三、お母さんと私
トキ重ね造花の黄菊
「…………」
中二の秋に告白されて、そこから付き合い始めて、ようやくみんなと同じ場所に居られた気がした。
彼との関係は、すごくすっごく良好だった。
それはもう運命の人なんじゃないかって、口には決して出さなかったけど、きっとこの人と結婚するんだろうなって浮かれてしまうほど。
高校も彼に合わせて選択し、特に高校受験の苦労を知ることなく入学。
高校に入ってからは、ごくたまに彼の部活が休みになる休日は、少し遠出をしてみたり、長期休みで連休があるときは、彼のお家にお邪魔してお泊りしたり、平日は、彼の部活が終わる頃に自宅を出て、夜遅くまで公園でおしゃべりしたり――とにかくこの三年、彼との濃密な思い出ばかり。
というか、私の中には彼との記憶しか存在しない。
なのに、一週間前、彼から突然、「俺たち別れよう」って、たったそれだけのメッセージが届いた。
理解できずに、理由を訊ねる。
すると彼は、「いつも自分の予定だったり都合だったりに振り回してばかりで、申し訳なくなって」と、私はそんなこと微塵も気にしていなかったのに、彼は頑なにそればかりを云ってきた。
それで、
無駄に距離を置かれて話しかけづらくなるよりも、潔く(?)許容したほうが、いくらかはマシだ。
そう思った。
だけど、昨日、彼が他校のサッカー部のマネージャーと付き合い始めたらしいって、噂というか、私に聴こえるように、わざわざ私の席の近くへ寄ってきたサッカー部の生徒ふたりが、それだけを話した後、すぐに去っていった。
厭らしく口角を上げ、お気の毒になあ、だってさ。
「…………」
制服は着た。
学校へ行く支度も終えた。
天気が良いか外も見た。天気予報では一日中雲ひとつない快晴だって言っていたのに、空は、重苦しそうな鉛色の雲に覆われ、雷が折々光り鳴いている。今にも大雨が降り出しそうだった。嘘つき。
それでも学校へ行くため、歯磨きをしようと洗面所へ向かい、鏡越しの自分と対面したときだった。
彼が長髪のほうが似合っていると言ってくれて以来、ずっとずっと伸ばし続けた髪を鬱陶しく思った。
無性に、そこに映る自分の姿が惨めに見えて、有情に腹立たしくなって――、
――散髪用のはさみを取り出し、おもい切り、ざくざく、ざくざく、髪を切ってゆく。
長い髪が床に落ち、短い髪が頬に張り付く。
誤って親指を切ってしまった。暗紅色の血が指から溢れ、はさみを染めて、制服に沁み込んでいく。
それでも切って、切って、切っ
…………。
仕舞いに、切るのもバカバカしく思えてしまって、顔を上げ、声を上げ、愚かしいほど咽び泣き喚いた。
「…………っ!」
目の前には、惨く醜い女がひとり。
ようやく現実の見にくさと、私の醜さが合致したように思えた。
袖で顔を拭うと、洗面台にはさみを置いて、後片付けもせずに自室へ向かう。
今から学校なんて、行く気もしなくて。
どれくらい経っただろう。
お腹が鳴った。
敷布団がべたべたじめじめ、頬に引っつく。
肌と制服の間が蒸れる。
気持ち悪い。
けれど、体勢を変えることすら億劫なほど無気力で、じっと布に
「…………」
窓の向こうから聴こえる、叩きつける雨と、鳴き喚く雷、そして吹き叫ぶ風。
まるで非現実的な、旺盛に怒り狂った珍しい天気。
すると、ガチャ! と、玄関扉が強く開けられた。
だっだっだっ、誰かの焦燥滲む足音。
やがて、ドンドン! ドンドン! と私の部屋の扉が力強く叩かれ、仕事に行っているはずのお母さんが、私の名前をしつこく叫ぶ。
ああ、きっと学校から連絡が入ったんだ。
そんなことが頭を過ったけれど、お母さんの掛け声に応える気など当然なくて、ずっとずっと無視を続ける。すると、ばァんッ! と途轍もない破壊音が聞こえ、びくっと身体を震わし、反射的に起き上がったときにはもう――汗だくびしょ濡れのお母さんに抱きしめられていた。
ごめん、ごめん、ごめんねっ――――。
お母さんが延々と、涎を溢さんばかりにそればかりを言ってくる。お母さんが悪いわけでもないのに、なにがあったかも知らないくせに、ずっと距離感のある関係を続けていたくせに、今さら罪悪感を孕んだのか、情状酌量の余地を手にするためなのか知らないけれど、執拗に謝られても建前にしか思えない。
やさぐれた思考がお母さんを許さないし、許すわけがない。ぜったい許してやるもんか。
……でも、私の首筋にお母さんの涙が伝った。
そしたら勝手に涙が溢れてきて、お腹に溜まっていた苦しみが口から出てきて、叫喚慟哭、お母さんを抱きしめ返して泣き喚く。
お母さんに全部話した。話したら、少し気持ちが和らいだ。
お母さんも少し安堵したらしい。直接それを口に出さなかったものの、どうやら私がもっと酷いことをされたのではないか、と洗面所の無様な有様を見て憶測が飛躍し、盲目的に決めつけていたみたい。それを聴いて、薄っすらだけど自然に口角が上がった。お腹が鳴った。
お母さんの左手の腕時計を見ると、昼手前だった。
「お昼、一緒に食べよっか」
お母さんが言った。
