陽斗は目を剥いて俺の肩を小突いた。

「馬鹿じゃねえのか!」

 反論すべきかと思ったが血の気が引いて考えがまとまらなかった。


 陽斗は俺の袖を掴んだ。

「ごめん、アヤちゃん。後で説明するから!」

 俺は陽斗に引きずられるまま歓楽街を走った。


 竜宮城を模したソープランドや赤信号の交差点が高速で左右を流れ、鬱蒼とした木に囲まれた公園で陽斗は足を止めた。


 呆然とする俺を余所に、陽斗は俺を水飲み場に連れて行き、傷口を洗った。新しい血が赤い糸のように流れた。

 陽斗はハンカチを取り出し、俺の掌をきつく縛った。礼を言うと、殺意の篭った視線が返った。



 俺たちは木の影が重く垂れる砂場を横切り、錆びついたブランコに座った。

 風のざわめきが酔客の声を運んだが、水中で聞くようにぼやけていた。公園は生ゴミと吐瀉物の匂いがする。ハンカチからはコロンの香りが漂った。


 俺と陽斗は不安定なブランコに揺られながら煙草を吸った。足元には先客の吸殻が散らばっていた。子どもなど来ないのだろう。


 陽斗は苦々しく言った。

「何であんなことしたんだよ」

「何でだろうね」

「馬鹿かよ。普通、間男が刺されたら嬉しいだろ」

「俺じゃ安奈を野球観戦に連れて行ったりできないから、してくれるひとがいないと困るよ」


 陽斗は肺の中の空気を全て出すほど深く溜息を吐いた。傷口が鈍く痛む。

「伊月さん、あんた昔からそうなのかよ」

「そうなのかよって?」

「頭おかしいところ」

「たぶんそうだ」

 俺は紫煙の流れに合わせてブランコを揺すった。


「俺、誕生日がクリスマスなんだ」

 陽斗は眉を顰める。

「だから何だよ。祝わねえよ」

「違うんだ。順を追って話すから」


 俺は鎖の軋む音に耳を澄ませた。

「母親は俺の誕生日とクリスマスを一緒に祝ったけど、父親はいつも別々に何かくれた。でも、小学生の頃、一時期俺の父親が愛人との間に子どもを作って出て行ったんだ。その年の十二月二十四日、父親は帰ってこなかった。愛人たちと過ごしたんだろうね」


 陽斗の青い瞳孔が小さくなった。

「俺は怒ろうと思ったけど、できなかった。俺の家に父親が来たら、愛人の家の子は寂しいだろうし」

「それで……?」

「二十六日に父親が来て、俺に謝ってふたつプレゼントを買うからって街に連れ出した。欲しいものがなかったから、安く済むようにポストカード二枚を選んだ。そうしたら、父親は泣いて、もうこんなことしないからって言った」

 俺は言葉を区切る。

「俺、何かを自分のものにしたいって思わないんだ。遠く離れたところで幸せならいいんじゃないかと思う。俺の好きはそういう好きなんだ」



 陽斗は何故か震える手で顔を覆った。爪に俺の血がついていた。指の間から悲痛なな声が漏れた。

「ポストカードかよ。馬鹿すぎるだろ。そりゃ勝てねえわ。俺普通に玩具ねだったもんな……」

「何?」


 指を下ろした陽斗の顔は、泣き笑いだった。

「おれさ、あんたの弟だよ。クリスマスにあんたから父親を奪った愛人の子だよ」

 言葉が出なかった。何処かで酒瓶が割れる音が響いた。

「……そんな偶然あるんだな」

「ねえよ。馬鹿かよ」


 陽斗は弱々しくかぶりを振った。

「おれ、あんたの家族のことずっと恨んでたよ。あれから親父は一回もうちに来ねえんだもん。何とかしてあんたの大事なもん奪ってやろうと思って、あんたの彼女に近づいたのに……」

