最果ての逸脱者

ともやいずみ

最果ての逸脱者

 世界のはしが、ひたすらに歩き進めばあるという。

 その先に果たして人がいるのかわからない。あるひとは、死んだ者の国と言い、あるひとは魔物の大地だと言う。

 毒素に満ちた枯れた地と言う者もいれば、幸福しかない極楽のような場所と言う者もいた。

 すべては人々の想像の域を出ず、おとぎ話のように囁かれていた。

 果てに行けば苦しみから解放される。

 それだけが救いだった。

 果てに今よりも困難が待ち受けているなんてこと、誰も考えはしない。

 罪人が流刑に処された時に、果て送りとされる。だから自然と、果ては一つではないとされていた。悪人が行きつくのは地獄で、善人は天国。

 きっと、そうしなければ……だれも、辛い世界を生きていくことができないからだった。

 領主も国王も貴族も、だれも貧乏な人間たちを救ってはくれない。汚物を見るような蔑みと、別の生き物を眺める視線を寄越してくる。

 なぜなの。

 かみさま。

 生まれた環境が違うだけで、なんでどうして。こんなにも違うの。

 あいつらは綺麗な衣服で、目がちかちかするようなまばゆい石をつけている。

 路傍の石ころのような自分たちとは違う。

 おとぎ話のように『果て』が本当にあるというなら、どうして神様はだれも救ってくれないの。

 果てを目指した者は戻ってこない。

 膝を抱えて、もう何日も荷台のような簡素な馬車に揺られている。まともな姿勢で眠ることもできないので、身体の節々が痛くてあちこちで呻き声がしている。

 舗装もまともにされていない道を何日もかけて移動させられているというのに、御者は文句ひとつこぼさずに罪人を『果て』に運んでいる。労力のことなど気にもせずに、目的地へと進む荷台には自分と同じように立ち上がる気力もない罪人が小さく呻きながら転がっている。

 水だけしか与えられないのは、途中で死なせないためだろう。自死できないように猿轡までさせられているのは徹底している。

 民衆の前で派手な公開処刑がされる大罪人など、そもそもいない。

 罪に大小はない。だから自分のようなコソ泥でさえも、年齢もまったく考慮されずに生死の境を彷徨うような移動をさせられている。

 大きく揺れて、さらに身体が痛んだ。

 馬車が停止した。もはやこの睡魔に従って永遠に瞼を閉じていられればどれほど幸せだろう?

 けれども空腹のせいで苦痛がそれを許してくれない。まだ餓死できるほどではない、ということだろう。

 これほど疲れていては、誰も逃げようなどとは考えない。捕まっている間も生かさず殺さずの状態が続き、そのまま荷台に縛り上げられて乗せられた。よく、考えられている。

 手を貸してもらえばなんとか馬車から降りることが可能な状態ということは、逃げてもきっとそこで力尽きる。

 御者の男と誰かがぼそぼそと言葉を交わしている。なにが起こっているのかさえ、まともに理解できるような状態ではなかった。



 甘い蜜のようなものが数滴、唇の端から口内に入ってきて、思わずむせた。味覚が過敏になっていたせいで強烈な甘さは刺激となり、咳き込んだせいで荷台で転がされていた時に痛めた箇所がさらに眉をひそませる原因となった。

「おーやおや」

 独特の間延びした声は、若い男のものだった。なるほどと、納得した。

 女の自分がなぜあそこで降ろされたのかわかった気がする。ようは、性別が女の生物が欲しかったのだろう。

 いっそ殺してくれと思ってしまうほどの悔しさが心の中で広がるが、眠気がまた襲ってきて意識が闇に沈み込んだ。


***


 近代であっても、『魔女狩り』というものは存在していた。

 結局、自分事にならなければ人間はなにが起こっているか気づくことはない。まして、それが電波に乗って様々な人間のところに届くことのない現状では。

 この小さな子供を選んだのには理由がある。

 運ぶことができる大きさだったこと。衰弱していたから体重が予想より軽かったこと。労働力としてはイマイチであろうとも、逃げるほどの体力は絶対に戻らないこと。

「きみ、東洋人だね」

 すでに、出身の島国は占拠され、そこに住んでいた者たちの大半は奴隷となっている。いや、自分のように大陸中に、『輸出』させられた。

 無害そうにみえる、植物のようにどこかしなびた姿勢をした男は三十代半ばのようにも見えたし、思案顔をすれば若くも見えるので不穏に思うこともあった。そもそもこの男は、こんななにもない荒野でなにをしているのだろうかと、疑う。

