第8章  謝肉祭(ブラッディ・カーニバル)


         Act.3


 女が笑っている。

 金銀、宝石、真珠を散りばめた、揺らめく緋色の衣を纏うその女は、無知と貪欲と憎悪の溢れ返った虹色のワイングラスを傾けながら、淫靡な笑みを湛え、凌辱と腐敗に塗れた手袋で覆われた掌を口に当て、巨大な龍の上に鎮座しながら、尊大な表情で微笑みを浮かべている。


 ――あらあら、みんな楽しそう。今日は楽しい謝肉祭カーニバル――


 夜の大都市の、冒涜の光に彩れたその女は、欲望と嫉妬と腐敗に塗れた真っ赤なワインをその手にしたグラス一杯に満たして、下卑たルージュを分厚く塗った、

その唇の合間に注ぎ込む。


 ――素敵なゲストもご招待。どうぞみなさん、存分に――


 どぎつい化粧の「神」が笑う。

 さもさも嬉しそうに、楽しげに。

 ヒトの不幸は蜜の味。さあさあ私を楽しませてよと。


 虚空の彼方で女が笑う。淫靡で厭らしい微笑みを刻みながら。



 その「怪物」は、崩れた北側隔壁に穿たわれた巨大な大穴から、押し出される様に隊員達の向けたライトの光軸の中へと現れ出た。

 光線に照らされた部分だけでも3メートル以上はあるだろうか。

 その姿は粘液に塗れてぬめぬめと光り輝き、蠢動するその背にはナメクジ特有の2本の縦縞が走り、頭部に相当する場所には、生皮を剥がれた目のない人面のレリーフ、そんな化け物が尺取虫さながらに全身を収縮しながら昏き穴の向こう側から這い出して来る。

 生臭い瘴気が周囲に立ち込め、その地獄絵の様な有様に誰もが固唾を呑んだ。


 ――全身に蛆を走らせ、醜く変貌した姿を晒したイザナミ――


「なるほど、趣味の悪い造形だ」

 ナイフを咥えたまま、羯磨が呟く。

「こんな姿のものを生み出すまでに『ヒト』は堕落し切っているのか」

 ライトに照らされた巨大な化け物は、産道に見立てたであろう渋谷川に続く隧道から身を捩らせて、貯水区画へと滑り降りた。

 バッシャーン、と凄まじい量の水飛沫が上がり、「それ」はまるで母親から産み落とされた赤子の如く、貯水区画の揺らぐ水溜まりの中で、鼓動する心臓の様な、不気味な蠢動を繰り返している。

 全長20メートル以上はありそうな、のっぺらぼうの、手足のない、狂った姿の人面ナメクジ。汚泥と泥水に塗れたそいつは、突然鎌首を持ち上げると、閉じられていた口腔とその内側に生えた数万本の「歯」を露わにして、不気味な産声を張り上げた。


 きゅー、きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー、きゅー。


 「射撃開始!」

 大迫の号令と同時に、4丁のショットガンが火を噴いた。

 続いて、短機関銃の一斉射撃。暗い貯蔵タンク内に火線が走り、銃声が鳴り響く。忌まわしき巨大な肉塊の赤子は醜い口蓋を開き、呪われた産声を散らしながら身を捩る。その体躯の重い一撃に、前方のショットガンナー2名が吹っ飛ばされ、コンクリートの壁に叩き付けられて沈黙した。

「射撃継続、そのまま撃ち続けろ!」

 銃声が轟く。火線が走り、数名の隊員がḾP5の弾丸を打ち尽くし、弾倉交換を行う。銃弾を浴びた再び怪物が身を捻ると、右側にいた3人が押し潰れて水溜まりに沈む。赤子が癇癪を起したような、怪物の咆哮が地下神殿内部に響き、気の狂いそうな時間が経過する。

