二、おかあさん と わたし



 たけはる取り残された雲浮きて



 今日も逃げる。

「じゃあねー」とか、「はやく部活行こうぜー」とか、生憎、わたしはそういうものに興味がないもので、担任教師の話が終わると、一番乗りに教室を出る。

 静かで薄暗い昇降口。

 上の階からは、みんなの明るい声が聴こえる。

 正直、うるさい。

 なんて、身勝手な不快感を孕ませながら、靴箱の前に立ち、上靴を脱いで、学校指定のスニーカーを取り出した――そのときだった。


「『――』さん!」


 今日もまた、彼がわたしの苗字を、わざわざ階段から叫ぶように呼んで、わたしをその場に引き留める。

 だんっだんっだんっ!

 一段飛ばしで階段を駆け下りる騒がしい音がしたかと思えば、次の瞬間には、はぁはぁ、と小さく呼吸を乱す、てれてれ笑顔の彼が姿を見せた。

 褐色の肌に、髪を流した癖っ毛、か細い腕で、いつも巨大な水筒を持っている彼。

「えっと、あの。――また明日……!」

 情けない笑顔で、彼はそれだけを言い放った。

 そんな彼を見ているとこっちまで恥ずかしくなってきて、わたしは彼に一礼すると、颯爽と校舎を出た。

 不躾な対応かもしれないけれど、これでいい。

 顔馴染みなどおらず、愛着なんて微塵も湧かない中学に入学してから、季節は虚ろに移ろい、やがて葉の燃ゆる様相が映ろうとしている今日。このときまで、彼とのやり取りを(登校日は)毎日やっているわけだから、一礼返せば充分なのだ――などと、靴箱で芽生えた罪悪感を掻き消すために、心の中で意気地のない言い訳をする。

 ずらりと自転車の並ぶ、がらんと空疎なのに敷き詰められた駐輪場。やっぱりここでも一番乗りだ。

 なんの彩もない銀色で簡素な造形のママチャリ、それがわたしの通学自転車。

 赤色ラインのヘルメットを被り、自転車のロックを開錠、それを押しながら校門を出て、急な坂道を、ブレーキをちょっとずつ掛けながら下りてゆく。

 坂道を下りると、すぐに現れる県道をしばらく走行。

 十分、自転車漕いで、急行が停まる私鉄の駅の、すぐ近くにあるおんぼろアパートに到着。

 その隅の、汚れだらけの屋根の付いた狭い駐輪場に自転車を置き、冷たい匂いのするコンクリート階段を上っていくと、目の前に寂しく冷たい金属の扉が現れる。

 わたしは、防犯警備の薄い鍵穴に鍵を差し込んで、扉を開けた。

「――ぅ……っ」

 もわっと籠った家の臭いに息を止め、自室へ直行。荷物を置き、それからシャワーを浴びて、部屋着を纏う。

 濡れた髪をほったらかしにキッチンとも言えぬ剥き出しキッチンへ向かって、小さな冷蔵庫を覗いたら――。

「…………」

 今日の晩ご飯も、もやし多めで豚ひき肉少なめの塩焼きそばだ。最近は、電子レンジで温める、そんな単純な作業ですら面倒臭く感じるようになって、麺が冷たいままの、具材や油が固まったままのそれを無理やり口へ詰め込んだ。

 その後、ささっと食器を洗い終えると、ベランダの洗濯物を取り込み、自分の衣類だけを取って部屋の無作為な場所に、ぽいと投げ置く。

 それから洗濯機を回し、下着以外を狭いベランダに、下着をおかあさんの部屋に干す。

 そんな一連の流れを機械的に終えたら、部屋に籠って、ある程度、時間が過ぎたら布団に入る。


 毎日毎日、その繰り返し。


 でも、この日は、たまたま目が覚めて、トイレへ行こうと部屋を出ると、甘ったるい匂いが鼻腔を突き刺した。

 剥き出しキッチンとくっついた、リビングに明かりが灯っていた。

 リビングへつながるドアの縦長のガラス窓からそちらをそっと窺うと、仕事帰りのおかあさんが、消費期限切れ二日目の食パンを食べながら、ひっそりとママーレイドを作っている姿が映った。

「…………っ」

 それを見つけたわたしは、本来の目的を忘れて、ばんッ! と、おかあさんに聴こえるよう、わざと力強く部屋の扉を閉めた。そして布団に飛び込み、身体を丸め、心にまで布を覆って、ぎゅうっと目を瞑った――。



 ――朝。おかあさんは、すでに家を出ている。

 朝食は食べない。要らない。欲しくない。

 しかし、わたしは冷蔵庫の扉を開けて、その中を覗き込む。

「ちっ……」

 あるものを見つけて、舌を打つ。

 まるでわたしに隠すように、冷蔵庫の奥に佇む、おかあさんが夜中に作っていたふたつのジャム瓶。

 そのふたつのうちの、赤色寄りのオレンジ色のジャムの入った瓶を手に取り、蓋を開けて、瓶口を下に向けると、シンクに向かって勢いよく振り落とす。

 ぼたぼたぼたっ、べちゃべちゃべちゃっ。

 汚く下品に零れ落ちていくジャム。

 全部出しきったら瓶を入念に洗って、グレープフルーツの皮がたくさん入った、シンクのゴミ受けネットを取り、――ぼとむ! とゴミ袋へと落とす。

「――――」

 口角が、自ずと薄っすら捻くれ上がった。

 最低な行為だって自覚はあるけれど、バカみたく過去に取り残されているおかあさんよりはマシだ――と精一杯に言い聞かせ、思い込む。

 アパートを出ると、空には薄くらい浮雲ひとつ。

 遠くのほうでは、羊雲の群れ。

 念のため合羽を取りに戻って、学校へ出発。

 放課後、さよならの挨拶をくれる彼から告白されるなんて、このときはまだ知らない。

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