夕暮れ時のティーソーダ

「それにしたってですよ、いくら便利な二輪車ってもいい歳こいたジジイが二人で乗るってのはどうかと思うんですよ。歩いて来いって言われるよりゃ随分楽チンですけどね、いえいえ、お迎えに来てくださるのは嬉しいんです、嬉しいんですよ。ただね先生、ジジイ二人がみっちりひっついて乗るってのはねぇ、いかがなもんかと思うわけです」

 目の前で炭酸水の錬成機をいじる狸は、わははと一人で笑いながら手を動かしている。多分、ここに到着してから私は一言も言葉を発していない。

 たしかに、天文台に呼びつけるのも無粋かと思って迎えに行った。巷で流行りだした蒸気で走る二輪車を手に入れてから、麓の街まではそれで行く。

 買い物のついでに彼を迎えに行ったのだが、少しばかり後悔の念が沸いてきた。作業が進んでいるやら止まっているやら分からないほど、彼の口がよく回る。

「まあ相手が先生ですからね、こっちも世話ンなってるってことでギリギリですよ。ちょっと太ったかしら、あら案外背中が広いのね、こいつぁ石鹸の香りかしら、なんて考えながら後ろに掴まってるわけです」

「最近、太ったかもしれ」

「そらそうですよ、こんなとこで昼だか夜だか分かんない暮らししてんですから。いくら真面目に掃除だ洗濯だってしてても、食うだけ食ってろくに動かないときたら寄る年波にゃ勝てませんって」

 言い返す暇もなく、ぐうの音も出ない。たしかに最近、ちょっと腹が出ている気がしている。

 簡易的なキッチンの中に眠っていた炭酸水の錬成機が、きれいに磨かれてそれっぽい形になってきた。どうやら修理は終わりに近付いているらしい。

 窓を開けて、爽やかな風の入り込む研究室兼リビング。最近は星の巡りの都合で昼型の生活だ。陽が傾きかけている中、初老狸のカムラは眼鏡を上げ下げしながらあちこちを確認している。

 錬成機は私がここに赴任した時には既にあった。ただ、使い方も分からなければ、あまり興味もないので放置していたものだ。先日取り寄せた雑誌の中に、同じような形のものが載っていた。なにやら気になって目の前の機械屋に声をかけて、今に至る。

「今、流行ってるみたいですからね、こういうちょっと古めのが。うちらが若い時のモンだから珍しかないですけど、部品探すのにちょっと時間がかかりましたよ。一月前に話聞いた時は、また懐かしいモン持ってらっしゃるとびっくりしましたっけ」

「それはありがた」

「いやいや、こっちも仕事ですからね。うちの倅たちも先生に世話になりましたから特別サービス。ま、いいんですよ、部品探すのだって楽しいもんです、半分くらいは好きでやってるもんですから」

「ご子息」

「うちの倅、下の方のね、ありゃカカアに似たんだか、まぁシュッとしてるでしょう。羨ましいったらないですよ、何食ってもシュッとしてやがる。そうそう、先生のとこに行くって話したらよろしく伝えてくれって言ってましたよ」

「それはどうも」

 こちらの一言が何倍にもなって返ってくる。会話と呼べるのか、これは。

 彼のご子息、兄弟それぞれ幼い頃からの知り合いだ。赴任当初は不慣れなことが多すぎて、麓の街の獣人の皆に大層世話になった。その一環で、天文台の中で時々勉強を教えていた。

 私の知識など、カビの生えたような古臭いものばかりだったのだが、彼らは面白がってよく来てくれた。体力のある子供にとっては天文台までの道は楽々走り抜けられたのだろう。

「さてと、そろそろ試運転しましょうかね。先生、水、用意してください」

「えっ、水?」

「なんもないとこから炭酸水が出るわけないでしょうよ。水を炭酸水にする機械なんです、これは」

「そうか、そうなのか……分かった」

 なるほど、そういう機械なのか。理屈が分からなかったのでやっと納得し始めた。説明書がないのが心底惜しい。

 カムラに急かされながら、キッチンへ飲料水を汲みに向かった。


 正式名称は、卓上型取替式炭酸水精製機、というらしい。

 グラス二杯分くらいの炭酸水を一気に作れる程度の大きさ。取替式の部分は炭酸ガスを発生させる市販の装置のこと。装置は今流行りのものを流用できるとかで、そこらじゅうに出回っているそうだ。

