忘却のカタルシス ―その拳に託された未来―

紀洩乃 新茶

忘却のカタルシス ―その拳に託された未来―

 深淵と称される闇が存在するのだとすれば、それは人から光を奪い、静寂をもって完全な無の空間を創造し、この世の全てを否定する真理のようなものなのだろうか。その理の前では、人が持つ意志や希望も幻覚で全く意味を成さないのかもしれない。

 そんな思弁的に原理を求めさせられるこの場所は、見渡す限り何も見えないし何も聞こえない。静まり返った光の無い空間にいること以外は何も分からない……。本当に自分がここに存在するのかさえ疑いたくなるほどだ。



 ――そして、今の自分が置かれているこの状況をまったく飲み込めない……。



「……ここは何処なんだ?」


『ここが何処なのかは問題ではありません。あなたに問います……』


 釈然としない状況に困惑する中、何もない闇の中で誰かの声が語りかけてきた。その慈愛に満ちたベルベットボイスは、闇に反響し俺だけを包み込んでいた。


「――⁉ 誰だ! 問うって何のことだよ!」


『今の人生を記憶と共にリセットしてやり直しますか? それとも、ここでの記憶だけをリセットして今の人生を継続しますか?』


「……何を言ってるんだ? リセット? やり直す? 意味が分かんないぞ!」


 辺りを見回しながら声の主を探すが誰も見つけられない。そもそも何も見えないのだから探しようがない。そこには闇に呑まれながらも辛うじて自我を保っている自分自身と、孤立がもたらす焦燥感を忘れさせてくれた誰かの声が存在するだけだった。


『もう一度問います。 今の人生を記憶と共にリセットしてやり直しますか? それとも、ここでの記憶だけをリセットして今の人生を継続しますか?』


「なんだよそれ! 選ばないと戻れないのかよ!」


『選択してください……それが今のあなたが望んだものですから』


「今の俺が望んだもの……」


 俺はその言葉の意味を考えるかのように呟きながら、可能な限り冷静に思考を巡らせることにした。

 選択しなくてはいけないということは、それ自体に必ず意味があるはずだと思い、何も見えない世界の中で瞼を閉じ、これまでの人生の記憶を辿ることにした……。



【1時間前……】


 頭上に広がる星の海は常にそこにあり、わざわざ目を向けなくてもその存在を感じさせてくれる。そんな雲一つない夜空の星に向けて手を伸ばす……掴むことなど出来ないと知りながらも自然とそうさせられた。

 きっとその輝きを求めていたのだと思う。今の自分には無い……いや、失くしてしまったと言うべきその輝きをもう一度この手に掴みたくて。


「どこで間違ったんだろうなぁ……」


 ついつい口に出してしまったが本当は分かっている。どこで間違ったかではなく、最初からそんなものは存在しなかったということは。それでも、何かのせいにしていないと生きていけない自信がある。言い換えれば、そうすることでしか生を感じることが出来ない現実……、決して幸せと言えたものではない今を生きて行くためには必要だった。


 どこにでもあるような学生時代を過ごし、卒業後は就職難の中でも無事に就職することが出来た。その就職した先で出会った女性と1年後には結婚。翌年には子供を授かり、傍から見れば順風満帆な人生を歩んでるように見えたことだろう。

 正直なところ、自分でもそう思っていた……。


「やっぱり離婚してでも一人に戻るべきだろうか……」


 口にするのは簡単だが、それを実際の行動に移すことが出来ないことが悔やまれて仕方ない。自分で言うのも変な話だが、優しすぎる性格がそうさせてはくれない。

 自分の為に離婚して一人に戻りたいと思う以上に、今の生活を当たり前の日常として俺と共に居ることを選んでくれた彼女と子供のことを想えば離婚なんて出来ない。


 ――家族を養う責任感からの重圧が自身を苦しめている訳ではない。


 ――共に歩んできた彼女と子供に不満がある訳でもない。


 ――他に恋情を抱くような相手が出来た訳でもない。


 ただ、5年前のあの日に気付いてしまったんだ……。今の家庭で見せる自分の姿は作られたもので、本当の自分の姿ではない事実に。

 

