第4話
彼女は叫び声を上げた。獣みたいだった。
突然目を開け、起き上がって、土下座をするみたいに座り込んだ。そんな彼女は肩で息をし、涙が、涎が地面に滴っている。瞳は開かれ、吐かれている息は細かく揺れていた。
「……穂野?」
出た声は震えていた。恐怖から来るものか、彼女に対してどことない異物感を感じたからかよくわからない。少なくとも、過去に触れ、変化してしまった彼女に対して言いようのない恐怖を感じていたことは確かだった。
私は彼女に触れようとして手を伸ばした。けれどその手が彼女に触れる前に、驚くように彼女の体がびくっとはじけた。鋭く睨めつけるその瞳には敵意のような何かに染まっていて、なにか彼女にとって、大きな衝撃があったのだろうと分かった。
彼女の瞳が大きく揺れる。それで分かった。あれは敵意ではない。どちらかと言えば恐怖に近い物だ。それか、嫌悪的なもので厭世的なものだと思った。
「穂野、大丈夫?」
疑問形になったのは、私の決意がまだ足りなかったからだ。彼女を変えてしまった物にふれる決意がまだ無かった。
「あ、浅見」
ひたりと揺れが止まった。息が安定し始めて、瞳は私をまっすぐ見つめている。どうやら冷静になれたらしい。
彼女は私を見て泣きそうな表情になった。ひどく申し訳なさそうに、優しい、綺麗な表情になった。体の力が抜けて横座りになる。私をじっと見つめて、涙を流しながら彼女は声を漏らした。
「ごめんね、ごめんね、本当にごめんね」
唐突に謝罪を繰り返す穂野に、私は急ごしらえの言葉を吐き出す事も出来ずにただ、驚いておろおろと言葉を探すだけしか出来なかった。そしてその言葉すら見つからない。彼女にかけるべき言葉さえ私には見繕えない。ただ、吐き出されるのは無意識のうちに選び取った「大丈夫だよ。穂野。ずっと、いるから、嫌いにならないから」といった、意味の無い、意味の届かない言葉だけだった。
何分くらい、彼女に声をかけていただろうか。私はいつの間にか、彼女の隣で肩に手を置いて、耳に声を届けていた。彼女も落ち着いて、口から垂れていた涎も、目元を濡らしていた涙も止まっていた。先ほどまでの状況を証明していたのは、目元の腫れくらいのものだ。
「浅見は……どんな、こと思い出したの?」
私はゆっくりと、話し始めた、過去の残り香を頼りに。
「おじいちゃんの、こと。苦手だった、おじいちゃんのこと。おじいちゃんは、私が小学生の頃に死んだの。交通事故だった。私の誕生日に、死んだ。まあ、最低な話だけど、やっぱりおじいちゃんの葬式で私の誕生日なんてなかったみたいになってさ、多分そのせいもあっておじいちゃんに対してあんまりいい印象は抱いてなかったの。いい人だったのは分かってた。でも子供だったから、そんなうまく消化できなくてね、ずっとどこかに押しやって、忘れてたの。忘れて、私だけ、楽になろうとしてた」
そこで一旦切って、じっと穂野を見つめる。彼女は続きを待っていた。体は震えている。私を映している瞳孔はわずかに開いていた。
「私はね、思い出して良かったと思うよ。きっといつか、思い出すことだったと思うし」
私の言葉に穂野は驚いたように、目を思いっきり開いて、口をわずかに開けた。なにか言葉を紡ごうとしたのだろう。その口元からは息が漏れるだけで言葉らしい言葉は出てこなかったけれど。
つんと、鼻の奥でコーヒーの香りが主張した。残っていたのだろうか。やけに優しいその香りを感じながら私は穂野を見る。穂野は未だ口を動かしたままだった。
「私、は」
穂野はそこまで言って口をつぐんだ、歯がカチカチと鳴っている。唇はしきりに震えて、いびつに笑っているようにも見える。無理に笑う道化のような、そんな表情だった。
「私は、思い出さないほうが、よかった」
最後の方は、泣いていた。絞り出すみたいに、苦しそうに泣いていた。あふれ出た涙は止まらず、また地面に落ちていく。水たまりを作っていく。
おもむろに吐き出される「ごめんね、ごめんね」という謝罪と時折泣きそうなほど愛おしそうに呟かれる「あすみ」という三文字。人名なのだろうその言葉は地面にぶつかって霧散していった。虚しいほど、懺悔は繰り返された。彼女の涙が止まるまで、何度も。
外、障害物もなく草も生えていない庭で私たち二人は研究室から持ってきた物を放り投げた。穂野が振りまいた液体が研究材料を濡らしていく。特徴的なにおいが私たちを包んだ。
「本当にいいの?」
私の言葉に穂野は頷いた。どうやら覚悟は決まっていたらしい。
私たちは先ほど作られた山から離れる。穂野はマッチを擦った。手元に赤い花が咲いた。
「いいんだよ。これで」
穂野の手から、マッチが放たれる。それは地面に着いた瞬間、赤い布を広げた。赤い布はみるみるうちに広がって、周囲の温度を上げた。
これは穂野の研究だ。私が口に出す必要性はない。出す権利もない。
目の前で、瓶が一瞬煤け、赤く染まるのが見えた。
コルクが黒く染まって風に吹かれたのが見えた。
精密機械が黒く染まって、使えなくなっていく。
紙の束が一瞬で灰になり、意味をなくしていく。
過去が燃えていく。
「これで、良かったんだ」
穂野は言い聞かせるように言った。続けて、呟いた。
「記憶は、忘れたままで良いんだよ。過去は、過去のままがいいんだよ」
彼女は夜月のような瞳を火に包まれたものたちに向けた。
苦い香りが鼻をかすめた。
ロストタイム・オーダー 宵町いつか @itsuka6012
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます