安奈は花と小鳥の柄の手帳を取り出し、今月のページを開く。暗いオレンジの線で仕切られた曜日にボールペンで小さなマークが書き込まれた。

 月、火、木には月、水、金、土には太陽だった。


 陽斗が安奈の手元を覗き込む。

「何それ? 可愛いじゃん」

「伊月くんと陽斗くんだから、月と太陽」

「名前で彼氏選んでないよな」

「そんな訳ないでしょ」


 安奈の手帳には健康診断の日程から大学時代の後輩の誕生日まで細かく書き込まれていた。何事にも真面目で丁寧なところが好きだと思った。

 でも、俺は、禿げていてギョウ虫のようなデザインのネクタイをして来る職場の上司にも、真面目で丁寧なところに好感を持っているいる。

 俺の「好き」は安奈や陽斗や他の多くのひとたちの好きと違うんだろう。


 我に返ると、陽斗がナイフのようにスマートフォンを突きつけていた。

「何?」

「何じゃねえよ。シフト組むんだろ。グループ作るから入れよ」

 彼も決めたことには真面目で丁寧だ。いいなと思った。


「俺こいつのこと友だちに登録したくないから。安奈、よろしく」

 安奈は溜息を吐きながらトークアプリを開いた。少ししてから、名前のないグループの招待が届いた。

 陽斗のSNSのアイコンは、真っ青なプールで札束を前に素潜りをしている赤ん坊だった。ネヴァーマインドの CDジャケットだ。


「陽斗さん、ニルヴァーナ好きなの? 俺も聞いてた」

 少しは歩み寄れると思ったが、陽斗は怒りに満ちた声で「だから何だよ」と言っただけだった。


 会計を済ませてファミレスを出ると、冷たい風が吹きつけた。

 幹線道路に並ぶ看板の明かりと街灯が、藍色の夜空に光を塗していた。


 陽斗は駐車場の銀色のスタンド式灰皿の前で煙草を咥えていた。寒そうな薄いシャツを弄っている。ライターがないらしい。

 俺は自分の煙草に火をつけてから百円のライターを差し出した。陽斗は驚いたような顔をした。


「あんたも吸うんだ」

「そこそこ」

「そこそこ?」

 陽斗は嘲るように笑ったが、思いの外従順に身を折って差し出した火に近づいた。小鳥が餌を啄むようだと思った。


 煙を吐きながら陽斗は言った。

「おれ、あんたには絶対負けねえから」

「勝ち負けとかはないと思う」

「あるだろ。どっちが安奈に選ばれるかだよ」

「そうかもしれないけど、とりあえず三人で上手くやっていこう」

 盛大な舌打ちが返った。前途多難だなと思った。



 週休四日制の交際は案外上手くいったと思う。

 俺から見てそう思うだけだ。水面下では荒れているのかもしれない。そういうことはよくあった。


 俺は決められた曜日だけメッセージを送った。安奈はいつも通り仕事の休憩時間にすぐ返事をくれた。

 火曜日の深夜に安奈からのメッセージが来たときは、ちゃんと木曜日まで待ってから返事をした。


 内容は仕事の愚痴、節約するつもりだったのに暇潰しに寄った本屋でハードカバー本を買ってしまったこと、コンビニで買った新作のチャイミルクティーが不味かったこと。いつも通りだ。


 違うのは、陽斗との予定が律儀に報告されるようになったことだ。そういうときは、三人のグループが稼働する。

「水曜日は仕事帰りに野球観戦に行ってきます。ナイターだから夕方ビアガーデンで早めにお食事。今の時期はちょっと寒いかな?」


 シロクマが震えているスタンプが送られてきた。俺は「楽しんで」「冷えるから気をつけて」と告げてから、昔のバイト先のツテでもらったビアガーデンのクーポンをふたり分送信した。