 ――彼女の顔色を窺い、問題がないように繕う日々。


 ――子供の父親として、それっぽく親の顔を繕う日々。


 ――自分の中にある本音を飲み込み、偽りの言葉で繕う日々。


 ここでは自分という存在がありながらも、それが自分ではないということへの葛藤が永遠にループしているだけだ。逃げ出したい……でも、それさえも自身の優しさがそうさせてはくれない。結果として、何年も同じ葛藤を繰り返して今に至る。


「……そろそろ帰るか」


 俺は仰向けに寝そべっていたベンチから起き上がり、重い足取りで入り口のあるドアへと歩き出した。そして、屋上に設置されてるメッシュフェンスを横目に見ながら考えてしまう……あの向こう側に行けば楽になれるんではないかと。


「死ねば解放されるのか……いや、無理だな。そもそも死にたい訳じゃないんだよ」


 当然ではあるが、俺にそんな無謀な勇気はない。それが出来るほどの勇気を持っていたのなら、今こんなに悩むこともなく、偽りのない本当の自分として幸せに暮らしていたことだろう。

 そうだとしたら、いつから本当の自分を偽って生きているんだろう……。少なくとも5年前の時点では完全に作られた自分を演じていた。


「いつまで続けなきゃいけなんだろ、こんな生活を……」


 頭上から降り注ぐ星の灯りはこの世界こそ照らしてくれてはいるが、俺の求める答えだけは照らし出してくれることはなかった。



【5年前……】


 新緑の壁で彩られた景色が回り灯篭の如く永遠に続いている……山間を通る高速道路だから仕方のないことだが、木々だけを眺めて車を走らせるのは流石に辛い。


「はぁ、もう少し景色が楽しめると思ったのに……」


 急な話だった……。上司に呼び出され、そこで告げられたのは出張という名目ではあったのだが、実際のところは短期の転勤みたいなものだった。 他県の部署で社員が入院したことで人員不足になった為に応援要請があり、何故か俺に白羽の矢が立てられた。

 仕事を終えてから家に帰ることが億劫になりつつあった今の自分には断る理由がなかった。これであの家に帰らなくて済むとさえ思えてしまったのだ。

 出張を告げた時の彼女と子供は不安だったのか、あまりいい顔をしなかった。それでも仕事だから仕方ないと、渋々了承してくれた。


「これで3カ月は自由の身だなぁ。ありがとう、出張!」


 思わず心の声が漏れてしまう……それほどに開放感があった。この先で待ち受ける仕事のことなんか何も気にならないほどに高揚していた。

 そしてこの時すでに、自分の中から彼女と子供の存在は消えつつあった……。


 新しい部署での仕事は問題なく引き継ぎも終わり、自由な一人暮らしの時間を満喫して3日目を迎えた……。

 その日の夜に一本の電話があった……彼女からだった。


「もしもし、どうした? 何かあったか?」


『……何かあったかじゃないよね? 何で連絡くれないの?』


「えっ、特に問題もないし……必要ないかなぁって……」


『信じられない! こっちは心配してるんだよ? あの子もあなたが居ないことで不安になってるし……ちょっと考えたら分かるでしょ⁉』


「ごめん、俺が悪かったよ。これからは毎日連絡するから……」


 まただ……また思ってもないのに毎日連絡するとか言ってしまった。これまでもそうだけど、何で自分に嘘をつく……何で……。


 ――彼女を傷つけたくないと思う優しさからだろうか。


 ――面倒事を増やしたくないと思う保身からだろうか。


 ――何も考えずに短慮な言葉を紡いでいるだけだろうか。


 どれも正しいように思える……。じゃあ、本当の自分は何処にあるんだろう。

 誰かと共に進むことで自分が無くなってしまうのなら、むしろそんなものは無い方がいいんじゃないか? 一人で自分に素直に生きてる方がいいように思わないか?


