(12)
――それはあっという間の出来事だった。
エンプワーリの声にいざなわれるように、ノノヴィが馬車の出入り口の隙間から見た光景を、すぐに忘れるなんてことは無理だろう。
エンプワーリは閃光によって統率を失った魔獣の群れに対し、きらきらと陽光を反射する石――恐らく宝石だ――を投げた。するとたちまちのうちに魔獣たちは大人しくなってしまう。中にはその場で寝入ってしまっている魔獣もいるほどだった。
これはエンプワーリが常は治療に使っている、石魔法の一種だろうことは、ノノヴィにもどうにか察することはできた。
息を呑んでことの成り行きを見守っていた乗客たちは、エンプワーリの鮮やかな魔法に驚き、次いで魔獣たちが大人しくなって馬車を襲う心配が恐らくはなくなっただろうことを察し、みな安堵の息を漏らしたようだった。
「――大丈夫ですか? 怪我人はいませんか?」
エンプワーリがそう言いながら、車の出入り口へと近づく。その途中でこちらをうかがっていたノノヴィと視線がかち合うと、そのたれ目の目尻をますます下げて、エンプワーリは微笑んだ。他方、ノノヴィはそんな――心底幸せそうな顔をするエンプワーリを見ていられなくて、視線を泳がせた。
「ノノヴィ」
エンプワーリが名を呼んだ。ノノヴィはさまよわせた視線の先、エンプワーリの肩越しに、その背後でディードがなにやらかざした手のひらから赤いツタを取り出し、それで大人しくなった魔獣を拘束しているのを見た。
だがそのうちの一頭が、突然我に返ったのか、弾かれたように地を蹴り、走り出した。――エンプワーリに向かって。
ディードがエンプワーリの名を叫んだのとほとんど同時に、ノノヴィはエンプワーリの体を右横へと渾身の力で突き飛ばした。
恩を売ろうだとか、贖罪のためだとか、純粋に助けたくてだとか――そんな感情を脳で理解するより前に、ノノヴィはエンプワーリを突き飛ばしていた。それは「火事場の馬鹿力」というものなのだろう。エンプワーリに引き取られたあとでなお、細い枝のような腕であったノノヴィは、エンプワーリを突き飛ばすその瞬間だけは、とんでもない力を出すことができたのだから。
不快な獣臭がノノヴィの鼻をつく。そのあとすぐに様々な感覚がノノヴィの脳を突き上げた。熱い、痛い、冷たい、痛い……。ノノヴィの背後で女性の悲鳴が上がったのが聞こえた。ノノヴィは肩口を魔獣に噛みつかれたことを、なぜか俯瞰的に悟った。
痛い、痛い、痛い――でも。
――でも、こんな風に感じるのがエンプワーリではなくてよかった。
「ノノヴィ!」
エンプワーリが悲鳴のような声を上げた。
ノノヴィの視界はもうエンプワーリを捉えることができなかったが、意識が暗闇に落ちていくその寸前、自らの体から先ほどディードが出していたような赤いツタが生じ、魔獣に向かって伸びるのを見た。
――前にもこんなことがあった。
ノノヴィは不可思議な、満たされた既視感の中で意識を手放した。その耳には最後まで、ノノヴィの名を呼ぶエンプワーリの悲痛な声がこびりつくようにこだました。
ノノヴィが次に目覚めた場所は病院の個室だった。
そうして目覚めたとき、ノノヴィは自分がエンプワーリが愛した「ノノヴィ」の生まれ変わりであること――前世の「ノノヴィ」の記憶をすでに持っていた。
その事実を噛み砕くことができず、ノノヴィはベッドの上で寝転がったまま、しばし呆然とする。
エンプワーリの「前世の記憶を持って生まれ変わる」魔法は一応、成功していたのだ。だがこうして前世の記憶を完全に取り戻すまでに時間がかかるあたり、その魔法には改良の余地が十二分にありそうだ。
ノノヴィは、「前世の記憶を思い出すことで、エンプワーリを騙し欺いていたころの記憶が消える」……などという、ノノヴィにとって都合のよい展開にはならなかったがために、そう現実逃避的に考えた。
