面無(つらなし)と守面(もりづら)

くれは

   * * *   

 四つ下の弟の顔に浮かんできた黒い模様は、空を破る稲妻のようだった。面構え・・・が現れたのだ。

 面構えが現れるのに、弟はまだ少し若いくらいだった。それでもそれは一人前のしるしだ。面師つらしの手によって弟の顔には入れ墨が彫られる。藍と朱の入れ墨は、弟の稲妻のような面構えをより大胆に美しく強く際立たせた。

 そうして弟は成人として認められたのだった。

 父も母も弟を祝う一方で、息苦しい沈黙が常に傍にあった。その沈黙は、未だに面構えが現れない面無つらなしの俺に対するものだ。だから俺も黙っていた。弟を祝うこともしなかった。俺が何か言ってしまえば、弟の晴れやかな日を台無しにしてしまうような、そんな気がしていたから。


   * * *   


 村のすぐ脇を小川が流れている。それを少し上流に辿って村から離れると、ちょうどよく人目につきにくい場所がある。ヤナギバツジとセンドカズラがこんもりとした茂みになっていて、座っていれば遠目には姿を見られずに済む。

 そんな茂みの中に陣取って、小川の流れる音を聞きながら、ぽーんとした空を眺めていた。雲が、ゆっくりと流れてゆく。風も穏やかで、日はなかなか動かない。

 村では成人前の子供は、子供どうしで群れを作る。俺も少し前まではその群れの中にいた。けれど、俺の同い年の者たちはとっくに面構えが現れて成人していった。一つ下も、二つ下も、時期はそれぞれだったけれど、もうみんな子供ではない。三つ下だって、ぽつぽつと群れから抜けていっている。群れの中で、俺はどんどん居心地が悪くなっていった。他の子供たちも、俺を扱いかねているようだった。

 子供ではいられず、でも成人もできない。面無つらなし、と呼ばれるようになった。それで俺は子供の群れを自分で離れたのだ。村には、俺の居場所はない。

 手慰みに川に向かって小石を投げる。投げた小石はとぷんと沈んで、それっきり。川の流れは止まることはない。水は流れ続けて、空は忌々しいくらいに青く、雲は流れてゆく。まるで俺だけが、取り残されている。


   * * *   


 食事のとき、成人した者としてない者は別に座る。四つ下の弟は成人したから父や母、叔父たち叔母たちや祖父祖母と一緒に食べる。面無つらなしの俺は当然してない方だ。より下の妹や弟たちと並んで、子供として食事を摂る。

 四つ下の弟は、面師つらしから<切り裂く稲妻>の名をもらった。面構えはその人の本質を表すのだという。そして、その本質に見合った名をもらうことになる。面構えが本質なのだとすれば、面無の俺の本質はきっと空っぽなんだろう。

 <切り裂く稲妻>は、成人した男としてハナオオジカ狩りに参加してきたらしい。名前に見合った活躍だってしたのだと、誇らしげに話す。途端、噛んでいる肉の味がしなくなった。この肉は<切り裂く稲妻>が狩ってきたもの。それは成人の証。吐き出したくなるのを我慢して、俺は肉を飲み込む。

 家族も皆、<切り裂く稲妻>のことを誇らしげにしている。俺は無駄に大きくなってしまった体を縮めて息を潜める。どうか誰も俺のことなど気にしてくれるな、と祈る。俺のことなど、いないものとして扱ってくれ。

 家族の誰も、面無の俺にどんな態度を取れば良いのかわからないでいる。俺自身にだってわからない。だから、こういう時には消えてしまいたくなる。いっそ、家を出て、村を出て、どこかに行ってしまおうかとも思う。

 けれど俺は、村の外を知らない。村の中でだってずっと子供扱いだったものだから、いろんなことを知らないままだ。村の外に出て生きてゆくということが、わからない。だからいつか俺にも面構えが現れるのだと、信じてやり過ごすしかない。


   * * *   


 相変わらず俺の面構えは現れない。面無つらなしのまま。そんないつも通りのある日、大婆おおばあ様に呼ばれた。大婆様は此方こなた彼方かなたを繋げる巫女だ。その力で村を支え、取り仕切っている。

