おかえり、弟
惣山沙樹
おかえり、弟
「休職期間を延ばしましょう」
そう医師が言うのも仕方がないことだった。会社を休んで一ヶ月。俺の頭の中にかかったもやは消えず、薬を飲み続けたのに、より一層濃くなっているのではないかと思わずにはいられなかった。
会計。薬局。三十分待ちと言われ喫茶店に逃げ込む。学生時代だけで辞めたはずのタバコをまた吸うようになり、食事の代わりにする有様だ。昼過ぎだったがホットコーヒーだけを注文した。
両親には休職のことをまだ言えていなかった。二ヶ月目に突入し、いっそ退職、というのが頭にちらつく。そうなるとさすがに暮らしていけない。金を送ってもらうか、それとも実家に戻るか。思いとともにタバコの煙をくゆらせた。
薬を受け取って一人暮らしのマンションに戻った。単身者向けの小さなところで住人たちとはほぼ面識がない。俺の部屋には表札をあげていないが他の部屋もそうらしい。都会のこういうサッパリとした切り分け方が俺は好きだ。顔も、名前も、何も素性を知らぬ者同士が、それを気にすることなく平気で隣に暮らしている。
リュックの外ポケットから鍵を取り出し扉を開け、スニーカーを脱いだ。俺の住むワンルームは入ってすぐに全貌が見渡せる。そして、クッションの上に座っていたのだ。弟が。
「……えっ」
「兄ちゃん!」
弟……
「た、拓斗? 本当に拓斗なのか?」
「そうだよ? 変な兄ちゃん。ねえ、おなかすいた!」
「あっ……うん……そっか」
とうとう認知がおかしくなってしまったらしい。五歳で死んだ拓斗が俺の部屋にいるなんて。目で見えて、声を聞けて、体温を感じるということは、何もかもが狂ったのだ。
――まあ、そういうことでいいか。
会えるものなら会いたいと、どれだけ願ったことか。それがどういう形であれ実現しているのなら、それをせいぜい楽しんでやろう、そう決めたのである。
「拓斗。うちには今何もないんだよ。買いに行くか?」
「うん! 行く!」
俺は再びスニーカーをはいた。拓斗の分も玄関にあった。マンションを出ると、拓斗はすっと俺の手を握ってきたので握り返した。さて、こんなに拓斗の手は小さかったのだろうか、と思ったのだが、違った。俺が大人になったのだ。俺たちは五歳違いの兄弟。俺だって子供だったのだから。
目当てのコンビニへは拓斗の足に合わせても五分程度で着いた。俺はパスタを手に取った。秋らしいキノコのやつ。拓斗はおにぎりの棚を見上げていた。
「拓斗、どれがいい?」
「しゃけとツナマヨ」
「ん。取ってやる」
タバコもついでに買い、リュックに詰めてマンションに戻った。ローテーブルを挟んで向かい合い、拓斗と少し遅めの昼食をとった。俺がおにぎりのビニール袋を取ってやり、皿に入れて渡した。拓斗はあんぐりとおにぎりにかじりついた。
――まるで生きてるのと変わらないな。妙なこともあるもんだ。
俺は、自分が兄になった日のことをよく覚えていた。
父に連れられて入った産院の一室。母の腕に抱かれた赤子。それは、五歳児の心の動きとして果たして健全だったのかどうかはわからないが、我が家のアイドルは俺ではなくてこの生き物になった、そういうことを一気に理解して飲み込んだのである。
ソファに座り、拓斗を母から受け渡された。それまで俺が感じた中で一番の重みだった。赤子の目は生まれたばかりではまだ見えていない、というのは、もう少し後になってから知識として知ったが、あの時俺は拓斗と目が合ったと感じた。
「兄ちゃん、のどかわいた」
「あ……そうだよな。お茶持ってくる」
成人男性の一人暮らし。プラスチックのコップなど当然置いていなかった。持っている中で一番小さなマグカップに麦茶を入れて拓斗に渡した。
「拓斗……食べ終わったら、おもちゃ屋さん行こうか。何か買ってやるよ」
「いいの? まだクリスマスじゃないよ?」
「いいよ。何でもいいぞ、何でも」
俺たちが生まれ育ったのは田舎だった。大きなショッピングモールに行けるのは年に数回。何か理由がなければならなかった。それは誕生日だったり、クリスマスだったり。だから、おもちゃが増える、というのは一大事だったのだ。
ベランダでタバコを吸う時間だけ待ってもらって、拓斗を連れて電車に乗った。平日の昼下がり。車内は空いていて、拓斗と隣り合って座った。拓斗はせわしなくきょろきょろと周りを見渡していた。
「電車……大きいね……」
「そうだな。実家じゃほとんど車だったもんな」
おもちゃ屋に着くと、拓斗は駆け出した。止める間もない。見失わないよう慌てて着いていった。拓斗が立ち止まったのは戦隊ものの合体ロボのコーナーで、拓斗はこう言った。
「サムライジャーじゃない」
「ああ、そうだな。今は違うんだよ」
