第3話(1)

 美嶋と口論をし、鹿路の無茶苦茶な委員会決めをした日から数日が経った。

 美嶋は宣言通り、一方的な拒絶をしてしまったクラスメイトたちに謝罪して、無事に和解することができた。

 その後の美嶋は積極的というほどではないが、前と比べると見違えるほどに他人と関わりを持つようになった。


 *


「美嶋さん。うちらこれからカラオケ行くんやけど、美嶋さんも一緒に行かへん?」


 放課後、クラスメイトの一人が美嶋に声をかける。

 成長期が完全に止まった鹿路といい勝負の背丈の屈託のない明るい表情と関西弁のような口調が印象的な少女。

 彼女の仲間のクラスメイトたちは少し離れたところで会話の様子をうかがっていた。


「ごめん。今は少しでも勉強に集中したいから」


 一条との約束――教師になるという夢を追う美嶋は勉強優先のスタンスだけは前と変わらずに貫いていた。


「ってことは、今日も居残りで勉強するん?」

「うん」

「美嶋さんは頑張り屋さんやな。入学式の日から毎日らしいやん。何でそんな勉強ばっか頑張るんや?」

「えっと……」


 勉強に励む理由を聞かれ、美嶋は急に視線を左右に移動させて口ごもってしまう。


「……?」

「いや、あの……」

「何や?他人には言えん理由でもあるんか?」

「そ、そういうわけじゃない。でも、その……」


 関西弁風のクラスメイトはニパッと笑みを浮かべて、美嶋の肩を軽く叩く。


「無理に言わんでもええよ。うちらまだそんなに仲良しってほどでもないしな」

「……ごめん」

「ええよ、ええよ。気にせんといて」

「るか、まだ?」


 離れたところで待っている仲間から声がかかる。

 るかと呼ばれたクラスメイトは仲間たちに一声返事をすると、挙手するように美嶋の方へ手の平を突き出してみせた。


「呼ばれてもうたから、うちはもう行くな」

「うん。また明日」

「また明日な!」


 関西弁風のクラスメイトは仲間たちと合流し、そのまま教室を出ていく。


「やっぱりダメだったじゃん」

「美嶋さんは無理だって」

「ガリ勉の美嶋さんがうちらみたいなのと付き合うわけないんだよ」


 廊下から彼女たちの会話が微かに聞こえてくる。

 まだ入学して数日だが、クラスメイトからはすっかり「ガリ勉」というイメージが定着してしまっていた。


 *


 しかし、数日すると美嶋に対するそのイメージは別の形へと変貌していく。


「教科書の練習問題の答えを一人ずつ書いていってください」


 数学の時間、年配の教師がいくつかの問題を黒板に書き記すると、そう言って美嶋のいる座席の列を指定する。

 その列の生徒たちは教室の前に出て、自分の担当になった問題の答えを書いていく。

 美嶋も他のクラスメイトたちと同様に問題へと取り組んだ。


「ふむ。正解……これも正解……」


 問題の答えがそろうと、教師は順番に書かれた答えを見ていきながら、丸を付けていく。

 一問目、二問目、三問目……と問題にテンポよく丸を描く教師の手は五問目の問題に差し掛かった途端、突然動きを止めた。


「これは不正解。途中式が違いますね」


 教師は流れるように間違った途中式の箇所にバツ印をつけ、次の問題へと進んでいった。

 そして、結局この問題群で間違いがあったのはこの五問目――美嶋が回答した問題だけだった。


「美嶋さんってさ、いつも間違えてない?」

「毎日居残りで勉強してるけど、何を勉強してるのかな?」


 何人かのクラスメイトが美嶋に対して気味の悪い冷ややかな笑みを浮かべている。

 よく確かめてみると、それは以前美嶋を遊びに誘おうとしていたグループのメンバーだった。


(この前の腹いせか。それとも単にあの子たちが皮肉を平然と言える子たちなのか)


 こよりは胃がキリキリするような不快感を感じながら、小さく溜息を吐いてそれを紛らわせる。

 しかし、皮肉を向けられる本人はこよりのように気持ちを制御することはできなかった。


 ドスン。


 教室に重々しい音が響き渡り、クラスメイトたちが肩を上下させる。

 それは美嶋が机に拳を思いっきり叩きつけた時の音だった。


 美嶋は唇をこれでもかと噛み締めながら、目を真っ赤にして涙をこぼしていた。


「嘘、泣いてるんだけど。ダサ」


 クラスメイトの言葉に反論するように再び拳を机へと叩きつけた。

 重々しい空気が教室に充満する。

 クラスメイトたちは静まり、美嶋の嗚咽だけが響く。


「僕だって……好きで間違えてるわけじゃない……分からないから勉強してるのに……」


 美嶋は突然席から立ちあがる。

 そして、その場から逃げるように教室の外へと駆けだした。


「美嶋さん!」


 こよりは美嶋を呼び止めようとするが、美嶋はそのまま教室の外へと走り去ってしまった。

 数学教師はすぐに美嶋の後を追いかけたが、それから美嶋が教室に戻ってくることはなかった。


 *


 美嶋が教室を飛び出してからしばらくは、クラスメイトは美嶋についての話題で持ちきりだった。

「突然怖かった」、「空気読め」、「関わらない方がいいかもしれない」など、様々な意見が飛び交っている。


(今の教室、居心地最悪だわ)