「結局、妻子が居ることで本当の俺の姿はないんだなぁ……」


 自分以外は誰も居ない部屋の中で天井を見上げながら呟いたその声は、その先に居るであろう神様に救いを求めて解き放たれた本当の自分のものだったのだろう。



【15年前……】


 チャペルの奥に広がるステンドグラスから漏れた光が優しく俺たちを包み込んでくれている。その光は俺たちをまだ見ぬ幸せへと誘うであろう愛と希望の象徴だ。

 俺は純白のドレスに身を包んだ彼女の手を引きながら、フラワーシャワーと祝いの歓声を共に浴びながらバージンロードを退出していく。そんな祝いの歓声の中にあるであろう幸せを妬む悪魔の囁きから、フラワーシャワーがもたらす花の香りが辺りを清めながら俺たちを守ってくれていた。



 ――これが彼女と共に迎える人生でたった一度だけの最高の瞬間なんだろう……。



「――ねぇ、今幸せ? 私とこの道を歩くことを選んでくれたけど……」


「それを今聞くのか? 君意外の女性とこの道を歩こうとは思わないよ」


「ふーん。じゃあ、男性となら歩けるんだ」


「そうきたか……前言撤回! 君以外はないよ……愛してる」


「ふふふ……ありがとう。 私もあなたのこと愛してるよ……」


 思わず口にした『愛してる』の言葉の意味を未だに理解出来ていない自分がいた。彼女のことが間違いなく好きなのは分かってる……。だが、愛しているのかと聞かれたら、その答えをまだ持ち合わせていないというのが本音だ。

 それでも、その言葉を紡ぐことに意味があるのだと言い聞かせてここにいる。


 今思えば何故、彼女と結婚することを選んだのだろう……。

 確かに一緒に居ることが当たり前の日常になりつつはあった。同棲を始めてからは職場も同じだったから一日中一緒だった気がする。しかし、彼女と結婚したいと思うことは無かった、このままの生活を続けて行ければいいと思っていた。


「どうしたの? 何か難しい顔してたけど……考え事?」


「ん? あぁ、ちょっとね。 何か実感がなくてさ……。これまでの生活と何か変わるのかなぁって……」


「何も変わらないよ? 一緒に居ることが出来る……それだけで十分だよ」


「……そうだな、そうだよな」


 そんな自分の迷いとは別に、彼女は幸せの絶頂だったのだろうか……。これで本当に良かったのだろうか……。


 ――彼女が笑ってくれるのなら何でもしてあげたかった。


 ――彼女の望むことなら自分を犠牲にしてでも叶えたかった。


 ――彼女が隣に居ない、そんな自分の姿が想像できなかった。


 そうだ……そうなんだ。俺は彼女が笑って隣に居てくれることだけを望んだんだ。優先すべきは自分ではなく彼女の幸せだ……。隣で最高の笑顔を見せる生涯のパートナーを見つめながら、そう自分に言い聞かせていた。

 


 ――そして1年後


 俺は彼女のいる病院に向かう為、車で夜中の高速道路を走っていた。

 電話が鳴ったのは2時間前のことだった……、陣痛が来て病院に入ったと彼女の親から連絡があった。帰省出産を選んだ為、彼女の実家の方まで行かなくてはいけなかった。


「――間に合うのか? いや、長期戦もあり得るんだよな……」


 自分の子供が産まれてくることへの喜びよりも、出産に関して漠然とした不安しかなかった……。もしも彼女の身に何かあったらと考えるだけで、視界に広がる暗がりの中にある景色が夜のせいではない闇に包まれてるようだった。


「とりあえず長期戦の可能性を考えて腹ごしらえだけはしていくか」


 途中のサービスエリアに立ち寄り、フードコートで食事をとることにした。少しでも早く食べ終えて病院に向かうつもりでいた……が、運命の神様は悪戯が好きなようだった。


 <プルルルル、プルルルル……>


 彼女の親からの電話だった……。


「……はい、今そちらに向かってるところです……はい、そうです……えっ、産まれた? えええええっ! もう産まれたんですか⁉」


 俺は周りも気にせず声をあげていた。完全に予想外の展開だったので思考が追いついてなかった……。そんな中、周りで食事をしていた人たちから優しく「おめでとうございます」と声をかけられて現実に戻された。



 ――自分の子供が産まれたのに、俺にはその感動がなかった……。



 本気で困惑した。本当は望んでなかったのではないかと疑う事しか出来なかった。最愛の彼女との間に出来た子供なのに、俺は喜びさえなかったのだ。彼女が無事ならそれでいいと、何処かで割り切っていた自分をその時に知った。