「全員を下がらせろ」

 羯磨はルガー・ミョルニルの照準を、忌まわしき生き物の頭部に定めた。

「どん」という、大砲の様な銃声が貯水エリアに響き、一撃で化け物の頭半分が吹き飛んだ。周囲に肉片が飛び散り、びしゃぴしゃ音を立てながら水溜まりに落下する。

「凄い」

 大迫が声を漏らした。数百発に及ぶ9ミリ軍用弾をも苦にせず大暴れをしていた、あの「忌まわしき赤子」が、たった一発で沈黙してしまったのだ。

「撃ち方やめ!」

 大迫の号令と共に、隊員達は発砲を中止した。

 全員の視線は羯磨の方に注目している。その目は驚愕と畏怖に満ちていた。これが戦後から、この街で化け物狩りをしていたなのかと。

「羯磨さん、さすがです」

 大迫隊長が近寄って言葉を掛けた。

「いや、おかしい。手応えがなさすぎる」

 羯磨の口調は険しい。彼のはそれを拾っている。

 目の前に現れ出た巨大な肉の赤子は、たった今その頭部を吹き飛ばして息絶えた。しかし、あたりに漂う「食欲」の気配はほとんど失せていない。これはどういう事なのか?

「隊長、あれを!」

 短機関銃を構えた隊員の1人が声を上げた。動きを止めた怪物の死骸がぶるぶると痙攣している。生命反応は感じられない為、死後の硬直反応の様なものなのだろう。

 問題は、そこではなかった。

 吹き飛ばされた化け物の頭頂の残骸から、直径2メートル程のキチン質らしき外殻に覆われた箱の様なものがせり出してきたのである。

 1個、2個、3個……。

 呆然としている掃討部隊の前でそれらは、ばしゃん、ばしゃんと水飛沫を立てて、水面へと落下する。怪物の体内から放出された奇怪な物体は都合12個。それはどこかで見た様な形状をしていた。

「隊長、あれ……」

 1人の隊員が、震えた声で呟いた。

「あれ、ゴキブリのに似てませんか……?」

 はっとした羯磨は、水面に覗く物体に対して脳波を当てる。

 その中に蠢く、無数の生命反応。次の瞬間、12個の卵鞘に罅割れが生じた。

 やがて、そのひとつが更に大きく割れ、その裂け目から黄褐色の液体と共に50センチ前後の悍ましき肉玉がでろでろと溢れ出す。


 きゅー、きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー、きゅー!


 悪夢のような産声を上げて、背中に2本の縦縞を持つそれらは、卵鞘から水面に落ちると、驚く様な速度で水面をはしった。

「しまった、全員下がれ……!こいつら卵胎生だ……!」

 羯磨が叫んだ。


 卵胎生とは、動物の雌親が、卵を胎内で孵化させて子を産む繁殖形態である。

ニクバエ科のハエは、交尾後、数十粒の受精卵を卵管の膨張した部分で保護し、卵の中の幼虫が成長して孵化寸前になってから動物の死体などに産卵を行う。ところが孵化寸前の卵を腹に宿した雌親が死に瀕すると、子孫を生かそうと胎内の卵鞘を一気に生み出す事があるという。


「わああっ……!」

「何だこいつら……!」

 慌てた隊員らが機関銃を発射するが、水面を泳ぐ無数の小型ナメクジには当たらない。化け物らはあっという間に数人の隊員の脛や太腿の部分に取り付いて、戦闘服の上からその肉を齧り始めた。

「うわっ」

「がっ」

 慌てた隊員達が銃を投げ捨て両手で蟲を振り解こうとするが、ナメクジの顎はがっちりと肉に食い込み外れない。大迫が腰のホルスターから拳銃を引き抜いて、部下の足に喰い付いた化け物を、真横から次々撃ち貫いて行く。

 しかし、続々と卵鞘から溢れ出す化け物達は、誘導ミサイルの様に泥水を掻き分けながら、獲物目掛けて捕食行動を開始する。羯磨の元にも、数本の死の航跡が走った。まるで精密機械だ。

 ミョルニルの狙いを定める。閃光の勢いで7連射。

 水面を揺らして肉塊が7つ浮かんだが、更にすぐ後から無数の蟲達が水飛沫を散らしながら迫って来る。

 チッと舌打ちしながら、羯磨はマガジンを抜き替えた。

 魔銃ミョルニルは、東京全土の住人のが凝縮されている。

 その威力はでも撃ち抜くが、唯一の欠点は僅か8発の装弾数だ。残弾は予備弾倉40発だが、罅割れた卵鞘から溢れる化け物は100匹以上。しかも卵鞘はあと11個もあるのだ。あれが全部孵化してしまったら、とても手に負えるものではない。


