銀の刃の物語

第1話

 家族という言葉が意味するものが何か、軽々と断じられるものではない。

 ある者にとっては心を温かくする愛情かもしれないが、ある者にとってははらわたが煮えくり返るほどの憎悪かもしれない。良し悪しは別にして、距離が近いからこそその感情は深く苛烈になる。

 もし今、私のそばで唇を尖らせて怒りを訴える少女にその問いを投げかければ、きっとシンプルな答えをくれるだろう。

「ねえカミル、お母さんったらひどいのよ」

「フィロ、何があった?」

「学校でテストの結果が悪かったからって、晩御飯の後に勉強の時間を作るっていうの。いやだって言ったらすっごく怒られたし」

「それはそれは、相変わらず熱心なことだ」

「感心してないでカミルからもお母さんに何か言ってよ。このままじゃ貸出期限までに『西方英雄伝』が読み終わらないじゃない」

 私の返答はお気に召さなかったらしく、フィロは読んでいた本を放り出してベッドに倒れ込んだ。先月十歳の誕生日を迎えたばかりの彼女にとって、友人たちの間で流行っている小説を読破することは勉学よりも重要なのだろう。

「私からは『母を納得させる結果を出せばよい』としか言えないな。家庭の教育方針に口を出す権利は私にはないさ」

「どうして?カミルも家族でしょう」

「おっとそうだったな」

 彼女は私の答えに頬を膨らませていたが、ふいと明後日の方を向いて目を閉じてしまった。宿題を終わらせてから眠った方がいいのではないかとも思ったが、これ以上の小言は彼女も耳を貸さないだろう。

「フィロ、ふて寝するのは構わないが明かりを消した方がいい。それと私をいつものところに連れて行ってくれないか」

 私の控えめな要求に彼女は無言で体を起こすと、眉間に深いしわを作ったまま蝋燭を吹き消した。次いでテーブルの上の私を窓際へ移動させ、そのままおやすみも言わずにまた横たわってしまう。

「母も父も君を大切に思っている。聡明な君は分かっているだろう?」

「……わかってるよ」

 答えは期待していなかったが、背中を向けたままのフィロから小さな声が聞こえた。それきりしばし沈黙が続き、もう眠りに着いたかと思った頃になって彼女はこちらに体を向けて口を開いた。

「ねえ、カミル。あなたはすごく長いこと生きてるのよね」

「ああ。思い出すのも億劫なくらいだ」

「今まで、わたしたち以外に家族がいたことはあるの?」

「あるとも。君が生まれるよりも昔のことになるが」

「聞かせて」

「あまり夜更かしをしては……」

「いいから」

「分かった」

 昔話を嬉々として語るようだといよいよ年寄りじみているが、まあたまにはいいだろう。少女の可愛いわがままを叶えるべく、私は懐かしき過去に思いを馳せる。

 ああ、そういえば自己紹介が済んでいなかった。

 私はカミル。

カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされて銀色に輝くナイフ、それが私だ。



 人間であれば家族は血と縁で増える。親子、兄弟姉妹。あるいは養子、結婚。

 当然のことながら、私にはその形で家族を得ることは叶わない。

私を初めて家族と呼ぶ者と出会ったのは、今を遡ること数十年前になる。

 その時の私は全く途方に暮れていた。

「さて、どうしたものか」

 嘆きの声は誰に届くこともなく、絶えず打ち寄せる白波にかき消された。

「このままだと錆びて朽ち果てることになりそうだな」

 周囲を見てもこの窮地に手を差し伸べてくれそうな人影はない。頭上にはミャーミャーと鳴く鳥が舞っているが、カラスと違ってどうも光り物には興味が無いようだ。

「まさか載せられた船が沈むとは」

宝飾品を扱う商人の荷物として船で運ばれていたのだが、なんという運命のいたずらか、船が嵐で難破して荷袋ごと海に投げ出されてしまった。

 海底に沈むことなく近くの浜辺に流れ着いたのは僥倖だが、このままでは遠からず同じ結末となるだろう。人間のように寿命で老いることのない身だが、こういう時ばかりは自ら移動できない我が身が恨めしい。

