第3話 「我儘」
ご婦人に教えていただいたおじいさんの家は至って普通の、どこにでもあるご自宅だった。古いわけでも、新しいわけでも、豪邸でも貧相でもない。庭にある幾つかの盆栽が、老後という言葉を脳裏に浮かべさせた。西日に照らされながら、チラリとこちらを振り返ったAに頷きを返す。Aはインターフォンを押した。
「はーい。あれぇ、どうしたで。見覚えがないが、近所の子たちじゃないよなぁ」
玄関の戸を開けてくれたおじいさんは、如何にも好々爺と言った風貌で、声音にも積み重ねた優しさを湛えていた。その人となりを見て、一瞬安堵を覚える。見ず知らずの人の家を訪ねるなど、別に私は得意ではない。
「突然すみません。俺、Aといいます。あ、こちらがBです。お尋ねしたいことがありまして…少々お時間いただけたら嬉しいのですが…」
おじいさんは少し驚いたような顔をすると、私は〇〇だ、と微笑みながら名乗った。その苗字は、少なくともあの家の荊棘に囲まれた表札とは異なっていた。
「何が聞きたいんだい?時間はあるから、上がりなさいな。何もお構いできんけどなぁ」
「あ、その…近所にある『薔薇に囲まれた家』のことなんです」
玄関の中へ手招きした〇〇氏の動きが一瞬、ほんの一瞬止まった。それを私は見逃さなかった。Aの申し出が唐突だったからかもしれない。その真意はわからない。
〇〇氏は、息を吐くように少しだけ肩を落とした。いかにも、悲しそうに。
「あの家のことか。…悲しい話だ。話すのは構わないが、先に君たちが何でそれを知りたがっているかを聞かねば、話すわけにはいかんなぁ」
そこに警戒や怒りの感情は見受けられなかった。私はそれを意外に思った。考えてもみれば、唐突に訪ねてきた素性も知れぬ若者が『心霊の噂』のある家について聞きたい、と申し出たわけだ。怒られても仕方がない。警戒されるのも、また当たり前だろう。だが、私には〇〇氏の声音や表情、所作にそれらが含まれているとは思えなかった。
Aは覚悟を決めたような表情で、言葉を紡いだ。
「知りたいんです。あの家を荒らす気も、茶化す気もありません。ただ、何であの家があの状態のままあるのか、そして今も何故、誰かが手入れをしているのか。…あの噂は、あまりにも悲しいじゃないですか。あの家も。だからただ、知りたいんです」
Aも〇〇氏も、悲しそうだった。私はそれをAの後ろから黙って見守っていた。一瞬の沈黙ののち、〇〇氏は再び私たちを家の中に招いた。
「お入りなさいな。君たちなら、話をしても大丈夫そうだ…私も多くを知っているわけではないが、それでもよければ」
ありがとうございます、と自然と言葉が溢れた。Aに続いて玄関を上がると、〇〇氏は居間に私たちを案内してくれた。若い子らが好きな飲み物がなくてすまんなぁと言いながら、暖かい緑茶まで用意してくれた。一口いただくと、どこかふわりと、物悲しさと温かさが喉の奥を通ったように感じた。
「あの家の話だが、まず噂は本当や。何年前かはもう詳しく覚えとらんが…あの家のお子さんが家の目の前の道路で車に轢かれてな。私はたまたまその時近くにおった。ありゃあ悲惨だった…。奥さんは泣き叫びながら血だらけのお子さんを抱えて、旦那さんは顔を真っ白にしながら救急車を呼んどった。車の運転手は道端でうずくまっとったよ。たしか若い男の子だったが…とにかく誰に言うでもなくずっと謝っとった。途中から旦那さんが話をしとったな」
〇〇氏は私たちの対面に座ると、緑茶を一口飲み、そう語り始めた。私たちはただ静かに、その声に耳を傾けた。言葉として聞くだけでも、十分に当時の惨状は伝わった。
「救急車はすぐ来た。だが、間に合わんかった。私も何かできないかとお子さんと奥さんに近づいたが…誰がどう見ても即死だった。細かくは言わんでもいいだろう…。私は何もできずに、ただ奥さんの背中をさすっとった。旦那さんも途中から座り込んで微動だにせんでな…近所の人たちも声をかけてたが、奥さんも旦那さんも何も答えなかったよ。ただ奥さんはずっとお子さんの名前を呼んでた。まだ耳に残っとる。○君、○君、○君、とな」
