第8章 謝肉祭(ブラッディ・カーニバル)
Act.2
東京・台東区入谷。首都高速入谷インターチェンジ。
午後8時25分。
インターのETCのゲートが開き、ベントレーは並走車の少ない首都高速上野線を疾走し始めていた。
「隅野くん、申し訳なかった。こういった事態は初めてなのだ」
ベントレーの後部座席で、腕を組んだ羯磨は、ハンドルを握る陽太に向って声を掛けた。その傍らにはこれまで見た事のない様な重装備、愛銃・ルガーミョルニルの5本の予備弾倉と、6個の攻撃型手榴弾が差し込まれたベルトが転がっている。
「ものものしいっすね。何かあったんスか、ボス?」
「ケイトが死んだ」
「ええっ?」
思わずバックミラーを見返す。羯磨の表情は微動だにもしていない。
「慌てなくてもいい。彼女はそのうち還って来る。問題はタイミングだ。いま深刻な事態が渋谷の地下で起こっている。『レギオン』。黙示録ではアバドンとも記され、奈落の鍵の管理者、千年の間サタンを地下に閉じ込めていたと言われる地獄の牢番。そいつが現れた様子だ。何を意味するかわかるだろう?」
陽太は息を呑んだ。
「それって、黄泉の大穴の?」
「ほぼ同義語だ。今のこの都市の住人は、よほど隣人らの事が嫌いの様で、呆れ果てた5番目の天使がラッパを吹いたらしい。私はこれからそのバグを叩きに行かなければならない。不安材料はケイトがレギオンの正体を私に報告する前に『バビロン』に邪魔されたという事だ。何かの仕掛けがあるかも知れない。それに備えた」
「ボス、前にも言ってた、その『バビロンの大淫婦』って何なんですか?」
「恐らく東京結界の存在を知った、今のきみなら見る事が出来るだろう。運転に支障のない程度に、上空を見てみるといい」
陽太は言われた通りに目玉だけを動かして、ビルとビルの合間から覗く夜空を見上げた。すると。
そこにはちらりとではあったが、夜空一面に厭らしく笑う、毒々しい化粧を施した女の顔が。
「ひぅっ……!」
陽太は思わず視線を逸らした。
「視えたか。『バビロンの大淫婦』とは、現在の東京結界そのものの姿だ。金輪の真上に据えられた白山明神・菊理媛神が、いまこの街に住まう住人の集団深層無意識に影響を受けて、変質した『意識集合体』だ。もはやあれは『神』であって『神』ではない。今の東京という街は、そのようなものへと変貌しつつある」
「えっ?」
「シェルドレイクの学説を思い出してみるといい。この土地の下に眠る黄泉津大神の様な『創造神』と呼ばれる存在は恐らく別の場所にいる。普段我々が認識している『神』とは、聖所に貯蓄されていた先祖からの賜りもの、自分たちの子や孫、子孫が次の世代を生き抜けるようにと込められた先祖らの祈りの固まった思念体、つまり『充電されていた善意』だ。私やサードアイがこの街に来たばかりの頃、彼女は焼け爛れた姿ではあったが、その内面は純真無垢な処女のような存在だった……」
「……」
「きみは気が付いているか。私もサードアイもケイトも、全員素性が他国にあるという事を。なぜ彼女は我々を必要としたのか。それは大戦に敗れたこの国の神祇である彼女が、再び元の姿を取り戻す為に、外威というものをもっと学ぼうとしたからだ。我々はある意味、彼女に引き寄せられた存在だ……」
「それが……」
陽太は先ほど見た、天空を覆う様な、美しいが底意地の悪い魔女の様な顔を思い浮かべた。
「我々から他国を学んだ彼女は、戦後のこの国の豊穣と繁栄に力を注ぎ、焼け野原となった街は復興した。住民らは『アメリカ式』の思考を取り込んで、この国は豊かさの頂点を極め、敗戦国だった日本は先進国に肩を並べてその繁栄を取り戻した。だが、この都市には国の中枢が存在している。繁栄の美酒に酔い痴れた住民らは傲り昂りながら、女神のグラスに次々と酒を注ぎ続けたのだ。結果、彼女もその美酒に酔い過ぎたとでも言うべきだろう。ちょうど社会に出たばかりの若者が、仕事を覚えながらも同時に酒や遊びも覚えて週末の享楽に耽るうち、その身を持ち崩して没落する例えが最もしっくり来る……」
