朝焼けの檸檬ジンジャー

「やべ、作りすぎたし、余計寝れんし」

 翡翠ベリーを誤発注したから余ったのは仕方ないとして、腐る前にと加工し始めたのは眠れないからだった。

 山猫は夜行性だけど、眠らないわけじゃない。むしろ真夜中は寝ている。

 それに、習性であって社会性とはまた違う。完全に夜行性の、夜に起きて朝に寝る種族はそのための社会が出来上がっているわけで。それでも学校だとか仕事のために生活ペースを昼型に合わせる個体も少なくない。

 まあつまり、うちら獣途は昼夜関係なく生きている。

 習性でもなく、悩みがあるでもなく、その他の要因があるでもなく。なんとなく眠れない夜は誰にでもある。

 ジャムにしよう、と翡翠ベリーを洗っていたら、ふと他のこともしたくなった。小鍋で砂糖と一緒に煮立たせて、作り置きのパイシートを取り出したのが良くなくて。

 下にちょっと敷こうと、ビスケットを叩きまくっていたのも悪かった。

「網目のやつ、やりたいな」

 小さなパイにするつもりが、大きな丸いやつにしてしまった。網目を作るの、結構好き。工作みたいじゃん?

 刷毛で卵黄を塗って自然かまどに入れたら焼けるまでしばらく様子を見る。

 暇っていうか片手間で何かしたいんだよね、こういうとき。

 野菜、刻むか。

 保存出来る甘露キャベツの塩漬けに、白玉ねぎの林檎酢漬け。ざくざく適当に包丁を使えるのが無になれていい。

 そんなことをしているうちに、かまどの中もいい感じ。キャベツの水分を絞って、パイをそっと取り出す。甘酸っぱいベリーの香りが、バターの香ばしさと混じり合って台所を埋めていく。

 なかなか上手く出来たんじゃない。

 そして、今に至る。

 焼き立てを食べたいけど、うちだけで食べきれる量じゃない。夜行性の友達はいるけど、今の時間は学校だろうし。

 でも、作ってる間に浮かんでた顔がある。

 店の備品をちょっと拝借して、あれこれ足して詰める。多分、行ったらぶすっとしながらお茶を淹れるんだ、あのひとは。

「よし、出発! いざ天文台へ!」

 真夜中とはいえ、夜行性種族のみんなは活動中。昼間ほどじゃないけど、街灯と商店で道は明るい。水蒸気二輪車を走らせて、丘の上の天文台を目指した。


 水蒸気式の二輪車は、馬力が足りないけど音は静か。丘の上くらいまでならすいすい走るから気に入ってる。風を切って派手に走る蒸気式も好きなんだけど。

 水蒸気式って言っても、蒸気で動くことに変わりはない。ただ、燃料を燃やして蒸気を出すんじゃなくて、水冷式ってやり方の動力発生機を使ってる。らしい。

 海の向こうでは、速さを競ったり、複雑な道を攻略する競技が出てきたとかで、二輪車愛好家はこちらでも増えている。

「おつ〜。先生、やっぱ起きてた」

 通い慣れた天文台の階段。最近新しくしたドアノブ。炭酸水精製機を置いたって機械屋のカムラさん言ってたな。

 猫背の向こうから、しゃがれた声が低く唸る。

「親御さんに連絡は?」

「してない。寝てるし」

「子供が一人で真夜中にふらふらと」

「寝れなくてさ。パイ、食わね?」

 まったく、と怒ったような呆れたような声を出した先生は、案の定天文台の中でもそもそと孤独に星の観測をしていた。

 小さいころから遊びに来て勉強を教えてもらってたから本当の意味で先生でもあり、二輪車愛好家仲間でもあり、何を作っても食べてくれる人間でもあり、夜更かし友達でもある。

「ママがさ、間違って翡翠ベリーを余計に仕入れちゃったわけ」

「パイは分かったんだが、こちらは?」

「炙りベーコンサンド。塩漬けキャベツと白玉ねぎの林檎酢漬け、多めに作ったからお裾分け。どうせ野菜足りてないっしょ。先生もおじさんなんだからさぁ、野菜も魚も食べなね?」

