第5話
挽地は蹴たぐるようにサンダルを脱ぎ捨て、奥の和室へ駆け戻った。
ぴったりと閉められていたはずの襖は引き倒され、中央が蹴り抜かれたように抉れていた。
挽地は襖を乗り越えて和室に飛び込む。
頭上から巨大な蓑虫じみた影が垂れ、重く軋む音を立てていた。
波田が天井の梁にぶら下がっている。
首を吊っているにしては、縄が見当たらない。梁に首を縫いつけられ、張りついているように見えた。
踏み台に使ったであろう祠の残骸が、更に激しく粉砕され、足元に散らばっていた。
「あんなところにどうやって……くそ、あれか」
波田は首の痕を隠していたタオルを梁に巻きつけていた。
挽地は舌打ちし、細かく痙攣する波田の脚を抱え上げる。太い脚が独りでにもがき、挽地の肩や頰を蹴りつけた。ぶちぶちと、タオルの繊維か筋肉が断裂する音が降った。
駆けつけた鈴江の悲鳴が響く。
挽地は波田を抱えながら声を張り上げた。
「ここで死なせるな! 曰くができる!」
倒れた襖を前に呆然としていた鈴江は、我に返って挽地の腕を支えた。
「挽地さん、早く救急車を呼ばないと!」
「わかってる、でも、その前に降させないと……」
鈴江は波田の足元に身体を捩じ込み、肩車をするように押し上げた。
波田の喉から引き絞られた息が漏れる。ジーンズの股から染み出した雫が湯気を上げて滴った。
鈴江が歯を食いしばって唸る。
「挽地さん、早く!」
「鈴江、よくやった! もう少し頑張れ!」
挽地はそう言うなり、鈴江の肩を踏み台に梁へと駆け上がった。鈴江がくぐもった悲鳴を上げる。
木材が大きく軋み、一拍置いて破裂音を立てた。
波田の身体が落下し、鈴江と共に祠の残骸に倒れ込む。避けた木材の破片がふたりに降り注いだ。
天井の梁は黒い縄の跡があった部分でちょうどへし折れ、斜めに歪んでいた。今さっきまで波田をぶら下げていた薄汚れたタオルが嘲笑うように揺れている。
挽地は覆い被さるように倒れた鈴江を押し退け、波田の呼吸を確かめる。目は充血した膜が張り、首には青黒い痕がくっきりと残っていたが、まだ息がある。
挽地は安堵の声を漏らし、祠の残骸を蹴った。視線を上げると、和室の前で血の気の失せたイズミがへたり込んでいた。
スタジオハウスに一台の救急車が滑り込む
挽地は坂の上に停めた白いバンの窓から、担架で運び出される波田と項垂れたイズミを見守った。
「これ、俺らの賠償責任とかにならないよね……」
「最初に言うことがそれですか」
助手席の鈴江がウェットティッシュで肩を拭いながら眉を顰める。服の布地についた黒いシミが更に濃くなった。
挽地は煙草に火をつけ、煙を窓外に吐き出す。
「でも、これで呪いがないことは証明された。波田の行動は強迫観念に突き動かされた突発的なヒステリー。病院でちゃんと治療を受ければ治るはずだ」
「……本当にそうですか?」
鈴江は掠れた声で呟いた。
「波田さんは挽地さんの答えに納得していたように見えました。なのに、自ら首を吊った。まだ、呪いは進行しているんじゃないですか?」
「難儀な奴だね。呪いは思い込みだよ」
「そうです。思い込みが呪いを作るんです」
挽地は口を噤む。木々が枯れ果てた無彩色の山道を冷たい風が吹き渡った。
「挽地さん、いつも言ってますよね。『神も祟りも存在しない。でも、呪いは人間が作り出せてしまう』って。少しの疑念や罪悪感を増幅させて、いずれはなかったはずのものが実態を持ってしまう。今、あのスタジオハウスの呪いが実体化してるんじゃですか」
「そういう思い込みこそが……」
「目を曇らせる」
鈴江は挽地の目の前に指を突きつけた。
「挽地さんも今その状態じゃないですか? 呪いなんてないと思い込もうとして、本質から目を背けてる。危険ですよ」
真っ直ぐな視線が射抜くように向けられていた。
挽地は深く溜息を吐き、窓から手を伸ばして灰を捨てる。