――この悪霊に憑かれていた者は墓場に住み、裸で歩き回って昼も夜も関係なく大声で叫び、自分の体を切り付ける行為を行い、鎖や足枷で拘束しても容易く千切ってしまう怪力を有していた。

イエスがこの者に取り憑いた者の名を尋ねると彼は「レギオン」と答えた。その名の通り、男には二千人の悪霊が憑いていた――


 さっきのデカブツ形態はおとりかと、羯磨はほぞを噛んだ。

「レギオン」とは、そういう事だったのだと。

「大迫隊長、ここでは分が悪すぎる。撤退だ」

 暗闇の中でライトの光と、悲鳴と銃声が交差する。ルガーを連射して数匹の魔物を撃ち抜きながら、羯磨は大迫に怒鳴った。

「あんたでも駄目か!」

「平野に散らばる蟻に、大砲を向けても効果は薄い」

「なるほど」

 その刹那、水面を薙いで襲い掛かるナメクジらに機関銃向けていた隊員の1人がパニックに陥り、「先に卵だ、卵を破壊するんだ!」と悲鳴を上げた。

 その声に釣られ、数人の隊員がの残りの卵鞘目掛けてḾP5を乱射する。

「しまった」

 羯磨が呟く。あっという間にすべての卵鞘が着弾で亀裂が生じ、外殻が砕け中身の漿液もろとも、千単位に及ぶナメクジの幼生が溢れ出た。

 そいつらはぐねぐねと煽動しながら振り過ぎたコーラの泡さながらに膨張すると、絡み合うひと塊の巨大な肉の山と化し、大津波の如くこちらへ押し寄せる。ショットガンナーが立て続けにスラグ弾を撃ち込んだが、表層の数十匹が飛び散っただけで、数人の隊員が、あっという間に蟲塊スクワームへと呑み込まれた。

 がりがりがり、ぎゅあぁぁぁ。

 咀嚼音と悲鳴が、闇の中で響き渡る。

 羯磨が蟲の山に向ってミョルニルの引き金を引く。閃光が走り、球状になっていた蟲の群体が隊員の肉片ともども飛び散ったが、壁や水面に弾き飛ばされたナメクジ共は、再び身を捩りながら絡み合って、悍ましく蠢く群体を形成し始める。

 駄目だ、切りがない。まるで巨大なゼリーの塊だ。

「後退しろ、撤退だ……!」

 大迫が叫んだ。既に部隊の人数は半数を切っている。

「隊長、部下達を先に階段へ。ここは私が食い止める。手榴弾を使用する」

 羯磨は腰のベルトから2個のMK3A2攻撃型手榴弾を握ると安全ピンを外し「フラッグアウト!(投擲の合図)」と叫び、津波の様に盛り上がる蟲塊へと投げ付けた。

 爆発音。

 高性能火薬TNTの燃焼による熱波と衝撃波が、肉塊を爆炎に包み込む。

 攻撃型手榴弾とは、味方への損害が懸念されるときに使用する手榴弾で、破片の発生が少なく、ほぼ爆発の圧力のみで敵を殺傷もしくは制圧する仕様になっている。

 ただ、手榴弾の使用は爆発の閃光を浴びる。羯磨にとっては諸刃の刃だ。

 それでも燃え上がる炎と水中からの激しい衝撃波で、ナメクジのはその場から動きを止めた。

「こいつらには魔力より、爆発が効くか」

 羯磨はもう2個の手榴弾の安全ピンを抜いて対角線上に投げ付ける。

「フラッグアウト!」

 更なる爆音が響き、ナメクジの肉片が飛び散った。

「後退、早く地下2階のフロアに戻れ!」

 指揮官の怒号に、生き残りの全員が、この呪われた地下神殿から脱出しようと、水飛沫を上げながら必死に走った。

 