「ごめん」

「何であんたが謝るんだよ」


 冷たい風が陽斗の前髪を掻き上げた。道理で見覚えがある訳だ。目を赤くした顔は、クリスマスの後に俺に詫びた父親そっくりだった。



 真っ暗な公園に幼い姉弟が駆け込んできた。ふたりとも薄着で汚れた服を着ていた。

 俺たちは同時に煙草を消す。


「陽斗さんは、愛情が多すぎるんだな」

「何だよそれ」

「母親が父親に言ってた。俺は少なすぎるんだって」

「そうでもねえよ。たぶん」

「そうかな」

 強い風が俺たちの乗るブランコを同時に押す。この光景は兄弟らしいなと思った。


 幼い姉弟は遊具の周りを走り回ってから、砂場に直に座った。姉が弟に何か囁く。なぞなぞを出しているようだ。

「りんごが三つ。バナナが五本。ふたりで分けるにはどうすればいいでしょう」

「わかんない!」


 笑い声がこちらまで響いた。

 陽斗は寒そうにシャツの襟を掻き合わせて首を振った。

「伊月さん、あんたこれからどうすんの……」

 俺は少し考えてから言った。

「愛情が足りないのと多いの、足して二で割ればちょうどいい」

「じゃあ、この関係続ける気?兄弟で彼女共有ってありかよ」

 いいと言ったらまた怒るんだろうなと思った。


 幼い姉弟が湿った砂をジャリジャリと踏みながら転げ回っていた。

「答えはね、ジュースにするんだよ」

「そんなのズルじゃん!」

 煙草と使用済みのゴムが散らばる公園に似つかわしくない、清廉な笑い声だった。



 俺は煙草を取り出しかけ、手の傷が痛んで止める。

「じゃあ、安奈をミキサーにかけて分けようか」

「出たよ、宇宙人。こっちは真面目に話してんのに……」

「俺も真面目だよ」


 陽斗は勢いよく立ち上がる。ブランコが大きく揺れて俺の膝を打ちそうになった。

「あんたマジで安奈殺したいの?」

「まさか」

「だと思った。伊月さん、何もやりたいことなさそうだもんな」


 俺はしばらく考えてからブランコの鎖を手放した。

「もうすぐ父親と母親の銀婚式があるって」

「……で?」

「俺と陽斗さんが一緒に出たらふたりはどういう顔をするか見たい」


 陽斗は目を見開き、やがて大声で笑った。初めて笑顔を見たと思った。

「あんたすげえこと考えるな」

「ありがとう」

「褒めえねえよ」


 陽斗はピアスを揺らして大きな伸びをする。

「安奈のこともどうするか考えとけよ。シフト制なんてもうやめだ。土曜日の男はもううんざりだから」

 わかったと答えたが、陽斗は怪訝に俺を覗き込んだ。

「あんたまた別のこと考えてるだろ」


 月食のような青い輪の目に睨まれて、俺は仕方なく正直に答える。G・K・チェスタトンのタイトルは何曜日の男だったか気になっていた、と。

 陽斗は心底呆れた顔をした。

「木曜日だろ」

 まさか答えるとは思ってなかった。

「知ってるんだ」

「あんたの父親が俺の家に置いてった本だったからな」

「ごめん」

「思ってねえだろ」


 風の音に紛れてくすくすと笑う声が聞こえた。

 姉弟が身を寄せ合って囁いていた。

「あのふたり、変なの」


 俺がわざと血まみれのハンカチが巻かれた手を振ると、姉弟は笑いながら悲鳴を上げて逃げた。


「俺たち変かな」

「あんただけだ」

 陽斗が舌打ちする。


 変だとしても、これから先も安奈の手帳に太陽と月が並んでいるままでいられたら、幸せなんじゃないかと思った。俺はそうだけど、そんなことはないんだろうなとも思った。

 安息日の恋人たちは廃業になるんだろう。安息日の兄弟はいつまで続くだろうか。


 夜空からネオンで汚れた雲を食い破った月光が降り注いでいた。照明が壊れたプラネタリウムのようだ。

 宇宙のどこかには俺の「好き」が普通の星もあったらいいと思った。

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安息日の恋人たち 木古おうみ @kipplemaker

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