「さて、神に祈ればいいのだろうか」

 信じてもいないものに縋るのも馬鹿らしいが、さりとて他にやることも無い。私はぼんやりと過去の持ち主が唱えていた祈りの文句を思い返していた。

 それが果たして天に届いたかはともかく、波音に混ざってリズミカルな足音が聞こえてきた時、こうして人間は信仰の沼にはまりこんでいくのだろうと思わずにはいられなかった。

「ふんふんふーん」

 今でも鮮明に思い出せるくらい調子っぱずれた鼻歌を歌う少女が、貝殻を拾いながら浜辺を歩いてくるではないか。

 この千載一遇の機会を逃すわけにはいかない。

「もし。そこ行く少女よ」

「え?」

「こっちだこっち。右手側の足元」

 困惑してあたりを見回していた少女は、どうやら声の主が潮風に吹かれる銀色のナイフらしいということに気づいて戸惑いの色を深めた。そういった反応は珍しくないし過去には悲鳴を上げて逃げられたこともあるが、今回ばかりはそうなってもらっては困る。

「君に頼みがある」

「ナイフが喋ってる!」

 驚愕に顔を歪めた彼女を刺激しないよう、私は努めて落ち着いた口調で語りかけた。気分は猛獣使いのそれだが、こういう状況に関しては慣れている。

「驚くのも無理はないが、どうか私を持ち帰ってくれないか」

「持ち帰るって、どうして?」

 少女は私と距離を保ったままだったが、どうやら聞く耳は持ってくれそうだ。表情に怯えの色があるのは確かだが、一方で隠し切れない好奇心も同居している。

「見ての通り私は自力で動けない。このままでは潮風にやられてしまう」

「持ち帰ってどうすればいいの?」

「君の好きにしてくれて構わない。美術品として丁重に扱ってくれてもいいし、夕食の準備で食材を切るのに使ってもいい。然るべき相手に売ってもいいだろう。自分で言うのもなんだが、なかなか良い値段が付くぞ」

「手に持ったら呪われない?」

「感謝することこそあれ、呪うなどあるはずもない」

 そもそもこちとら物心ついた時から単なる刃物以上のことはできないし、むしろこの場に置いて行かれる方がよほど彼女を呪いたくなるだろう。

 少女は警戒心を露にした表情で私を見下ろしていたが、やがて意を決したようにその手を私に伸ばす。柔らかな掌が私の柄を握り、もう一方の掌で私の鞘の表面についた砂を優しく払い落とした。

「ありがとう。万言にも尽きせぬ感謝を捧げよう」

「言っとくけど、何か変な事したらすぐ捨てるよ」

「私には何もできないさ。精々君の話し相手を務めるくらいだ」

 少女の警戒を完全に解くには至らなかったが、それでも彼女はわずかにほおを緩めて私を目線の高さに持ち上げた。陽光の下で彼女の瞳は海を映したかのように青く輝いていた。

「あなた、名前はあるの?」

「あるとも。カミルと呼んでくれ」

「わたしはサラサ。よろしくね」

「ああ、よろしく」

「よろしくはいいんだけど」

 サラサと名乗った少女は首を傾げ、私をしげしげと眺めて尤もな疑問を呟いた。

「なんでナイフがしゃべってるの?」

「この世には数えきれないナイフがあるのだから、中には喋るナイフがあってもいいだろう」

「ふうん、そっか」

 私の言葉は答えになっていないような気もするが、納得してくれたのか、あるいは理解を諦めたのか、彼女は私をポケットに収めるとまた調子っぱずれた鼻歌を歌って歩き出した。どうやら無事に私を持って帰ってくれるようだ。

私は眼前の危機をなんとか乗り越えたことに安堵しながら彼女の歌を聞いていたのだが、なにせ根が正直者なため迂闊にも感想を口にしてしまった。

「下手だな」

「捨てるよ」

 じろりと睨まれた私が沈黙の尊さを思い出したのは言うまでもない。



このようにして私はサラサと出会ったのだが、正直に言えば彼女との付き合いがそう長いものになるとは思っていなかった。私が彼女に話しかけたのはやむを得ない事情によるもので、彼女にしても私を拾ったのは単なる気まぐれだ。