「ボス、ひょっとしてまさか、あの意地悪そうな女って、今のオレらの意識の反映って事ですか……?」
羯磨は返事をしなかった。
「あの後、きみの方は、何事もなかったろうか」
「あ、いや……マジで大後悔の真っ只中なんですが……」
ベントレーは江戸橋ジャンクションから汐留を通り抜け、浜崎橋の合流から芝公園方面へと向かう。右手側にオレンジの色彩を帯びた東京タワーの遺影が覗く。その夜景と重なる様に、再び嘲笑う女の顔が見えたのは気のせいなのだろうか。
渋谷周辺は、羯磨らの所属している組織が事前に流した偽の情報によって出口が閉鎖されている。陽太は天現寺出口方面に出ようと車線を変えた。
「あの……、お願いがあるんですけど、オレ、またここで働かせて貰えないスかね?」
「ほう?」
ハンドルを握りながら陽太は答えた。
「ホラ、何て言うんですか……。オレがこんなんなって、部屋から出れなくなってたら、あの婆ちゃんわざわざ迎えに来てくれたじゃないですか。あんなボロボロなのに……。そういう面倒、視えるようになっちゃった前のバイトの方にもしてあげてたんでしょ?その人見捨てる事が出来なかったんでしょ?」
「それが、どうかしたのか」
「優しいじゃないですか。ヒトの世界はボスより、オレのが経験豊富です。たった今、ボスが言ってたみたいに、普通の人間の職場って、純粋だった姫神さんが捻くれてああなるみたいに冷たいもんばかりなんですよ。そんなの沢山見てきました」
羯磨は腕を組んだまま黙っている。
「ボス達は『ヒト』じゃないのに、何で、そんな優しいかなって……」
芝公園出口を通過、一ノ橋ジャンクションを左折して、2人の乗ったベントレーは目黒線へと入る。
「銀座線の中で聞きました。食われちゃったんですよね、その人。中国から渡って来た大物だって婆ちゃん言ってましたが、ボスもケイトさんも責任感じちゃって、その化け物の跡を必死に追い掛けていたって……」
対向車線のライトの光が羯磨の横顔を照らす。陽太はそのまま喋り続けた。
「でも、その人もきっと、ボスやケイトさんや婆ちゃんの事、好きだったんだって、今は思うんですオレ。そんな責任感じないでくれって思ってるかなって」
「どうしてそう思える?」
「この何日間生きた心地がしなかったけど、今日、オフィスまで婆ちゃんが一緒だったら、あいつらビビッて近寄れなくて、すげえなって。そしたら何か、もうどうせそんななら、ボス達にくっついてて、その日まで精一杯生きた方がいいんじゃないかって思い始めて。きっと、前の人もそうだったんだろうなって。それにホラ、婆ちゃん御札くれるし追っ払ってくれるから、あいつらにそれほどびくつかなくても済みますし……」
そう言いながら陽太は懐から、不可思議な数枚の道教符を取り出した。
「そうか」
羯磨はゆっくりと頷いた。
「きっとケイトが喜ぶと思う」
束の間の沈黙。
無言ではあったが、ヒトと人外の間で、何かが通じ合った瞬間。
(伝播共鳴って、こういうのもあるのか。まんざら悪くもねえや)
陽太の口から思わず軽口が飛び出した。
「そういえばボス、あの婆ちゃん、昔は美人で結構なグラマーだったんですね」
陽太はミラーを振り返り、羯磨の表情を見て、思わず声を上げた。
「ボス、笑ってます!笑えてますよ……!」
引き攣り気味のきごちないものだったが、羯磨の唇は笑みの形を刻んでいる。
「そうか」