 最初に螺旋階段へと辿り着いた隊員が、上から滴る粘液に気が付いて頭上を仰いぎ、悲鳴を張り上げた。

 水溜まりを掻き分けた大迫がライトで照らし出したのは、地下2階へと続く、高さ15メートルの螺旋階段いっぱいにへばり付いている、無数のだ。

 慌てた大迫が銃口を向けた刹那、数百に及ぶ化け物が、頭上から降り注ぐ。

 悲鳴に気付いた羯磨が振り向くと、掃討隊の全員が、化物に覆い尽くされた「肉の柱」と化していた。

 脳波を遥か頭上の天井へと向ける。そこには無数の気配が満ちていた。

 卵鞘から孵化した幼生ナメクジの一部は、彼らが戦闘に気を取られている隙に、天井を這い回って先回りを行い、階段部を既に制圧していたのだ。


 ――されどロトの妻、後ろを振り返りて、塩の柱と化した――


 統率の取れた軍隊レギオン。この化け物らはその通りであった。

 眼前の肉柱は、彼の目の前でみるみる縮み細まり、まるで塩の柱が崩れるかの様に朽ちて行く。その猛烈な食欲は移動中の軍隊アリを連想させる。

 そこに残されたものは、粘液に塗れた隊員らの骨や戦闘服やヘルメット。


 大淫婦の悍ましき羊水に満ちた地下神殿の内部は、恐怖と絶望に包まれる。

羯磨は残った手榴弾のピンを抜いて、前方のへと投擲した。


 祭壇前で九天玄女咒を唱えていた黄淑華の身体が、突然びくんと震える。

その口から大量の血が噴き出した。両手の印が緩み、老婆の小さな身体は車椅子から祭壇の前にのめり崩れ、吐瀉物に塗れながら床に倒れ込んだ。

(ち、旦那があぷねぇ、でももうダメだわ、身体が……)

 彼方から嘲笑う声が響く。あの女が、と虚空から笑っている。

 競り負けた。もはや淑華には指一本動かす力もない。

 床に横たわり、大量の血を吐き出しながらも、かつて黒姨と恐れられた大陸の巫女は、第三の目で宙を睨みながら、心の中で呟いた。

(ふざけるなこのクソアマ、あんたの魂胆はわかってる。ケイトが間にあたしと旦那を片付けて、もう一度この街を焼きたいってんだろ?そうして人が死んだり慌てふためくのを、高みから眺めて楽しみたいんだろ?)

 虚空から「うふふ」と笑い声。

(馬鹿タレのゲス女、サードアイ・黄淑華を舐めるなよ……)

 しかし、彼女の額の輝きは少しずつ勢いを失い、呼吸が停止する。

 黒姨・黄淑華は、人知れぬ浅草の地下の暗闇の中で、波乱に満ちたその人生の終焉を迎えた。


 女が笑っている。

 新宿副都心の光り輝く環状列石の遥か高みから、さもさも嬉しげに。


 雨水貯槽施設地下2階。

 羯磨は通路全体を覆い尽くす数百匹の食肉の群れを、手当たり次第に引き裂きながら、地上への階段を昇っていた。

 手榴弾は地下神殿からの脱出時に使い果たし、ルガーの予備弾倉も既に撃ち尽くしている。羯磨はルーンの文字が刻まれたあの皮剥ぎナイフを取り出し、通路全体を埋め尽くすレギオンの幼生らを切り刻み、思考を巡らす。

 彼自身の中に、心の緩みがあった事を。

 闇に覆われた閉鎖空間は一見、羯磨の土俵に思えるが、実は彼から機動力と素早さを奪ってしまう。東京のをその銃身に凝縮させるルガー・ミョルニルの装弾数は僅か8発。あの様な無数の小物を屠るには不向きなものなのだ。

 そして1対1の状況であれば、こんな化け物ナメクジなど、戦闘力に於いて羯磨にはまるで及ばない。だからこそは、閉鎖空間を用いた数の暴力というを彼に与えたのだと。

 手口を研究し尽くされている。どんな強力な魔物が現れても打ち倒せる自信があった。あの父親を葬ったという「ヴルーウへジン」が東京に現れたとしても。

 口元に微かな笑いが浮かぶ。なかなかいい感触だ。

 ヒトはこういう時にも「笑える」のだ。羨ましいとさえ思った。

 この地下神殿は、羯磨の能力を計算し尽くした、大淫婦の罠であった。

 だが彼は逆に、この命を懸けた瞬間に悦楽すら感じていた。

 これは「永劫」ではないと。

 羯磨はたった今、初めて自身の「生」を感じていた。

 あの前世紀の戦士の様な強大な存在でなくとも、この様な些細な存在の化物であっても「その在り様」によっては、自分を死へ追いやる事が可能なのだと。

(面白いと言うのは、こういう感情なのか……)

