第3話
穂野が目を覚ましたのは、見覚えのある中学校の校舎だった。視界には馴染みのある教室が広がっている。時刻は夕暮れ。放課後だ。
後ろの黒板にはA4の紙に書かれたカウントダウンカレンダーが磁石で付けられていた。卒業まであと十二日。そう書かれた紙はかわいらしい字で「卒業したくない!」とか「最高に楽しかった!」と、妙に強調して書かれていた。
中学校時代は卒業したらなにか大切なものが失われてしまう気がしていた。今までの関係とか経験とか、つながりが消え去ってしまうように思えたのだ。穂野にとって、卒業の二文字はとても残酷に映ったことを鮮明に覚えている。覚えているからこそ、違和感があった。中学卒業までのカウントダウンの日々ははっきりと覚えていたから、忘れているものなんてないと自負していたから、どうしてこの日を思い出しているのか全く分からなかった。
今は穂野には体というものが存在しない。意識だけが存在している。夢と言っても明晰夢とかそういうものではないからだ。ただの記憶の追体験。それが一人称視点ではなく三人称視点だというだけだ。
教室に誰かが入ってきた。
一人は中学時代の穂野自身。もう一人は穂野よりも少し身長の低いボブカットの少女だった。名前は河野明日実。仲の良かった子だった。彼女からはなぜかストロベリーに似た甘い香りがしていた。それを知っているのはきっとクラスで穂野だけだっただろう。
穂野はますます理解ができなかった。明日実との日々ははっきりと覚えているはずだ。忘れたことなんてないはずだった。
二人の手には濡れた雑巾があって、明日実の表情は暗かった。そう。明日実はいじめを受けていた。なぜだったかは知らなかったけれど、女子から嫌われていた。仲の良かったのはクラスで穂野くらいだった。それ以外に彼女に味方らしい味方はいなかった。
「水性かな」
「多分。いつも水性だから、そこは安心できる」
「どこに安心してんだ」
明日実のどこかずれた返答も今では懐かしい。よく、こうやって二人で悪戯書きされた机をきれいにしていた。週明けにだけ悪戯書きされて、その放課後に穂野と明日実できれいにしていた。悪戯書きなんて言っているけれど、内容は陰湿ないじめそのもので、「バカ」とか「死ね」とか、なかなかひどい言葉が先生にばれないように小さく書かれている。天板ではなく、机の裏とか引き出しの中に書いてあるものだから二人で探しながら消していたのを覚えている。
眼の前の二人が悪戯書きを探している。ああでもないこうでもないと、悴んだ手で文字をふき取っていた。
懐かしかった。
忘れていないはずだったけれど、こういう些細なことを忘れているんだなって思った。覚えているだけ、だったんだ。本当に。些細すぎて取りこぼしてしまっているものを、穂野は今、掬いだしたのかもしれない。
ゆっくりと視界が暗転していく。まるで緞帳が下りるように、少しずつ視界が暗くなる。夕日が山に隠れるように暗くなった。しかし、それも束の間で、瞬きの合間にまた教室が映し出される。また夕暮れの教室。前の黒板には金曜日と書かれていた。卒業まであと九日だった。
スリッパの軽やかな音色が聞こえて、ガラガラと扉が開かれた。入ってきたのはやはり中学時代の穂野と明日実。
「あー疲れた」
「なんで毎週委員会の会議なんてあるんだろうね」
意味なく集合させられた委員会でさえも今の穂野にとってはかけがえのない思い出だ。
しかし、おかしい。
忘れた記憶、というのは放課後に二人で悪戯書きを消すという時時間なのだろうか。この時間にそれ以上のものはないのではない。だから、これ以上この過去を思い出す必要ななんてないはずだ。もしかしたらこの実験は失敗しているのかもしれない。そんな焦りに似た思考が穂野の中にあふれる。じわりと気色の悪い感覚が思考を埋める。ないはずの足が冷たくなって浮き始めている感覚がやってきて、ないはずの心臓がその鼓動を早くさせる。
「今日も私が鍵締めるよ」
「ありがと」
中学時代の穂野がカギを持って、カチャリと手の中でもてあそぶ。明日実は心配そうにつぶやいた。
「来週は、なにも書かれてないといいな」
「そうだね。きっと、大丈夫だよ」
過去の穂野はそう言って、スクールバッグを持つ。中は空っぽだ。
「そうだよねー」
気の抜けた、保証されない未来を夢見て、明日実もスクールバッグを肩から提げた。夕暮れの中で行われる、一般的で懐かしい風景だった。だからこそ、怖かった。これ以上、何を思い出せばいいんだろうかと。
穂野の中にはもうノスタルジックなんてものはなくなっていて、ただの純粋無垢な恐怖だけがあった。
二人が教室から出ていく。穂野の意識はそこに固定されたまま、動けない。外を見たくても見られない。何もできない、何も確認できない。ただ、歯がゆさだけが残った。いや、どちらかと言えば恐怖だ。ただの恐怖。それをいろいろな言葉でごまかしているだけだった。
数分して、穂野だけ戻ってきた。
あ、そうだった。私は。
穂野の中に少しずつ記憶が戻っていく。今見ているものよりもより現実的にやってくる。現実はいつだって非情で薄情だった。それを忘れて、気持ちの良いところだけを享受していたことを、空想に現実が触れたことによって思い出す。
視界の中心で、中学時代の穂野は水性ペンを筆箱から取り出して、明日実の机に文字を書く。
それが、言い逃れのできない、現実だった。
穂野はいびつな感情を明日実に持っていた。恋愛感情ではない。ただ、なにか二人だけの感情を、秘密を分かち合いたかった。私だけを見ていてほしかった。
それが、この結果を生んだ。
自身の罪を、思い出した。これは、過去を取り戻すなんてものじゃない。そんな夢みたいなものじゃない。これはもっと、絶望に満ちたものだ。人間が持ちえた、忘却するという機能の意義を壊すものだ。
声の出せない意識のなか、必死に穂野は叫んだ、叫んで、叫んだ。
目の前には、いびつな感情を向けた過去の自分の姿があった。その表情はひどくゆがんでいた。
その表情は暗転しても、ずっと穂野の意識にひっついていた。
穂野が目を覚ますと、気色が悪いくらいきつい、苦いストロベリーのにおいが満ちていた。吐き気を催した。ごまかすために叫んだ。ひりひりとした感覚が喉を刺激する。吐いた後みたいだった。
吐きそうになって起き上がる。肩で息をして、穂野は心の中で懺悔を繰り返す。どうしようもなくなって、土下座をするみたいになって懺悔をする。
今更、自覚したところで、もうあの時間は戻らない。明日実の連絡先さえ知らないのだから、もう何もできない。
涙が伝って、地面に落ちる。その涙に自身の表情が写っているような気がして、また吐き気がやってきた。
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