ベントレーは天現寺出口を降りると、そのまま夜の明治通りを直進し、渋谷方面へと向かう。恵比寿駅入口の交差点を過ぎた辺りで赤色灯を回転させた4台のパトカー、そして2台の常駐警備車が道路封鎖のバリケードを敷いていた。
闇に包まれた部屋。
その隅にある3つの祭壇。浅草地下街の一角にある羯磨らのオフィス。
置かれた燭台の先に点る小さな炎に照らされながら、車椅子に座ってサードアイを輝かせる黒姨・黄淑華は「ヘッ」と笑い声を漏らした。その第三の目に映るのは、明治通りの検問を無事に通り抜けたベントレーの俯瞰図である。
「……何だよ兄ちゃん、あたしの魅力にようやく気が付いたのか……?」
意識が遠のき気味だ。全身の組織は軋み、呼吸をする為に肺を膨らませるのさえ苦行に感じる。ガタの来ている肉体に無理強いをして、再び星幽体アストラル投射を行ったせいである。弱っていた陽太の前では強がりを見せてはいたが、浅草の事務所の羯磨へ無事に身柄を引き渡した後、老婆は崩れる様に車椅子へとへたり込んだ。
「やれやれ、皆で寄ってたかって年寄りをこき使いおって。少しは休ませろ」
ところが、脳裏に浮かぶベントレーの索敵画像に、少しずつノイズの様なものが走り始めた。そこに混じって浮かび上がるのは、けばけばしい化粧を施した、意地の悪い笑みを浮かべる女の顔である。
むっと声を上げた淑華は身を起こし、手印を組み上げた。
「姫さん、今度はあんたか。すっかりあたしらは袂を分かっちまったね」
そのまま呼吸を整え、九天玄女咒を唱え始める。
「爐香作熱,透上九天,氤氲瑞氣繞前。奉請高真虔,普度良緣,消孽治心田。皈命,九天玄女無極元君……」
祈りと哄笑が、闇の帳の中で、見えない火花を散らした。
(ふん、旦那やケイトの運命を貧乏くじ方面に引っ張ろうてんだろ。あんたの魂胆は見え見えさ。そう簡単に硫黄の火を降らせやしないさ。見ておいで)
東京・渋谷区。渋谷東口バスロータリー。
午後9時45分。
駅周辺を含めた半径1キロ以内は避難指示が出されており、普段は大勢の人間の往来でごった返す渋谷駅前ロータリーは、ひっそりと静まり返っている。そこに停車しているのは強力な投光器を装備した2台のトラック、6台のパトカーと4台の特殊警備車両PV‐2。各車両のリヤゲートが開き、統率の取れた動きで、防弾ベストに防弾ヘルメット、HK・ḾP5J短機関銃、完全武装のSIT別班隊員20名と、Kel-Tec KSGショットガンを装備した4名の隊員らが次々と駆け下りた。
総員24名の精鋭が、夜のバスロータリー前に整列する。
現場には機材が置かれた大型のテントが設営され、作戦本部が置かれていた。
「大迫さん、お久しぶりです」
新見は掃討部隊を指揮する大迫隊長に声を掛けた。あのA水門の水龍掃討の件でも部隊の指揮を取っていた、自衛隊レンジャー部隊上がりのベテランである。
「今日、橘さんはどうされました?」
マスクを下げた大迫が不審な表情で捜査官を見た。
「所轄が結界管理絡みの事案で何かやらかしたそうで、そちら方面の揉み消しに奔走しているそうです。なんでも、
「そうか、あの方が来てくれるか」
大迫の顔に安堵が過る。
彼は以前にもこういった掃討戦を行った経験があった。その時はタイからのインバウンド観光客に憑依していたらしい「ビー」と呼ばれる女吸血鬼であったが、新宿御苑に標的を追い込んでの戦闘で、130発余の9ミリ弾を浴びせ、3人の犠牲者を出し漸く化け物を鎮圧したという苦い経験を持っている。
怪物相手に人間の常識は通用しなかった。以来、大型獣用のスラグ弾を装填したショットガンナーを部隊に配備させてはいたが、A水門の巨大な龍を僅か1発で仕留めたその道の