 左肩の肉は抉られ、腱が千切れて既に使い物にならない。脇腹や足の脛からは骨の一部が露出して、凄まじい量の鮮血が滴っている。地下2階を確保していた筈の隊員達は、すでにしゃぶり尽くされた白骨だ。あちこちに死の臭いが充満している。

 それでも羯磨の顔には、自然と笑いが浮かんだ。

 そして、自身がひと皮剥けた感覚にも包まれていた。内側の自信と欲望はミルニョルに蓄積される。満身創痍の外観とは裏腹に、羯磨は自分がひとまわり強力になった存在へ昇華した事を自覚している。

(皮肉だ、皮肉過ぎる……。なぜヒトはその目で災厄や悲惨さを見ないと、自身の立ち位置を理解出来ないのかが……)

 かつての質問に、淑華やケイトが口籠った理由。

 肩口や足元に齧り付くレギオンの子らを、羯磨は右手1本でやいばを振るい、活路を切り開く。


 壁に、床に、天井に、びっしり蠢く2本の黒い縞模様。

 バキン、と金属の折れる音がして、ナイフが根元から折れた。

 ルーンの魔力を使い果たしたのだ。群がり蠢く肌色の塊を、羯磨は片手で握り、潰し、千切り、或いは噛み付き、引き裂きながら地上を目指す。

 地下1階に向かう階段へと辿り着くが、そこにもまた蠢く粘液の群れ。

(笑い方が、上手になった)

 陽太が顔をほころばしてはしゃぐ様を思い浮かべながら、羯磨は粘液と体液に塗れた右手を構え、肉食の群れへと掴み掛かった。


 化け物達の攻撃を躱し、漸くドアまで辿り着く。

 よくはわからないが「肩で息をする」とは、こういう状態を意味するのではないかと考える。左手は肩から先に「意思の疎通」がない。両足や脇腹も「賛同」してくれる組織が僅かでしかない。傷口から生命を司る液体が、どんどん抜けているのがわかる。この空気感はあの時に似ていた。

 80余年前に経験した、東京大空襲の夜だ。あの時は行方がわからなくなった母親の姿を追って、炎に包まれた東京の街を駆け抜けた。

 それでもここまでの手傷を負った事は、かつてなかった。

 あの醜い化け物の群れ、も、まだこの階層までは辿り着いてない。

 一刻も早く、この渋谷の地下で起きている事態を新見らに報告しないとまずい。暗渠となっている渋谷川から東京中の河川へあの卵鞘が流れ出たら、目も当てられない大惨事だ。幸いな事にあの怪物らは、対処さえわかればヒトの手でも駆逐は難しそうではない。ふらつく足に力を込めて防火扉のノブを回す。管理制御室に入った瞬間、羯磨はその違和感に気が付いた。

 ここには地下貯水施設の管理モニターを監視していた職員と捜査官が詰めていた筈である。だがここに生命の反応は全くない。彼の脳裏の立体図に描かれたのは、椅子に掛けたまま絶命している2つの死体と、床に転がる管理官らしき死体。

 流石の羯磨も驚愕した。

 よろけながらも手近の椅子に近づいて、絶命している作業員の走査スキャンを始める。

 喉元が一撃で切り裂かれていた。

(これは……!?)

 拳銃を握り締めたまま床に倒れている捜査官も同じ手口である。

 はっとした羯磨は施設管理棟の外へ飛び出した。

 そこは、電源車の稼働によって昼間の様に明るかったが、周辺の事態は地下神殿に潜る前と完全に一変していた。

 街の光が死んでいる。そして。

 生命反応がひとつも存在しない。脳内の探知機能が作動して三次元図を描き出す。

 回転灯の回っている6台のパトカーと機動装甲車PV‐2。稼働を続ける電源車とガソリン式の発電機の音。煌々と光り輝くサーチライト。ロータリー中央に設営された、無線その他の機材が置かれた作戦本部。

 だが、そこに生者の反応は全く感じられない。

 地上警備に就いていただろう結界都市管理官らと、20名のSITの機動隊員達は全員、地べたに横たわり、冷たくなっている。血と激痛で鈍化してはいるが、彼の肌が空気に漂うチリチリした粒子を感じ取る。

 銃器の発砲跡、硝煙反応である。

 今夜、ここに置かれた作戦本部を何者かが襲撃したのだ。

(まさか!)