 安奈からはシロクマが「ありがとう」とハートマークを散らして喜んでいるスタンプが届いたが、陽斗は何も返さなかった。



 金曜日の夜、配信の映画を観ながら、今頃ふたりが何をしているだろうと思う。

 ふたりが肩を組むのを想像して、嫉妬してみようと思ったが、上手くいかなかった。


 陽斗の言う通り、俺は優しくないんだと思う。でも、愛情が欠片もない訳じゃない。窓が寒さで結露するたび、ナイターが長引いて寒い思いをしたり、風邪を引かなければいいなと本気で願っている。


 映画の中の男は妻に先立たれた哀しみから、思い出の残る家の家具を鈍器で破壊していた。俺にもこんな風に出力できる愛情があればいいのにと思う。


 スマートフォンの通知が鳴った。

 安奈かと思ったが、母親だった。

 父との銀婚式の予定についてだった。一度は別居していたふたりが、今では嘘のようだ。


 父が他所に女を作って子どもまで設けたと知ったとき、母は映画の中の男より激しく家の中を破壊した。破れた金魚鉢から溢れた水が白熱電球の光を反射して、中でのたうつ金魚が綺麗だった。

 母は俺を見下ろして言った。

「あいつには愛情が多すぎて、あんたには少なすぎる。どうして足して二で割れないんだろう」

 俺は「そうだね」と言った。


 返信を打っている間に、今度こそ安奈からのメッセージが届いた。

「勝ったよ!」

 スタンプのシロクマが飛び上がって喜んでいた。心からよかったと思った。



 翌日、俺は安奈とブックカフェを巡りながら、昨日の試合の話を聞いた。

「遅くまで遊んで疲れてるだろうから今日は無理しなくてよかったのに」

 俺がそう言うと安奈は眉を下げて笑う。

「大丈夫だよ。気遣ってくれてありがとう」


 安奈が指を伸ばして、俺は手を握った。昔、俺が贈った金のブレスレットが手の甲に垂れた。

「伊月くんは優しいね」


 今、母は俺に恋人がいることに喜んでいる。

 俺は安奈を免罪符の代わりに使っているのだろうか。ちゃんと人間らしく他人を愛せるんですと示すための。



 日曜日は安息日だ。

 三人のグループも動かない。

 新店のオープン準備のために珍しく休日出勤だからちょうどよかった。


 ガラス張りの書店は読書家が好むとは思えない歓楽街のど真ん中にある。飲み屋の赤提灯が血の海のようにアスファルトを光らせていた。

 仕事を終えて帰る俺と、これから出勤するキャバクラ嬢やホストの歩みが対流のように流れる。交わらない人生だ。


 路地裏から甲高い声が響いた。

 雑居ビルの裏、積まれたゴミ袋の間からツインテールの女が何かを引き摺り出している。男の腕だ。ホストと客が揉めているらしい。


「いや、俺そんなこと言ってないじゃん!」

 焦りが滲んだ男の声には聞き覚えがあった。

「じゃあ、あの女誰!?」

 女が勢い余って路地から飛び出す。引き摺られて現れたのは、陽斗だった。

 彼はすぐに俺を見留めて、最悪だという顔をする。


「何その顔!」

「違うって、アヤちゃんにしたんじゃねえから……」

 女が素早く陽斗の頬を張った。鋭い音が俺の方まで響いた。

 見ない方がいいとわかっていたのに動けなかった。


 陽斗が頬を押さえながら必死で女を宥めている。視線だけは俺を捉えて、早く行けと告げていた。


 踵を返したとき、カチカチと時計の針のような音がした。思わず振り返る。女の手にカッターナイフが握られていた。陽斗が青ざめる。



 俺は通行人を肩で押し退けて駆け出していた。

 銀の刃が振り下ろされる瞬間、俺は咄嗟に手を伸ばした。

 最初は熱いと思い、後から痛いんだと気づいた。俺が握り込んだカッターナイフの刃は斜めに掌に突き刺さっていた。

 女は驚いていたが、陽斗はもっと驚いていた。


 女は後退り、カッターナイフを取り落とす。手の平の中をずるりと刃が滑って更に痛んだ。

 女は怯えた目で俺を見た。

「誰……?」

 何と答えればいいだろう。俺は陽斗と視線を交わす。

「同じ女の彼氏だよ」

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