 胡麻入りの黒パンに炙ったベーコンと、作った野菜の漬物を挟んだだけ。ちょっとだけマヨネーズも。余り物だけどパイだけよりは健康的。

 瓶詰めにしてきた漬物を渡すと、先生はまた唸った。


 好き嫌いはないんだけど、甘いものを好んでよく食べる。真面目できっちりした性格だから、お茶とか珈琲とかも細かく測って手順通りに。

「こんなんさぁ、ガーッてやってドバーでも飲めるじゃん?」

「それでは旨さを引き出せんだろう」

「人間だから繊細なのか、繊細な人間なのか分かんないね」

「君が大雑把すぎるだけでは?」

 多分、先生は人間の中でも細かい方だと思う。砂時計を使ってしっかり抽出した紅茶、たしかに美味しい。

 ただ、淹れてもらってなんだけど、炭酸水精製機のが気になってんだよね。

「パンを軽く焼いてから挟んであるのか、香ばしくていい」

「そそそ、胡麻とベーコンの香りいいっしょ。林檎酢漬けの甘酸っぱいのが映えるっていうかさ、マヨネーズも甘みが出る感じしない?」

「うん」

 渋い顔をしていたわりに、先生はもぐもぐベーコンサンドを食べ進めていく。没頭すると携帯栄養食で済ませてるから、ある程度空腹ではあるはず。

 しゃきしゃきとくたくたの間くらい、噛むとじゅわっと水分が溢れる甘露キャベツと白玉ねぎ。黒胡椒の効いたベーコンと相性抜群。ぷちぷちの胡麻が弾けて、香ばしさが口に広がる。

「相変わらず、君の飯は旨いな」

「だっしょ? これでも栄養学専攻してっからね〜」

「うん、旨い」

 言葉は少なくても、もりもり食べてるところを見るとかなりお気に召した様子。渋みのないさらっとした紅茶がはかどっちゃう。

 人間は体毛が薄いから、胡麻が毛に付く心配しなくていい。なんだけど、先生ときたら年がら年中無精髭。うちよりも胡麻がひっついてる。

「それで君、大学は? こんな時間に遊んでいて大丈夫か?」

「いまさら言う?」

「君たち山猫は昼間も活動するし、ルチカ君は日中の学部だっただろう。もうしばらくすると夜も明けてくるのに」

「いやぁ、なんかさ、眠れなくて?」

 ぶっちゃけ、こんな夜に遊びに行こうと思えばどこにでも行ける。列車で都心部に出れば騒がしい街で飲み食いしたり踊ったり歌ったり。二輪車があるから好きなだけ夜道を走ったり。

 でも、眠れないときは料理がしたい気分なのだ。

 家は青果店だから、親の許可をもらえばおつとめ品を好きに使わせてもらえる。それなりに上手く出来る方だと思うし、作ること自体が単純に好き。大学では栄養学を専攻しているのも、一応関係はある。

「たまになら、まあ仕方あるまい。そんな夜もあるさ」

 シャツの襟にまでついたパン屑をぱたぱた手ではたいて、先生はまたため息をつく。

 ただし、今回は機嫌が良さそうに。


 生きていれば悩みもあるし、悩みで眠れないこともある。

「いや、うち眠れんほどの悩みはないや、今んとこ」

 進路も迷ってるけど、まだ二回生だからもうちょい勉強してから考えよっかな、くらいだし。彼氏とかいらんし。友達もまあまあいればいいかな。いじめられてるわけじゃないし、わいわいすんのも、ぼっちでふらふらしてんのも楽しいし。

 二輪車に乗り始めたらちょっと太ったけど、まあまだなんとかなる。新しい化粧品欲しいな、は悩みじゃないな。欲求だ。

「それならなおさら、私のような人間のところに来なくてもいいのでは?」

「え、友達に会うのに理由とかいらんくない?」

「友達……私がか」

「先生だけど友達みたいな?」

 地元の友達や大学の友達も好きだし、喋ってるのは好き。でも、静かな夜はこの真面目でつっけんどんな先生とだらだら話しているのがいい。

 変に媚びないし、ちょっと天然。説教するわけでもなく、あれこれ指図するわけでもない。

「なんていうか、先生とは会話してるって感じ。お喋りとはちょっと違うんだよね。しっかり言葉のやり取りしてる、的な」

「抽象的というか、感覚的というか。とはいえ、そういった感性がルチカ君らしくもある」

 簡易かまどでパイを温め直したから、彼はとても機嫌がいい。部屋中に甘酸っぱいベリーと、とろけるようなバターの香りが広がっている。

 パイを切り分けるのは飾り気のない小さな包丁。刃が表面に当たって、生地がパリッと崩れてざくざく音を立てた。果肉をごろっとさせた状態のベリーに、底へ敷き詰めたクッキーのさくさく感。切った場所から、薄くふわっと湯気が立つ。