「……味がないな」

「何言ってんです。炭酸の入った水なんですから、シュワシュワしてるだけですよ」

 ふう、とカムラはため息をついて、試運転で錬成された無味無臭の炭酸水を飲み干した。

 なまじ、自分が魔法を使えてしまうのが仇になっている。てっきり味付きの炭酸水が作れるのだと思っていた。

 魔術式を組み込めば水も取替式の装置も必要なさそうなのだが、それはなんだか味気ない。そういう発想が出てしまうのが、自分でも面倒な性格である。

 書斎に椅子を並べて、初老の男が二人。口の中で弾ける炭酸水を静かに飲んでいる。夕日で朱くなりだした部屋がなんとも侘しさを醸し出した。

「仕方ない、やるか」

「いよっ、待ってました!」

 元気な掛け声に、威勢のいい拍手。人懐こい笑顔で言われると、むず痒くはあるものの悪い気はしないのが不思議なところだ。

 彼は出会った頃からこの調子で、底抜けに明るいところが憎めない。いや、このくらいの方が普段は夜に一人で過ごす私にはちょうどいいのかもしれない。

 炭酸水は冷えた水から精製なら氷も必要ないほどキンと冷たい。強すぎるのはお互い老いた喉にくるということで、微炭酸程度に調整済みだ。

 シンプルなグラスにマドラー代わりのストローをそれぞれ。いつも通りの角砂糖でも良いが、戸棚の中に砂糖漬けの蜜柑があったのを思い出した。

「あれま、洒落たモンを」

「先日、ラクダ行商の」

「はいはい、トコさんね。こないだは北東からこっちに来たから蜜漬けだの乾物だのが多くてうちのカカアが喜んでましたっけ。先生も存外、甘いモンがお好きですからね。そんでもって商売上手のトコさんのことだ。ナッツの蜂蜜漬けと抱き合わせで買いましたでしょ?」

「どうして」

「だって先生、トコさんところのナッツの蜂蜜漬け、毎回買ってんだもの」

 分かりやすいよねぇ、と笑いながらカムラは精製機の上蓋を開けて水を注ぐ。蔦が巻き付いた装飾の施された硝子の容器に満ちた水が揺れる。少し色褪せた金の土台の底から泡が立って、ふつふつと錬成が始まった。

 こちらも見合うようなものを錬成しなくては。


 魔法を伝えやすくするためのインクは、作りたいものによって少しずつ違うものを。

 角砂糖と違って、砂糖漬けの蜜柑は柔らかい。細い筆を使って、そっと文字を入れる。もっと省略したものが書ければサッと出来るし、陣を書く知識があれば壮大なものも作れるのだろうが、私はこれで精一杯だ。

 輪切りの状態の蜜柑は、グラスにもぴったり入る。このまま炭酸水を注いでもいい気がしてきた。

「なんか、このままでもいいんじゃないかなぁ、なんて思ってません?」

「ううん」

「肯定してんだか否定してんだか」

 別に、媒体はある程度何でも構わない。角砂糖を使うのは、単純に甘いものを作りたいからであって、文字も短縮出来るからだ。角砂糖から辛いものを作るとなると、不可能ではないが細かい作業が必要になる。

 なるべく蜜柑は残したまま。甘すぎず、さっぱりと。ああ、紅茶のような落ち着きと爽やかさがいい。

 ちょうど、夕日がそんな色だ。これを借りてしまおう。

 太陽に向けたグラスの形を指でなぞって、空を切り取る。茜色の中に、砂糖がじわりと滲んで溶けた。硝子の内側でとろけていく蜜柑、空に混じる光。いい具合だ。

「毎度ながら、不思議で綺麗できらきらしてて、先生のやってることたぁ思えませんね。人間の顔の良し悪しは分かりませんけども、どっちかってえと先生は人間の中でも厳つい方でしょ」

「まあ、そうだなぁ」

「その面で作るもんは繊細で甘くて旨いってんだから、やっぱり先生はすごい! 言っときますけどね、褒めてますよ」

 若い頃から自分でも老け顔だと思っていたし、眠そうだとか機嫌が悪そうと言われることが多かったので、カムラの言うことに反論するつもりはない。そう多くの人間に関わっていない獣人の彼が言うのだから尚更だ。

 あまり変換させなくても良い素材なので、派手な動きはない。蜜柑はゆっくり煮詰まって、香りが足されていく。華やかでほろ苦い紅茶。柔らかい檸檬も少し。

「これでいいだろう」

 黒い鼻が香りを吸い込んで、穏やかな息を出す。ぺたんと小さめの耳が倒れた。どうやら気に入ったらしく、ぱたりと言葉の嵐が止む。

 錬成機の下部に付いた簡素な蛇口を捻ると、しゅわっとガスが抜けて炭酸水がさらさら流れ出した。底に溜まった茜色を溶かすように注いで、くるりとストローでかき混ぜたら完成。