「大迫隊長。作戦の指揮は今回私に委任されています。簡単に説明をすれば、準備が整い次第、掃討隊は渋谷ヒカリエ内の地下広場から地下25メートルの位置にある『雨水貯留施設』に巣くうと思われる『バグ』の掃討を行って下さい。本部指示では出来れば『検体』も持ち帰って欲しいとの指示は受けていますが、これは危険を伴うモノでもあり、無視しても構いません」
渋谷東口雨水貯留施設とは、昨今の気候変動や大型台風の上陸に連動する水害対策の為に、東京オリンピック開催予定だった2020年より稼働し始めた、渋谷駅東口広場の地下約25メートルの地下に広がる南北約45メートル・東西約22メートルの大規模構造物である。約4000立方メートルの雨水を一時的に貯水する事が可能で、1時間あたり50ミリを超える強い雨が降った場合に取水を開始、大水が回復した後にポンプで既設下水道幹線へ排水する仕組みで、貯水タンク内に数十本の柱が屹立するその景観の荘厳さがギリシャ風の神殿を連想させる事から、「渋谷地下神殿」とも呼ばれる事がある。
「羯磨さんの車が恵比寿駅間の検問を通過しました。間もなくこちらに到着します」
本部テントの中から声が掛かる。新見はバスロータリーに停車している照明車両に指示を出した。
「照明車のライト照度を下げろ」
程無く恵比寿方面から、こちらへ向かって来るヘッドライトの光が近づいてくるのが見えた。国道246号線に沿って設けられた検問を通過して、その黒塗りのベントレーは、本部前のパトカーの脇に停車した。
「気を付けて下さいね、ボス」
後部座席のドアを開いた羯磨が予備弾倉と手榴弾を装備したベルトを装着すると、運転席から陽太が声を掛ける。
「了解した」
声掛けするまでもない。羯磨は赤羽や上野に徘徊していた、得体の知れない化け物どもを瞬殺する程の腕前なのだ。取越し苦労に間違いない。苦笑いを浮かべながら警官の誘導に従ってベントレーを駐車スペースに寄せる。
(オレ、ビビらず待ってますから)
夜の帳を睨み付け、ベントレーのハンドルを握りながら、陽太は心の中で呟いた。その脇を十数名の武装したSIT隊員達が傍らを走り抜けて行く。
ロータリーの橋に位置する、2階建て雑居ビルの様な外観の貯水施設管理棟には立ち入り禁止のバリケートが張り巡らされ、入口の扉が開け放たれて、機関銃を構えた隊員達が索敵を行う。
異常なし。
制御室確保、地下一階・安全確保、地下二階通路異常なしの通話が大迫のハンドトーキーを通して聞こえて来る。下水道局員らしいヘルメット姿の技術者が管理室のモニターカメラを起動させ、地下施設内の様子を管理モニターに映し出す。
そこに映し出された画像に、あの化け物達の姿はない。ただ、カメラのレンズは味気ないコンクーリト壁を映し出している施設内の各所に奇妙なものを捉えていた。それはスーツやジーンズなどの、ぼろぼろになった数枚の衣服である。
制御室内のモニターを眺めていた新見と大迫は目を見合わせた。羯磨はその後ろで壁に凭れて腕を組んでいる。
ナビゲーター役の隊員がタブレットに入力された施設断面図を開き、大迫に声を掛けて突入経路の確認を行う。
「羯磨さんは、この地下施設の構造図はおわかりでしょうか?」
「ここのデーターは未確認のままだが、どうせ私にそんなものは読めない。出たとこ勝負というところだろう」
羯磨が呟くと、ナビ役の隊員と打ち合わせをしていた大迫は頷いた。
「どちらにしろ、あなたが来てくれて心強い。感謝しています」
「礼は後にしよう。今ここで何が起きているのかを見届けるのが先決だ」
「羯磨さんは、あなたは何か感じられているのですか?」
「バビロンの丁寧なお膳立てに感心している。我々は、この街の住人らが望んだ、新しい神の降誕祭の招待客という事だろうか」
大迫は羯磨の美しい横顔を振り返る。