 羯磨は慌てて近くに横たわった捜査官の走査をする。

 新見だった。SIG・P226拳銃を握り締めたまま、一撃で喉を掻き切られていた。その近くでM360Jリボルバーを握った別の捜査官は、頭蓋を一撃で叩き割られている。

 探査角度を360度に広げる。この場所にいた筈の誰もが、頭蓋を潰され、喉を掻き切られ、内臓を抉られている。生存者なし。

 いや、1人だけいる。

 そいつは奥側のPV‐2の屋根の上に腰掛けて、右手にボールのような丸いものを弾ませながら、楽しそうな笑みを浮かべていた。

「こんばんわ、シャドウ。久しぶりね」

 機動装甲車の上からにこやかに笑い掛けたのは、スタジャンにベースボールキャップを被った少女である。

 平林美悠。

「なになに?せっかく会えたってのに、いい男が台無しじゃんか?」

 逆光線気味の光の中で、あどけない顔が笑う。

「やはりそうか……」

「あ、流石にもうバレてる?」

 美悠の両眼が怪しく輝いた。

「先日はこっちからデートに行こうって思ったのに、あの婆あに邪魔されちゃってさあ、オホーツクの水、結構冷たかったよ」

 サーチライトの光に照らされながら、美悠=野狗子はふわりと宙に舞い、茶色の髪を靡かせながら、音もなく羯磨の目の前に着地した。

「あとさあ、こいつあんまり美味くなかった。前のヤツのがマシ」

 嫌味のない笑みとともに、美悠の手にしていたボールが転がされた。ごろごろごろと重たい音を立てながら、球体は羯磨の足元で止まる。

 サーチライトの光に照らされて、羯磨の足元に転がったもの。それは引き千切られた隅野陽太の首。

「あ、胴体の方は車の中にあるよ。不味かったからさあ」

 にっこり笑った少女はキャップを投げ捨て、その茶色の前髪をたくし上げた。

その額には、直径約1センチ程の銃創跡が残っている。

「これ、幾ら跡が治んないだよね。責任取って貰うから」

 美少女の顔は、秒で獣面へと変化を遂げた。

「貴様」

 羯磨は右の拳を振り上げたが、化け物は笑いながらそのパンチを躱す。

勢いで前にのめったところを背後から蹴られ転倒する。だが、その瞬間上着の背を鷲掴みにされ、凄まじい力で近くのパトカーのドアへと叩き付けられた。

 叩き付けられたパトカーのドアやボンネットが激しくへこみ、赤色灯やガラスが砕け散る。羯磨は力なく地面へとへたり込んだ。

「なんだ、つまんない。あたしのおデコに穴開けた時の勢いはどこ行ったのよ?」

「いつから入れ替わっていた?」

「あんたがあたしのデコに穴開けた、あの日だよ」

 右手の鉤爪をペロリと舐めながら、野狗子は呟いた。

「こいつの美悠は、彼女面しながら、あの日はバイトとか誤魔化して男漁りに夢中で、新大久保辺りをほっつき歩いてたみたいだぜ。あたしはぶち抜かれたを治すんで贅沢いってらんなくて、たまたま歩いてたこいつを喰ったのさ。そんでもあんたがすぐ追っ掛けて来たらまずいと、暫くそいつの彼女になりすまして部屋に入り浸ってたんだ。そしたらまあ、笑える笑える。てのは怖いもんだね」

 粉砕されたパトカーに凭れながら、羯磨も覚えたての「笑み」を漏らした。

「ああ、てのは怖いもんだ」

 傍らに転がる陽太の亡骸を横目で見ながら、瀕死の魔人は目を伏せた。

「私があの時、お前を仕留めそこなっていなかったら、も死なずに済んだという事になるな」

「そういう事だね」

 げげげと、裂けた唇から下品な笑いが洩れた。

「ちょっと痛んでるとこ気になるけど、まあいいや。あんたなんだって?そんなの齧るの初めてだけど、どんな味がするんだろね?」

 さっきの一撃で肩の骨が外れたらしい。もはや銃を握る事すら叶わないが、既に弾丸は1発もない。左足も奇妙な方向へと曲がっている。戦うどころか、逃げる事すら叶わぬ状態だ。長い舌先で鉤爪の先を舐める大陸の化け物は、そんな羯磨の姿を見て、ここぞとばかりに大笑いをした。

