(11)

 ……ひとの多い乗合馬車の中は独特の臭気が漂ってくるようだった。


 揺れる馬車の中で、ノノヴィは懐に入れた金銭をたしかめるかのようにそっと手のひらを重ね、指先で硬貨の形をたしかめる。この重い硬貨を渡してきたのはディードだ。ノノヴィが、エンプワーリの家を出て行くにも金がないと正直に言ったから、ディードは当座の金を渡してくれたわけである。


 エンプワーリが優しい人間であるからなのか、その周囲にも似たようなひとびとが集まっているようにノノヴィには思えた。


 ディードも、ノノヴィを警察へ突き出すこともできただろうに、しなかった。恐らく真実を明らかにすることで、エンプワーリが傷つくことを避けたいがための行いだろう。


 ディードはまたノノヴィが花の一族の血を引いていることから、かの一族の集落の端になら住まいを用意できると申し出てくれた。エンプワーリを騙し続けることに良心の呵責を覚えていたノノヴィにとって、ディードのその申し出は渡りに船であった。


 そうしてディードはノノヴィがエンプワーリの家を出て、もう二度と会わないことを条件に、当座の金を渡してくれたのだ。布でできた袋の中身は、ノノヴィがこれまで手にしたどんな財布よりも重く感じられた。


 ディードの申し出のうち、住む場所を用意してくれるとの言葉が真実かまではわからなかった。しかし金を――実質の手切れ金を渡された以上、ノノヴィはもう二度と、エンプワーリには会わない。ノノヴィの中にも、それくらいのプライドはあった。


 ノノヴィはディードに促されるままエンプワーリへ別れの置き手紙を書き、すぐに乗合馬車に乗った。それから隣の街の宿屋に泊まり、ひと晩たってからまた乗合馬車に乗って別の街へ向かった。その街の近くの森に、花の一族の集落のひとつがあると言う。ディードとはその街で落ち合う予定で、それまで街で滞在するのにじゅうぶんな金銭は彼から受け取っていた。


 人生で初めての馬車旅をノノヴィは新鮮に思う気にはなれなかった。


 しかしディードの力を借りはしたものの、自らの手でエンプワーリを騙し続ける日々に幕引きができたことで、少しはすがすがしい気持ちになれはした。


 嘘をつき続ける日々から解放され、どこか安堵できた一方、それでもエンプワーリを騙した事実がノノヴィの心に重くのしかかるようだった。


 エンプワーリが優しいだけの人間でなければ、ノノヴィは今でも自己を正当化し、彼を欺き続けていたかもしれない。エンプワーリが下劣な人間であれば、ノノヴィは彼を騙し続けることに、かほどの罪悪感を抱かなかったかもしれない。


 でもエンプワーリはそんな人間ではなかった。ユージンやディードのような、エンプワーリを心の底から心配してくれる友がいる時点で、ノノヴィのそのたらればの妄想はひどく侮辱的なものでもあるだろう。


 エンプワーリはたしかに「ノノヴィ」を見て、ノノヴィを見はしなかった。彼が断罪される部分があるとすれば、そのことくらいだろう。けれどもそんな権利が自分にあるわけがないとノノヴィは思った。


 エンプワーリにとって「ノノヴィ」との再会は切実なものだった。「前世の記憶を引き継ぐ魔法」なんてものを作り出すほどにまで、エンプワーリにとって「ノノヴィ」の死の運命は耐えがたいものだったのだろう。


 その切実さから出てくる愛を受け取るべきは本物の「ノノヴィ」であって、ここにいるノノヴィではない――。


 ノノヴィはその事実を心の内側で反芻し、確認するたびに心臓がしくしくと痛むような気持ちになった。


 エンプワーリはノノヴィの名を呼んだ。しかし彼が愛したのは、愛しているのは、ノノヴィではないのだ。


 ノノヴィはその動かしがたい事実を前にすると、なんだか泣きたい気持ちになった。


 けれどもエンプワーリを欺き続けるのはよいことでは決してないだろう。


 だから、この幕引きは正しい。


 ノノヴィは必死にそう思うことで、バラバラになっていきそうな心を繋ぎ止めた。


 エンプワーリからもらった、心を落ち着けさせる効果のある石は、彼の家に置いてきた。しかし持ち出してもよかったかもしれないとノノヴィは少しだけ後悔する。あの柔らかな布でできた袋の中の石……握り込むと、ほのかに温かい石。あれを手放すべきではなかったと、なんだか落ち着かない気持ちにさえさせられる。



 「ねえ、まだあ?」おさなごがぐずる声が隣から聞こえた。「もうすぐよ、坊や」その子供の母親らしき女性が、優しい声でなだめる。そんなやり取りを聞いて、ノノヴィは初めて訪れる街がすぐそこにまで迫っているのだと知った。


 街にはしばらく滞在し、いずれやってくるというディードと落ち合う予定である。宿賃は足りるだろうかとノノヴィは再び懐に手をやった。


 しかしそうしてからすぐに馬車が止まる。ノノヴィが不思議に思って御者のいるほうへと視線を向けるより前に、叫ぶような声が聞こえた。


「魔獣だ! 魔獣の群れだ……!」


 御者の焦った声がノノヴィの耳を打つ。次いで馬車が急旋回したかと思うと、どこかへ向かって走り出したのがわかった。


 再び、御者の焦った声が聞こえる。どうやら魔獣の群れにおどろいた馬が勝手に走り出し、御者の言うことを聞かない様子だ。


 ノノヴィの近くに座るおさなごの泣き声が低い天井を打つ。馬車の中は動揺で満たされ、出入り口に手をやって飛び降りようかと悩む客もいる始末だ。ノノヴィは激しく揺れる馬車の中で、体勢を崩さないようにするので精一杯で、悲鳴を上げる余裕すらなかった。


 猛スピードで走る馬車のうしろを、四足の獣の群れが地を蹴飛ばしながら追いかけてくる音が聞こえる。「今飛び降りたら魔獣のエサだよ!」馬車から飛び降りようとする若者に、老婆が声を飛ばして制止する。


 やがて馬車の動きが止まったが、出入り口を閉じる暖簾状の布を客の若者が持ち上げると、魔獣の群れに囲まれていることがわかった。「ちくしょう」八方ふさがりの状況に、御者がこぼした声は震えていた。おびえた様子の馬の荒い鼻息と、魔獣の鼻息が聞こえる。馬車の出入り口から、魔獣の生ぐさい獣臭が漂ってくるような錯覚さえあった。それほどまでに馬車と魔獣の群れの距離は近かった。


 ノノヴィは逼迫した状況についていくので精一杯で、恐怖に震えることすらできなかった。


 母親に抱かれながらおびえ、泣き叫ぶおさなごの声が響くばかりで、客たちも絶体絶命の状況に、ノノヴィ同様ろくな声も出せない様子だった。


 ――次の瞬間、馬車の出入り口から見える景色の中で、花火がぱっと咲いたかのような閃光が走る。馬が悲鳴を上げるようにいななき、その激しい光が落ち着いてから、魔獣の群れが動揺している姿をノノヴィは見ることができた。


「みなさん! 馬車から出ないでそのままでいてください!」


 張った声が聞こえた。


 ノノヴィはその声を知っていた。


 その声は、聞き間違えようもなくエンプワーリのものだった。

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