第4話 「枯れた花」
私たちは再び『薔薇に囲まれた家』の目の前にいた。日は暮れている。電気もつかない家を探索するには、効率的とはいえないだろう。危険も伴う。それはこの荊棘たちが、ありありと私たちを拒むかのように教えてくれていた。
事実、〇〇氏の家を後にした時、今から家に入る、と言ったAを私は止めた。危ないし、何かを探すにも昼間の方が見落としもないだろう、と。だが、それにAは頷かなかった。
『あんな話を聞いて鍵を託されて、お前は今日このまま帰れるのか』
そう言ったAの泣き腫らした瞳を、私は否定できなかった。
『薔薇に囲まれた家』の入り口は、小さな門…というよりも西洋風のアーチのような形状をしている。意匠を凝らしたそのアーチには、所狭しと荊棘が巻きついている。懐中電灯の用意などしていなかった私たちは、スマートフォンのライトを頼りに、そのアーチを潜った。
庭に入ると、想像していた以上に手入れが行き届いていた。確かに塀や庭の端に見える花壇だったであろう場所は荊棘に囲まれているが、足元に不安はない。〇〇氏の手入れによって作られた『道』は、決して大きくはない庭を歩き回るには十分だった。
「B、わかりにくいがこれ、ブランコだ」
アーチを潜ってすぐ、Aが左手にライトを向けた。その先に目線をこらすと、確かにブランコのような白い物体が目に入る。荊棘に囲まれたそれは、どこか芸術品のようにみえた。木製だろうか、質感に温かみを感じる。この白色はペンキだろう。きっとご家族が住んでいた当時、子どものために作ったに違いない。事実、そのブランコは小さなもので、一人用だった。大人が乗れる大きさも、強度もないだろう。
「一人っ子だったのかな。おしゃれだし、映画にでも出てきそうだ」
無言で観察するAを横目に、私は呟いた。脳裏には西洋の映画の、別荘かどこかで小さな子どもが一人でブランコを漕いでいるような映像が浮かんでいた。
「近所な人や〇〇さんの話に聞く限りも他の子どもの話も出てこないし、一人っ子だったんだろう。…それも家の中を探索すれば詳しくわかるかもしれない」
Aはそういうとブランコに向けていたライトを玄関へと向けた。玄関に続く庭は、先ほど言った通り手入れがされていて、切り開いた道のようになっている。だが、ライトに照らされた玄関の扉は、荊棘に飲み込まれていた。〇〇氏が『家に入ったことはない』というのは、どうやら本当のようだ。吸い込まれるように、私たちは玄関へと足を進めていく。
扉の前に立つと、いよいよその荊棘の異様さに圧倒された。よく見れば扉そのものもお洒落で、西洋風に作られている。庭先のアーチのように、意匠も凝っていることだろう。だが、それを細かに観察することはもう不可能だった。全てを覆い隠すように、荊棘が這い回っている。
「……すごいな。開くのか?鍵が開いたとしてもこの荊棘じゃ…」
「やってみるしかない」
Aはポケットから鍵を取り出した。ドアノブの横、荊棘からかろうじて鍵穴が覗いている。Aが鍵を差し込み、回すと、すんなりとそれは小気味良い音を立てて、開いた。
「鍵穴が埋まってなくてよかったな。だけど…ドアノブも扉も荊棘だらけだ。手袋なんて持ってきてないぞ。…本当に今日、今から入るのか、A」
「何が何でも入る」
言うが早いか、Aは荊棘だらけのドアノブに手をかけた。咄嗟に止めようとした私を尻目に、Aは荊棘ごとドアノブを握り、扉を開けようと力を込めた。
バリバリ、と音が鳴る。まるで封印が解かれるようだ、と馬鹿なことを思った。扉の周囲を覆っている荊棘は、とうに枯れていたらしい。パラパラとその欠片が足元に散らばった。扉は、開いた。その先にはぽっかりと暗闇が顔を覗かせている。
「開いた。入るぞ」
そう言うAの右手が血に濡れているのを、私は見て見ぬ振りをした。ドアノブの荊棘についた、Aの血も。
玄関に入り、正面に続く廊下へライトを向けると、奇妙な感覚に襲われた。屋内に荊棘の侵入はない。玄関に靴はなかった。だが、あまりにもライトに照らされる廊下や、靴箱、すぐ近くに見える二階への階段、それらは綺麗だった。まるでまだ誰か生活しているみたいだ、と月並みなホラー映画に出てくるセリフのような感想が脳裏を掠める。
「…綺麗だな。B、一階を見てまわってくれ。俺はこのまま二階に行く」
Aはそう言い残すと、私の返答も待たずに靴を脱ぎ、二階への階段を上っていった。ギシギシ、と木の軋む音が聞こえた。私はその音で我に返ったように、靴を脱ぐ。
