あの子の隣に私が居ないことを、誰か嘘だと言ってくれ

音愛トオル

あの子の隣に、私が居ないことを誰か嘘だと言ってくれ

 記憶の底から上る、遠い残響――あの日々の。

 今でもなお、心を震わせる声が優しく聞こえてくる。


「――ちゃん!もし、もしね、また会ったらその時は」


 約束は、思い出の中に溶けて消ゆ。

 夢過ぎて、春に俯くひとしずく。神林漣歌かんばやしれんかの全てを包む声は、なお鮮やかな色のまま響いている。



※※※



 離れてから初めて気が付く気持ちというものがあった。漣歌はそれを、「初恋」と呼んだ。あの辞書が、その文学が、この歌がなんと言おうと、漣歌にとっての恋は「三枝乃音さえぐさののんの隣に居たい」というこの気持ちだ。

 もはやそれがほとんど叶うことがない恋だという点から努めて目を背けながら、漣歌はこの初恋を未だ胸に抱えている。およそ6年前、小学校を転校してから今、高校の入学式を迎えたこの日まで。


「先生が、ホームルームまで30分くらいあるから待機だって」


 入学式早々、学級委員長のようにてきぱきとクラスメイトたちに指示を出している生徒に感心しながら、漣歌は自分の席に腰かけた。馴染みのない机に、つやつやのスクールバッグ。その中に入った、ボロボロの筆記用具入れ。

 お守りのようにそれをしばらく眺めてから、漣歌は周囲を見回した。


「私も、お話した方がいいんだろうけど」


 つい、探してしまうシルエットはそこには存在しない。

 三枝乃音――漣歌の初恋で、小学校を転校して離れ離れになってしまった彼女が、偶然同じクラスにいるなんて。天文には詳しくないが、今こそ「天文学的確率」とやらを使ってみたくなる漣歌だった。


「でも……この学校ならもしかして、なんてね」


 高校に入学するタイミングで再び引っ越すことが決まっていた漣歌が選んだこの高校は、もちろん偏差値や将来を考えて、という本音交じりの建前もあった。だがもう一つ、ある理由も関わっている。

 ここは、漣歌が通っていたあの小学校を卒業した児童たちのほとんどが進学するであろう中学校――そこの生徒も相当数選択する進路らしいのだ。もっとも、これは後から知った情報ではあるけれど。


「――まあ、もう、過ぎたことだよ」


 漣歌は立ち上がって3つほど隣の席で盛り上がっているグループに挨拶に行こうとしたが、その袖をくい、とつままれて反射的に振り返る。3月までいた地域にある母校からこの高校まで来るのは中々骨だろうから、知り合いではないだろうけれど。

 振り返るまでの間に何パターンかの可能性を検討してみたが、結局そこに居たのは見知らぬクラスメイトだった。


「あ、あの……!」


 その子は穏やかそうな童顔と、アシンメトリーに分けた前髪が印象的なボブカットが素敵な子だった。「か」で一番前の席の右隣ということは、「あ」行の誰かだ。


「お、おはよう!」

「……お、おはよう?」


 その子はおはようと共に、手のひらの側を見せるピースを向けてきた。ぷるぷると震える指先と朱が指した頬。それとはアンバランスなフレンドリーさだと、漣歌には思えた。

 とりあえずひらひらと手を振っておはようを返すと、なぜかその子はどこか悲しそうに眉を下げる。


「えと……市井いちいことはさん、だよね」

「れ――う、うん。神林漣歌さん、であってるよね」

「そうだね」

「ご、ごめんね?なんか変なテンションになっちゃってた」

「あはは、大丈夫大丈夫。それより、話しかけてくれてありがとね。私、嬉しかった」

「――!そ、そっか。良かった。あの、なんて呼べばいいかな」


 その子、市井ことはの第一印象はへんてこなピースになった。

 漣歌はピースちゃん改めことはにどう返そうか逡巡した後、


『神林ちゃん』


「……漣歌、でいいよ。市井さんは?何か、呼んで欲しい呼び方とかある?」

「えっ、と……わたしも、ことは、で大丈夫だよ。よろしくね、れんかちゃん」

「そっか。うん、よろしく!ことは」


 口角を緩め、困ったような照れ笑いをする。


――ことはの笑みに、漣歌は妙に胸騒ぎを覚えた。


 それは一瞬のことで、担任が教室に入ってきたことで露と消えてしまった。



 どうせクラス替えをしても自己紹介をするのに、1年生のこの自己紹介は余計に緊張してしまうな、と考えながら前日に練ってきた無難な挨拶を済ませる。その後はこれといったイベントもなく、あっという間に漣歌の高校生活初日は幕を下ろした。

