エピローグ 明け行く空
慌ただしかった月日が過ぎて、秋の時候となった。そよ吹く風の中にも秋の匂いが感じられる。晴れ渡った空のペール・ブルーと、銀杏の葉の黄色。げに爽やかなるコントラスト――。
郊外にある××霊園。整然と並んだ墓の間を、3人の女性が静かに歩む。
「ああ、あそこにあるのがそうよ」
3人は、『村野常二之墓』と刻まれた墓石の前で立ち止まる。――村野黎子女史が、敬虔に頭を垂れるのを見て、瑠美子と璃枝子の2人もそれに倣った。
村野一家は漸くにして、4人全員一同に会することができたのだ。地下に眠る常二も、妻子の訪問を喜んでいよう。
――3人は花を生けたり、石を磨いたりしながら、お喋りに興じる。というのも、母と娘とはまた永の別れをしなければならないからで……しかしながら今度の別れは、実り多く楽しいもののはずである。
村野女史は、話題の「トーキー」研究のために、3日後渡米することが決まっていた。女史の他には、栄介ら、若手の技師数人がともに旅立つ。映画界の革命とも称される、未来の技術「トーキー」……知識に貪欲なルリ・キネの面々が興味を持たないわけはない。
「お母様、アメリカは勿論初めてでしょう。いいわねえ、アメリカ、ハリウッド!」
「瑠美子、旅行じゃないのよ。スターのサインなんか貰ってきやしませんからね」
「まあ、私そんなもの望んでいないことよ。ねえ璃枝ちゃん」
「ホホホ……お姉様は、サインを貰うより、する方がお好きですものね」
「ホホホホ……」
「ああそうだわ、栄介さんが言っていたのだけど、芸華会の昇さんね。昇さんも一緒の船でアメリカに行くんですって」
「へーえ、何で?」
「最新のジャズを『浴びに行く』ためですってよ」
「『学ぶ』じゃなくて『浴びる』なのが面白いこと好きの昇らしいわね」
アメリカに関する姉妹の会話に、女史はひとしお感慨深く聞き入った。アメリカ行きの資金を工面しようと、夏一杯頑張り通した自分達のことを思い出しながら。
陣父子が正式にルリ・キネから手を引き、女史は再び一箇の社員としてルリ・キネに戻った。社員の誰ひとり、女史の昔日の過ちを責めはしなかった。ただ、栄介が一言こう言っただけであった。「女史、これからはもっと俺達を頼って下さいよ」と。それは、女史が早くからルリ・キネの者達に真実を打ち明けて相談していたなら、あの一連の騒動も防げたかもしれないという気持ちから出た言葉だった。女史は、涙ながらにうなずき、仲間達に深々と頭を下げた……。
その後は、彼らは大車輪で働きに働いた。あの事件以来、『花のゆくえ』の注目は否が応にも高まり、方々から製作続行を望まれていたが、女史の復帰とともにそれが可能となったのだ。
女史としては、忌まわしい思い出にまつわる作品なのでこのまま葬り去ろうと思っていたのだが、2人の娘達に説得されて考えを改めた。
「お母様、元になった『子爵令嬢大波乱物語』は確かに忌まわしい記憶、忌まわしい奴らのことを思い出させるものかもしれない。でも、殆どがお母様の創作になる『花のゆくえ』まで、捨て去ってしまわなくても、いいじゃないの。何より、私達にとってとてもやりがいのある、シナリオなんですもの。――ねえ、ルミラと石川女鳥という女優の、それからルリ・キネという会社の代表作として、『花のゆくえ』を贈って下さいな」
その後、勇進日報社に代わる出資者も見つかり、今度こそは自由な製作環境で撮影を開始した。殆ど一からの撮り直しだが、誰一人文句を言わず、寧ろ伸び伸びと楽しんで、この大長編を作り上げていった。
「お目付け役がいなくなったから、捗るなあー」