「この場所は『渋谷地下神殿』と呼ばれているそうだ。また、その場所が貯水施設という事がなかなかに呪術的な皮肉が利いている。『羊水に満たされた子宮』の見立てという事だろう。バビロンの大淫婦、彼女はこの地下神殿で、不義と背徳に塗れたこの街の住人らの精液を受胎し、ここで産み落とした『子供』の姿を我々に披露しようというつもりらしい」
ごくりと生唾を呑み込む元軍人を尻目に、羯磨はショルダーからルガーを引き抜くと、左手の指先でトグルを弾き、薬室に第一弾を装填した。
羯磨は自身の超感覚を駆使して施設内の
橘が報告してくれた「化け物ナメクジ」らしき個体の気配が階下からこちらを伺っているのが確認出来たが、それは何かを確認したかの様に貯水施設側の奥へと戻って行くのがわかる。
「ふむ」
「何かいましたか?」
「斥候らしきヤツがいた。何がどこから来るかわからない。全員に戦闘準備を」
大迫がグローブを嵌めた手で合図を送ると、それぞれの隊員が機関銃やショットガンの安全装置を解除する。
「これより突入を開始する」
そのまま関係者以外立ち入り禁止と書かれた鉄製の防火扉を開く。眼前には地下施設へと続いているであろうコンクリート製の階段が見えた。ショットガンナーを先頭に、MP5機関銃を構えた十数名が後に続く。武装・布陣とともに申し分ない。大迫は気圧される気持ちを鼓舞したが、どうにも違和感が拭えない。
「地下施設入口に到達、これから内部に向かう」
大迫が地上の本部に無線で報告を行う。
「隊長、羯磨さん、貯水タンク内部は元々雨水を貯蔵するだけの設備です。ここから先の区域は、無線もGPSも届かなくなって、各階の有線電話以外、外部との連絡が取れなくなります」
ナビゲーター役の隊員が羯磨と大迫にそう告げる。
「了解した。私が先導しよう」
ルガーを片手に、扉を潜ると、羯磨は地下施設へと繋がる階段を下った。
自身の脳波をレーダー代わりに使用して前方に集中するが、そこに生き物の反応はなく、妖魔の痕跡も見られない。慎重に階段を下る。彼の脳裏に描かれるものは、青白いサーモグラフィー画像の様な地下1階詰所と外廊下の立体図である。異常なし。気配なし。手で合図を送ると、ショットガンナーに続いて短機関銃を構えた大迫がブーツの音を響かせながら降りて来た。
「伊藤、橋詰の2名はこの場所を確保。異形の姿を見掛けたら、各自判断での射撃を許可する。地下2階の待機所にもう2名。後の隊員は私と羯磨さんに続いて最下層の雨水貯蔵タンクまで降り立つ」
「了解」
襟元のハンドトーキーで指示を伝えると、大迫は羯磨に目で合図を行う。羯磨は頷いて地下2階の踊り場を下り、待機所に繋がる防火扉のノブを回した。
そこには鉄製の梯子じみた、保守管理に使用される螺旋階段があった。階段の先は、地下の闇に向って真っ直ぐに伸びていて、底はまったく見えない。
羯磨は感覚を駆使して貯蔵タンクの底を覗き込む。人間とって底なしの奈落に思える闇は羯磨にとって盟友のようなものだ。脳波は15メートル程下に位置するタンクの底の画像を検出して、彼の意識の中にスキャンした部分の画像が描かれる。
同時に、青白い火花のようなものが脳裏を走った。何かの攻撃本能のようなものを羯磨の脳幹がキャッチしたのだ。それもひとつやふたつではない。数え切れないほど多くのそれは、恐らく生物が放つ「飢え」の衝動とも表現するべきなのか。
その気配も、この最下層である雨水貯蔵タンクの底から漂って来る。
(そうか。お待ちかねという事か……)
ここには確かに恐るべきものがいる。それはこれまで羯磨が相対し、始末して来た怪物や妖魔らとは、どこか違っているものだ。もっと純粋無垢とした、原初の本能の様なもの。
