田坂の視界はぼやけている

もも

田坂の視界はぼやけている

 3限終わり、サークルの溜まり場にあるソファでスマートフォンをいじっていたら、田坂が眼鏡姿で現れた。


「どしたの、それ。お前、目悪かったのか」

「うん。コンタクト買い足すの忘れてて」


 そう言うと、田坂はいつものように表情筋がほぼ動いていないような顔で俺の隣に腰掛けた。同じサークルで活動して3年余りだが、こいつの眼鏡姿を見るのは初めてだ。


 黒のセルフレームは細く、田坂のすっきりとした顔立ちによく馴染んでいる。丸みを帯びた逆三角形のボストン型は少しレトロさもあり、柔らかそうな黒髪との相性も良い。

 

 平たく言えば眼鏡を掛けた田坂は、めちゃくちゃ恰好良かった。


「変かな」

「何が」

「僕の顔、ガン見してるから」

「あぁ大丈夫、まばたきしなくてもヒトは死なない」

「命に別状はないけど目は死ぬぞ」


 心配してくれるその気持ちだけで、白飯5杯食べたぐらいの満足度だわ。


「どれぐらい悪いんだ」

「コンタクトだと-5.50」

「それ、視力に換算するとどんなもんなの」

「んー、0.1ないぐらいじゃないかな」

「ほぼ見えてないじゃん」

「そうそう。眼鏡外すと見えてる範囲は全部ぼやけてる。1メートル先なんて完全にわかんなくて、ただの物体にしか見えない」

「それは不便だな」


 両目共に1.0を維持している俺には未知の世界だ。と思ったところで、俺はある遊びを思い付いた。鞄からノートとボールペンを取り出すと、田坂と向かい合うようにして立ち上がる。


「なぁ、ちょっとゲームしようぜ」

「ゲーム?」

「題して、『書かれているのはなんじゃらホイ? ノートの文字を当てまショー!』」


 ドンドンドン、パフパフパフー。

 と、心の中で鳴り物を響かせる。


「大層レトロなタイトルセンスをお持ちで」

「うっさい、こういうのは分かりやすいのが一番なの。ルールは超簡単な。このノートに俺が文字を書いていくから、お前は裸眼の状態で何て書かれているのかを当ててくれ。一問当たるごとに10センチ離れるから、どこまで読めるか試そうぜ」


 田坂は面倒臭そうな顔をして答えた。


「お前、僕が40秒前に言ったことを忘れたのか」

「『眼鏡外すと見えてる範囲は全部ぼやけてる』」

「その後」

「『ただの物体にしか見えない』」

「器用な聞き飛ばし方だな、おい」

「いやぁそれほどでも」

「褒めてない」

「じゃあもっと罵倒を寄越せ」

「罵られてる自覚あるじゃん。仕方ない、もう一度言うぞ。1メートル先のものでも俺の目には全部ぼやけて映るから、それが何かなんてわからないって言ったんだ」

「わぁ、馬鹿な俺のために微妙に言葉を足してくれてありがとう。優しいなぁ、田坂は」

「ウザい」


 スパッと袈裟斬りにされたところで、まずは10センチの距離から始める。


「……近いな」

「だって10センチだし」


 田坂の鼻先からすぐそばの位置に俺の顔がある絵面を想像するだけで大興奮だ。

 今ここで誰かが俺にぶつかってきたらその弾みで鼻と鼻がごっつんこするようなラッキーな事故が起きるかもしれないし、その決定的瞬間を正面および左右の三つの角度からカメラで押さえてくれるなら、そいつには学食一年分無料チケットを手作りしてやりたい。


「早く問題出せよ」

「おう」


 田坂に急かされて我に返った俺はノートにボールペンを走らせ、書いたものを見せた。


「『隙』」

「正解。流石にこの距離なら即答か」

「ド近眼だからな。近い分には問題ない」

「じゃあ、2問目な」


 俺は田坂から10センチ離れて、次の言葉をノートに書いた。


「これは?」

「『すき』」

「正解。この距離も余裕そうだな」

「文字の輪郭が軽くぼやけてるけど、まぁ大丈夫」


 俺はまた10センチ後退あとずさったところで、真っ白なページに文字を綴った。


「これは?」

「……『き』?」

「惜しい。読みが違う」

「読みも審査基準なのかよ」

「当然」


 隙。

 鍬。

 と来たなら『空き』の読みは『あき』ではなく何だろうな、田坂。


「『すき』」

「……正解」


 そうだよ、田坂! 

