第2話

 そこでは、意識だけがぽっかりと浮いていた。

 暗転した視界が開けると、そこは死んだ祖父の家だった。場所はリビング。時間は、まだ昼間だ。リビングには小学生の私がソファでちょこんと座って、興味なげに西部劇を見ていた。昼間のテレビは小学生の私にとって退屈そのもので、興味のないニュースやバラエティー番組しかしていなかったため、なし崩し的に見ていた。確か祖父も西部劇をよく見ていた。

 テレビの中で、男たちが拳銃を撃ち合っている。盛り上がりのあるシーンだった。けれど、私は頬杖をつき、欠伸をして、それを見ていた。

 キッチンのほうから、からりと軽い音がして、ガリガリと豆を挽く音が聞こえた。

 ああ、そうだ。よく、祖父はコーヒーを飲んでいた。確か、もう死んでいた祖母が好きだったから、みたいな理由で祖父も一日三杯くらい飲んでいた。今にして思えば、それは祖父の自衛行為だったのかもしれないと思う。祖母と繋がり、思い出すことのできる救済措置だったのではないかと感じる。

 そんな祖父に私は少し、いや、とても苦手意識を持っていた。祖父はどちらかと言えば昔気質の人だった。意見が違うというか、人生経験の差もあったのだろうけど、ちゃんとした年齢を積み重ねた大人みたいな、絶対的なものを感じて、あまり好きではなかった。

 私はよく祖父の家に預けられた。親が共働きで休日も居なくて面倒を見る人が居ないから、近くに住んでいる祖父の家に預けられた。

 確か祖父が死ぬ前はより、預けられた。学校終わりに行かされたり、休日に行かされたり……必要以上に行かされていた気もする。おじいちゃんももう年だから顔をいっぱい見せなさいと、お母さんが言って顔を出したのだ。けれど、私は祖父のことを怖がっていたから頻度が多くなってもあまり祖父との間に実りのある会話はなかったような気がする。無言の時間が多くて、祖父もきっと気まずい思いをしたことだろう。

 祖父がコーヒーを淹れて、私の近くに座って西部劇を一緒に見る。子どもの私がコーヒーのにおいで顔をしかめた。祖父はそれに気がついた風もなく、西部劇を見つめている。銃撃戦も終わって、今は男たちが会話をしているだけだ。子どもの私は内容を理解していないからか、大きな欠伸をした。

「結花、面白いか?」

 ぶっきらぼうに、祖父が聞いてきた。

 ああ、こんな声だったな。死んだ人間のことなんて、姿形は忘れなくとも、出来事は忘れなくとも、その声の悲しいほどの柔らかさなんて、その手の美しい温かさなんて、すぐに忘れてしまう。今だって、こんなにも温かい声だったかと思ったくらいなのだから。

「んー、ふつう、かも」

「そうか」

 祖父はまたぶっきらぼうに言って、コーヒーを啜る。今、大人になってからわかる。祖父はただ、不器用だっただけなのだと。その不器用さを理解できなかっただけなのだと。けれど、小学生の自分にそれを理解しろと強要することも、また酷なことなのはわかりきっていたことだった。子どもなんて、そういうものだったから。年を重ねるごとに、なにかを失うごとに何かを知るのだ。今みたいに。

 二人で西部劇を見る、という何の変哲のない日常。平坦で、隆起のない時間。それは確かにあって、私の知らない間に消化されていく。いつだってそれを知るのは失ってからで、時間が経ってからだった。

 わずかに心が満たされた気がして、はっと気づく。これが、私の失った、求めていた記憶なのか、と。あの琥珀色の液体から、この懐かしい温度を思い出したのか、と。

 場面が暗転して、時間が過ぎていく。季節が一巡りして、そこからまた半分の季節が進んだ。外では蝉が鳴いている。今でも覚えている、鬱屈とした暑さの籠もった夏だった。

 子どもの私はアイスを扇風機の前で齧りながら、暑さを凌いでいた。この日のことはよく覚えている。日付を見るまでもなかった。私の誕生日だ。

 いつも感じているはずだった祖父の気配はなくて、私は一人で悠々自適な時間を過ごしていた。この時期はほとんど毎日、祖父の家に行っていたから、冷蔵庫に何が入っているのかなどの家のことは大抵把握できていた。だから、私は冷凍庫に入っていたアイスを食べたのだ。祖父になんと言われるか、なんてしょうもないことを考えながら。

 なんでしょうもないかっていうと、そんな言葉はもう言う必要がなかったから。だって、その日に祖父は死んだから。死因は交通事故。信号のない横断歩道で轢かれたらしい。だから、死に顔を見られなくて……あれ? なんでいつも外に出ないのに、その日に限って祖父は外に出たんだったっけ?

 そんなことを考えていると外はいつの間にか赤くなっていた。もう夕方だった。

 ガタガタと大きな音を立てながら、お母さんが入ってきて私を引き連れていった。残されたのは、ほんの少しだけ成長した私の意識だけだった。一人で誰もいない、懐かしい部屋をわからないはずのコーヒーの香りに包まれながらじっと見つめていた。

 場面が変わって、葬儀場に私はいた。線香のにおいがはっきりとしていた。厳かで、悲しげな雰囲気の中、私だけ場違いみたいな無表情で座ってお経を聞いていた。隣でお母さんは泣いていた。葬式は思ったよりも多くの人が参列していて、内心では驚いたものだった。

葬式は問題なく終わり、プレゼントも貰えず、ケーキも食べられないまま私の誕生日は終わった。

 祖父が焼かれている最中、親族は一つの部屋に集まってお弁当を食べていた。誕生日の翌日だった。

 故人を慈しむように楽しそうに明るく、みんなで過去を振り返っていた。私はそんなことお構いなしに、流れていた西部劇を見ていた。やはり、惰性だった。けれど、私は祖父のことで懐かしむほどの記憶や思い出がなかったから、西部劇を見ることくらいしか、やることがなかった。けれど、西部劇を見ているときは西部劇を見ているという行為に集中していた。今回の場合は聞き飽きた祖父の昔話を西部劇を見る事で誤魔化していた。そのため、周囲の言葉に意識を向けていなかった。多分、今でも祖父に苦手意識が残っていたのはこういうことがあったからだろうと思う。

「――結花ちゃんのケーキ買いに行った帰りに轢かれたんでしょう?」

「らしいですね。でも、本人にはまだ……」

 喧噪の中、そんな言葉が聞こえた。

 あ。そっか。

 なんで、この言葉をちゃんと聞いていなかったのだろうか。西部劇を見ている場合ではなかった。

 祖父は私の為に、外に出た。

 ないはずの体が熱を持った。ないはずの歯が震えているような気がした。

 そんな感覚を残したまま、すっと、景色は暗転していった。

 目を開けると、私は泣いていた。歯も震えていた。

「おじいちゃん、ごめんね」

 無意識のうちにかすれた声が漏れた。

 いつだって、大人の温かさを子供が理解するのは遅い。遅刻ばっかりだ。

 茫洋としていた意識が次第にはっきりとしてきて、声の温かさが心に浸透していく。もう、おじいちゃんのことを忘れないだろう。思い出すことは怖いけれど、辛いだろうけれど、忘れてしまうほうがずっと怖く辛いのだ。

 自然と目が開いた。起き上がって、周囲を見渡す。未だに穂野は起きていないらしい。

 昼寝をした時のようなだるさと頭を締めつけるような痛みが、意識が覚醒したことを知らせている。

 私は体育座りをしてぼんやりと彼女が起きるのを待った。

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