しかも、その気配はふんだんに感じるのに、索敵画像の中に彼らの姿は見当たらない。微かな戸惑いを覚えつつも、羯磨は現在いるフロアを索敵する。右手には照明が灯った無機質なデザインの廊下が伸びており、3つほどのドアが並んでいる。こちらも気配だけは濃厚ではあるが、化け物の姿は索敵出来ない。階段の踊り場から様子を伺っている大迫に合図を送ると、ショットガンナーを先頭にして、機関銃を構えた大迫が降りて来た。
「拠点確保。周囲に異常なし。ここに2名を残し、これより地下雨水貯蔵施設に侵入する」
襟元にあるハンドトーキーを使って大迫は地下1階に連絡を入れた。目前には地獄へつながるであろう怪物の待ち受ける巨大な地下神殿の入口がある。
「貯水エリアには照明装置がない。最下層部は暗闇だ。
全員が腰のポーチから暗視装置を取り出してヘルメット上部に装着する。
「大迫隊長、不備があって今回私は、この場所に潜む化け物の資料を受け取っていない。ただ、私のスタッフのケイトは、それを『レギオン』と呼んだらしい。そちらの手元にそいつの資料はあるだろうか?」
大迫はナビゲータの隊員を呼び寄せて耳打ちをすると、隊員はタブレットを開き、化け物の画像と諸々のデーターを呼び出した。
「渋谷ヒカリエの地下で警官隊が射殺した正体不明の化け物は、陸に生息する巻貝・軟体動物門腹足綱に属するものの変異種らしく、そのDNA構造はヨーロッパ外来種である「チャコウラナメクジ」と98パーセント一致。但し体長は1メートル、体重は25キロとその体躯は比較になりません。あと、ナメクジは雑食性ですが、この未知の生物に関しましては、口蓋部分と歯が異常に発達しており、大型の動物などを捉えて摂取する構造ではないかとの分析結果が出ております。触角は退化していて、ほぼ盲目に近く、恐らくではありますが、脳が光を探知して行動するかと思われるとの事で」
「なるほどそれは。大バビロンよ、皮肉が過ぎるというモノだ」
羯磨が呟いた言葉の意味を、大迫は理解出来なかった。
「大迫隊長、ここから先は私1人で行こうと思う。この階段の下にいるものはどうにも得体が知れな過ぎる。部隊はここで待機していて欲しい」
「そうは行きませんよ」
大迫は、羯磨の能面の様な顔を見据えながら断言した。
「それは我々の技量は貴方には足元にも及ばないでしょう。しかしこれは任務なんです。私も部下達も、日々、厳しい訓練と鍛錬に明け暮れているのは伊達じゃない。『そういった事態に備えてこその我々の存在』なんです。なあ、みんな」
大迫隊長の呼び掛けに対して、隊員達はグローブを嵌めた右手の親指を立てた。
「1人で行くなんて、つれない事を言わんで下さい」
「先日は、いいとこ持って行かれましたからね」
羯磨はコンクリートの床に、カツ、カツと踵を2度打ち付けながら、こう答えた。
「今日はなかなかいい日なのかも知れない。現在でも、稀にそういう人間達に出会う事がある。そんな時、私はこの
大迫が自分のハンドトーキーを外して渡すと、羯磨の姿は床を蹴って螺旋階段の下の闇へと身を翻した。えっ?と隊員達から驚きの声が洩れる。
15メートルの高さを一気に飛び降りたのだ。
ぱしゃん、と音がして、闇の魔人は一足飛びに貯水タンクの下に到着する。
タンク底には、脛の辺りにまで水が残っていた。ポンプで排水し切れない雨水の名残りであろう。同じく靴底からは堆積した汚泥の感触も伝わって来る。
羯磨は索敵を開始する。
闇の広場は思ったよりも広大な様子だ。レーダー脳波の反応がない。つまり跳ね返ってくる壁の先がずっと遠くにあるという事だ。この貯水施設の広さは渋谷駅の地下4階相当の深度に、南北約45メートル、東西22メートルで、容積は約4,000立方メートル。小学校などにあるプールに例えると、約9個分に相当する空間を有しているという。
そうだとしてもおかしい。この貯水プールの容積はそれ以上の広さがある様に感じてならない。これはどういう事なのだ。
