(2)

「……覚えてない?」


 エンプワーリと名乗った男は再びノノヴィにそう問うた。その声音からは「そうであって欲しくない」という思いがにじんでいることは、明らかだった。


 ノノヴィはそんなエンプワーリに、「その通りだ」という回答をすることができなかった。そうすればきっと、この目の前にいるエンプワーリという男は落胆することだろう。エンプワーリとは初対面であったが、そうやって落ち込む姿をノノヴィはありありと思い浮かべることができた。


「……どうして、そう思ったんですか?」


 だからノノヴィはエンプワーリの問いに対し、さらに質問で返した。今度は、エンプワーリが何度かおどろいたようにまばたきをする番だった。


 ややあってから、エンプワーリはたれ目のまなじりをさらに下げるようにして、ノノヴィに優しげな視線を送る。しかしそこには、いくばくかの悲しみも見て取れた。


「見ればわかるよ。私が愛したのはノノヴィただひとりだけだから。……でも、その様子だと私の魔法は失敗したみたいだね」


 エンプワーリが、落胆のため息を吐く。


「魔法?」


 ノノヴィがまた問い返せば、エンプワーリはやはり優しげな――ノノヴィを慈しむような目でこちらを見つめ返してくれる。そんなエンプワーリの目を見ていると、ノノヴィは心の内側が不可思議にざわつくのを感じた。


「前世の記憶を引き継ぐ魔法だよ」

「そんな魔法が……」

「なかったよ。これまでは。私が編み出したんだけど、まだ手法は完全に確立しきっていないし、君の様子を見るに――どうやら失敗したみたいだ」


 エンプワーリは眉を下げて、困ったように笑う。


「ごめんね、突然こんなことを言い出して。怖かったよね」

「いえ……」


 ノノヴィはエンプワーリの突飛な物言いに呆気に取られはしたものの、そこに恐れを覚えたわけではなかった。しかしつい先ほどの、酒場の店主に襲われた出来事が後を引いているから、同じ成人男性である彼に近づかれるのは、少しだけ怖い。


「……そういえば裸足だね。もしかして、ノノヴィもこの孤児院の――」


 ノノヴィの胸中を察してか、エンプワーリがあからさまに話の矛先を変えた。


 だがその言葉が最後まで声として形になることはなく、成人男性の大声にかき消されて、中断を余儀なくされる。


「見つけたぞ!」


 ノノヴィは大声の主を見て、また無意識に後ずさった。肩を上下させ荒い呼吸を繰り返すその男は、見間違えようもなく先ほどノノヴィに襲い掛かった、酒場の店主そのひとであった。


 大股で、店主がノノヴィに近づく。


 しかしそのふたりのあいだに、急に割って入る影があった。


「いかがされましたか?」


 それは、他でもないエンプワーリだった。エンプワーリの、そのコートを着込んだ純白の背が、ノノヴィの視界の大半を占める。ノノヴィはその大きな背中を見て、胸中に安堵が広がるのを感じ、戸惑った。


 酒場の店主は、ノノヴィにとって恐怖の対象だ。一方エンプワーリはノノヴィに無体を働いてこそいないものの、こちらのことを見て「君の前世を愛していた」とかなんとか言い出すような男だ。


 しかしノノヴィはエンプワーリの背に隠されて、安堵した。店主から守るような素振りを見せられたから……というだけではない、温かな安堵の感情が胸中に広がったから、ノノヴィは困惑した。


 ――さっき会ったばかりのひとなのに、どうして。


 ノノヴィが戸惑っているうちに、店主はエンプワーリと距離を詰めて、怒声を浴びせる。


「そこのガキに怪我させられたんだよ!」

「……そうなのかい?」


 ノノヴィなど、店主の怒号を聞けば思わず身を縮こまらせてしまうが、エンプワーリはまったく平気な様子だった。


 エンプワーリは店主がいきり立っていることなど意に介したそぶりを見せず、自分のうしろにいるノノヴィに問いかける。


 ノノヴィは店主の剣幕が恐ろしく、エンプワーリの優しげな声音を聞いても、言葉を発することができなかった。


「くそっ、こんなクソガキを寄越すなんて――」


 店主は孤児院へと目をやり、そこで初めて周囲の剣呑な空気に気づいたようだった。目を丸くして、あわててあたりを見回す。


「こちらの孤児院の院長でしたら、つい先ほど逮捕されて拘引されましたよ」


 エンプワーリは極めて落ち着いた、穏やかな声で告げる。


「それで、ちょうどこの街の方々にも警察が事情聴取をしているところで……」

「へ、へえ……」

「貴方も、なにかご存じのことがあれば警察に――」

「――お、オレはなにも知らねえよ?!」


 ノノヴィは店主の言い分が真っ赤な嘘であることを知っていた。それはエンプワーリも同様らしい。明らかに挙動不審になった店主を相手に、しかし優しげな声音は崩さないまま告げる。


「……そうですか。それでこちらの彼女とは一体どんなご関係で?」

「雇い主と従業員だよ!」

「そうですか。それで、彼女が今裸足でここにいる理由はご存じですか?」

「さ、さあ? そこのガキは……ちょっとおつむが弱いんだ。おおかた靴を履き忘れてここまできたんだろうよ」


 だれが聞いても、苦しい言い訳だった。


「ノノヴィ」


 エンプワーリがノノヴィのいる方へと振り返る。そして微笑んで言った。


「私は、君の味方だよ。それを踏まえて教えて欲しいのだけれど――」

「おいっ」

「少し黙っていてくれませんか? 彼女が萎縮してしまう」


 エンプワーリの声が急に硬くなって、厳しく響いた。


「……ノノヴィ、本当のことを教えてくれるだけでいいんだ」


 しかし次の瞬間には柔らかくなって、優しさを伴った声がノノヴィに向けられる。


 ノノヴィはややあってから、これまで固く引き結んでいた、その唇を開いた。

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