 このゲームにおける『空き』の正しい読みは『すき』だよ!!


「いいねいいね、順調じゃん。なんだかんだで結構見えてる?」

「どうだろ。書かれてる文字の大きさにもよるかな。今は割と大きめだから読めてる気がする」

「なるほど」

「おい、ニタニタすんな」

「え、そんな顔してないけど」

「さっきからずっと気持ち悪い顔してるぞ」

「気持ち悪いと思うぐらい俺のことを見てくれてるんだな」

「今の会話で感激される要素がどこにあったのか教えて欲しい」


 そりゃニタニタもするさ。

 このゲーム、裏テーマは俺に向かって田坂の口から『すき』と言わせることだからな。いやはや、同音異義語の素晴らしさよ。日本語の民で良かったと、俺は心の底でバベルの塔を破壊した神にお歳暮を贈りたい気分だった。


「次、40センチな」

「もうちまちま刻むの面倒だから50センチにしろよ。で、その後は一気に1メートルで」

「そんな乱暴な」


 そんなことをしたら、田坂の「すき」を堪能できる回数が減るじゃないか。


「じゃあもうやらない。そもそも僕がゲームをやらなきゃならない義理もないしな。こんなちまちましたの、付き合ってられないよ」

「田坂、付き合わないとか言わないで」

「おい、床の上で膝を抱えるな。え、何で泣いてんの。お前、そんなにこのゲームやりたかったのか」

「これもやりたいけど、『付き合わない』とか田坂に言われるの悲しい」


 お前が俺の彼氏になることなんてありえないのは分かってるから、せめてゲームぐらい付き合ってくれよ。で、俺に向かっていっぱい「すき」だと言ってくれ。


 めそめそする俺を見て、田坂は大きくため息を吐く。

 あぁ、ダメだ、絶対嫌われた。

 こんなうっとおしいヤツ、同じ空気を吸いたくないと思われてるに決まってる。

 よし、今から息を止めよう。その間ずっと田坂のことだけ考えていられたら、酸欠で回らなくなった俺の脳を田坂が占領してくれるかもしれない。さようなら田坂、たくさんの想い出をありがとう。


「泣くなよ」


 鼻から思いっきり息を吸い込んだところで、頭上から田坂の声が降って来たかと思ったら、頭をくしゃりと撫でられた。


「悪かったって。ちょっと言葉がきつかった。お前、いつも笑って受けてくれるからちょっと調子に乗ってた」


 田坂は俺の頭に手を乗せたまま目線を合わせるようにしゃがむと、「続き、やろうか」と笑った。

 

 おわ。

 何、その顔。

 ついさっきまで「嫌々ゲームをやらされてます」みたいな仏頂面だった癖に、そんな優しい顔して笑えるの、お前。

 こんなもん見せられたら涙も引っ込むわ。

 

 俺は赤くなった顔がバレないよう勢いよく立ち上がると、裸眼の田坂から距離を取った。


「なな、なんだよ、お前も結構ノリ気だったんじゃんじゃん」

「『じゃん』が多い」

「こんなんなんぼあってもいいですからねの精神だよ」

「そこから問題出せよ」

「え」


 気付けば俺は、田坂から3メートルぐらい離れた場所にいた。


「こんなに離れてたら、お前確実に読めないだろ」

「言ったろ、文字の大きさによるって」


 田坂はソファに戻って座り直したので、俺との間にある距離は3.5メートル程に伸びた。

 