 ――自分にとって子供の存在は、体裁を繕う為の結果だったのだろうか。


 ――自分の中で彼女の求めたものを共有したいと思う自己満足だったのだろうか。


 ――自分達に子供が居ないというプレッシャーを除きたかっただけなのだろうか。


 自分の口では彼女との間に子供を切望するような事を言っておきながら、結局は彼女や周りの顔色を窺って出した言葉にすぎなかったんだ。


 俺は産まれて来た子供を本当に愛してやれるのだろうか……。彼女の望む理想の父親として、共に家族としてこの先を歩んでいけるのだろうか。



【?年前……】


 もうどれぐらい過去を遡ったのだろう……。

 彼女と結婚する為にご両親のところへ挨拶に行った時のこと。初めての社会生活を送る中で、仕事と人間関係に苦悩していた時のこと。大学生、高校生、中学生、小学生……どの学生生活でもあった友人との思い出。

 もう十分だとこれまでの過去を回想することを終えて、瞼をあけて現状と向き合うことにした。そこには変わらず静寂と闇に包まれた空間が広がっていた。


「何で気付かなかったんだろう……いや、気付いていながらそれに蓋をしたのか」


 どの過去にも共通して同じものがあった……。


「なんだよ……やっぱり初めから無かったじゃないか……。全部周りを気にして紡がれた偽りの言葉ばっかりじゃないか!」


 そこにあったのは、すべて自分を押し殺して紡ぎだされた体裁にまみれた虚言の山だった。当たり障りないように作り出された道化師ピエロの自分の姿だった。


「結局のところ、結婚したからとかじゃなかったんだな……」


 そして思い出す……あの聞こえて来た声を……



『今の人生を記憶と共にリセットしてやり直しますか?――』



 やり直す……その言葉は魅力的だった。これまでのことを無かったことにして初めからやり直せるのだ、自分の望む新しい人生として。


「……本当にそうなのか? 何か見落としてないか?」


 過去を回想して気付かされたこと……それは、都合の悪い事に蓋をしてしまったことが全ての元凶だった事実。向き合うことから逃げて、体裁を繕い、問題がなかったかのようにやり過ごしてきた現実。


「これまでの記憶もリセットされる……それって、ここで気付いたことも忘れるってことだよな。……ってことは、また繰り返すんじゃないのか?」


 冷静に考えてみたら、それは当たり前の可能性だった……。


「まさか……この選択されてる今も、すでに何回も経験してるのか……」


 記憶がリセットされるのであれば、何回繰り返そうが分かるはずもない。そのうえで、また選択を迫られてるのだとすれば、きっと何か意図があるはずだと思わずにはいられなかった。


「これまでも自分で考えた結果、感情を押し殺してでも答えを出してきている……。

だったら、その出した答えは自分の本心であって望んだものなんだよな……」


 本心……それが答えだった。


 ――どんな時でも自分の意志で決めた言葉を発していた。


 ――どんな時でも相手のことを考えて言葉を発していた。


 ――どんな時でもその先を笑って過ごせるように願っていた。


「ははは……滑稽だな、それが本当の俺の姿なのか。自分を偽って生きて来たわけじゃないんだ……生きて行くために望んでこういう自分の姿を求めたんだな……みんなで笑っていたかったから。だったら初めからあったんだな……本当の俺自身は」