十五年前、拓斗が夢中だった戦隊だ。俺はその時小学四年生。もうとっくにそういうものからは卒業していたが、拓斗にせがまれて一緒にテレビ番組を観て、敵の真似をしてやっていた。仕事で忙しかった両親に代わって俺が相手をするのは自然の流れだったし、それが兄の役割だと俺は信じて疑っていなかったのだ。
「じゃあ恐竜かな!」
拓斗はくるりと方向転換。恐竜のフィギュアが吊るされている棚に向かった。
「兄ちゃん兄ちゃん、パキケファロサウルスがいい」
「ん……こんな小さいのでいいか。もっと大きいやつでも」
「僕はこれがいいの」
俺がレジに持っていき、現金で支払った。
「ありがとう、兄ちゃん!」
「大事にしろよ」
――独り言を言いながら恐竜のおもちゃを買う不審者だな。
店員はきびきびと箱にシールを貼ってくれた。ヤバい奴が来たと思われているだろうが態度には出さないでくれているのだろう。
マンションで拓斗はおもちゃを探検させた。俺の部屋は少しごちゃついており、段ボールを開けた後そのままにしていたカッターなどがあったので急いで片付けた。ベッドの下はホコリまみれだったので止めた。掃除機など半年以上かけていなかった。
一通りやって気が済んだのか、拓斗は俺のベッドにごろりと横になった。シーツも洗っていない。夏の間の汗が染みついているはずだ。俺は拓斗に声をかけた。
「なあ、シーツ替えるから、どいてくれないか」
「なんで替えるの?」
「汚いから。汗臭いだろ?」
「ううん? 兄ちゃんのいい匂いするよ?」
「……もう。はいはい、替えるったら替える」
渋々ベッドをおりた拓斗は、クッションに座ってじっとしていた。俺は古いシーツを洗濯乾燥にかけることにして、新しいシーツをかけた。
「兄ちゃん、ばんごはんどうするの?」
「あー、どうしようか。ファミレス行くか?」
「やったぁ!」
拓斗の幻覚のおかげで食欲が出てきたようだ。キッチリとしたものを食べたくなった。夜になるまでベッドの上で拓斗にスマホで動画を見せ、暇を潰した。拓斗はケラケラと笑い、たまに俺に頭をすりつけてきた。
――ずいぶんとまぁ、都合のいい幻覚だな。
拓斗が死んだのは、俺のせいだった。両親に黙って川へ連れ出したのだ。子供だけでは行くなと言われていたのに、守らなかった。俺が目を離した一瞬の隙に、拓斗は流された。俺は大人を呼びに行き、地元の消防団が出動し、色んな場所から警察も来たようだが……拓斗の遺体は見つからなかった。
「ごめん、拓斗、タバコ……」
「はぁい」
スマホを置いたまま、俺はベランダに出た。日が落ちかかっており、そろそろマンションを出ていい頃だろうと思った。灰皿代わりにしている二リットルの透明のペットボトルには、吸い殻がパンパンに詰まっていて、そろそろ捨てねばならなかったが、まだ余裕はあったので後回しにした。
「さっ、拓斗、行こうか」
「うん!」
ファミレスへは歩いて十分ほど。店に入ると、店員にこう声をかけられた。
「二名様ですね! こちらへどうぞ!」
「……あっ、はい」
――拓斗が、見えている? 俺の幻覚なのに?
案内されたのは奥のボックス席だった。拓斗は俺の向かいに座った。少しして、店員がプラスチックの器とスプーン、フォークを持ってきた。
「こちら、お子様用の食器になります」
「どうも……」
間違いない。俺以外の人間も、ここに子供がいるということを認知しているのだ。じゃあ、これは本物の子供だ。しかし、拓斗なわけはない。じゃあ、一体誰だ?
「兄ちゃん! 僕、ハンバーグ!」
「俺は……ピザにしようかな」
注文した後、拓斗はメニューの裏についていた間違い探しを始めた。その真剣な目付き。大きな耳も。とがった唇も。記憶の中にある拓斗そのものだった。しかし、拓斗は生きていれば二十歳になっている。子供のままここにいるなんてこと、あり得ない。
「なぁ、拓斗。拓斗はどうして、兄ちゃんの部屋に来たんだ……」
「会いたかったからだよ」
「うん……そっか」
それ以上、俺は何も聞かなかった。知らなくてもいいことの方が、世の中多いのだ。だからきっと、この拓斗だってそう。
ファミレスから帰り、狭い風呂場で拓斗を洗ってやり、出てくると、綺麗に畳まれた拓斗のパジャマがベッドの上に置いてあった。元々は俺のもの。おさがりだ。膝のところに穴が空いていたがそのままになっていた。そのパジャマを着せた。
俺は拓斗を腕の中に入れて寝かしつけた。とくん、とくん、鼓動を打っている。生きた子供がここにいる。絶対におかしいのに。いないはずの子供なのに。しかし、真実をひも解いてしまって、せっかく見ることのできた夢から覚めてしまうのは……。
拓斗が眠った後、俺はタバコを吸い、リュックの中に入れっぱなしにしていた薬をゴミ箱に捨てた。
おかえり、弟 惣山沙樹 @saki-souyama
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