「羯磨さん、大丈夫ですか?」
「こちらは問題ない。たが地下貯水槽の様子がどうもおかしい。耳にしたデーターよりも内部面積が広い様に思える。確認をお願いしたい」
「了解」
十数秒して頭上に幾筋かのライトの光が灯った。カンカンと鉄製の螺旋階段を駆け下りて来る足音が響き、大迫と20名のSIT隊員がタンク最下層部に到着する。
「どうしました、羯磨さん?」
暗視ゴーグルを装着した大迫が羯磨に尋ねた。
「私にはこの空間の容積が、貰ったデーターよりも数倍広く感じるのだ。あなた方の目でそれを確かめては貰えないか?」
クローブを嵌めた手で合図すると、銃身にライトを点灯させたショットガンナーを含む5人が闇の中で前進を始め、水溜まりを掻き分ける。その姿が14、5メートル程進んだあたりで声が上がった。
「隊長、見て下さい!これは……!?」
水飛沫を立てながら羯磨や大迫が隊員らに近寄る。
本来ならそこには貯水施設の北側の隔壁が存在する筈であった。だが、そこにはぽっかりと開いた巨大な穴が開いていて、遥かな先まで闇が延々と続いていた。足元の水面には噛み潰されたコンクリートの残骸と、十数体の人骨が散らばっている。
「これは……」
「暗渠となっている渋谷川の方角だ……」
「シッ、何かが聞こえる」
大迫の声に誰もが耳を済ますと、その声は隊員達の銃口部に装着されたライトに浮かぶ、崩れた側壁の向こうの闇から響いて来た。
きゅー、きゅー、きゅー、
きゅー、きゅー、きゅー、きゅー。きゅー。
「総員射撃準備!」
ショットガンナーを先頭に、ライトの光軸と銃口が、闇の彼方に向けられる。
羯磨も懐から取り出した皮剥ぎナイフを口に咥えると、魔銃ミョルニルの銃口を奈落の方向へ構えた。
渋谷東口バスロータリー。
作戦本部のテント内で指揮を取っていた新見は、突然その異変に気が付いた。
あちこちの区画から、街の光が消えて行く。どうやら停電の様子なのだが、これはどういう事なのだろう?地上で警戒を行っている管理課の隊員や捜査官らが狼狽えている間に、渋谷駅周辺の街並みは、あっという間に漆黒の闇に包まれてしまった。
幸いにも、本部の電源は電源車を使用しているので、任務継続に支障は出ないが、しかし、これはどういう事なのだ?
暗闇に包まれたロータリー周辺で、捜査官らと共に、巨大な墓標の様な渋谷スクランブルウェアの影を見上げながら、新見は心の中で呟いた。
ベントレーの中で、陽太も周囲の異変に気が付いていた。
周囲で煌めいていた街の灯りの中に、ぽつり、ぽつりと闇になる箇所が生じたかと思うと、周囲の照明やビルのネオンが一斉に落ちたのである。
どうやら停電らしい。この感じでは地区全体の停電なのだろう。周囲を取り巻くビルだけでなく、街灯や信号も全て沈黙してしまい、照明車の灯りが生きているこのロータリー周辺だけが、まるでスポットライトを浴びたかの如く、闇の中に浮かび上がっている。
(何だこれ?発電所かどこかの故障か?まさか地下に潜ったボス達に何かあったんじゃ……)
その時、運転席のガラスがコンコンとノックされて、陽太は振り向いた。
両目が驚きの色を刻む。
ガラスの向こうで手を振っていたのは、ベースボールキャップにスタジャンを引っ掛けている、見慣れた愛らしい姿。
「美悠、お前なんでこんなところにいるんだよ?」
「えへへ、来ちゃった……」
帽子の鍔の下から、垂れ目気味の愛らしい瞳が覗く。
「何か今日は渋谷で、楽しいお祭りがあるって聞いたんでぇ……」
ジュッと陽太の胸元で何かが焦げた。
黄淑華が彼に新しく渡した、退魔の護符の束であった。
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