安息日の恋人たち

木古おうみ

 こういうタイトルのG・K・チェスタトンの小説があったなと思った。

 構成員が曜日ごとのコードネームを持つ秘密組織に、刑事がスパイとして潜入する話だった。主人公の男は何曜日だっただろう。


 今、目の前にいる安奈あんななら答えてくれるかもしれないが、今は絶対に聞いてはいけないこともわかっていた。きっと、隣の彼に「そんなんだから浮気されるんだよ」と言われるから。

 俺がそう言われることは構わないけど、これからのことを考えると、場の空気が悪くなるのは避けたかった。



 琥珀色の光が漂い、眠そうな顔の店員が消毒したメニュー表を磨いている、深夜のファミレスだった。

 向かいの席の安奈はビニールの背もたれに埋もれながら、上目遣いで俺を見た。

伊月いつきくん、やっぱり怒ってるよね……?」

「全然」


 即答してからまずかったなと思った。浮気されたなら少しは怒るべきだ。その上、この場に浮気相手の男までいるし、安奈は俺じゃなくて彼の隣に座っている。

 沈黙を埋めるように気怠いインストロメンタルが店内に流れていた。少し前に流行った映画の主題歌だったが、タイトルを思い出せない。

 またこんなことを考えている。

 母親に叱られているときの「あんた、いつもどこ見てんの」という決まり文句まで思い出した。今は現状に集中しなきゃ駄目だ。


 俺は透明な煙草を摘むように親指と人差し指を見せた。

「いや、少しだけ怒ってる。このくらい……?」

 安奈は泣きそうな顔で笑った。

「無理しなくていいよ」

 そう言って、彼女はおしぼりを目に押し当てる。さっき食べたケーキのピスタチオソースが染み付いていて、これじゃ顔が汚れると思った。


「ごめんね。泣いてる場合じゃないよね。悪いのは私なのに」

 隣の男がすかさず安奈の肩を抱いた。彼氏らしいと思った。実際、浮気相手だから半分は彼氏みたいなものか。


 男は呆れた顔で俺を見た。

「こう言ったら悪いけどさ、あんたそんなんだから浮気されるんじゃないの?」

「ちょっと、やめてよ、陽斗はるとくん」

 安奈が男の腕を振り解いた。

 予想通りの言葉が聞けて、俺は少し嬉しくなった。こういうとき、ちゃんと人間らしい感情をシュミレーションできたんだなと自信が持てる。


 安奈は赤い目を擦って、グラスの水を一気に飲み干した。暇そうな店員が水を注ぎに来ようとして、ただならない空気を読み取ってやめた。

 再び沈黙が訪れそうで、俺は授業中のように手を挙げた。

「とりあえず、状況の整理と自己紹介から始めていいかな」

 安奈は泣き笑いで、隣の男は軽蔑の眼差しで頷いた。


「安奈は先月から隣の彼と付き合ってるんだよね?」

「うん、あったのは半年くらい前なんだけどね」

「ちょうど俺と彼の仕事のシフトが正反対だから都合がよかったんだよね」

「都合がいいっていうか……うん、そうかも」

「俺とは火曜と木曜に会って、彼とは水曜と金曜に会ってたんだ」

「そうだよ」


 俺は迷いながら言葉を選び、隣の彼に掌を向けた。

「失礼ですが、お仕事は何を?」

「見合いかよ」

 男はカラーコンタクトで青い輪を描いた瞳を細めた。


 安奈が慌てて割り込む。

「陽斗くんはホストクラブで働いてて、あ、違うよ。最初からそういうつもりで行ったんじゃないの。友だちの誘いで仕方なく……でも、陽斗くんは母子家庭で、すごい頑張ってて、力になってあげたいなと思って、相談とか乗ってて……」


 声が徐々に小さくなった。言われてみれば、確かに陽斗はホストらしくみえた。

 ニスを塗ったように艶のある黒髪の一束を青く染めて、耳に銀のピアスが垂れている。黒いストライプのシャツのボタンを胸まで開けていた。

 顔のことはよくわかないが、たぶんいいのだと思う。誰かに似ているが思い出せなかった。きっと芸能人か何かだ。


 安奈が気まずそうに俺を指した。

「それで、こっちは伊月くん。大学の文学部で知り合ったの。だから、陽斗くんの二個上かな。結局プログラマーになっちゃった私と違って、ちゃんと文学部らしい仕事しててね。書店員で、Webのライターもやってるの」