これまでノノヴィに対しては、運命の輪は妙に都合よく回っていたが、ここにきて突然見放したようだ。
ノノヴィはたしかにエンプワーリが信じていた通りに「ノノヴィ」だった。けれども彼に嘘をついて騙していたという事実は消えない。だれよりも――愛しているエンプワーリを欺いたのだ、ノノヴィは。
エンプワーリが「ノノヴィ」を愛していたように、「ノノヴィ」もエンプワーリを愛していた。その気持ちが一度にノノヴィの中に流れ込んできたような心地になって、身悶えしたくなる。
だが衝動に従って体をバタつかせようとした途端、左の肩口に痛みが走った。魔獣に噛みつかれた箇所だ。ノノヴィが意識を失ってからそう日にちが経っていないのだろう。左の肩口に視線をやれば、すこし茶色がかった赤い血液が白い包帯ににじんだあとがある。それを見たところ、痛みが増したような気持ちになったので、ノノヴィはわざと視線を大きく外した。
そうしてノノヴィがその脳内やらその外でやらで、せわしなくしていたせいなのか、この病室に近づいてくる足音に気づいたのは、その出入り口となる扉が開く本当に直前のことだった。
扉を開けて現れたのはエンプワーリとディードだった。ふたりとも、ノノヴィが起きていることに気づくや否や、目を丸くして大変におどろいた様子だった。
「――ノノヴィ! ああ、起きてくれたんだね。うれしいよ……!」
感無量といった様子でベッドに駆け寄るエンプワーリに対し、そのうしろからついてきたディードは、安堵をにじませた顔をしつつも、どこか居心地悪そうな硬い表情をしている。
「……あれから、どれくらい日が経ったんですか?」
「ノノヴィは丸一日寝ていたことになるね。傷は……まだ痛むよね?」
「はい……」
「それじゃあこれを。この前は心を落ち着かせる石だったけれど、これには鎮痛の効能がある魔法を込めた石が入っているから」
「……ありがとう――エンプ。……あ」
前世の記憶が完全によみがえった影響か、つい先ほどまでエンプワーリと親しくしていたような気になって、ノノヴィは思わずエンプワーリの愛称を口にする。
ノノヴィはすぐに己の失態を自覚した。エンプワーリを騙していた過去は変えられない以上、彼に合わす顔なんてないと、そう思っていたにもかかわらず、ノノヴィは親しげに「エンプ」と呼んでしまった。
だが一度口から出した言葉を、なかったことにはできはしない。
エンプワーリはまた目を丸くしておどろいた様子だったが、次の瞬間には笑顔をほころばせるようにして――心底うれしそうな表情になる。
「ノノヴィ!? 記憶が戻ったんだね?! ああ、やっぱり私の魔法は成功したんだ……!」
大喜びのエンプワーリの背後では、ディードが目を真ん丸くさせたまま固まっている。結果的に、ディードは判断を誤ったわけなのだから致し方ないだろう。しかしノノヴィは、ディードのその行動を悪だと断じることはできなかった。
実際にノノヴィは「ノノヴィ」の記憶が戻る前は、エンプワーリを明確に欺いていたのだから、ディードがノノヴィに疑いを持ち、エンプワーリが傷つく結果を危惧し、ノノヴィを遠ざけようと画策したことは仕方がないことだと言えた。少なくとも、ノノヴィにとってはそうだ。
だがディードはそうは考えなかったらしい。
ディードは硬い表情のままおもむろにエンプワーリの隣に立ったかと思えば、ノノヴィに向かってほとんど直角に腰を折り、頭を下げたのだ。
「――疑ってすまなかった!」
今度はノノヴィは目を丸くさせる番だった。
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