「こんな時間にさ、パイ食べようって作って持ってきても怒らないの、先生くらいだよ」

「怒る理由があるか?」

 訝しげな顔をして、先生はフォークを差し出した。ミルクのアイスなんかを乗っけたらさらに美味しそうだけど、太るからダメだな。私より先生が。

 怒らないのよりも、誰よりも美味しそうに食べてくれるのが嬉しいんだよね。次もいろいろ作ってみようって気持ちになる。大袈裟に褒めたりしない分、しっかり見てほしいとこ見ててくれるっていうか。

 本人はまったく気が付いていないけど、案外みんなそういう気持ちで先生との関係を築いてるんだと思う。モチベ上げてくれる人間、貴重だよ。


 東の空が明るくなって、ぱかっと開いた天文台の屋根から朝がくる。すかっとした風が入り込んで、澄んだ空気が鼻先を掠めた。

 いまいち眠気がこない。むしろ、この爽やかな朝にときめきまで感じている。

 山の影の向こうに太陽の橙、柔らかく溶けていく夜の藍色。その間に少しずつ広がって流れる淡い青と澄んだ白。西に残る星がちらほら。

 丘の上の天文台は、夜明けの特等席だ。

「さて、何か飲むかね?」

「炭酸水、気になってんだよね」

「……生姜糖が好きだったな、君は」

「そうそう、トコさん来たら毎回買っちゃうんだよね。普通のも好きだけど、トコさんの店のちょっとだけシナモンが入ってるの、めっちゃ好き」

 トコさんのラクダ行商は、大きな貨物列車でやってくる。列車の一両分が行商専用。不定期的にやってきて、切り離したら起重機で駅前へ。そのまましばらくその地で商売をしたら、列車に繋げて別の街に向かう。

 各地のおやつは必ず仕入れてきてくれて、生姜糖も異国の地の風味がたまらない逸品だ。

「私は檸檬の皮入りのものも好きでね」

「分かる〜。それも好き」

 戸棚から、生姜糖の入った瓶と、たまに使う不思議なインク。書くものは筆にしたみたい。

 今日のインクは蜂蜜色の弾けるような眩しいインク。筆の先にちょんと付けると、きらきらが毛先に吸い込まれる。

 小皿に取った生姜糖の上に、すいすいと迷いなく記号みたいな文字を書いていく先生は、いつも以上に眠そうな目をしていた。

「気になって大学の図書館でも調べたんだけどさ、先生のその字みたいの、人間特有の文字にしても珍しいやつ? 資料とか全然出てこないんだけど」

「ああ、これは……」

 真剣だった眉毛が困ったように下がる。ううん、と軽く唸って、彼はなんだか悲しそうに鼻で笑った。

「遠い昔、遥か東の国の文字だ。もう私くらいしか、自由に読み書きの出来る人間はいないだろう」

「先生の故郷の、古い文字ってこと? 帰ったらまだ誰かは残ってんじゃん?」

「いや、文化ごとすべて消えた。国も滅びた。私は運悪く、一人で生き延びてしまっただけだ」

「あー……なんかごめん、聞いちゃいけない系の話だったわ。今のなし。うちが無神経だった、本当にごめん」

 やらかした。親しき仲にも礼儀あり、だわ。

 本名も知らないのに、思い出したくなさそうな昔のこと聞くのはナシだ。

 怒るかな、と思ったら、先生は困った顔をしながら笑っている。

「久しぶりに過去のことを聞かれたよ。まあ、古代文字かなにかだと思ってくれ。一番意思を明確に形にしやすいのがこの文字だというだけだ」

「いやほんとマジ、うちそういうとこあるから直さなきゃなって思ってんのに、なかなかさ……」

「そこでは私は、先生ではなかったし、今と違って嫌々星を眺めていたよ。役職と名前が混同して、周りには『星詠み』と呼ばれていた。もう随分昔のことだ、今更悲しくもなにもない」