誰かがそんな軽口を飛ばすほど、撮影も編集も、大作の割にあまり長時間はかからなかった。そのおかげで、移り気な大衆が『花のゆくえ』の存在を忘れ去る前に、公開に漕ぎ着けることができたのである。結果は、予想以上の大ヒット。批評家にもお墨付きを貰って箔がついた。どの館も続映また続映で、『めんどりさん』を優に凌ぐ儲けを出し、文字通りルリ・キネを立て直すことに成功した。最近では、例の『彼女は星の彼方から』と併映する館も出てきて、また新たな話題を振り撒いているという。
そして、それらの儲けの一部で、女史と数名の若者がこの秋アメリカ視察に赴くのだ……。
女史は、渡米で不在になる間の仕事のあれこれをもう一度思い返そうと努める。ルリ・キネの指揮は尾藤に託したし、銀嶺会の会合は石川夫人らに任せたし……と指折り数えているところへ、2人の娘の頓狂な笑い声が響いてきた。
「まあ、それ本当? お姉様」
「正真正銘、本当の話よ。嘘だと思うなら尾藤さんに聞いてごらんなさいな」
「素直に答えると思えないわ、監督がお姉様に求婚なさったなんて」
「私も一緒にいる時に聞けばいいのよ。何なら全員集まっている時にやりましょうよ」
「意地悪ねえ。そのうちゴシップ紙に書かれてよ。『ヴァンプ女優ルミラ、尾藤卯太三を惑わし結婚を申し込ませる』」
「それを言うなら璃枝ちゃんだって。『石川女鳥と石川他磨己、兄弟愛が恋愛に大転向』。この間の新聞の見出し」
「やめてよ、お姉様(と急に小声になって)、お母様に聞こえるわ。あのねえ、私と他磨己さんの話は、お母様達が帰朝してから正式に決めるつもりなの」
「私だってそうだわ。お母様が帰朝なさった時に、仲睦まじいところを見せて驚かせてやるの」
「それから私はね、他磨己さん達、芸華会の人達に声をかけて、『トーキー』の出演を打診しておこうと思っているのだけど。お母様達の帰朝の日に皆さんも一緒にお出迎えして、そのことを発表したら、お喜びになるんじゃないかしら」
「名案ね。でも璃枝ちゃん、単純に他磨己と一緒に芝居をする口実が欲しいだけじゃない?」
閑静な墓地は、内緒話をするには適さなかった。小声のやり取りであっても、しっかり聞き耳を立てていた女史には、筒抜けであった。笑いをこらえながら、手にした箒の柄をトンと突く。
「瑠美子、璃枝子、拭き掃除は済んで? そろそろ帰りますよ」
「はアい」「はい、お母様」
娘達はまだ微笑を目元に残しつつ、手桶と手荷物を提げて自分の後に続いた。――陽光に反射して、一瞬煌めいたのは2人の指にはまった、形見の指輪。小さな瑠璃玉の落ち着いた輝きが、ふと亡き夫の優しき面影を浮かばせて、女史の足を立ち止まらせた。――
「あら、帰るんじゃないの、お母様」
「ええ、帰りますよ。でもその前に、ご挨拶しなくてはね」
来た時と同じように深々と頭を垂れた母を見習って、娘達も姿勢を正して礼をした。
慌ただしかった日々と、再び忙しくなるだろう日々の間にある、束の間の静穏。そよ吹く風の中に秋の匂いが混じる頃合い。晴れ渡った空のペール・ブルー、銀杏の葉の黄色。げに爽やかなるコントラストの下を、3人の女性達は楽しげに語らいつつ、歩いていく――。
*題名は、松竹の蒲田撮影所で製作され、昭和4年(1929年)5月に封切られた映画「明け行く空」から。ちなみにこの映画は(ロストの多い日本映画には珍しいことに)現存しており、時々上映されている。機会があれば是非。
もだん・べる 香月文恵 @fumie-k
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