 さすがに初日ということもあって、連れ立って帰る者よりもぱらぱらと教室を後にする方が多かった。漣歌もその一人である。

 正確には、


「こ、ことは。一緒に帰らない?」

「あっ――ご、ごめんね。中学の友達が……」


 と、いうわけだ。


「まあ、仕方ないよね。友達にはなれそうだし、明日から頑張れば」


 明日に向かうために、漣歌はまず校門を目指したが、入学式ということもあって写真を撮る生徒や家族を待つ生徒などでごった返していた。掻き分けて進めば問題なく通れるだろうが、気分ではない。

 もらったばかりの校内マップには裏門も明記されている。ちょっとした探検にもなるか、と漣歌は正門から踵を返し、裏門へと向かった。

 裏門は駐輪場に近い関係で自転車通学の生徒が多いかと思われたが、そもそもHRが終わって一目散に帰宅している生徒が少ないのか、人影はまばらだ。これ幸い、と門を目指して歩く漣歌を、ふいに春風が撫でていった。


「結構強い……」


 頭のてっぺんでお団子を作っている漣歌は形が崩れないようにお団子を押さえる。そのまま数歩進んだ所で、風に躍る柔らかなポニーテールが視界に飛び込んできた。

 裏門から外に出て、じっと誰かを待っているような生徒が、そこにいる。


 顔を見て、すぐに分かった――


「……のんちゃん」

「う、うん――って、もしかして……神林、ちゃん?」


 目をまん丸にして驚いている、ああ、高校生になっても昔の面影が、ちゃんとそこにある。

 ないと否定した天文学的な運命が、ここにあった。


「久し、ぶりだね」


 漣歌の初恋、三枝乃音がそこに居た。



※※※



 それからたった数分の間に、漣歌の世界は幾度も停止した。



※※※



 どうしよう、それが漣歌の胸中の最も多くの部分を占めた言葉だった。こんなことならもっと可愛いメイクをしてくれば良かった、風で髪が崩れてしまっていないか、服は乱れてないか。

