


「気づいたみたいね」


 振り向くと、そこには……。


「灰原、博士?」


 老科学者が、穏やかな表情で私を見つめていた。


「よく戻ってきましたね、時織さん」


 私は状況を把握しようとする。確か私は中枢システム区画で……。


「博士、あの後どうなったんですか?」


「あなたが時制制御装置を停止させてから、三日が経過しています」


「三日……」


 私は記憶を手繰り寄せようとする。すると、それまでぼんやりとしていた記憶が、まるで霧が晴れるように鮮明になっていく。


「そう、あの日以来、記憶操作システムは完全に停止しています。そして……」


 博士はホログラムスクリーンを呼び出した。


『記憶改変事案に関する公聴会、本日開催』


 ニュースのヘッドラインが、青く光る文字で浮かび上がる。


「速水部長たちは?」


「逮捕されました。記憶操作計画に関わっていた幹部たちと共にね」


 博士は続ける。


「しかし、これは終わりではありません。むしろ、始まりなんです」


 私は理解していた。博士の言う「始まり」が何を意味するのかを。


「記憶の本質について、ですか?」


「ええ。私たちは長い間、記憶を『過去の痕跡』としてしか捉えていませんでした。しかし、あなたの存在が教えてくれた。記憶とは、もっと動的なものだということを」


 博士は標本管理室の光景を見渡す。


「記憶は、過去と未来を繋ぐ架け橋なんです。そして、あなたのような特異点の存在が、その可能性を示してくれた」


 私は自分の手のひらを見つめる。確かに、私の中には今も複数の時制の記憶が存在している。しかし、それはもう混濁してはいない。それぞれが、はっきりとした輪郭を持って共存している。


「でも、どうして私が特異点だったんですか?」


「それはまだ、研究の途上です」


 博士は微笑む。


「ただ、一つ言えることがある。あなたの存在は、人間の意識と時間の関係について、新しい地平を開いてくれた。記憶は単なる過去の集積ではない。それは、未来を形作る力でもあるんです」


 その時、私の中で最後の記憶のピースが埋まった。


 未来の私が残した警告。過去からの博士の記憶。そして、現在の私の意識。それらは決して矛盾してはいなかった。むしろ、それらは一つの真実を指し示していた。


「記憶は、保管するものではなかったんですね」


「その通りです」


「記憶は、生きるもの。流れるもの。そして……」


「未来を創るもの」


 博士が私の言葉を完成させる。


 私たちの会話の間も、標本室の光は明滅を続けている。しかし今、それらの光は少し違って見えた。まるで、無数の可能性が、時間という大河の中で、優しく波打っているかのように。


「さあ、行きましょう」


 博士が立ち上がる。


「どこへ?」


「新しい研究所へです。記憶の本質を、新しい視点から研究する場所を作ったんです」


 私は頷いた。


 そうだ。これは終わりではない。記憶と時間の真実を求める旅は、むしろここから始まる。


 標本管理室を出る時、私は最後にもう一度、光の海を振り返った。それは、まるで生命の樹のように、無限の分岐を繰り返しながら輝いている。


 私たちは、その光の意味を、これから一つずつ理解していくのだろう。記憶という不思議な水脈の、本当の姿を求めて。


(了)

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【SF短編小説】時制管理局で時を保存する少女、あるいは記憶のアーキビスト(約7,900字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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