 呼ばれたなら行くしかない。けれど、どうして自分が、と不安に思っていた。俺のような面無は村に置いておくことはできないとか、そんなことを言われるのかもしれない。そうなったらどうしようか、俺は村の外を知らないからどうすれば良いかわからない。途方に暮れながら、大婆様の屋敷に向かう。

 大婆様の部屋には、野花のようなにおいの香が炊かれていた。部屋の奥に座る大婆様は小柄だけれど、他を圧倒するような威圧感があった。その前に膝をついて、背中を丸めるように頭を下げる。

「よく来たね」

 大婆様の声には労わるような柔らかさがあった。恐る恐る見上げると、皺だらけの顔で、でも確かに大婆様は微笑んでいた。大婆様の面構えは<恵みある実り>。頬から額にまで枝を広げる黒い幹、それから藍の葉と朱の果実が、左頬に大きく広がっていた。

「俺のような面無になんの用ですか」

 俺の言葉に、大婆様はほっほと笑った。

「面無という言葉はね、元々は面構えの現れてない子供くらいの意味しかないんだよ」

「でも……俺の年で面無というのは、他にないでしょう」

「それだ」

 細められていた大婆様の目が開かれる。

「今日お前を呼んだのも、それについての話があるからだよ」

「……はい」

 俺はまた頭を下げる。何を言われるのだろうかと、静かに待つ。黙ってはいたけれど、胸の奥はざわざわと落ち着くことはなかった。香のにおいが余計に、俺を落ち着かなくさせる。

「面構えというのは本質だと言われているだろう」

「はい。だから俺の本質は空っぽなのでしょう」

 俺の拗ねたような物言いに、大婆様は子供をあやすように言葉を続けた。

「結論を急ぐことはない。面構えが現れ人の本質が見えたら自ずと名前も決まる。そうして人は、此方で生きることができるようになる」

 それでは俺はなんなのだろうか。俺には本質はなく、名前もなく、此方で生きることもできない。そういうことじゃないか。俺は頭を下げたまま、唇を噛んだ。

「面構えというのはね、つまり人が此方で生きるための力なんだよ。だから人は、面構えが現れて一人前になるんだ」

 俺が黙っているからか、大婆様は小さく溜息をついた。

「今お前が何を思っているかはわかるけど、もう少し聞きなさい。これはお前がどうして面無のままなのか、という話だ」

「……はい」

 大婆様の言葉に、頷く以外にできるだろうか。俺は無駄に大きな自分の体を一層丸めて頭を下げた。

「面構えは此方で生きるためのもの。だから面構えがないというのはね、彼方に近しいということ。面無の子供がすぐに彼方に呼ばれてしまうのはそのためだ。つまり、お前の本質は此方にはない、彼方にあるんだ。それでお前には面構えは現れないんだよ」

「本質が、彼方に……?」

 俺は眉を寄せて顔をあげる。それは想像もしていなかった話だった。大婆様は背筋を伸ばし、微笑みを消した。そうして、村の運命を告げるときのように、俺を見た。

「そう、お前の本質は彼方にある。彼方を見るもの。彼方の豊穣を招くもの。彼方の災厄を遠ざけるもの。そうしてこの村を守るもの」

 俺は首を振る。そんなこと、何も信じられなかった。俺はただの面無でしかないのだ。それが村を守るものだなんて、恐ろしすぎる。俺に何ができるというのか。

「そのお役目は、大婆様のものでしょう」

「私などただの巫女だ。本質が彼方にあるお前の方が、ずっと彼方に近い。私が彼方を見るのはそれが役目だからだが、お前は役目などなくとも彼方を見、感じる。それがお前の本質だからだ」

 大婆様は、傍に置かれていた箱の蓋を持ち上げた。そして中からめんを出す。顔を覆う白い面。面構えも入れ墨もかたどられることなくのっぺりとしたその面は、此方のものではないような異様さがあった。

「これはね、守面もりづらだ。ずっと昔にもお前のように彼方に近しい面無がいたらしいよ。その者はこの守面を被って、村のために彼方を見ていた。お前も、守面になりなさい」