 どうやって、話せばいいだろうか。


「ほんと、すごい久しぶりだね!」

「う、うん……えと、また、こっちに引っ越してきて。それで」

「そうなんだ!へえ……なんか、嬉しいね」


 乃音とは小学1年生から引っ越すまで、ずっと同じクラスだった。漣歌の小学生時代で恐らく一番長くともに時間を過ごした相手。それが乃音だ。

 親密な時間を過ごすうちに、それが友情から恋慕へと変わっていったのだと、転校してから気が付いた。


「そ、そうだね!あの、のんちゃんは」


 まるで運命がそうしろ、今こそその時だと言っているみたいだ。

 漣歌は早鐘を打つ心臓に胸を痛めながら、乾く舌をなんとか動かして、滲む汗を見て見ぬふりをして、声を絞り出した。


「このあと、予定とか」


 そんな漣歌の努力は、しかし、あっけなく打ち破られた。


「お待たせ、乃音」

「あ、。ううん、全然待ってないよ」

「――あ」


 漣歌は知っている。少なくとも、漣歌の中の乃音は、どんなに親しい友人であっても、いつも苗字で呼んでいた。

 6年間でそれが変わったか、でなければ――この、夏歩なつほという女の子は。


「……乃音、この子は?」

「あ、えっと、この子は神林ちゃん。小学校の時よく遊んでた子で、高校で再会したの」

「――こ、こんにちは」

「そっか。こんにちは。神林さん」

「それじゃあ、またね。神林ちゃん!久しぶりに話せて良かったよ」

「う、うん。わ――私、も……」


 漣歌は知らない。夏歩は乃音とどういう関係なのか。

 そして、漣歌は知らなかった。乃音はここで、夏歩を待っていたのだ、ということを。


「……あ」


 それから、漣歌は見てしまった。

 遠ざかっていく2人が、曲がり角を折れるその直前に、のを。


「あ、あは……そっか。そう、だよね」


 乃音に会って、嬉しくて、息が詰まった。

 夏歩が来て、舞い上がっていた自分が現実に言葉を失った。

 そして、2人の関係を見て――あの、絡まった指の意味はたぶん――漣歌は初恋が終わったのだと、知った。


 知って、漣歌は。


「だめ。いかないで」


――あの子の隣に。


「おいていかないで」


――私が居ないことを。


「ずっとあいたかったのに」


――誰か嘘だと。


「いたいた!おーい、れんかちゃん!」

「……!あっ、やばっ、顔」


 背後から聞こえてきた自分を呼ぶ声に、漣歌は咄嗟に袖で涙を(ああ、泣いてたんだ私)拭って、笑顔を張り付けて振り返った。

 我ながらかなり無理のある顔だと、漣歌は思った。


「ふぅ、追いついた、良かったぁ」

「えっと、ことは?どうしてここが分かったの。私、裏門に――裏門に行くって、言ってないよね?」

「ううん、違うの。わたし、やっぱりれんかちゃんと帰りたくて。中学の皆を断って急いで後を追ってたから。ちょうど、裏門の方に行くのが見えて」

「――そう、だったんだ」


 自分がどんな表情をしているのか、もはや鏡を見たとしても分からないだろう、と漣歌は苦笑した。失恋してまた泣いてしまいそうなのに、ことはの気持ちが嬉しくて力が抜けそうで。

 ことはは漣歌の沈黙をどう思ったか、気遣わしげに小首を傾げる。


「そうだ、あのね、れんかちゃん。言おうと思ってたんだけど」

「な、なに?」

「そのお団子、すっごい可愛いね!」

「あっ――ありがとう、ことは」


 乃音が褒めてくれたから。

 でも乃音はもう、遠くへ行ってしまった。


「にゅ、入学式だったから。明日からは、降ろしちゃうかも」

「そっかぁ。こんなに可愛いのに明日から見れないのかぁ。残念」

「……そ、そんなにかな」

「そうだよ!わたし、れんかちゃんのその髪型すごい好きもん!」

「――だった?」

「あ、いや、それは言葉の綾で……」


 初対面にしては少し距離が近いような気もすることはとの会話は、しかしどうしてか漣歌は嫌ではなかった。長年の想い人を失って世界の感覚を忘れてしまいそうになっていた漣歌にとって、人との触れ合いは少なからぬ慰めになった。

 それでもやはり、心に刺さった傷はじくじくと痛んで、まっすぐに泣きたい気持ちも消えてはくれなくて。曖昧さを抱えたまま2人での帰路についた漣歌は、徐々に足先が駅から遠のいていくのに気が付いた。


「あれ?ことは、こっち駅じゃないけど」

「まあまあ。ついてきてよ」


 失恋――への現実感がどこか薄いまま、ことはについて来た漣歌は、果たして、


「なんで、カラオケ?」


 カラオケ店にやって来ていた。

 2人にしては少し広い部屋を案内された漣歌たちは、ドリンクバーでそれぞれの飲み物を選んでから部屋へ向かう。画面に流れる派手な広告の音を下げたことはは、困惑する漣歌を座らせてからその質問に答えた。


「れんかちゃん、すごく辛そうな表情をしてたから。高校で知り合って1日も経ってないけど、式の後とは全然違って見えたから。何か、力になりたくて――わたしで良かったら、話、聞くよ?」

「――ことは」


 一瞬、一緒に帰ったのもことはに気を遣わせたからかと思ったが、ことはを誘った時はまだ失恋する前。裏門で会った時の漣歌が、よほど痛ましい表情だったのだろう。

 漣歌は一人でどうにかするつもりだったはずなのに、この優しい友人の言葉につい、声が漏れてしまった。


「さっき、ね。裏門で。偶然だったの」


 語りだしは断片的で、具体性を帯びない。

 それでもことは真剣に耳を傾けてくれた。


「小学校の時好きだった子が居て。転校で分かれた時、私、初恋なんだって気づいて。それで、やっと会えた。高校になって、思ってもみない形で。だから、今だっ、て思って。勇気を出して、遊びに誘おうと、思ったのに」


 嗚咽交じりの声に、途中から少し、広告の声が被った。


「その子ね――恋人が、居たんだ」

「……そっか。それは、つら――かったね」


 漣歌は対面に座っていたことはが、回り込んで隣に腰かけ、肩をさすってくれたのが嬉しかった。知り合ってすぐにこんなに重い会話をしても、気まずそうな色一つも見せずに寄り添ってくれることはの優しさが温かかった。

 だから、今、ここで、言わなければと。


 声に出して、終わらせないと。


「私、私――失恋、しちゃった」

「――っ。れんかちゃん」

「ずっと、大好きだったのに。私が、あの子の、のんちゃんの隣に居たかった……でも、最初から叶わないって分かってた。偶然がなかったら会えもしなかったから。だから、半分諦めてたのに。諦めるのと、失恋するのとは――えへへ、ちょっと、痛いね、これは」


 言ってから、漣歌は自分の恋の相手が女の子だと告げてしまったと気づいたが、ことはただただ、肩をさすり続けてくれた。控えめに、指先だけで。

 漣歌は膝に額を乗せ、スカートにシミが出来るくらい、泣いた。


 広告の声にかき消されて、ことはにさえ漣歌の叫びが届くことはなかった。


 