 自身のこれまでの所有者を思い返せば、一度も言葉を交わさないまま別れた者もいれば、数回話したきりで以降は私が沈黙を貫いた者もそれなりにいた。

 サラサもそのうち喋るナイフというものに飽きて私はどこかにしまい込まれるか、あるいは彼女や親が金銭的価値に気づいて私を手近な質屋か古美術商にでも持ち込むのが先か。

どうなるにしても浜辺で朽ちるより悪い状況にはならないだろう。

 と、思っていたのだが。

「ねえカミル、この服とこの服、どっちがいい?」

「自分の好きな方を着たらいいだろう」

「はぐらかしてないで質問に答えて」

「……強いて言えば右手に持っている方だ」

 ある日は姿見の前で悩みながら私に尋ねたり。

「ねえカミル、今日の晩御飯は何だと思う?」

「はて、見当もつかない」

「なんでもいいから言ってみて」

「魚のスープではないか」

「ハズレ!今日はお肉です」

 ある日は夕飯の食材を誇らしげに見せびらかしたり。

 サラサは驚くほど違和感なく私の存在を受け入れ、どこに行くにも話し相手として私をポケットに入れて歩いていた。

 サラサの住む港町は流通の要衝としてそれなりに栄えていたため人流も豊富で、彼女の両親もホテルを営んでいることからサラサの家には様々な出自の人々が出入りしていた。

 見ず知らずの物や人に対する彼女の許容範囲の広さは、きっとそういったところから来ていたのだろう。

 私としても一個の存在として認められて悪い気はしない。話し好きなサラサと多くの言葉を交わし、時には思いつく限りの助言をし、時にはただ静かに話を聞き、時には悲しみや怒りを共有した。