 戸惑いも、混乱もあった。けれど、大婆様の言葉には人に否と言わせないような迫力があった。それにもとより、俺に頷く以外のことはできない。だから守面というのがどういうものか飲み込めないまま、俺はただ頭を下げた。

「はい」

「お前はこれから、私の元で村のために生きるんだよ」

 ただ、少し安堵していたのも本当のことだ。これまでに感じていた身の置き所のなさ、それからは解放されるのだから。


   * * *   


 家族の元を離れ、大婆おおばあ様の屋敷で暮らすことになった。面無つらなしの俺が大婆様のもとで暮らすのは、名誉なことらしい。家の誰も彼もが、俺をもてはやして送り出した。ついこの間まで放っておかれていたのが嘘のようだった。

 だからといって、俺自身には誇らしい気持ちなどこれっぽっちもなかった。ただこの先、面無として身の置き所なく生きてゆくよりは良いだろうと思っていた。食事時に、他の弟や妹たちに並んで大きくなってしまった体を惨めに丸めなくても良くなったのだ。

 大婆様の家では、決められたものだけを口にする。彼方かなたをより近くするためらしい。

「お前も覚えておきなさい。彼方を近づけるもの、遠ざけるもの、それぞれある。量も大事だ」

 大婆様に言われて、これは彼方を近づけるものなのかと思いながら、クラヨモギやセビヅタを口にする。

 そして空いた時間は、野花のような香の中でじっとしている。彼方に近づくまで、そうやって感覚を開いておかなければならないのだそうだ。感覚を開くというのがどういうことかはわからない。だから俺はただ、部屋の中でぼんやりしていただけだ。

 そんな暮らしを続けるうちに、いつの間にか変化はあった。最初はそうと気づかなかった。ただ視界が、白くもやがかかったようになっていることに気づいた。目がおかしくなったのかと心配になって大婆様に相談すると、大丈夫と言われた。

「それが彼方だ。じきにもっと見えるようになるし、いずれは此方こなたと彼方の区別もつくようになる」

 そう言われても不安だった。視界の白い靄は濃くなったり薄くなったり、すぐ目の前のものがうまく見えないときだってあった。何もないところでつまずくこともあった。逆に、すぐ目の前にあるものが見えなくてぶつかることもあった。自分がどうなってしまうのか、何か別のものに変わっているのではないか、とそんな気がした。

 視界が覆われた中で香のにおいに包まれていると、自分の輪郭が曖昧になる感覚があった。靄の中に自分の体が溶け出して、どこか遠くまで流れ出してゆくような、そんな感覚だ。それは心地良くもあったけれど、自分が失くなるような恐怖もあった。そして、いつも頭がぐらぐらとして気持ち悪くなる。

「心配いらない。私も最初に彼方と繋がったときはそうだった。そのうち彼方にも慣れてくる」

 大婆様はそう言って、これまで通りの生活を続けるよう言った。だから俺も従った。決められた食事を食べ、香に包まれてぼんやりとする。白い靄は濃くなる。それが彼方の気配だった。

 そうして何日くらい経ったのだろう。ある日、大婆様は俺に言った。

「そろそろ良さそうだね。お前を守面にしよう」

 その頃には俺は、屋敷の床もうまく見えずに這って歩いているくらいだった。此方に確かにあるはずの屋敷は何も見えず、彼方の気配ばかりが濃く感じられる。此方も彼方もわからないままでまともに生活も成り立たない状態だったから、俺はようやく楽になれるのだと安堵していた。


   * * *   


 俺は誰かに手を引かれてどこかに座らされる。香のにおいがいつもよりもずっと強い。顔をあげれば、目の前には大婆おおばあ様がいた。大婆様の周りは特に白い靄が濃くて周囲は何も見えないけれど、大婆様の存在だけは強く感じられていた。それで大婆様が此方こなた彼方かなたを繋ぐ巫女なのだと、改めて思い知った。

 俺の手に器が持たせられる。その器に、液体が注がれる。酒精のにおい。これは大婆様が彼方を近づける時に飲む特別な酒らしい。白い視界の中で、酒は蛇がとぐろを巻くように、ぼんやりと光るように見えた。