 これだけ離れてるなら「やっぱ読めないや」で終わるよな。

 だったら。


 俺はノートに小さく二文字を書いて、田坂に見せた。


「ちっっっっさ!!!」

「大きさによるって言うから」

「逆だ、馬鹿。小さくしてどうする」

「へへへ」


 書いちゃった。

 田坂には見えていないと分かっているけど、緊張する。

 でもいいか、きっとこの言葉を俺が言うことはないから、今だけ伝えたような気分にさせてくれ。


 ドキドキしながらソファの方へ目を遣ると田坂がじっと俺の顔を見ていたので、驚いて心臓が跳ねた。


「何だよ」

「別に」

「読めない苦し紛れに俺の顔見たって、分かんないもんは分かんないだろ」


 俺はノートをパタリと閉じる。


「田坂の目の悪さが実証されたところで、終わり終わり」


 ソファに戻ってノートとボールペンを鞄に片付け、代わりにペットボトルを取り出してキャップを回す。


「分からなかったな」

「だろ。本当に目悪いのな」


 俺は笑いながら飲み口から温くなった緑茶を流し込む。思っていた以上に喉がカラカラだったようで、いくらでも飲めそうな気がした。


「お前、僕のこと好きだったんだ」

「げほっ!!!」


 思いっきりむせた。鼻がツンとして緑茶の匂いが広がる。喉の変なところに入ったのか咳がなかなか収まらないし、目も潤む。

 今、何て言った?


「そうかそうか」

「な、何で」

「だって『好き』て書いてただろ」

「はぁぁぁぁぁ!?」


 と言ったところで再び咳き込む俺。


「『すき』て響きの言葉ばっかり並べるから何だろうなと思ってたけど、なるほどね。そういうことか。僕に『すき』と言わせつつ、自分の気持ちもどさくさに紛れて放り込んだ訳ね」

「いや、あの」

「1メートルの距離でも見えてないって言ったから、僕が読めないだろうと踏んで勢いで告白しちゃったんだ」

「だってそう言ったじゃん」

「可愛いね、お前」

「ひえ」


 俺の浅はかさな考えを改めて言語化すんな。

 ていうか今、俺のこと『可愛い』て言ったぞ。


「……見えてたのか」

「だってこれ伊達眼鏡だし」


 What?

 Are these fancy glasses?


「眼鏡なんてファッションアイテムなんだから、伊達眼鏡の一本や二本ぐらい皆持ってるだろ」

「じゃあ初めにそう言えよ。何で嘘ついた」

「僕の眼鏡顔を見た時のお前がちょっと可愛かったから、つい」


 こいつ、今日だけで俺のこと可愛いって何回言ってんだ。いや待て、そこに騙されるな。眼鏡が伊達だというのなら確認すべきことがあるじゃないか。


「お前、視力って」

「右が1.5、左が1.2」

「がっちり見えてた!」


 何だよ、何なんだよお前。あんなゲームを嬉々としてやってた俺、マジで恥ずかしい。


「コンタクトの度数とか視力悪い話は一体何だったんだよ」

「あれ、うちの姉ちゃんの話な」

「俺はお前の姉ちゃんの感覚とやりあってたのか!」


 やだ。

 もうやだ。

 俺がこいつのこと好きなのもバレたし、死にたい。


「お前、本当よく泣くのな」

「ざけんなよ、田坂」


 くそ、性格が悪すぎる。


「泣いても可愛いからいいけど」


 でも、好き。


 というかこいつ、俺が自分のことを好きだと知っても、態度が変わらないんだな。むしろさっきから俺は可愛いの激流に流されまくっているのだが。

 これはもしかして、兆にひとつの可能性とかあっちゃったりする?


「そろそろ四限終わりそうだし、混む前に学食行くか」

「なぁ、田坂」

「ん?」

「お前さ」

「あー、言い忘れてた」


 鞄を手にした田坂が俺の左耳に顔を寄せる。


「僕さ、可愛いだけの馬鹿は願い下げなんだよね」


 澄ました声が耳から脳に吸い込まれる。


「考えなしでいいからさ、声にしてぶつけて来いよ。話はそこからな」


 言葉の余韻を残して、するりと田坂が離れた。

 左半分に残る気配に身体がぞわぞわする。

 

 田坂、お前本当にいい性格してるよ。


 伊達眼鏡を掛け直した姿に見惚れ過ぎないよう、俺は心の中でリベンジを誓った。

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