(3)
ノノヴィは青年たち――エンプワーリ曰く警官――に引っ立てられて行く酒場の店主の背中をただ呆然と見送る。
店主は、緊迫した空気をかもし出す警官たちの前でノノヴィに殴りかかろうとしたので、すぐさま彼らに拘束された。
そしてつい先ほど引っ立てられて行った孤児院の院長の所業を多少なりとも知っているだろうと判断され、同じように連れて行かれた次第である。
ノノヴィがしたことといえば、酒場の店主に襲われたこと、逃げ出して未遂に終わったこと、そしてその店主に口利きをしたのはほかでもない孤児院の院長であるということを、詳らかにしただけである。
だが今この場で院長とつながりがあることを口にしたのは、どうも店主にとっては少々どころか、かなりマズかったらしい。
自分よりもしっかりとした体つきの警官らに囲まれ、拘束された店主は青い顔でいくらか言い訳を口にしたものの、最終的には連れて行かれてしまった、というわけである。
「よく本当のことを言ってくれたね」
再び、呆然とした表情のまま取り残されてしまったノノヴィに、エンプワーリの柔らかな声がかかる。言葉だけ抜き出せば、ノノヴィを批難しているとも取れなくもないセリフだったが、その声音が優しいために、ノノヴィがそのような誤解をする隙はなかった。
「ありがとう。これで少しはあの院長たちの悪行の詳細が明らかになるといいんだけれど……」
――そうか、院長先生たちは悪いひとだったのか。
エンプワーリの独り言にも似た言葉を拾って、ノノヴィはようやく腑に落ちた気持ちになった。
ノノヴィは、ずっとその心を鈍化させていたのだ。だから、孤児院の院長たち大人や、酒場の店主の所業に対し、思うところがあっても深く考えたことはなかった。……考えても、無駄だからだ。
仮に彼ら大人たちの所業が悪であったということが理解できたとして、ノノヴィになにが変えられるだろう? 一〇年ちょっとしか生きていないノノヴィは、無力だった。大人たちはそれをよく理解していて、ノノヴィもまたそれらすべてを理解していた。
だから、心を鈍化させた。感受性を鈍くすれば、つらいことをつらいとは受け止めない。そうすれば――まだどうにか生きていける。心を殺すことで、ノノヴィは己を生かしてきたのだ。
「ノノヴィ」
ひとつ、心の枷が取れたような気持ちになり、自然と感慨深くなっていたノノヴィに対し、エンプワーリは眉を下げて困ったような顔を向ける。
「これをあげる。これを持っていれば、少しは気持ちも落ち着くと思うから」
「……これは」
エンプワーリが懐から差し出してくれたのは、小さな袋だった。
ノノヴィが手を出して受け取れば、爽やかで少し甘い香りが一瞬立ち込めたような気がした。暗色の布でできた袋は、よく見れば唐草模様が染め抜かれていることがわかる。袋は少し重さがあり、触ってみれば丸くて硬い――石のようなものが入っていることが知れた。
「私は――さっきも言ったけれど石魔法医でね。その巾着の中に入っている石にも魔法を込めているんだ。気分を落ち着かせる魔法で、石はそれをしばらく持続させる効果があるものを使っている。少し温かいのがわかるかな?」
ノノヴィは巾着をやわく握り込んでみる。布越しに、じんわりと温かさが指先や手のひらに伝わってくるのがわかった。暖炉から掻き出した灰を、布でくるんだときのようなほのかな温かさだった。
その温かみが呼んだのかは定かではないものの、ノノヴィの胸中に安堵感が広がった。猜疑心の強いたちであるノノヴィは、それはエンプワーリが効能の説明をしたからかもしれないと思ったものの、ことさらそれを口に出して言い立てる気にはなれなかった。
「あたたかい……です」
「それはノノヴィにあげるよ。効果がなくなれば、捨ててしまって構わないから」
ノノヴィはその胸の前で巾着を抱きしめるように両の手で覆った。エンプワーリは効果がなくなれば捨ててもいいと言ったが、ノノヴィはそうはしたくはないと思った。
思い返せばエンプワーリは変な人間だろう。ノノヴィのことを、その前世を己が「愛したひと」などと本気で思い込んでいる様子だったのだから。
けれどもそのエンプワーリに助けられたのも事実。酒場の店主が追いついたときに、彼はノノヴィをその背に隠してくれた。そして店主を――思えば上手く挑発して、警官の前で失態を演じさせた。ノノヴィはそれで恐怖からいくらか解放され、溜飲が下げられた。
しかしエンプワーリがノノヴィをとっさにかばったのも、こうして魔法の込められた石が入れられた巾着を渡してきてくれて、気にかけてくれるのも、彼がまだノノヴィを「愛したひと」だと思い込んでいるからだろうことは、容易に察することができた。
当たり前だ。ノノヴィは環境の割りに発育がいいが、取り立てるところはそこくらいしかない。院長たち孤児院の大人に取り入っていた一派のように要領もよくなければ、頭がよいわけでも、強い意志があるわけでもない。平々凡々な、一〇そこらの子供なのだ。
でもそれをわざわざエンプワーリに突きつけて、訴えかけるのはなんだか恥ずかしかった。彼に、自分の不甲斐ない部分を突きつけるのはなんだかノノヴィには憚られた。
「――おいエンプワーリ」
「ああユージン、どうかした?」
ノノヴィがためらっているあいだに、黒馬が石畳の上で蹄鉄を鳴らして近づいてくる。馬上には、エンプワーリが「ユージン」と呼んだ青年がおり、彼が身につけているのは警官の服装なのだと今のノノヴィには理解ができた。
ユージンと呼ばれた警官は、エンプワーリを見て呆れたように息を吐いた。
「今孤児院の子供を集めている。この街に子供たちを置いておくわけにはいかないからな。子供たちは全員、別の街の孤児院にしばらく身柄を移す予定だ。だから――」
「ま、待ってよユージン! あの、もう少し彼女と話をさせてもらえないかな?」
「はあ? ちんたらと、無駄なことに時間を割く暇がないことくらいお前にもよくわかっているだろう」
「わかってる。それはよくわかってるよユージン。でも彼女は……」
明らかに戸惑いを見せるユージンと、引き下がる様子を見せないエンプワーリ。
頭の回転が遅いと自負していたノノヴィだったが、このときだけはなぜか素早く計略をめぐらせることができた。
「……ノノヴィ?」
「――なんだって? お前、今、『ノノヴィ』と呼んだか?」
「ノノヴィ、どうかした?」
ユージンの困惑に満ちた声を無視しているのか、はたまた聞こえていないのか、エンプワーリは自分の白いコートの袖を控えめに引っ張ったノノヴィを見る。その目には、たしかな慈愛がにじんでいた。ノノヴィはその目を見て、己が立てた策略が上手く行くことを確信した。
ノノヴィは恐れから、大きな震えがその体を立ち上ってくるのを無視して、口を開く。
「あの……わたし、別の街の孤児院じゃなくて――エンプワーリさんのおうちに行くことはできますか?」
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