「飲みなさい」

 大婆様の声に従って、それを口に含む。甘いような、どろりとしたものが流れ込んでくる。喉が熱い。体を落ちていって腹の底に熱さがわだかまる。その熱さが、体の中を巡ってゆくのもわかった。指先に、頭に、熱は巡る。視界は一層不安定になる。

「お前はこれから守面もりづらとなる。守面は面構えを持たない。顔を持たないということだ。お前はこの先、人前でこの面を外すことはできない。いいね、よく覚えておきなさい」

「……はい」

 ようやくのことで口にした返事は掠れていた。周囲を動く人の気配。そうして俺の顔に面がつけられる。きっとあの、白いのっぺりとした面だ。頭の後ろで紐が結ばれ、面が固定される。

 その瞬間、視界が開けた。

「あ……」

 思わず声を出してしまった。目の前にいるのは大婆様。大婆様が座っているのは、いつもの部屋の奥。そしてそこには、巨大な木があった。どこまでも高く、天に向かって伸びる大きな、木。その木は彼方のものだと、自然に理解できた。そして、その木があるから大婆様の屋敷はここにあるのだということも、感覚でわかった。大婆様は彼方と此方で重なって存在していた。

 俺のすぐ隣に村の誰かがいる。でもその人は彼方にはいない。此方に強く縛られている。此方よりも彼方に近い自分とは違う存在だ。それで、自分は変わってしまったのだと、わかった。

 彼方の気配が、こんなにも近い。周囲は森だった。彼方に風が吹いて、森の木々がざわざわと揺れる。この村は彼方の森に抱かれ、守られていた。

 俺は自分の変化を不思議な気持ちで受け入れていた。もう怖くはない。あるべきところにあるように、元に戻っただけのような、そんな心地だった。森と大樹に守られていることが、俺を安心させた。

「うまくいったようだね」

 大婆様の声にぼんやりと頷く。このときから、俺は守面になったのだった。


   * * *   


 彼方かなたの森はいつだって心地良い。それでも今日は少し風が強いようだった。ざわりざわりと不安げに木の枝が揺れる。此方こなたの鳥や獣たちも、彼方の風を感じているのだろう、落ち着かない様子なのが屋敷の中にいてもわかった。

 彼方の空を木の葉が舞う。雲の流れる様子は早く、木の葉は風に弄ばれる。俺は彼方のそんな様子を大婆おおばあ様に語って聞かせる。大婆様は自分でもちらと彼方の様子を見てから「ふむ」と考え込んだ。

「それは嵐の予兆だね。備えをしなければ」

 そんな言葉を俺は守面もりづらの下で聞き流す。此方のことなど、俺には遠くの出来事だった。大婆様は俺に村を守る存在になれと言うけれど、そんな気持ちはいっこうに湧いてこない。俺はただ、自分の部屋で彼方の景色を眺めるだけ、俺に見えるものを語るだけだ。それが村の役に立つかどうかなど、興味はない。それでも俺がここに留まっているのは、彼方の大樹に守られているのが心地良いからだ。

 守面に縛られているのはわかっていたが、それでも心地良く過ごせる間は構わないと思っていた。本当に、自分の本質は人ではなく、彼方に近いのだなと納得していた。俺は此方では生きられないものだったのだ。

 俺はまた、此方へ向けていた意識を彼方へと戻す。彼方の景色はどれだけ見ていても飽きるということがない。表情を変え、毎日違う姿を見せる。けれどもいつも変わらずに、此方とともにある。美しく、力強く、俺を守ってくれる。

 香のにおいももう必要ない。俺はただ、そこにあるだけで彼方を感じることができた。自分の輪郭が溶け出して、彼方と混ざり合うような、そんな感覚もあった。怖くはない。彼方と一体になるのは、とても心地良いことだった。

 今日は森の木々も騒がしい。風が強いせいだ。けれど、この風が通り過ぎれば森は姿を変える。まだその景色を知らない俺は、それでもそのことを感じられた。彼方と混ざり合った俺は、森が姿を変えるその気配を感じ取っていた。

 そう、風が通り過ぎれば、花が咲くだろう。その花は赤く赤く、そして強いにおいの花だ。彼方の花が咲き乱れる様子はさぞ美しいだろう。今の俺は、それが楽しみなのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

面無(つらなし)と守面(もりづら) くれは @kurehaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