「鈴江、言うようになったね。誰が育てたんだか。俺だよ……」
「教育の賜物ですね」
「……じゃあ、聞くけど、あの家で首を吊るのは不可能なのにどうやって首吊り女の呪いが生まれたって言うんだ」
「本当はわかってるんじゃないですか? あの家で首を吊れる場所が一箇所だけありますよね。いや、あったんですよね」
挽地は長い沈黙の後、言った。
「……確かめに行こうか」
「はい、それが私たちの仕事ですから」
鈴江は力強く頷く。挽地は茶色い木の葉が舞う車道を見つめた。
「鈴江、アクセルとワイパーってどっちがどっちだっけ?」
「どいてください。運転代わりますから」
「久しぶりだから忘れてただけだよ。何が駄目なんだ」
「アクセルと対になるものがワイパーだと思ってるところです」
鈴江は猛然と挽地を押し退け、ハンドルを握った。
ふたりは再び、スタジオハウスに降り立った。
引き戸は開け放たれ、生垣も家の壁も、一段と彩度が低く褪せて見えた。
挽地は鈴江を連れて家の裏に向かう。
積み上がったガラクタの山の中に、折り畳んだ一枚の紙が捩じ込まれていた。分厚い画用紙だった。
「雨にも濡れてない。最近捩じ込まれたんだな」
挽地は紙を抜き取った。日に焼けて黄ばんでいたが、丁重に保管されていたのか劣化はほぼない。
紙を開くと、乾燥したクレヨンが剥がれ落ちる。
幼いが丁寧な筆致で描かれた絵だった。
ふたりの少女とひとりの少年が七色の花を手に持っている。周囲は暗く塗りつぶされていた。
三人の子どもが線香花火をしているかもしれない。彼らの奥には優しく微笑む男女が描かれていた。
鈴江が絵を覗き込む。
「この家に住んでいた子の絵でしょうか」
「そうみたいだね」
「それぞれの人物に小さく名前が書いてありますね。奥のふたりはお父さん、お母さん。前の子どもはトモエ、キヨちゃん、ハジメくん……」
「ひとりだけ呼び捨てってことは、この絵はトモエ本人が描いたんだろうな。前の住人に該当する名前の子どもがいたが調べたいけど……鈴江、不動産とのやり取りは?」
「まだ少し時間がかかりそうです」
挽地は絵を折りたたんでポケットにしまった。
「じゃあ、待ってる間にやるべきことをやろう」
ふたりはガラクタの山からシャベルを引き抜き、庭に回った。
庭の一部だけ雑草が生えておらず、湿った土が円を描くように溜まっている。
挽地は躊躇いなく円の中央にシャベルを突き刺した。長い髪が顔に垂れ、鬱陶しげに払い除ける。
「邪魔くさいな。あのクソ野郎、次あったらヘアゴム代も取り立ててやろう」
「税込百十円程度ですよね?」
鈴江もシャベルを振り下ろす。土がざり、と音を立てて散らばる。湿った泥の匂いがふたりの鼻腔を突いた。
掘り進めるごとに日が落ち、黒い土が全てに染み渡ったように暗くなる。
シャベルに縋りつく泥が重い。急速に冷えていく空気にふたりの白い呼気が溶けた。
息遣いと土を抉る音だけが静まり返った庭を支配していた。
空が藍色の闇で満ちたとき、シャベルの先端が土より硬いものを突いた。
挽地は喪服の袖で額を拭う。
「予想通りだね」
「やっぱり挽地さんも気づいてたんじゃないですか」
「当てたくなかったんだよ」
寒風が白い息を攫って流れていく。
「イズミさんの夢に現れた女の幽霊が、畳を這い回ってるって聞いたとき、不思議に思ったんです。普通は首を吊ったなら上からぶら下がっているはずですから」
「普通はね。床より低いところで首を吊るなんてできるはずがない。でも……」
挽地はシャベルを投げ捨てた。傍に積み上がった泥の山が揺れる。
「ここなら鶴瓶に縄をかければ、できる」
地中から現れたのは、半ば崩れかけた石造り井戸だった。
祠に金槌、蛇に釘 木古おうみ @kipplemaker
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