私は、照れ臭くも二つ返事で頷いて、ひとまず散らかした洗面所を片付けに向かう。
お母さんが髪を少しばかり整えてくれた。でも元が酷かったせいで、相変わらず不細工なまんまだけど。
トーストの芳純な香りが、久しぶりに鼻腔を撫でた。
またお腹が鳴った。
お母さんが目玉焼きを焼いてくれて、コーヒーを淹れてくれて、マーガリンとふたつのママーレイドを出してくれた。「いちごジャムがよかったら買ってくるけど、どうする?」とわざとらしく訊いてきた。大丈夫、……たぶん。ほんのり笑って、ぎこちなく返す。
マーガリンをつけずに、まずは、オレンジのママーレイドをべたっとつけて、食べてみる。
「おいしい……」
大人の味だと思っていたそれは、甘いと苦いが混ざり合って――いや、甘い甘いオレンジママーレイドだった。
お母さんがご機嫌そうに、ふふんと鼻を鳴らして、「そうでしょ」とコーヒーを啜る。
次に、赤みがかったママーレイドをべたりとつけて、グレープフルーツの皮を多めに乗せて食べてみた。
「にがっ……」
大人の味だったそれは、この歳になってもまだ、甘いよりも苦いと酸っぱいが――ううん。必要以上に苦いが強めのグレープフルーツママーレイド。
「パパのを完璧に再現するのは至難の業なのよ……」
と、お母さんが苦笑して言う。
「そうなんだ。」
不安と怯えを抱えるあまり、無関心そうな返答をしてしまった。
私は一旦、トーストをお皿に置いて、お母さんを見た。
「……あ、あの、中学生のとき……、――――」
たまに魔が差して、グレープフルーツのママーレイドを捨てていたことを謝ろうと、それを言いかけたときだった。
「――あたしのはパパのより全然おいしくないもん。仕方ないよ」
お母さんが、くしゃっとぎこちなく笑みを浮かべた。
こんな機会を利用して謝ろうなんて、少しずるい気もしたけれど、お母さんのおかげで私の心から怯えが去ってくれた。
「…………」
改めて、二色のママーレイドが塗られたトーストに目をやった。
いたく浸ったママーレイド。
おもいきり煮詰めすぎたママーレイド。
ようやく食べられるようになったママーレイド。
やっと、パパとの約束が叶うんだ。
だけど――、
「遅かった……んぐっ、遅すぎたな……っ」
ぽちゃん、とコーヒーを薄めてしまった。なのに、コーヒーの苦みは増してゆく。
「この二色のマーマレイドってね、パパとママの大切な想い出なの」
お母さんが、二色のママーレイドを作るようになった経緯を話してくれた。聴いたら、全身がむずむず痒くなるだけのロウマンチックで、結局、あまあま甘ったるいだけのラヴラヴな想い出だったから、詳細は割愛するけれど、端的に、割っても割り切れない巨大な巨大な『愛』のお話だった。甘すぎたものだから、コーヒーで甘ったるさを抑えた。
「ちょっと待ってて」と、お母さんが立ち上がり、お母さんの部屋のほうへ行ってしまった。しばらくして、目をほのかに赤く染めたお母さんが、薄黄色の可愛らしい封筒を持ってきて、はい、と私に渡してくれた。
渡された封筒を見てみると、封筒の端の方に『――へ』と、パパ特有のかわいい丸文字で私の名前が書いてある。
びっしりのりの付いた封を開けてみる。
入っていたのは、ひとつ前の古いお札が二枚と、それと、一通の手紙……?
二つ折りになったその手紙を広げて見る。そこには、パパの丸文字と、お母さんのかわいいポップ調のイラスト。
「――――」
描かれていたのは、レモンを使ったママーレイドのレシピだった。
「パパがね、あなたが、いつマーマレイドを好きになってもいいようにって、あなたがお腹にいたときから準備していたんだから。『苦いと甘いがあるんだったら、
「パパ……」
胸がぼぉっと熱くなる。
また涙が出てきそうで、でも、泣いちゃダメな気がして、どうにか口角を上げお母さんを見た。
「パパって、灰汁が超強いんだね」
思いっきり、
「でも、マーマレイドを作るときの灰汁取りは超上手かったのよ」
お母さんも
それから私の知らないパパの話を、お母さんは沢山たくさん話してくれた。
その後、さっそくレモンのママーレイドを作ってみることになった。
お母さんと何年かぶりにスーパーへ行って、手紙に書かれた材料を買って(手紙と同封されていた旧札は大事に大事に取っておく)、パパのレシピ通りに作ってみる。
意外とあっさりできた。
おかあさんと一緒に、トーストにべったぁあああり塗って、あむっと頬張った。
「…………」
「…………」
ふたり同時に口を窄める。
「すっぱ……。失敗だね……」
酸いも甘いも――いや断然すっぱくて、口がぎゅうって、しぼしぼになった。
いきなりすべてを使うには、このすっぱさは無理があるので、トーストの余白には、オレンジとグレープフルーツのママーレイドを一杯いっぱい塗りたくり、しばらく眺める。
赤に橙、それと黄色。
「…………」
心が灼けるように熱かった。
きっとママーレイドの食べ過ぎで、胸やけしているせいだ。
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