 心地よい日々は矢のように過ぎていき、気づけば彼女が浜辺で私を拾ってから数年が経った。

 サラサの初等学校の卒業式の日、普段よりフォーマルな服装に身を包んだ彼女に、私は机の上から感慨深い気分で声を掛けた。

「卒業おめでとう」

「うん、ありがとう」

「あまり嬉しそうではないな」

「もちろんうれしいよ。でも中等学校には進まないともだちもいるから、ちょっとさみしいんだ」

 サラサの表情にはこれまであまり見たことのない陰があった。たとえ何年生きようと親しい友人との別れはいつでも辛いものだ。まだ年若い彼女にとっては尚更だろう。

「気持ちは分かるがせっかくの門出だ。暗い顔は似合わない」

「学校では笑うよ。でも友達がいないところではちょっとだけ悲しませて」

「おや、私は友人ではなかったかな」

 軽口のつもりでそう言った私の柄頭を、サラサは人差し指で弾いた。乾いた音が響いて、私の体がくるりと180度回転する。

「カミルは友達じゃなくって家族でしょ。ずっと一緒なんだから」

 そう言って微笑んだ彼女に、私はほんの少し言葉を失った。正直に言えば、そんな風に呼ばれることがあるとは想像していなかった。

 友と呼ばれたこともそう思える持ち主もこれまでにいたが、まさか家族とは。

「つまり、私は中等学校の卒業式でも君を励ます必要があるわけだ」

「そうかもね」

 サラサの寂しげな笑顔を見ながら、私自身も彼女と長い時間をこれからも過ごすのだろうと思っていた。

 しかし、私もサラサも当たり前の事実を忘れていた。

 家族にもいつか別れる時が来る、という事実に。



 大抵の場合、良いことも悪いことも前触れなくやってくる。

 あの時もそうだった。

 サラサは中等学校をそれなりに楽しく過ごし、家族仲もそれなりに良好で、両親の商売も生活に困らない程度に繁盛していた。

 なべて世は事も無し。私もサラサも、きっと平穏な日々が続くだろうと根拠なく思い込んでいた。

 学校から帰ったサラサが、騒々しい足音を立てて部屋に入ってくるまでは。

 友達と喧嘩でもしたのかと口を開きかけた私は、サラサの表情を見て尋常ならざる事態であることを察した。それくらい彼女の顔色は青ざめていたのだ。

「どうしよう」

「サラサ、まずは落ち着こう。どんな問題が起きたにせよ、平静を失っては解決策も思い浮かばない」

 声を震わせるサラサに私は努めて静かな口調で語りかけ、崩れ落ちるように椅子に腰かけた彼女が口を開くのを待った。

 サラサは胸に手を当てて一度深呼吸をすると、常の彼女からは想像できない沈んだ声で話し始める。

「お父さんが倒れたの。病院に運んだんだけど、流行り病だって」

「症状は重いのか?」

 私の問いにサラサは力なく首を縦に振った。

「ずっと意識がないの。もう目覚めないかもしれないって」

 こういう時になんと声を掛ければいいのか。人よりも長い時を生きても未だ良い言葉は思い浮かばない。

「治療はできないのか」

「薬はある、らしいんだけど」

 サラサの言葉は歯切れが悪いが、なんとなく続く言葉は予想できる。人よりも長い時を生きると、そんなところばかり勘が良くなる。

「すごくお金がかかるって。うちの稼ぎの数年分」

 果たして彼女の言葉は予想と違わぬものだった。医療というものはいつの世も非常に貴重で、利用するには富か権力のいずれかが必要だ。そして大抵の人間と同様、サラサとその家族はそういったものと縁遠い。

「お母さん、泣いてた。どうすればいいんだろう」

 悲嘆に暮れる少女の絶望の深さを、小さく震えるその肩が何よりも雄弁に物語っている。それを目にした私の胸中に一つの決意が灯った。

この愛すべき日々の終わり、即ち愛しき家族との別離。それを迎える時が来たのだと。

「サラサ、良いアイデアがある」

 顔を上げた彼女が、続く私の言葉に何と答えるかは分かっていた。そう、人よりも長い時を生きているのだから。

 それでも言わねばなるまい。なによりも家族のために。

「私を売ればいい。自分で言うのもなんだが、間違いなく良い値段が付く」

 サラサは一瞬私の言葉の意味を掴みかねたような間を置いてから、眉を吊り上げて私を睨み予想通りの言葉を口にした。

「本気で言ってるの?」

「もちろん本気だとも。私は冗談のセンスに自信が無い」

「やめて。笑えないよ」

 彼女の怒りは尤もだろう。立場が逆なら私も同じことを言ったはずだ。それでも今回ばかりは引き下がることはできなかった。

「サラサ、君が私を家族と呼んでくれたことに感謝している。だが、同時に私はナイフという道具だ」

「だからなに?お金に換えていいって言いたいの?」

「違う。誰かのために役立つことが私の望みだということだ」

 そして、誰かの役に立つのであれば、誰よりもサラサのためでありたい。

 私は忘れてしまいたい記憶の扉に手をかけ、その中から滲み出す血色の感情をほんの少しだけ吐き出す。

「昔のことだ。私を友人と呼ぶ奇特な男がいた」

 何を言い出すのか、と私を見つめるサラサには構わず私は続ける。

「旅から旅への根無し草だった。気まぐれに西へ東へ動き回り、まだ見ぬ場所へ行くことが彼の生きがいだった」

 今でも昨日のように思い出せる。

「ある日、移動の最中に日が落ちて街道のそばで野宿することになった」

 次の言葉を口にするのにほんの少し躊躇して、それでも私は話し続けた。

「焚き火のそばで夜空を見上げて次の目的地について話していると、野盗に襲われた。彼は私を持って抵抗したが、多勢に無勢だ、数分後には血の海の中に沈んで動かなくなった。私も野盗たちに奪われてどこかの商人に売りとばされた。あの時ほど役に立てない自分を呪ったことはなかった」

 こんなことを誰かに話したのは初めてだった。それも仕方のない事だ。なにせ私を初めて家族と呼んだのはサラサなのだから。

「サラサ、どうか私のわがままを叶えてほしい。私でも誰かの役に立てるのだと思わせてほしい」

「いやよ、絶対にダメ。それでお父さんが助かっても、別の家族がいなくなるなら意味がないじゃない!」

「家族にもいつか別れの時は来る。その理由が死や病のこともあれば、学業や仕事のためということもある。結婚して家庭を持ったからということもあるだろう。私は家族の役に立つために自ら選んで君と別れたいんだ。この上なく悲しいし寂しいが、同時にこれほど幸せなことはない」