「あれえ?ひょっとしてあたし、あんたの心臓食べちゃったら、もっと凄いものになれるんじゃない?」

「好きにしろ」

 本音だった。

 地上に戻って来た時点て、もう羯磨には殆ど力が残っていなかった。

 ともかく新見達に事態を報告するだけの体力を維持しながらレギオンの囲みを突破して来たのである。もう、こんな大物を相手にするだけの力など、どこにもない。羯磨は傍らに転がっている陽太の首を見ながら、小さく「すまんな」と呟き、意識を閉じた。


 野狗子が凄まじい悲鳴を上げたのは、その時だった。

「な、何だこりゃ!」

 はっと顔を上げ、前方を走査した羯磨が脳裏に描いたもの。

 それは背後から、あの化物ナメクジ「レギオン」に襲われている美悠の姿であった。化け物は羯磨をいたぶるのに夢中で、うっかり「管理棟」に背中を向けていたのだ。


 きゅー、きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー、きゅー。


 あの赤子が癇癪を起した様な、耳障りな叫び声。

「うわ畜生、なんだこいつら!」

 背中に齧り付くナメクジを引き剥がし、鉤爪で切り刻み、叩き潰す。

 だが、美悠=野狗子の振り向いたその後ろには、山津波を連想させる数百匹のレギオンが押し寄せている。

「なんだ貴様ら、このザコ群体が……っ」

 野狗子は牙を剥き、髪を振り乱し鉤爪を薙いで十数匹の怪物を引き裂き、刻み、その足で踏み潰す。

 だがその姿は、軍隊アリの群れに襲われた獲物を連想させた。

 一匹のレギオンが太腿に齧り付いた。悲鳴を上げながらそいつを刻む。その肩に三匹のナメクジがへばり付く。引き剥がす。その部分の肉が抉れて血が噴き出す。また取り付かれる。肌色の肉塊は、背後の管理棟の扉いっぱいに溢れ出し、はあはあと息が上がった野狗子に焦燥の色が滲み出る。

「おい、シャドウ、こいつら何だ!?」

というものは、怖いものだろう?」

 滴る血の臭いに勢い付いた軟体の軍団は、野狗子目掛けてどろりと押し寄せる。

 ナメクジの群れに右手が埋め尽くされた。悲鳴を上げて振り払おうとする野狗子の背後から、更にせり上がった粘液の群体が、捕食する粘菌の如く覆い被さる。

「シ、シャド……、助け……」


 しゃりしゃりしゃり、

 きゅー、きゅー、きゅー、


 羯磨の目前で、蟲塊から突き出た野狗子の左手が、ずるずるとその中へと呑まれて行く。


 しゃりしゃりしゃり……、

 しゅりしゃりしゃりしゃり、しゃりしゃりしゃり……。


 耳障りな咀嚼音が鼓膜を震わせる。ナメクジの口の構造は、その口腔内に数万本の「歯」が存在し、それを用いて文字通り、やすりの様に食物の表面を削り消化する。あの大陸から来た妖魔は、いま全身の肉という肉をナメクジらに削られているのだ。


「あああああああああああああああああああああ……!」

 

 断末魔の悲鳴。

 野狗子の左手はだらんと垂れ下がり、やがてそれも、蠢動する肉塊の中へと呑まれて行った。


 野狗子の最期を看取りながら、羯磨は心の中で呟いた。

(こいつらは相手が人間だろうが妖魔だろうが関係なく喰らうのか。まさしく、この都市の新しいにふさわしい存在だ)

