偽りの多様性

刻堂元記

偽りの多様性

 今、社会的ブームなのか知らないが、あちこちで『多様性』という言葉を耳にする。ジェンダーの多様性。価値観の多様性。他にも、様々な多様性が社会には混在すると言っていい。ただ、社会で使われるような『多様性』には少し問題がある。それは一体何か。それを=で表現すると、多様性=受け入れる、となる。つまり多様性という名目の下、何かを受け入れることばかり求められるのだ。


 一見するとこれは、良いことのように思う。何かを受け入れるだけで、共存し共生し合えるなら、人々にとってこれ以上の幸せはない。しかし実際問題、受け入れることが幸福につながるとは限らない。


 例えば、貴方が身体も心も女性である一般人だとしよう。そこに、「自分は心が女性だから」と言って身体が男である人が温泉やトイレに入って来たらどう思うだろうか。何となく嫌だな、という言葉では済まされないような恐怖感や、拒否反応が出てくるのではないだろうか。


 もちろん、全員が全員、そのように感じるわけではない。だが、今の時代においてトレンドになっている『多様性』には、ある視点が抜けている。それは、本人の立場を尊重し理解はするけど、受け入れない自由だ。この考え方は特段、珍しいものでは無く、人々の心の内に存在する価値観の1つに過ぎない。


 では、結果的に受け入れないという『多様性』は差別に当たるのか。私はそうは思わず、むしろ区別という考え方に近い。言い換えるなら、『多様性』という言葉で一括りにされたら社会全体がおかしくなるから、一線を引いてお互いに干渉しないようにしよう。それが区別、つまるところ多数派の価値観だと言える。


 しかし、少数派の中の一部は、現状を良しとしない為、事あるごとに『多様性』という言葉を持ち出す。とはいえ、私たちは多くの場合、受け入れているかどうかは別にして、存在そのものは認めている。ただ、少数派の一部が存在以上の何か、例えば権利などを求めるから、社会問題に発展してしまう。


 その代表例が、移民や難民。彼らは事実、多くの国々で労働力確保などの理由から受け入れられてきたが、今はどこの国も慎重になっているという。背景に何があったのか。恐らくは『多様性』を掲げて受け入れに積極的になった結果、生活支援目的の移民や難民が大量に来てしまい、彼らの生活を支え続けることが重荷になったのではないだろうか。


 それでは現状、押し付けになっている今の偽りの多様性から脱するには?その答えは、社会という大きな枠組みの中に隠されている。とはいえ、決して見つけ出せないわけではない。差別せず、過剰に権利を求めず、だからといって突き放すこともしない。そうした歩み寄りこそが、真の多様性をもたらすと私は主張したい。

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