第6話 「悲哀」

 『荊棘の悲哀』を書き終えた私は、作中でAとBがあの家を眺めながら煙草を吸ったコンビニにいた。喫煙所からあの家の方向を見ても、今は何も見えない。それもそうだ。あの家は、先月取り壊されたのだから。

 AもBも存在しない。私の作中の人物だ。あの家が火災にあったことも、少なくとも私は知らない。そんなニュースも見ていない。ただ、例の噂を知る母から『薔薇に囲まれた家、取り壊されたらしいよ』と聞いただけだ。

 事実、もうあの家はなかった。コンビニに来る道中、車の中から家のあった場所を眺めたが、何らかの工事をしていた。道でも作るのか、建物でも作るのか、それはわからない。そう古くない記憶の中にあるあの荊棘だらけの家は、まさに跡形もなかった。

 『荊棘の悲哀』を書き終えた私は、満足していた。私の伝えたいことは、十分にその中に書き残しておいたからだ。

 私は煙草を吸わない。

 作中のAとBの真似事をして、喫煙所で煙草を吹かし、無くなったあの家を見て感情に浸ることはできない。それは少し悲しげに思えた。ただこうして喫煙所に立っているのは私が作り出した架空の人物であるAとBの見た景色を作者の私も見ておきたかった、それだけだった。

 コンビニでコーヒーを買い、車に戻る。『荊棘の悲哀』を深夜に書き上げたせいで、昨日からまだ眠っていない。緩やかな睡魔が脳を揺らした。カフェインでそれを追い払いながら、私は私の作品を思い返す。十全とは言い難い。そう思った。しかしあれで十分だ、そうも思った。

 カフェインのおかげが少しは覚醒した脳を働かせ、車のシフトを入れる。帰り道はまたあの家の横を通ることになる。特にそれに何かを感じることはなかった。

 家の横を通りながら、私の脳裏では母や叔母、父から再三聞かされた言葉が何度もリフレインしていた。



『噂は本当だ。だから、あそこはあまりにも悲しくて、誰も近づかないんだ』


 忘れ去られる悲しさと、忘れられない悲しさは、果たしてどちらがより悲しいのだろう?………


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荊棘の悲哀 鹽夜亮 @yuu1201

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