 そして家族であれ友人であれ、こうして真情を吐露できる相手がなんと得難い事か。長く生きているからこそ痛感する。

「どうか私が旅立つことを認めてほしい」

 賢明なサラサは他に手段が無い事を十分に理解しているだろう。

 だからこそ彼女は黙ってしまったのだ。なんとか私の主張を覆すための手段を探しているから。

「サラサ、これが永遠の別れじゃない。生きてさえいればそのうちまた会えるさ。そしていつかまた会えると思えるなら、別れもそう悪いものじゃない」

 本当に私は幸せだったのだ。

 未練と言えばただ一つ、俯く彼女に言葉をかける以外にできることがなかったことだろう。



 そこまで語り終えた私は、過ぎ去りし遠い日々に思いを馳せて小さく息をついた。

 フィロに目を遣ると彼女は枕を抱きしめて私を見つめている。大きな瞳が部屋に差し込む月光を反射して真珠のような輝きを放っているのは、涙を浮かべているからだろうか。

「カミルは優しいね」

フィロにそう言ってもらえるなら救われた気分だ。しかし、彼女の言葉はそれで終わらなかった。

「でも、ひどいよ」

 呟きは静かだったが、私に向けた視線は見間違いようもない非難の色を帯びていた。

「もしカミルがいなくなったらわたしは悲しいよ。それがわたしのためでも」

 彼女の言葉に何と答えるべきか私が思案していると、部屋の扉が開いてサラサの母であるギーが顔をのぞかせた。どうやら話し声を聞きつけたらしい。

「サラサ、あまり夜更かししちゃだめよ」

「はーい」

 サラサはすねたように母に背を向けると、私にだけ見えるように舌を出して笑みを浮かべた。ギーはそんな娘に嘆息し、じろりと私を睨む。

「カミルもあんまり昔話に付き合わせないでね。あなたは話し出すと長いんだから」

「心外だな。君に寝物語を語って聞かせたのが誰だったか、忘れたわけではないだろう?」

「もちろんよ。だから言ってるんじゃない。じゃ、おやすみ」

 ギーはそう言うと私が反論するより先に扉を閉めてしまった。全く、フィロと同じ年頃の彼女はいつも私の話を喜んで聞いていたというのに。

「ねえ、カミル」

 憤懣やるかたない私に、フィロが声を潜めて話しかけた。

「サラサとはまた会えたの?」

 まっすぐに私を見つめる少女にとって、母の忠告よりも話の結末を聞く方が大切なようだ。ほんの少し夜更かしが続くことを心中でギーに詫びながら、私はサラサと別れた後のことを話し始めた。



 人が付き合う相手を選ぶように、私も話しかける相手は選ぶ。

 所有者が気に入らなければ、他のあらゆる無機物がそうであるようにひたすら沈黙を保つだろう。

 そして私が一言も発さない限りナイフに向かって話しかける者はまずいないし、仮にいてもそれは独り言のようなもので会話を期待してのものではない。

 だからこそ、私の生において誰とも話さない孤独な期間は特に珍しいものではなかった。サラサの手元を離れてからもそうだ。

「まったく、口下手な連中ばかりだ」

 ガラスケースに入れられた私は、周囲で同じように展示されている美術品や貴金属を見渡して嘆息した。どうやら私のように話せるやつはいないようで、どいつもこいつもつまらない静寂に身を任せている。

 ここに至る経緯を話すと、私を最初に引き取ったのは富裕層を専門に商売をする古美術商だった。

 サラサの母は家業がホテルということもあって顔が広く、様々な伝手をたどった結果ここに行きついた。古美術商の男はサラサの家族の境遇にもいたく同情し、「市場価値に少し上乗せして買い取りたい」と申し出て私を買い取った。

私は彼が提示した価格が実際の市場価値よりも低いことを知っていたが、それでも十分に良心的と言えるものだったため何も言わなかった。サラサの父の病状を思えば、多少足元を見られても治療に必要な金を確保する方が重要だ。

その後、私は別の商人に買われてどこか別の町へ運ばれると、さらにそこに住む蒐集家に引き取られた。

その蒐集家のギャラリーに私は飾られたのだが、なんとつまらない日々だろう。

「せめて窓の外が見える場所が良かったな」

 ギャラリーの中は静かで、見える範囲で動くものは何もない。時折客が訪れても私には一瞥をくれるだけで興味なさそうに通り過ぎてしまう。まったく、見る目のない連中だ。

 無味乾燥な日々は飛ぶように過ぎて、いったいどれほどの年月が経っただろう。

 私を買い取った時にはまだ中年で活力にあふれていた蒐集家の男も、髪や髭がすっかり白くなり息子に商談を任せるようになっていた。

「そろそろ他の物と取り換えるか」

 彼は失礼千万なことを言うと、ガラスケースから私を取り出して粗末な木の箱に収めてしまった。外の様子を窺い知ることはできないが、私はどうやらそのまま倉庫にでもしまい込まれたらしい。