 この男を見るほど全然俺と違うと思った。

 安奈は何事に関しても好みが両極端なのかもしれない。デートだって何も起こらない静かな台湾映画を選ぶときも、九十分間血が流れ続けるホラーを選ぶときもある。


 陽斗が俺を睨んだ。

「安奈、こいつのどこがいいの?」

「どこって……優しくて、趣味が合うところかな? いつも冷静で、迷ったときも的確にアドバイスくれるっていうか……」

「本当に優しい奴は彼女が浮気したら怒るんじゃない? こいつ全然興味なさそうじゃん」


 俺は咄嗟に訂正した。

「興味なくは、ないよ」

 それが気に障ったらしく、陽斗はテーブルに身を乗り出した。碇のようなネックレスの先端がコーヒーカップの縁を擦った。


「じゃあ、安奈がおれと付き合ってるって聞いてどう思った?」

 俺はまた考え込んだ。正直に伝えたら絶対に角が立つ。俺の考えは俺にとっては当たり前のことだけど、他のひとにとってはそうじゃないらしいことは、二十五年間の人生で痛感した。


 だが、プリズムが砕けたような瞳に見据えられて結局言ってしまった。

「よかったなって……」

「よかった?」

 俺は陽斗が反論する前に畳み掛ける。


「まず、前提が共有できない可能性もあるんだけど、親友が綺麗で優しい彼女ができて喜んでたら自分のことみたいに嬉しくないか?」

 陽斗は俺の勢いに負けて目を白黒させた。

「どうだろう、嬉しくない? 寧ろムカつく?」

「いや、嬉しいけど……」

「それと同じなんだよ。俺は彼女とかそういう以前に安奈には楽しく生きていてほしいと思ってる。田舎のおじいちゃんみたいにそう思ってる。だから、君と付き合ってて楽しそうで、よかったなと思った」


 陽斗は俺を見て絶句した。

 誰に似ているかわかった。俺の母親だ。

 母親が癇癪を起こして「出ていくけどいいの?」と聞いてきたとき、俺は「それが幸せならいいと思う」と答えた。そのとき、母親が言った言葉を、今陽斗が言う。


「あんた、宇宙人かよ」

「千葉県で生まれたよ」

「いかれすぎだろ」

 陽斗はぐったりと頭を振った。安奈は微笑を浮かべている。さすが三年俺と付き合っただけのことはあって大抵では驚かない。



 陽斗は胸ポケットの煙草を探り、全席禁煙のプレートを見て舌打ちした。

「で? 安奈はこれからどうしたいの?」

「……最低だってわかってるけど、別れたくない。どっちも好きなの」

「おれ、こいつと並べられてんのすげえ嫌なんだけど」


 安奈は机の下でスカートの裾をぎゅっと握った。

「陽斗くんのそういうところはちょっと嫌だよ。でも、好きなところもたくさんある。伊月くんにも嫌なところも好きなところもたくさんあるし、どうしていいのかわからない」


 また安奈が泣き出しそうな気配がした。

 暗いレジカウンターの奥で店員が印刷したシフト表に赤ペンを走らせていた。


「シフト制……」

 無意識に口に出していた。ふたりの視線が俺に注がれる。

「シフト制にしないか?」

 安奈が泣くのも忘れて目を瞬かせた。

「何を?」

「お互い、会うのを」


 俺はスマートフォンのスケジュール表を取り出す。

「せっかく彼氏がふたりいるんだから、連絡も会うのも分業したらいいんじゃないか? 俺は月、火、木なら時間が自由になる。陽斗さんは?」

「水、金、土なら……」

「じゃあ、ちょうどいい」

「日曜日は?」

「安息日だ。ひとりの時間も必要だろうし。これで一ヶ月くらい試してみて、どっちと付き合う方が合ってるか決めたらいいんじゃないか?」


 名案に思えたが、ふたりの表情を見るとそうでもなさそうだった。

 安奈は眉を下げて尋ねる。

「……それでいいの?」

 俺は頷いた。陽斗は頷いたというより項垂れた。


「じゃあ、お試しで……」

 安奈は空の紅茶ポットの縁をなぞって首肯を返した。

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