 自分の教え子が噂される様を間近で見せられ、こよりは吐きそうになっていた。

 しかし、一方で彼女たちの反応は当然のものだという考えもあった。


(でも、あんなことをした優が100%被害者かって言うとそうではない。良くも悪くもこれがあの子の行動の結果なのよね)


「優、大丈夫かしら……」

「おーい、一はいるか?」


 教室の入り口からこよりを呼ぶのは鹿路だった。

 鹿路は自分よりも背の高い生徒たちの間をかき分けるようにしながらこよりのもとへとやって来る。


「えっと、お疲れ様です。何か用でしょうか?」

「美嶋が早退するもんでさ。帰りに準備を手伝ってほしいんだよ。相方のために付き合ってくれるかい、学級員?」

「分かりました。ぜひ手伝わせてください」

「よし来た!お前ならそう言ってくれると思ったぜ」


 鹿路は今の重々しい教室には似合わない笑みをこよりに向けて振りまく。

 すると、鉛のように重く息苦しかった空気がまるで空気清浄機で浄化されたかのように軽くなり、生徒たちの表情が明るくなり始める。


「……先輩ってなんだかんだ言ってすごいですよね。私にはそんなことできませんよ」

「ん?何か言ったか?」

「いえ、何でもありません」


 こよりはニッと作り笑いをして誤魔化すと、鹿路の手伝いを始めるのだった。


 *


「いや、助かったよ。一のお陰でアタシも授業に間に合いそうだ」

「それは良かったです」


 美嶋の荷物をまとめたこよりと鹿路はそれらの荷物を手に抱え、美嶋のいる保健室へと向かっていた。


「先生、美嶋さんは大丈夫なんですか?」

「お世辞にも大丈夫とは言えないかな。教室来る前に顔見てきたけど、相当メンタルをやられてるって感じだったぞ」

「……なるほど」

「教頭からざっくり話を聞いたけど、なんかクラスの奴とトラブったんだって?」

「はい」


 こよりはコクリと首を縦に振って頷いてみせる。

 その後、こよりは教室で何があったのかを鹿路に伝えた。


「ふーん。なるほどね。じゃ、後でそいつらには話をしてみようかな」


 そう言う鹿路の顔には笑みが溢れていた。


「先生、この状況を楽しんでませんか?」

「え?うん」


(この人は一体何を考えてるんだか……)


 こよりは目を細め、鹿路をじーっと見つめる。


「……どういう思考になったら、この状況を楽しめるんですか?」

「真面目だな、お前は」


 鹿路はケラケラと笑い声を上げると、こよりの背中をバンっと叩いた。


「成長っていうのは衝突あってのことだろう?意見が違う者同士でぶつかり合いに、達成困難な障害。それを乗り越えた時に人っていうのは成長する。学校っていうのはそういうのが頻繁に起こる場所なんだよ」


 そう言うと、鹿路はその場で立ち止まった。

 そして、普段の適当な態度からは想像出来ない真剣な眼差しをこよりに向ける。

 その表情は大学時代でも見たことのないものだった。


「逆に言えば、学校っていうのはぶち当たる壁が多過ぎたり壁自体が高過ぎるってことになる可能性も高い。だから、アタシら教師はそれを乗り越える手伝いをするのさ」

「……それが先生にとっての教師像ですか?」

「ああ、そうさ。今時、教科書の内容を教えるだけの教師なんていらないんだよ。そんな教師に教えを請うくらいなら、塾に行くなり、参考書や解説動画で勉強するなりした方がよっぽど有益だ」


 鹿路は真剣な表情から打って変わって口元を緩めながら、頭をポリポリと掻き始める。


「いや、恥ずかしいな。何でこんな話になっちまったんだか。ほら、行こうぜ。チンタラしてると授業に遅れちまう」


 鹿路は保健室に向かってせっせと廊下を進んでいく。

 こよりには自分の前を歩く小さな背中がとても大きく見えた。


(やっぱり、先輩ってすごいな。信念を持って、それに突き進んでいる。それに比べて私は……)


「私は信念を持って生きてるって言えるのかしら?」

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