「ことは。今日は、その――」

「大丈夫だよ。れんかちゃん。誰にも言わないし、わたしかられんかちゃんにも何か言ったりしないから」

「……うん。ありがとう」

「また気分転換したくなったら、いつでも呼んで。いつでも飛んでいくから!」


 泣き疲れた漣歌はお金がもったいないから、と無理して歌おうとしたが声がかすれて出ないことに気づき、2人は歌わずにカラオケ店を後にした。別れ際、手を腰に当てて自信満々にそう宣言することはに少し元気をもらって、漣歌はホームにやって来た電車に乗り込む。

 扉が閉まる直前、その向こうで手を振ることはが何かを言っているようだったが、出発の案内にかき消されて聞こえなかった。


「――ちゃん、またね!」

「うん、こと……は」


 漣歌は自分の口から出かかった呼び名の正体をまだ、思い出せない。



※※※



 夢を見た。

 乃音と別れてから何度も見たことがある夢だ。


 記憶の底から上る、遠い残響――あの日々の。

 今でもなお、心を震わせる声が優しく聞こえてくる。


!もし、もしね、また会ったらその時は」


 約束は、思い出の中に溶けて消ゆ。

 夢過ぎて、春に俯くひとしずく。漣歌の全てを包む声は、なお鮮やかな色のまま響いている。そう、今でもずっと響いている。


?でも、でも、わたし」

「ううん、きっと会えるよ。だからね、その時は――ピースしよう!普通のだと分からないから、、約束ね!」


 その残響を漂う漣歌の意識は、全力で、ある姿を映した記憶へと泳いでいった。



※※※



 どうして、忘れていたんだろう。

 登下校の班が同じの、仲良しのことちゃん。あの頃は髪が長くて、私もそれに憧れて伸ばし始めたのだ。

 学校ではクラスが違うからほとんど話さなかったけど、学区が一緒で。

 6年という月日は記憶を風化させ、大切だったはずの思い出は「初恋」の影に隠れてしまっていたのだ。

 偶然は、2つあった。

 乃音と出会って――そして、ことちゃんとも、再会していたんだ。


「ことちゃん」


 私は夢の中で、名前を呼んだ。

 初恋よりも前から大好きだった仲良しの女の子の名前を。



※※※



 ことはに先を越されたら言い出しづらいと思ったから、漣歌はそのクラスで一番早く登校した。ことはがどれくらい早く来るか分からない以上は、それが手っ取り早いと考えたのだ。

 乃音への想いは、「初恋」も「失恋」も経験がないことで、半ば諦めていたとはいえかなり引きずっている。ことはが居なければ学校を休むことだってあったかも知れない。


「よし。言うぞ……」

「――何を?」

「どぅわっ!?こ、ことち――ことは」

「……?おはよう、れんかちゃん」


 体感時間5分、されど実は30分が経過していた。ことはがいつ来てもおかしくない時間だったのに漣歌はようやく心の準備が出来た所で、調子はずれの声を上げてしまった。

 どう言い訳しようかと思案したが、ええいままよと漣歌は立ち上がった。


「れ、れんかちゃん――」

。おはよう。私、思い出したよ」

「――!……それ」


 漣歌はことはの座席の前に立って、ことはにだけ見えるように、控えめにを見せた。そう、昨日、ことはが漣歌に見せたのと同じ。

 あの震えは、確かに緊張だったが、漣歌が覚えているか分からなかったからだったのだろう。


「ことちゃん、昔と雰囲気すごい変わったし。実を言うと私、ちゃんと名前覚えてなくて。だって私にとってはことちゃんだったから……」

「れんちゃん。ううん、仕方ないよね。れんちゃんは昔と同じ髪型だったし、顔も声もそんなに変わってなくて。だからわたしはすぐ気づいたけど――それより。約束、覚えててくれたのが、嬉しい」


 ことはは漣歌の逆手のピースに、順手のピースを重ねた。

 熱を孕んだ指先はほどけ、手と手が繋がる。


「ずっと居てくれたんだね。私の隣に」

「もちろん。会えてうれしいよ、れんちゃん」


――春に俯くひとしずく。


 尚忘れじと、心交わさん。


「これからもよろしくね、ことちゃん」


 漣歌にとって恋とは、「隣に居たいと思うこと」であり続けた。だからこそ、初恋は失恋する前には既に諦めがついていた。

 では、離れ、再び出会ってもなお隣合うこの関係は……?


 自分の気持ちに漣歌が答えを出すのは、少し先のことであった。

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