 その瞬間だった……自分を包んでいた闇が晴れて、真っ白な空間が広がっていた。


「――! 何が起こったんだ⁉」


 その視線の先に見えたもの……それは自分自身を映し出した鏡のようだった。そこに映し出された自分の姿は、これでもかと晴れやかに微笑んでいた。


『これが最後です。 今の人生を記憶と共にリセットしてやり直しますか? それとも、ここでの記憶だけをリセットして今の人生を継続しますか?』


 突如として聞こえて来たあの声は最後の選択を迫ってきたようだった。だが、今の自分の答えはすでに決まっている……迷うことなどなかった。


「継続だ! これまでだって間違ってなかったんだ! だったらやり直すことに何の意味もない……だから、変わらず今の人生の続きを生きる!」


『わかりました。それが今のあなたが望んだものなのですね』


「この状況は未だに理解が出来ないけど、感謝してるよ。まぁ、ここでのことは全部忘れちゃうんだろうけどさ」


『あなたの残りの人生に幸あらんことを……』


 その言葉を聞くと同時に視界が眩しいほどの光に包まれていく……。


 この先にどんな現実が待っていようとも、もう恐れることもなければ、自分を偽ることもない……。道化師ピエロだったとしても生きることの意味はちゃんと持っている。


 「自分の求めたものが何かじゃない、自分に求められたものが何かでもない、どんな時でも自分自身を認めてやれるかだ!」


 遠のく意識の中で俺はそう呟くと、手を伸ばし何かを掴み取るかのように拳を作っていた。



【現実時間……】


 目覚めた俺の視界に入ってきたのは、真っ白な天井だった。


「……俺、生きてるのか?」


 思わず口にした言葉と全身に残る痛みで思い出す……自分に何があったのかを。

 会社の屋上で時間を潰した後、帰宅する為に車を走らせていて事故にあったのだ。信号が青に変わって動き出した時、横から大型のトラックが飛び出してきて避けきれずに衝突したところまでは覚えている……あれでよく生きてたもんだと胸をなでおろした。


「……ってことは、ここは病室なのか?」


 ふと自分の手に目をやると、右手だけが強く握られた拳をつくっていた。その拳の力を抜き、そっと指を広げて掌を見つめた……。


「……自分の求めたものが何かじゃない……自分に求められたものが何かでもない、どんな時でも自分自身を認めてやれるかだ……?」


 無意識の中で口にした言葉に困惑する……が、何故か記憶の片隅に覚えのある言葉でもあった。それが今の自分にとって大切なものだと警鐘を鳴らされてる気がする。


「自分自身を認めてやれる……誰の言葉か分かんないけど今の俺には刺さるな……」


 その時、部屋のドアが開き誰かが入ってきた。


「――! 目が覚めたのね……よかった……本当によかった、生きててくれて……」


 そこには涙を流しながら俺が生きていることを喜んでくれている彼女が居た。その涙を流す姿は、自分は幸せ者だと思わせてくれるには十分すぎた……。


「お前たちを置いていけるかよ……。こう見えて意外としぶといんだよ、俺は」


「うん、うん……よく知ってるよ、でも……でもね、このまま目覚めなかったらどうしようって……本当に怖かったんだよ……」


「……心配かけてごめんな。それと、ありがとうな……俺の傍に居てくれて」


 事故の大きさとは裏腹に奇跡的にも軽症で済んだことに、少しだけ神様ってやつの存在を信じたくなる想いだった。運命の悪戯ってやつなんだろうかと生きていることを……いや、再び彼女に会えたことを心から喜んだ。


 

 ――そして、退院する日がやってきた。


 日差しあふれる吹き抜けのロビーを歩いていると、中央に設置されたグランドピアノから自動演奏でビートルズの曲が流れて来た。俺は思わず足を止めて耳を傾けた。


 Let It Be(レットイットビー)――『あるがままを受け入れなさい……』


 ふと思い出されたその歌の和訳された歌詞は、今の自分の背中を優しく押してくれているようだった。気持ちも新たに再び歩き出したその先のエントランスには、入院してる間担当してくれていた看護師さんが見送りに来てくれていた。


「無事に退院されるそうですね、おめでとうございます」


「ありがとうございます! お陰様で退院することが出来ます」


「晴れやかな良い顔をなされてますね、何か心境の変化でもありましたか?」


「えぇ、色々とスッキリしたというか、安堵したというか……自分でも良く分からないんですけどね」


「そうですか、無事に見つけることが出来たんですね……」


「……?」


「どうぞお気になさらずに。しばらくは無理せずお大事になさってくださいね」


「はい! お世話になりました」 


俺は軽く会釈をしてその場を後にした。


「――――――――――――――――」


 歩き出した俺の背後から何か聞こえた気がしたが上手く聞き取れなかった。


 空から降り注ぐ陽光は、病院と街を繋ぐ廊下とも言える緑にあふれるこの道を優しく照らしてくれている。そんな光に祝福された道の上を俺は足早に歩きだした。

 もう自分のはやる気持ちを押し殺すことなど出来なかった。少しでも早く帰りたかったんだ……最愛の家族が待つ俺の居るべき場所へ。

 そんな俺が見えなくなるまで、看護師さんは温かく見守ってくれていた。



 エントランスを行き交う人の喧騒の中で、慈悲深く一人の男性の背中を見送るその女性の凛とした立ち姿は、どこか神聖で尊さを感じさせる。


「あなたの残りの人生に幸あらんことを……。そう言ったのですよ」


 白衣の天使はそう呟くと悪戯な笑顔を見せながら建物の中へと消えていった……。




 (了)

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