 どうせ自分も逃げられない。古いものは淘汰されて行く。

 そしてそこには「新しき神」が顕れる。いま、この大都市は、まさしくを迎えようとしているのだ。

 だが、現れた「神」の、この忌まわしき姿は、いかようなものなのかとも。

「父母の仇は、遠い夢と潰えたか」

 化け物を喰らい尽くした数匹のナメクジが、血の臭いを嗅ぎ付けて、羯磨の方へと振り向いた。あの耳障りな鳴き声が、周囲に響く。


 きゅー、きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー、きゅー。きゅー。


 爆発音と共に、紅蓮の炎が巻き上がった。

 燃焼温度が4000℃以上になるという、AN-M14/TH3焼夷手榴弾の爆発だ。

 高熱に身を縮ませる羯磨の目の前で、鉄骨すら溶かすサーメートの火炎が、悍ましき肉塊の群れを瞬時に焼き尽くす。


 ――あらゆる不浄を焼き尽くすという、不動明王の浄化の炎――


 ああ、それは、そういう意味か。そういう炎でもあるのか。


 燃え上がる炎の中から駆け寄って来たのは、ケイト・アンダーソンと橘。

「しっかりしろ旦那、天使様のお出迎えだぜ!」

 炎の洗礼を逃れたナメクジらに向って、ガバメントḾ1911を片手撃ちしながら、橘が羯磨に肩を貸す。ケイトはベレッタを乱射しながら。レギオンの子らが溢れ出て来る管理棟目掛けて、再び焼夷弾を投げた。

 爆音と業火。数千度の高熱に恐れをなした化け物どもは、耳障りなあの音を立てながら、建物の中へと後退して行く。

「ねえちゃん、旦那が深手だ、手を貸してくれ!」

 おまけだとばかりにケイトは管理棟目掛けて、手持ちのTH3手榴弾を纏めて投げ込む。そして中指を立てると橘の方へと駆け寄り、羯磨の左肩を支え表情を変えた。

「大丈夫…!?こんなひどい怪我、どうすればいいの……!?」

 ケイトの声は震えていた。こんな有様の羯磨を見たのは初めてだった。

「取り合えず救急病院…か?」

「医者が腰を抜かす。どこか、光の無い場所へ……」

 2人に抱えられ、足を引き摺りながら羯磨はケイトに尋ねた。

「どうして……こんなに早く?」

「どこかの真っ暗な場所にいたら『1発位の鉛玉で、いつまでも寝てるなっ』って、淑華さんが……」

「そうか」

「隅野くんは?」

 羯磨は頭を振った。ケイトが下唇を噛み締める。

 三度燃え上がった炎が、管理棟全体を炎に包み込む。その炎が壊れたパトカーから漏れたガソリンに引火して、更に爆発を引き起こした。

「旦那の身体によくねぇ。とっとと離脱するぞ」

「化け物らは、まだ地下の施設に満杯だ」

「怪獣は自衛隊にでも任せとけ。オレ達は退散だ」

 少し先の道路に、エンジンが掛かったままのハンヴィーが止まっている。

 橘が運転席に飛び乗りハンヴィーを発進させる。ケイトは後部座席に全身創痍の羯磨を横たえて傍らの救急箱を開いた。

「さて、急ぐぜねえちゃん。オレは定年したら女房と温泉巡りするんだ。旦那を死なせるワケにゃいかねえ」

 出血がひどい。両肩は外れ、左足は折れ曲がり、肩や脇腹の一部は肉が削げて骨や臓器がちらりと覗いている。こんなキットじゃ気休めにしかならない。車が揺れる都度、羯磨は喘ぎ、サングラスの下のケイトの顔が歪む。

 また大きな爆発が起きた。翌日のニューストップは「渋谷駅周辺の老朽ガス管爆発、警戒中の警官らが巻き込まれて死亡」が確実だろう。

「なあ旦那、よく考えたら真っ暗な場所って、どこなんだよ!」

 アクセルを全開にしながら橘が叫ぶが、返事が返って来ない。ふと見れば羯磨の目は閉じられていた。揺れる車内で止血帯を当てていたケイトが、左手で顔を覆いながら泣き叫ぶ。

「ねえ、、死なないで!」

 冷徹な天使の声が震えている。

「こんなクソ汚れた街の中に、私だけ残して行かないで!」

「マジかよ!勘弁しろ!」

 サングラスの下から大粒の涙を零すケイトの右手を、羯磨は握り返した。


「大丈夫だ。まだこうして



 国道246号を疾走するハンヴィーを見送りながら、夜の灯に照らされて、都市のど真ん中に鎮座し、始終を見届けたは、不義と腐敗と冒涜に満ちた赤ワインを飲み干しながら、さも楽し気に微笑んだ。


 ――ああ、楽しかったな謝肉祭カーニバル他人ひとの苦労は蜜の味。他人ひとの不幸は蜜の味。今度の開催、いつにしよう?――


 遥かなる都市の高みから下界を見下ろし、あのが笑っている。


                                   (了)




                   




 

 


 







 

 


 



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シャドウ/東京結界都市 籠三蔵 @wolf2024

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