語る表情は、次第に悲痛さを増していった。もし私がそこにいたとしたら何ができるのだろう?そう一瞬考えてもみたが、何の答えもでなかった。
気がつくと、啜り泣く声が聞こえた。
Aだった。
「……A君、大丈夫かい。悲しい、辛い話だ。私のように歳を取れば、いくつも人の死を看取ることになる。家族も、友人も、近所の人も。だが、いつまで経ってもそれには慣れんよ。ましてや、子どもとなればな」
〇〇氏はAを気遣うように柔らかな微笑みを浮かべた。いや、微笑みというには、あまりにもそれは悲しすぎるのかもしれない。
「噂に関しては今話した通りだ。あとは…そうか。手入れの話やったな。私がたまに手入れしとるよ。庭先と門の周辺だけだが…何もできないことが偲びなくてな。せめて少しでも綺麗にしておいてやりたいんだ」
そう語って席を立った〇〇氏は、近くの引き出しから鍵を一つ取り出して、テーブルの上に置いた。
「…あの家の鍵だ。私は親族でも何でもないが、あの事故の後、旦那さんと親交があってな。どうにも心配で散歩がてらたまに話をしにいっていたんだよ。数ヶ月後だったと思うが、奥さんが精神を病んでしまったから実家に二人で引っ越すと旦那さんから聞いた。そして奥さんが立ち直るまで、少なくともこの家に戻るつもりはない、と。その時に鍵を一つ預かったんだ。『もし私たちが何年経っても戻らないときは、この家のことをよろしくお願いします』と言われた。まだ、戻ってはこんな。…もう、戻ってはこない、のかもしれん」
沈黙が流れた。テーブルの上では、鍵がまるでまだ新品かのように西日を反射して、光っていた。
「私ももう歳だ。そう長くもないだろう。…実を言うと、最近もうあの家を処分しようかと考えておった。あの家族の親族でもなんでもない私だが、年の功で行政やら何やらに知り合いくらいはおるから、そこを頼って処分しようかとな。この鍵を使ったことはない。私には、あの家に入る勇気がない。あまりにも悲しいのだ。手入れをしていても、事故の光景が頭から離れんでな。…もしよかったら、君たちがあの家の中に入ってみてくれんか」
申し出は意外だった。Aはまだ泣いている。
「若者に重荷を押し付けるのは情けないが…私はな。臆病なんだ。鍵を託されて何年も経ったが、私はあの悲しみを乗り越えられんでいる。家を処分する前に、君たちにあの家の中を見てやってほしい。本来は私がするべきだった役目だ。…もちろん断ってもらっても構わんぞ。君たちは、あの家と何も関係ないのだろう。これは老耄からの我儘だ」
「一つ、お聞きしてもいいですか」
私は口を開いた。Aが話せる状態でないのは啜り泣く声でわかっていたから。でも、聞かなければいけなかった。
「あぁ、なんでも聞いてくれ」
〇〇氏はそう言うと、人懐っこくも物悲しい笑みを浮かべた。窓の外では西日が沈みかけている。室内を照らす夕暮れは、物悲しさを彩ってやまなかった。
「何故、処分するのにあの家の中を確認したいんですか?業者に頼んで仕舞えば、それで終わることのはずです。それに、〇〇さんご自身が仰ったように事故に居合わせて後々鍵を預かったとはいえ、あの家のご家族と深い縁はないのですから、〇〇さんがそこまで重荷を背負う必要は….」
Aの啜り泣きを聞きながら、自分の冷静さに嫌気がさした。悲しいとは思えど、涙が溢れるわけでもない。自分がひどく冷徹な人間に思えて、言葉に詰まった。その先を紡ぐことができなかった。
私の様子を見て、〇〇氏は言った。
「理由は、ただの私の我儘だよ」
目を瞑りながら、まるで祈るかのように、最後の言葉が紡がれた。
「ただただ悲しすぎるからだ。あの家の全てが、いつか忘れ去られてしまうことが」
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