四、私とあなたと



 失くひとよ忘れずわらとびの梅



「――ま、パパの受け売りなんだけどね」

 母が一度、お茶を啜って続きを話す。

「プロポーズの言葉なの。『マーマレイドにからさがないみたいに、酸いも甘いもほろ苦さもあるけれど、ぜったいつらい思いはさせないから、腐っても傍にいてくれませんか』って、得意げな顔してね」

 母が、恥じらいと呆れの交ざる顔をする。

「…………」

 妙な感心と可笑しさに、私は、にぃっと口角が上がった。

「へぇー。それで、そんなお父さんの作り出す独特な雰囲気に負かされて、お母さんは返事をしちゃったわけね」

「いやね、そこまで単純じゃないわ。さすがに異議は唱えたのよ。『甘いだけじゃダメなの?』ってね」

 母が得意げに言う。

 どうやら、お断りするつもりはなかったらしい。

 私は心の中で苦笑した。

「――そしたらあの人、

『甘言だけで成り立つ家庭は理想だけれど、苦言を言い合える関係こそ望ましいと思う』って――。

『甘さばかりを求めるのなら、恋愛止まりで良いわけだしね』って――。

 あの人の中では、恋愛は甘いさえあれば十分だけど、家族になるには酸いも甘いもほろ苦さも共有できる人って基準らしくて、……まぁ、そういうことよ」

 なんだか全身がむず痒くなる一方で、

「ふーん。そりゃあ、断るわけにはいかないか」

 両親の出会いを誇らしく思えた。

「なに、そのにやけ顔。今のあなたは、パパの言葉に共感するしかないくせに」

 少しばかり機嫌を損ねてそうな母の視線が、私の手元へ向いたのに気づく。

「ま、まぁ、それはそう、だけどさ……」

 私は、母から隠すように左手を撫でた。

 ニヤリと悪そうな笑みを浮かべた母。

 じぃっと見られることに気恥ずかしさを覚えた私は、右手で顔を仰いで、「ちょっと熱くなっちゃった。ベランダで涼んでこようかな!」と勢いよく立ち上がる。

「あら、来客を置いて席を離れるなんて、あなたもずいぶんマイペースなのね」

 と、そんな言葉とは裏腹に、してやったり顔の母が、美味しそうにお茶を啜る。だから私は、「お互い様だよ」と若干ムキになって言い返す。

「それもそうね」母が微笑し、「いってらっしゃい」と朗らかに見送った。

「いってきます」

 そう返して、私は、ベランダへ向かった。

 窓を開け、サンダルを履き、外を眺める。

 見渡す限り広がるのは、一軒家が立ち並ぶ住宅街。

 少し離れた位置にあるのは、特急の止まる大きくて綺麗な駅。

 ベランダから外を眺めるたびにかなしい記憶が蘇る。

 でも恨みはしない。だって、これまでの過去が、私を今に連れてきてくれたんだもの。

 高二のときにフラれて、そこからひたすら勉強に励んだ。母が、奨学金は面倒なだけだからって、お金のことは気にしなくていいと言ってくれたおかげで、実家から離れた、私の学びたかった分野のある遠方の大学へ行かせてもらった(もちろん、今は少しずつお母さんに仕送りしている)。その大学で、先日プロポーズをしてくれた彼と出会って――と言っても、お付き合いを始めたのは大学院を出てからだけど――、それなりに良い企業へ就職できて、そして今から一ヶ月後、新しい日常が始まるわけで――。

 …………。

 左手薬指に触れて、「ふぅ」と一息。

「…………」

 父がいたら、どんな反応をしていただろうなぁ、と少し考えてみる。

 きっと、私たちの前では喜んで歓迎してくれても、母の前ではいじけてそう。

 パパ、わたしには超甘かったからなあ……。

 ――なーんて想いに耽ってみたり。

「…………」

 孤独な白雲が、青空の下を飛んでいる。

 でも、もう悲しくはならない。

 どれほど大切な人と、たとえ不可思議光年離れていても、心では亡くしていないから。

 だから私は、あの白雲に向かって、とびっきりの笑顔を咲かせてみせた。


「ママーレイドは、幸せ味だね」


 とは言いつつも、父の、グレープフルーツのママーレイドは、まだまだ慣れない。

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三色ママーレイド Sinkey @sinkey

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