一条麗華はここにいる
縞乃聖
第1話(1)
十一月十六日。一条麗華(いちじょう れいか)は校舎の屋上で茜色に染まる鱗雲を一人眺めていた。
「……教師失格、か」
それは一条がつい先ほど先輩の教師たちから怒りと失望の声と共に浴びせられた言葉であった。
(きっとその通りね。すべては私の過失……)
肌寒い秋の風が屋上をスーッと吹き抜けていく。
心地がいいような、身体が強張るようなどちらともいえない奇妙な風を肺いっぱいに吸い込んだ。
普段生徒が上がることのできないこの屋上は落下防止のフェンスなんていうものは存在しない。
足元を見やると、低木や観賞用の植物が植えられた花壇のある地上と屋上との境界が曖昧となった光景が広がっていた。
「屋上を含めて四階分。決して高いとは言えない高さだけど、意外と高く感じるわね」
まるで何者かが自分を地上へと引きずり込もうとするような不可解で奇妙な感覚が一条の頭の中を支配し始める。
突然、ズボンのポケットに入ったスマホが激しく揺れた。
それによって、我に返った一条は素早くスマホを確認する。
スマホの画面には、先ほど一条を散々なまでに罵った先輩教師の一人の名前が表示されていた。
「……はい」
「ちょっと!さっきのメールは何!?あなた、ふざけるのも大概にしなさい!」
電話を取った直後、スマホから耳が痛くなるほどの怒鳴り声が聞こえてくる。
一条はその声を聞くだけで頭が痛くなった。
「……ふざけてなんていません。先ほど皆さんに送ったメールの通り、私が責任を取ります」
「あなた、本気のなの!?どれだけ学校に迷惑をかければ気が済むと――」
「……もういいでしょうか?」
「ちょっと、待ちなさ――」
一条は一方的に電話を切った。
スマホはまたすぐに震え始めるが、もう一条はその電話を取ることはしなかった。
「間違いを犯してしまった私はもう死んだようなもの。それなら、この死を有効活用したい。それだけなの」
一条の脳裏に一人の女子高生の姿がふわりと浮かび上がる。
腰まで伸びたロングヘア、目にかかる前髪の奥から覗かせる刃物のように鋭い眼光を持つ少女。
(ああ、どうしてこんな時に思い出してしまうのかしら……)
最後の一歩を踏み出す勇気が鈍る。
途端、一条は胸の奥を鷲掴みにされたかのような息苦しさに襲われた。
「……」
一条の視界がぐにゃりと歪む。
今すぐ踵を返してあの少女のもとへと駆けだしたいという思いが一条の固まった決意を蝕んでいく。
「それでも、私は……優を守るために……」
「先生!」
最後の一歩を踏み出そうとしたその瞬間、一条を呼ぶ声と共に屋上の扉が勢いよく開け放たれる。
振り返ると、その先にはあの女子高生――美嶋優(みしま ゆう)の姿があった。
「先生……先生……!さっきのメール、あれは何……?」
美嶋は乱れた呼吸を整えることも忘れて、ただひたすら一条に向かって叫ぶ。
「『私の方から生徒に関係を迫った』って、『生徒に罪はない』って、『すべて私の過失』?『責任を取って死にます』?意味が分からないよ!先生に告白したのは僕からなのに……!」
「優。あなたは何も悪くないのよ。悪いのはすべてあなたの手を取ってしまった私のせい。だから、私はこれ以上あなたの今と未来を守るために――」
「違う!先生は何も悪くない。お願い、先生死なないで。僕は耐えられる。この先どんな言葉を浴びせられても、どんな差別やいじめを受けても、僕は耐えてみせるから」
美嶋はそう言いながら、ポロポロと大粒の涙と瞳から溢れされる。
「先生、死んじゃ嫌だよ……これからもずっと僕の側にいてよ……僕、先生がいないと生きていけないよ……」
「……」
泣きじゃくる美嶋を抱きしめてやりたいという衝動が一条の胸を締め付ける。
「……優、大丈夫よ。あなたは不器用だけど頑張り屋さんだから、教師になりたいって夢もきっと叶えられる」
「先生!ダメ……!」
「愛してるわよ、優。死んでも私はあなたの側で応援してるから」
「先生っ!!」
一条は美嶋に微笑みながら、最後の一歩を踏み出した。
そこからは一瞬だった。
赤く染まった秋空が見えたと思った次の瞬間、ズドンという重々しい音と共に全身に凄まじい衝撃が走り、痛いという感覚を感じるよりも早く意識は真っ暗になった。
*
一条の意識は上下左右も存在しないまるで宇宙空間のような真っ暗の空間を漂っていた。
一条は「死ぬとはこういう感覚なのだろう」と悟った。
「優は大丈夫かしら……」
屋上で泣きじゃくっていた美嶋の姿が意識から離れない。
「ごめんなさい。『夢を叶える手伝いをする』って約束を守れなくて」
それは美嶋が「教師になりたい」という夢を見つけた時に交わした約束だった。
美嶋は家庭の事情で学校生活がうまくいかず、二度も留年をしてあと一度成績不振となってしまえば退学というところまで追いつめられていた。
他の教師は彼女を見捨てる中、一条だけは美嶋と真摯に向き合った。
その結果、美嶋は一条に向かって「僕、先生みたいな教師になりたい」と夢を語った。