本来、廃屋を探索するなら靴は履いたままの方がいいだろう。だが、どうしてもその気にはなれなかった。この家に入って感じた『まるで今も生活しているような』綺麗さが、『ここは廃墟である』事実を私の心の中で拭いきれなかった。理性ではわかっている。ここはとうの昔に廃墟だ。ここの家族はもう何年も前にここを去っている。…
廊下に足を踏み入れる。右手にはトイレと風呂場があった。扉を開けてライトで照らしても、物は何も残っていなかった。まるで新築のように綺麗だ、そう思った。
廊下を進んでいくと、ガラス張りの扉があった。この先は居間だろう。ドアノブを下げ、扉を押す。
扉が開いた瞬間、香水のような香りがした。花だろうか、それともアロマの類だろうか。少なくとも不快ではない。扉を閉めて、ライトで方方を照らしてみる。すぐ左にはキッチンがあった。ここにも残された物は何もなさそうだ。〇〇氏の話通り、この家からの引っ越しはご家族の旦那さんが計画的に行ったのだろう。
キッチンを過ぎると、テーブルがあった。木製で、四つの椅子が周囲を囲っている。そのテーブルの上に、花瓶があった。中で花が枯れている。今はもう、何の花だったのかは知る由もない。家を出ていく時に、残していったものだろうか。それはこの家への愛着なのか、それとも亡くなったお子さんへの弔いなのか、それはわからない。私は花を触ろうとして、やめた。それは恐怖からではなかった。ただ、その枯れた花に、そのままその場所に居てほしいと思ってしまったからだった。
花に触れようとして、手持ち無沙汰になった指をテーブルに這わせた。埃が薄らと指につく。ここは廃墟だと言うことを、まるで私に教えているようだった。
テーブルを背に、正面を照らすと居間が見えた。ありきたりなソファー、低いガラステーブル…テレビはない。ガラステーブルには花もなければ、何も置いていなかった。壁沿いにある棚の上に目を向けると、写真立てだけがいくつか置いてあった。写真は一つも入っていない。人の気配を消し去った、モデルハウスのようだ。今この空間では、今私の背後にある枯れた花だけが、ここに住んだ家族の名残りだった。
特に見るものも無さそうだと判断した私は、また枯れた花に目を向けた。見るものなど、それしかなかったのだから。というのは、私なりの小さな嘘なのかもしれない。心の奥では、確かに悲しみと、ほんの少しの虚しさを感じていた。それが亡くなった子どもへのものなのか、ここに住み、もはや跡形すらほぼ残さずに去っていった家族に対するものなのか、それとも他の何かなのか、私にはわからなかった。
何分たっただろう。ただ呆けたように枯れた花を見つめていた。すると突然廊下へ繋がる扉が開き、私は驚きと共にライトを向けた。Aだった。右手からは血が滴っていた。
「Aか。びっくりした。一階は特に何も無さそうだ…手、大丈夫か?何か見つかったか?」
現実感を取り戻した私は、Aの目線からライトを逸らし、問いかける。
「見つけた。見つけたよ。二階にあった。もう帰ろう」
Aの声音は、震えていた。それは恐怖からのもので無いのは、言葉の端々にあらわれる微かな嗚咽でわかった。
「何を見つけたんだ?二階に何があった?」
「帰ろう。B」
Aは問いかけに答えない。ただ、微動だにせず帰ろう、と繰り返した。きっと何か、ショックを受けるようなものがあったのだろう。それが家族に関わるものか、亡くなった子どもに関わるものかはわからない。だが、どちらにせよ足を踏み入れた私にも見る責任がある、そう思った。
「おい…大丈夫か…。俺も見にいくよ。案内し」
「行くな」
言葉は遮られた。それは強い、とても強い意志を帯びた言葉だった。ゾクリと背筋が凍る。
「行くな。毒になる。帰ろう」
「毒…?」
私の狼狽をよそに、Aは私の腕を乱暴に掴むと、玄関の外まで足早に連れ出した。ガチャリ、とAが扉に鍵をかける。ドアノブを握る右手は、相変わらず血を滲ませていた。
そのままAは左手に私の腕を掴みながら、半ば強引に家の敷地の外まで連れ出した。アーチを潜った先の歩道で、やっとAは立ち止まった。
「B。B。B」
うわごとのように私の名前を呟くAの声には、嘆願するような色が滲んでいる。
「B。忘れないでやってくれ。忘れないで。忘れないでやってくれ」
言葉を返す余裕もなかった。矢継ぎ早に『忘れないで』と繰り返すAの背中を、私は呆然とただ見ていた。
「忘れないで。忘れないでくれ。B」
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