 寝かせられている簡素なベッドから起き上がることもできずにいる以上、一日のほとんどを天井を見上げて過ごすことになる。なんとも歯痒い。

 なんだか妙な香りが充満しているなと思ったのは、視線を動かせるほどに回復してからだった。狭い部屋の中に、乾燥させた植物も、なにかの調合に使うものも山ほど占めている。乱雑な状態ではあるが、男にはなにがどこにあるのかわかっているようで、一日のほとんどを、狭い部屋の真ん中に据えられた長机に向かって調合して過ごしていた。

 時々外に出ては汲んで来たらしい水を煮沸させてから保存し、粉末と一緒に飲ませてくるようになった。

 おとこは、魔女だった。

 長机に並べられたスープ皿のそれをすくっているいる時に、「東洋人」という言葉が出てから、彼は自己紹介をした。

「魔女」

 男のくせに。

 怪訝なそれで睨むと、彼は覇気のない表情で溜息のような言葉を洩らす。

「東洋人の言葉では、ぼくは魔女、となる」

「魔女は女だ」

「違う。適切な言葉がなくて、ウィッチが魔女になっただけだ。男女全般に当てはまる言葉なんだよ。

 むずかしいねえ、言葉っていうのは、バベルの都がなぜ滅んだのかわかるよねーえ」

 ばべる? なんのことだと睨みながら、味の薄いスープを飲み干した。



 男は名乗らなかった。だから、魔女、と呼ぶことにした。

「魔法が使えるのか?」

「……そうだねーえ。ふつうのひとが、理解できないことはできるねーえ」

「フン」

 鼻で笑う。

「そんな力があるから、狩られるのだ。抵抗しないのか」

「……そういう力じゃないからね」

「どういうことだ」

「ひとというのは、己に理解できないことをすべて、『逸脱』というものに当てはめてしまう」

 男は枯れた木の枝のように前屈みのままで、ごりごりとすり鉢の音を立てていた。

「むかしは、太陽がなぜあるのか、月があるのか、風があるのか、水があるのか、火があるのか、すべてはひとにとっての脅威だった」

「は?」

「大声をあげて太陽を追いかけ、夜がやってくると、ひとはしてやったりとおもった。そういうものなんだよ」

 そんな愚かなことがあるのだろうか。いくらなんでもこちらを馬鹿にしている。

「なぜおまえはここにいる? 魔女狩りにあわなかったのか」

「あったから、ここにいるんだよ」

 ごりごり、とすり潰す音が響いた。なぜか、冷や汗が、ながれた。

 なにも言えず、薄いシーツを頭からかぶった。どうせ自分はいずれ、この男の欲望の捌け口にされるのだ。なにを、思うことがあるのだ。



 家と呼ぶには狭い。ここは小屋だ。ただの物置小屋に、必要最低限の家具や物があるだけだ。不気味だった。

 窓もない。あるのはドアがひとつ。

 外の音はしない。

 荒野だからかと思っていたが、それにしては不気味過ぎた。

 この場所は、本当は、何処、なのだろう?



「魔女」

 呼ぶと、男は小さな布袋をいくつも作り、数を確かめていた。

「なにをしている?」

「……きみたちのいう、まほう、かなーあ」

「は? ただの薬の調合だろう!」

 怒りのあまり長机を強く叩いたが、彼は驚きもせずにこちらをじいっと見つめてきて「そうだねーえ」と頷く。

「でも、世間ではみとめられていない方法だから、まほう、だね」

「…………」

 違法、ということだろうか? 毒なのかと身構えるが、男は気にもせずに袋を指先でつついた。

「ひとは本当にふしぎだ。

 みとめられないことは、すべてが、まほうなのだよ」

「……なにを言っている」

「たとえば、とても優れた技術が発達する。けれども、それで解明できないことは未知。つまりは、まほうだ。わからないことは、すべてそういえば、『説明がついてしまう』のだから」