 よし、と先生は筆を置いた。

 ころんとした形のハンドル付きグラスに、文字の浮かぶ生姜糖を入れる。グラス越しに見える、光で和らいでいく山の裾野。底には橙、上に向かって薄くなる色。

 掬うように、グラスの輪郭を節張った指がなぞる。

 生姜糖は内側から解けるみたいに崩れて、空の明かりとグラスの内側で混じり合う。ほろほろ形を無くす生姜糖が、とろけて内側に満ちて湧き上がった。

 冷たい風が優しく吹き抜ける。ふわっと香る檸檬と生姜。息をするのも忘れそうなほど、先生の指先に魅入ってしまう。

「湯で割ってもいいし、炭酸水もいい。温かいミルクでも合いそうだな」

「いいね、お湯割り」

「ではそうしよう」

 くるりとグラスの縁を指で巡ったら、湯気がグラスに満ちていく。

 生姜糖の表面が溶けたところへ、どこから出たのかお湯が静かに沸いてくる。下からじんわり、生姜糖だったものがお湯にゆらめいて、香りをさらに広げた。

 原理は全然分からない。おじさんにしてはかわいい特技、人間の中でも珍しい、魔法じゃないかとみんな噂している。

「底からかき混ぜて飲むといい」

「生姜湯だ、あったまるぅ」

 スプーンでゆっくりかき混ぜると、優しくて甘い香りが鼻に触れた。混ぜるたび、朝の終わりの星みたいに水面がきらきら光る。溶けたグラデーションがちょっともったいない。

 表面に息を何度か吹きかけて、琥珀色をそっと一口。

 魔法で混じった蜂蜜の甘さと、生姜糖の奥にあるピリッと感。檸檬の爽やかな香りに包まれて、ほかほか喉を通っていく。温かいから、香りがいっそう華やかに。

 二口飲んで、ふう、とひと息。朝の澄んだ空気にちょうどいい。

 猫舌って言うけれど、個体差が大きい。先生の方がふうふう一生懸命息を吹きかけている。

「美味しい、これよき」

「うん、上出来だ」

 だらだらしつつもあれこれ話したからか、頭の中は案外疲れていたみたい。

「ルチカ君、ひと息ついたら帰りたまえよ。親御さんも心配しているだろうからな、一晩帰って来ないだなんて。とはいえまだ道は暗い、しかも下り坂になるから、夜目が利くとしてもちゃんと二輪車の電灯はつけるように。無理をするなとは思うが、学ぶのが学生の本分であるからして、授業にはなるべく出席するように。それから」

「うん、うん。聞いてる聞いてる」

 あくび一つも出ないまま、低くてしゃがれた声が耳を通り抜けていった。


 授業終わりで天文台へ直行。昨日の売れ残りを、研究という名目で処理したのが上手く出来た。教授に渡した試食の反応もかなりいい。

 小ぢんまりした庭の脇に二輪車を停めて、階段は二段飛ばし。

 まだ夕方が始まったばかり。彼は寝起きでぼやぼや顔を洗って、もそもそパンを齧っている頃だろう。

「新作だぜ〜、先生!」

「……君なぁ」

「熟れすぎた琥珀梨のジャムと、硬すぎた香翠梨と挽き肉の包み焼き」

 いつも以上に開いていない瞼、片手に食べかけトースト、机には淹れたての珈琲。聞き慣れた唸り声が、バターで艶めく口から漏れる。

 カーテンを開いた大きな窓から、夕日の朱が優しく差し込んだ。

「ジャムはさ、炭酸水に溶かして飲んだら美味しいと思うんだよね。包み焼きは、東の方のギョウザってやつを真似してみた。先生好きっしょ、ギョウザ」

「ギョウザ……餃子か!」

「え、声でか。好きすぎじゃん」

 生姜湯を飲んで寝落ちしたお詫びと、そのまま泊めてくれたお礼と。結局見れなかった炭酸水精製機への知的好奇心も。

 ぱっちり開いた瞳でうきうき精製機を動かす先生は、過去イチの浮かれっぷり。聞いたことのない音階の鼻歌つき。昨日の話がふと頭をよぎる。

 しばらくは、触れないでおくか。

 泡がぼこぼこ湧き上がる精製機。勢いよく流れ出る炭酸水に、私も気分が上がってきた。

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