「さて、次に日の目を見るのはいつになることやら」

 暗闇の中で呟いても、応える者は何もない。

 ただひたすら空虚な時間の中で、私はサラサや今までの所有者のことを思い出していた。

「こういう時は長い生も悪くない」

 振り返る時間も思い出も、今の私にはいくらでもある。

 外界に心を閉ざし、私の意識は過去と現在の境目も曖昧になってしまうほど深く深く闇の底に落ちていった。

 そのままどれだけの時間が経ったのか私には知る由もない。静寂と闇だけが私の知るすべてだったのだから。

「ああ、あったあった」

 記憶の海に揺蕩う私を現実に引き戻したのは、いったいいつ以来になるのか、蒐集家の男の声だった。

 男は頼りない手つきで私を木の箱から取り出すと、薄暗い倉庫の中で私の鞘を外して刀身をじっくりと眺めた。男の風貌は私が最後に見た時から更に老いて、まるで枯れ木のようだった。

 男は再び私を鞘に納めると今度は丁寧に箱に入れなおし、そのままどこかへと歩き出したようで ふらふらとした揺れが私を襲う。今更いったいどこへ行こうというのか。

 果たしてそう長い時間もかからず男の歩みは止まり、私は再び箱から取り出された。

「こちらで間違いないですか」

「ええ、ありがとうございます」

 男の対面には妙齢の女性が座り私をじっと見つめていたが、ふいと視線を逸らして男と話し続けた。どうやら商談の途中らしいが、彼女は如何にも場慣れした商人といった風情で、落ち着いた口調と相俟って経験の深さを感じさせる。

 二人は私をテーブルに置いたまま丁々発止の掛け合いで私の取引金額について交渉していたが、やがて蒐集家の男が女性側の強気の態度に折れた。

「コレクションを手放すのはあまり気が進まないのですが、流石にこれだけの値段ではお断りできませんな」

「無理なお願いを聞き入れていただき感謝します」

 女性はカバンから取り出した分厚い札束をテーブルに置くと、肩をすくめる蒐集家の男から私を受け取り、蒐集家の男への別れの挨拶もそこそこに足早に建物の外に出た。

そして、まるでそうすることが当然であるかのように私をポケットに入れて歩き出す。

「ふんふんふーん」

 記憶と変わらない調子っぱずれた鼻歌を歌う彼女に、私は思わず感想を口にしてしまった。

「相変わらず下手だな」

「捨てるよ」

 彼女はにっこりと笑うと私の柄頭をぽんと叩いた。どれだけの年月を経ても、その笑顔を見間違うはずもない。

「おかえり、カミル」

「ただいま、サラサ」

 私たちの別れはそう悪いものではなかった。

 そして、再会は素晴らしいものだった。



 私が話し終えた時、フィロはなかば微睡みながら安どの表情で微笑んだ。

「また会えたんだ」

「ああ。めでたしめでたし、というやつだ」

「よかった」

 それだけ言うと、彼女の眠気は限界に近かったのか、ほどなく穏やかな寝息が聞こえてきた。

「夜更かしは君にはまだ早いな」

 なにより、骨董品の昔話を聞くよりもきちんと眠って明日を迎える方が彼女には大切だ。

 あどけない寝顔を見つめていると、音もなく部屋の扉が開いてギーが顔を覗かせた。娘が言いつけ通りに眠ったかを確かめに来たのだろう、彼女は人差し指を口に当てて静かに部屋に入ってきた。

「もう眠ったのね」

「ああ。君よりも寝つきはいいようだ」

「良いことよ」

 ささやきながら頷いて愛おしそうに娘の寝顔を見つめるギー姿は、家族愛を題材にした一枚の絵画のようですらあった。

「君たちは良い家族だな」

「何を他人事みたいに。あなたも家族でしょう。……それじゃ、おやすみ」

 口を突いて出た私の言葉にギーは呆れたように肩をすくめると、また静かに部屋を出ていった。

 後に聞こえるものといえばフィロの微かな息遣いと、遠く響く虫の声くらいだ。カーテンの隙間から窓の外に目を遣ると、白い月が夜空の支配者のように白く輝いている。

 私に信仰する神はない。それでも、フィロたちの明日がその光よりも明るいものであるよう願わずにはいられなかった。

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