「そんなものは、魔法ではない」

「……まほうだーよ」

 どこか仄暗い瞳で、男は小さく笑った。



 珍しくドアに激しいノック音が鳴り響いた。小屋が壊れるのかと身構えたが、いつ寝ているのかわからない椅子にいつも座っている男はのろのろと立ち上がってドアを開いた。

 そこにはフードを深くかぶったふくよかな女の姿があった。そして、初めて外を見たことにより、硬直してしまった。

 なにもなく、だが、そこは『嵐』だった。

「魔女裁判をコクリが受けた! もうあそこはだめだ!」

「そうか。ひとは、しらないものがずうっとこわいからねーえ」

「同じ人間だというのに! バベルの末裔どもは神の戒めを再度味わうがいい!」

 激しい怒りの声を雷のように発した途端、ドアがひとりでに閉じた。

 男は少しだけ肩を落とした。こちらを振り向きはしない。

 しらないものは、こわい。その意味が、やっと理解できた。

 風が女の衣服を激しくはためかせていたというのに音がまったくしなかった。女の背後には荒野があったが、色がなかった。理解できないから、表現がうまくできない。

 これが、未知、というものだと、思い知った。



「いずれきみは元気になって、ここを出られる」

 突然、魔女はそう言ってきた。

 あれから、不思議な来客は何度かあった。薬をもらいに来る者もいた。見たことのない異形もいた。

 けれども説明できるほどの言葉を、持っていない。ただ、世話になるしかなかった。未知の世界へ逃げ出すには、もう、恐怖が足を動かすことを拒み切っていた。

 魔女は小屋の中の物の名前をすべて言うことができ、様々な言語で説明もしてくれた。もちろん、理解はできない。

「いつだって出られる」

「でられない。

 外はあらしだ」

 まさにそうだった。怖くて足が動くのを拒否する。

 男はどこか楽しそうに語る。

「きみも、たくさんの呼び名がある。東洋人、と呼んだけれど、改めるよ」

「……」

「日本人、倭人、日の本のひと、ジャパニーズ、蔑称は避けよう。まだあるねーえ」

「そんなにたくさんいらない」

「いらなくても、せかいは、きみという存在にたくさんのものを付与してしまう」

 つい、とまるで木の枝のような長細い人差し指をドアに向けた。

「バベルの民が仕出かしたことだ。甘んじて受け取り、そしてきみは、そのドアから出たとき」


***


 あれから何年経過したかはわからない。

 わたしは魔女と名乗っている。わたしの国の言葉では、ウィッチを魔女と呼ぶからだ。

 そして、あの小屋にいた男が持っていた名前が、ウィッチだったのだと、気づいた。

 男は死んだ。

 ドアが開いた。

 わたしは生きるために外に出るしかなかったのだ。

 世界は――――わたしが、知るよりも酷いありさまになっていた。



 神の鉄槌が落ちたのだと、誰かは言っていた。世界のすべてのにんげんの言語が、混ざってしまったのだ。

 それまでは、国ごとにそれぞれの公用語のようなものがあったというのに、それが機能しなくなった。なにが起こったのか、ひとは、理解することができなかった。

 魔女たちの怒りに触れたと言いまわる者もいて、無実の女がひどい裁判を受けさせられた。

 わたしはそこに通りかかった。

「魔女は水に浮かびます」

 そう言う、黒衣の男たちに囲まれた女は、震えて、唇が紫になり、丸裸にされている。

 魔女裁判では、このようなことは日常茶飯事だった。からくりのあるナイフで、傷がなければ魔女。噂があるだけで魔女。

 そもそも、魔女とはなんなのか、生活に悪影響を及ぼす悪い存在とされているが、『悪』とはなんなのか。

 魔女のあの男の言っていたことを、こうしてよく思い出す。魔女の男がわたしに授けた会話から、分裂された言語がきちんと理解できてしまう。

 つまり、わたしこそが、このせかいでの異物。正真正銘の、魔女となってしまったわけだ。

 いや、ほかにも探せばいるのだろう。逸脱するものか、結局どこにでもいるものだ。

 未知とは、まだ見ていないから、未知なのだ。

 わたしは裁判に近づき、牧師を装って女に近づき、薬を口に含ませた。

 女は、沈められた川から浮いてくることはなかった。



 あの最果てはきっとまだあるだろう。今はもう、わたしは戻れない。わたしはあの場所から、脱してしまった。

 世界の言葉は混ざりはて、ひとは身振り手振りも使うしかない。新しい言葉を作る者も、絵で表現する者もいる。たくさんの、ことば。

 神の怒りといつか誰かは言ったが、わたしは神を見たことがない。だが、見たことがないから、いないとは限らない。

 実際にわたしは魔女に逢い、拾われ、そして、魔女になった。ややこしいことではあるが、それが言葉なのだ。

 洪水を起こすことも、大勢の人間を火であぶることも、いまのわたしにはできることだった。それはわたしにとって、未知ではなくなったことだったからだ。

 そしてこれを、ひとは、魔法と呼ぶだろう。

 だがこれはまほうではない。

 解明されればなんてこともないことのはずだ。だが、それができるひとが、いったい何年後に現れるのかもわからない。

 次の魔女を探してわたしは旅を続ける。

 世界は混迷の中にあったが、わたしにはなにひとつ、困惑することなどなかった。今のわたしに、未知などというものはないからだ。

 ひとはわたしを、最果ての魔女と呼んだ。

 だがわたしは訂正をする。

 わたしは、逸脱しているだけなのだと。


 バベルの民よ、こわがるなかれ。おそれはすべてにとっての、かいぶつである。


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最果ての逸脱者 ともやいずみ @whitemozi

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