 夕暮れ時の蜜柑ティーソーダ、とでも名付けようか。


 控えめな炭酸水にまろやかな甘みと優しい酸味が溶けている。鼻を抜ける茶葉の香りと味わいで、全体が引き締まった。なかなかいい仕上がりだ。

 氷がない分冷えすぎてもいなくて飲みやすい。

 とろりとした舌触りの蜜柑は、我ながら上手く調整できた気がする。

「甘さもあるのにさっぱりしてんのは炭酸水のおかげもあるけど紅茶の苦味もあるんでしょうね。一仕事した後だからごくごく飲めて、こりゃ旨ぇや」

 腰掛けた椅子から、上機嫌の尻尾がゆらゆら見え隠れする。彼らはこういう感情表現もあるのが羨ましい。

「暗くなる前に街まで送ろう」

「あらま、またジジイ二人でいちゃいちゃしようってんですか」

「嫌なら徒歩で」

「んなこたぁ言ってませんよ、ありがたいですよ。そしたら先生、うちで晩飯食ってきませんか。倅どもも喜びますよ、うちのカカアもこないだトコさんとこで立ち話したっきりだから、お茶でも出しゃよかったね、なんて話してたんです」

 星の観測は、仕事ではあるが半分は趣味というか、義務感というか。

 カムラの家で夕飯を馳走になると、帰れるのは明日の朝か昼頃だ。帰って来たところで、じっくりと空を眺める体力は多分残っていない。

「ううん」

「よし決まりだ、それじゃちょいと伝通お借りしますよ……ああ、俺だよ、先生ンとこのが終わって今から帰るけど、そのままうちで晩飯食わしてやってくれよ。アイスクリーム屋のツノクさんと珈琲屋の若旦那も来るってかい、じゃあますます都合いいやな。肉屋と惣菜屋にも寄って帰らあ」

 有無を言う暇もなく、伝通機で自宅に連絡をした狸。かちゃんと通話線を置くと、ぽんと手を打って空のグラスに手をかけた。

「なんかね、向こうは向こうであれこれ作る気満々ですってよ。それじゃまあ、こいつを洗って出ましょうかね。洗い物はやっときますんで、先生はね、髪を梳かしといてくださいよ。風でぼさぼさなんですから」

「いや、私は」

「仕立て屋のおかみさんがよく言ってますけども、先生は身なりにちょいと無沈着なとこがありますよ。黙ってりゃそれなりにいい男なんでしょうからね、いや、先生結構無口だわ、こりゃ失敬!」

「今夜は観測が」

「たまにゃ休んだっていいでしょ。今夜サボったくらいじゃ、お天道様だって怒りゃしません」

「太陽が沈んでからなんだが」

「はいはい、早く支度してくださいよ。ソーダご馳走様でした、と。グラスは洗ったら拭いて戸棚にしまっときゃいいですね。錬成機はとりあえずここに置いときましょう、どうせまたすぐ使いますでしょ」

 てきぱきとカムラはキッチンへ向かい、キッチンからも言葉が響く。グラスを拭きながら歩いて、ぴったり揃えて戸棚にしまう。適当に見えて、案外細かい。

 仕事にもその細かさがいかんなく発揮されるので、信頼して頼めるというものだ。

「ちょいと先生、髪がまだぼさぼさだってんですよ。まあ今からも走りますからね、またぼさぼさにはなりますけども。インクと筆持ってってくれるんです? そりゃいい、飲み放題ってことですか。しかしね先生、それじゃ先生も疲れちまうでしょうから、ほどほどに」

「疲れるのはそこではなくて」

「早くしませんと日が暮れちまいますよ。もたもたしてたら商店街も閉まっちまう。肉屋と惣菜屋と、あとなんかいりますかね。まあいいや、ほら乗りましょ」

 二輪車に跨り、操縦桿を握る。もふっとした感触が後ろにのしかかった。

 まだ茜色の残る空の中、ぽつぽつと灯が増えだした麓の街へ。蜜柑ティーソーダのタネを、今後のために作りだめしておけばよかった。空の色を借りるのは、その日その時だけしかできない。

 爽やかな味を反芻して風を切りながら、坂道を下っていった。

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