美嶋のその決意を聞いた時、一条は美嶋と向き合い続けた努力が報われたと感じるほど感極まった。
だからこそ、その夢を追う手伝いができなくなってしまったことが悔しくてたまらない。
「でも、仕方ないわ。私は死んでしまったのだから」
一条は自分が死んだことに後悔はなかった。
美嶋との不健全で不道徳な関係が世に知られてしまった今、美嶋の未来のために一条ができることはこれしかなかったのだ。
「でも……でも……優が教鞭をとる姿だけは、この目で直接見たかったわ……」
一条は残してしまったたった一つの心残りを胸が張り裂けそうになる。
しかし、真っ暗な世界の中に閉じ込められてしまった一条は何もできない。
一条にできることは胸に残る痛みを抱き続けながら、その場でうずくまっていることだけだ。
*
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
永遠とも言える長い時間を一条はこの何もない闇の中で過ごした。
変化のない空虚な世界は酷く退屈だった。
けれど、一条は文句一つ言わなかった。
一条は悟っていた、「これは過ちを犯し自ら命を終わらせた自分への罰なのだ」と。
「……い」
それは突然のことだった。
微かな声が一条の耳に届く。
「誰……?」
周りを見渡してもそこに広がるのは変わらない真っ暗闇の世界だ。
「気のせい……?」
「……たい」
今度は一条の耳にはっきりと聞こえた。
鈴のような澄んだ女の子の声。
(私一人じゃなかったの?)
一条は声が聞こえる方へと吸い寄せられるように進む。
「……きたい……きたいよ……」
暗闇の中を進めているのかも半信半疑なまま、声を頼りに闇の中を進み続ける。
そして、一条は「それ」を見つけた。
手のひらにすっぽりと収まるほどの小さな「それ」は、まるで絵本に出てくるような妖精のように自らが光を放っている。
しかし、「それ」が放つ光はまるで切れかけの蛍光灯のように不規則な感覚で点滅を繰り返していた。
「あなたは一体何者?」
「……」
「それ」は一条の言葉に反応せず、すすり泣いている。
(聞こえていない?もしかして、私の方が認識されていないのかしら?なら、どうすれば……?)
「……きたい」
「え?」
「生きたいよ。まだ生きていたいよ。誰か、助けて……」
「それ」は声を震わせながら呟いた言葉を聞いた瞬間、一条の脳裏にとある光景が浮かび上がった。
かつて自分が勤務していた私立栄理都高校の空き教室――誰の目にも留まらないような隅っこの部屋の中で身を潜めるように身体を小さくしている一人の女子高生の姿。
一条が初めて美嶋と出会った時の光景だ。
学校に登校はするものの、ろくに授業も受けずにサボり続け二度も留年をしている生徒がいるという話を聞いて、様子を見にいったのだ。
美嶋は「それ」のように自分の声を出すことはしていなかった。
けれど、彼女はもう自分だけではどうしようもないくらいに追い詰められていて、心の底から誰かの助けを求めている、そういう目をしていた。
(……助けなきゃ)
使命感のようなものに突き動かされ、考えるより先に身体を動かしたのはあの時とまったく同じだった。
一条は「それ」に向かって手を伸ばす。
そして、指先が「それ」に触れた瞬間、「それ」はまばゆい光を放ち、一条の視界を真っ白に染めた。
*
(あれ?ここは……?)
気が付くと、一条は先程まで居た真っ暗な世界とは別の世界にいた。
真っ白い天井からつり下がったレール、ピッピッピッ……と一定の間隔で鳴り響く機械音。
「……病院?」
そこは一条がよく知る現実の世界だった。
(どうして、生きて?私は死んだはずよね……?)
「こより?」
訳が分からず混乱する中、すぐ側で女性の声が聞こえた。
声につられて視線を動かすと、中年の男女が感極まったような表情を浮かべて一条を見つめていた。
女性の方にいたっては何故か一条の手を愛おしそうに握っている。
「……あの、どちら様ですか?」
「「――っ!?」」
見知らぬ男女は一条の言葉に一瞬驚いた表情を見せる。
そして次の瞬間、二人は大粒の涙を流し始めた。
「事実は小説よりも奇なり、なんて言うけどよ……まさか本当に聞いていた通りになっちまうとは……」
「記憶を失ったとしても、こよりは生きてる……手術は成功したのよ。それだけで十分……」
「え?」
一条は二人が何を言っているのかまったく理解できずにいた。
しかしちょうどその時、一条はベッドの側に備え付けられた薄型テレビの存在に気が付いた。
台から伸びるアームの先に取り付けられたテレビは寝転がった患者が見られるように角度が調整されたモニターはまるで鏡のように一条の姿を映し出している。
「え……?」
視線の先に映るものを見て、一条は驚愕した。
「誰?これが私……?」
そこに映っていたのは、二十四年間見続けてきた自身の姿から遠くかけ離れた女子高校生の姿だった。
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