第5話 『忘れないで』
『薔薇に囲まれた家』を探索したあと、うわごとのように『忘れないで』と繰り返すAを車に乗せて、家まで送った。その様子が心配だった私は、翌日Aの家まで様子を見にいったが、何事もなかったかのようにAは普通だった。あの家の探索の話をし、見つけたものの話をしたが、何を見つけたのかをAは教えてくれなかった。
『お前は知らなくていい。あと俺は取り憑かれてるとかじゃない、マトモだ』
そう語るAの様子は、確かに私の知る限りの今まで通りのAだった。
その後、数日が過ぎた。特に特筆することもない。何もない日常だった。あの家の中に入ったことが、まるで夢だったかのようにも感じられた。ただ、枯れた花とあの香りだけが妙に現実味を帯びて、脳にこびりついていた。
深夜。蒸し暑い夜だった。梅雨も終わり、夏が来たというのに、今年は湿度が下がらない。不快なベタつきを感じながら、私は玄関先で煙草を吹かしていた。ポケットの中でスマートフォンが震え、手に取る。
『忘れないでくれ』
Aからだった。私が様子を見にいった後、特に連絡は取っていなかった。私はAが大丈夫だと判断したし、A自身もそう言っていた。だから、そう思っていた。通知に現れた『忘れないでくれ』の文字に、悪寒が走った。とてつもなく嫌な予感がした。すぐAに電話をかけたが、繋がらない。煙草を揉み消し、私は車のエンジンをかけた。
向かう場所に迷いはなかった。Aの家ではない。『薔薇に囲まれた家』だ。嫌な予感を振り払うように、私は車を飛ばした。今の私の自宅からあの家までは車を飛ばしても三〇分ほどの時間がかかる。一つ一つの赤信号が無限の時間のように感じられた。
あの日、Aと共に煙草を吸ったコンビニに車を滑り込ませる。深夜のコンビニに、私以外の車はなかった。だが、その一帯は深夜にも関わらず、騒々しかった。
コンビニに車を止めるまで、見て見ぬ振りをしていた。この嫌な予感を、直感を、悪寒を、ただの杞憂だと思っていたかった。車から飛び出し、あの家の方向を見ると、そこに荊棘に包まれた二階のベランダは見えなかった。
代わりに見えたのは、炎に包まれた何か、だった。
夢中で走った。転びそうになりながら、あの家へ向けて。蒸し暑さは次第に熱量を帯びた。人だかりが目に入る。消防車の音が、目の前にあるのに遥か遠くに感じられた。
「あら、お兄さんあの時の…」
横で声がした。私にかけられている言葉だったろう。だが、それは炎の轟々とした音にかき消された。『薔薇に囲まれた家』は、もはや荊棘の影すらわからぬほどに、炎に包まれていた。消防士が水をかけている。ただ私は、呆然と、それを見ていることしかできなかった。
何時間たったのだろう。朝日が町を照らし始めていた。私は、この数時間のことを覚えていない。ただ、燃え盛る炎を前に、立ちすくんでいた。
「この家の関係者の方ですか?」
呆然と立ち尽くしている私に、一人の消防士が声をかけた。
「ちがい…ます…」
絞り出したように声を発する。脳内の杞憂を、追い払おうと必死だった。そんな私の様子を心配そうに気にかけながら、消防士は語った。
「失礼しました。てっきりこの家の関係者の方かと…。少々不可解な点が多くて関係者の方ならお話しを聞きたかったんですが…いやね、鍵が落ちてたんです。もう焼け落ちてますが、入り口のアーチがあったところに。それとここは廃墟のはずなんですが、屋内にご遺体が一人いらっしゃいまして……」
それ以降は何一つ耳に入らなかった。私は、その遺体が誰であるかを、知りたくなくとも知っている、と脳内で否定できなかった。
何を答えたかは覚えていない。私は気づくとコンビニの駐車場に止めた愛車の車内にいた。朝日はとっくにのぼっていた。コンビニは通勤前の買い物に急ぐ人々で混み合っていた。
頭は空白のまま、私はスマートフォンに手を伸ばした。数時間前に、一つの通知が入っていた。
『忘れないでくれ。B。きっとお前は、これでずっと、忘れない』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます